パクパク日記8年2月3週

          絶海の孤島イースター島でモアイさん達に会って来ましたー!

  アフ・タハイ   アフ・ナウナウ

2月 18日(月) 晴れ

朝のおめざ 「玉屋」のきんつば、黒豆茶

6時半起床。風邪が治ったかどうかの判断は難しい。もちろん、発熱や悪寒、洟水、咳などの諸症状

治まった時を治癒というのだろうが、実際はそうゆうものがいっぺんにピタッと収まるようなことは無

い。 私は長年の病気経験から「起きていたい」気持ちが、「寝ていたい」気持ちに勝つ時と思っている。

そう ゆう意味では今朝は起きていたいと思ったので回復基調。風呂に入るか、と思った。入る前体重

を測る と2キロ減!ランラランララ〜♪3日で2キロなら、6日で4キロ、9日で6キロ、12日で8キロ減か

ぁ!!バーカ。念のため近所の医者へ。インフルエンザテストは白。しかし、風邪にしては全身の痛み

や腹痛はヘン。「感染性胃腸炎」つまりノロウィルスでしょう、って。既に峠を過ぎて人に感染させる心配

は無いという。早く治りたければ、ここで点滴して行けー!へへーい、ということで1時間点滴を受ける。

昼 荒木町 「野武士」 アサリ雑炊 800円

   点滴のあとは雑炊です、でもアサリ?

何を食べてもいい筈なのだが、自然と消化の良い料理に気持ちは向く。ノロウィルスの感染は調べて

みるといろいろあるが、牡蠣や二枚貝からもゼロではないらしいよ。じゃアサリね、ってどうゆうことよ?

夜 六本木 「鮨 高松」 お任せ病み上がりコース(お浸し、もみイカ、大根とゲソ煮、柳かれい、ホ

     タ ル烏賊と若布の酢味噌、鰈の煮付け、白子焼き)、生ビール、冷酒

  

  

午後は出遅れた旅の準備をのろのろする。ノロウィルスだからノロノロ。でも何だな、ゲボゲボ咳をしな

がら真夏の服を揃えたり、水着の準備しているってヘンテコな風景だよな。高温多湿かぁ、チッ、そうゆ

うの苦手だぜ。こんな体調であるが、夜は宴会に出かける。何せ私が6人を招待しているので欠席する

わけにはイカンのだ。中には名古屋から駆けつける人もいるし。「高松」5階の個室を借りた。定員7名。

毎年招待した彼らと大いに飲み、食べ、語る会である。しかし、私は生モノを食べる気がしない。一人病

人コースを作って貰った。彼らはつまみを山ほど食べ、鮨を山ほど食べていいな。今年もがんばろね!

                _______________________

2月 19日(火) 晴れ

朝 家食 「日本橋 玉ゐ」 焼き穴子と煮穴子の箱めし、ネギ塩スープ、でこぽん

    焼き穴子と煮穴子の箱めし

昨夜六本木の「高松」で宴会をやっている間にY田アコちゃん(♂)が「日本橋 玉ゐ」の穴子箱めしを

届けてくれた。鮨屋にいる人間に穴子鮨のプレゼントとは妙な感じがするかもしれないが、風邪引き

YUMEKOへの差し入れである。生モノは食べられないだろうからという彼らしい心配りだ。有り難い。

「日本橋 玉ゐ」は穴子専門の店で、中位の箱に焼き穴子と煮穴子が両方入っているのを「合いのせ」

というらしい。焼きは香ばしく、煮はしっとり。両方美味しいが私は煮穴子の方が好きかな。ご馳走様。

昼のおやつ 銀座 「モナリザ」 カシスケーキセット 950

今晩の手土産を買いに銀座に行く。あそこのアレがいい。三越の地下で探すもあそこのアレが無い。

年を取ると、固有名詞が出て来ないんじゃ!ふと、あの店は三越ではなく松屋に入っていたことを思い

出し移動。あった!あの店とは「タントマリー」で、アレとは「カマンベールチーズケーキ」であった。えへ

へ。包むのに時間がかかるというので、そのヘンをぶらぶら。ぶらぶらしているうちに必要な食材があ

ったことを思い出し買い物。買い物を済ませて松屋を出そうになったところで、「タントマリー」のことをよ

うやく思い出す。まだらボケか心配になるぞ。夕食開始は5時半と早いので、ケーキをランチ代わりに。

夜 渋谷 「某」 お任せ鮨コース:淡路島の鯛、はだてのウニ、さよりと壱岐の大トロ、鮑の肝煮、平

      貝 の炙り焼き、煮穴子、干し椎茸煮、鯛のあら汁、握り:大トロ×2、小肌、イカ、平目、赤身、穴子、

かんぴょう巻、卵焼き、鉄火巻)、ビール、冷酒

  

  

  

  

3時半にスーツケースを預ける。私は旅に出かけられるかわからないが、荷物だけは出かけたというこ

とね。今晩は渋谷の高級鮨屋にお招き頂いている。出発前夜ということで気を遣って下さったのか宴会

開始は5時半!4時50分には迎えの車。昨日は六本木の鮨屋だったが、殆ど食べなかった。果たして

今日は?結果を先に書くと、「旨い!旨い!」と出されたものは全部頂きましたです!淡路島の鯛はカ

ンドーものの旨さだし、鮑の肝煮なんて罰当り、平貝の炙り焼きも実に旨いのだ。風邪も心配だが、栄

養失調で旅の途中倒れるのではと思ったけど、これだけ食べたから大丈夫。どうもご馳走さまでした。

            ______________________

2月 20日(水) 晴れ  今日は24時間+19時間=43時間!!

第1食 新宿 「メゾン デュ カレールー」 焼きカレーセット(サラダ、飲み物付き) 1300

    旅の腹ごしらえはカレーだよ

新宿西口で早目のランチ。カレーをどうしてわざわざ焼くのかわからぬが、ライスにカレーをかけてオー

ブンで焼いてあるからアチチである。ルーの辛さは3段階でもちろん私は辛口を選ぶ。さてリムジンだ。

第2食 エアタヒチヌイ 関空=パペーテ ビジネスクラス機内食

  

成田からエアタヒチヌイで関空へ。成田から乗った客は一旦荷物を全部持って降ろされ、ナゼだかセキ

ュリティチェックを受けねばならないから酒類は関空で買わねばならない。チェッ!面倒くせーの。関空

は去年の11月、今年の1月と立て続けに3回も来たよ。午後8時25分タヒチのパペーテに向かって出

発。エアタヒチヌイは初めて乗るが、機材もサービスも機内食も意外と良いのだ。デルタ航空のように、

「経費節減のため日本の雑誌類は登載していません」なんて言わず色々そろえているし、エジプト航空

のように「宗教上の理由により酒類は出しません」なんて言わず、アリタリア航空と違って、ジントニック

もたっぷり出してくれる。エアインディアのように臭くも無いし、ウズベキスタン航空のようにビジネスでも

椅子が倒れないなんてこともない。そして機内食が旨い!CAは美人揃いで制服ドレスもステキだよ。

第3食 エアタヒチヌイ 関空=パペーテ ビジネスクラス機内食

ほぼフルフラットの座席のお陰でよく寝た。しかし寝込むと咳き込むので、それがツライ。関空から約1

1時間のフライト。目覚めると朝ご飯。希望者に味噌汁も配られた。インスタントだけど結構美味しい。

パペーテに近づくと、右翼側の客が騒がしい。ほう、あれがボラボラ島かぁ、南の島やねぇ、ハート型だ

よ。午前7時過ぎ、現地時間正午過ぎにパペーテ着。暑いぞ!湿気も凄い!トイレでシャツを脱いだ。

第4食 タヒチ・パペーテ シェラトンタヒチホテル&リゾート サーモン・海老などの前菜、白身魚

      のソテ ィ、チョコレートケーキ

  

タヒチ博物館に向かう。起き抜けなので、私も皆もぼんやり顔だ。タヒチ島は瓢箪型。大きな方をタヒ

チ・ヌイ、小さい方をタヒチ・イチというのだそうだ。見学もそこそこにホテルに向かう。ベタベタ汗をかい

たのでシャワーを浴びてさっぱりする。午後7時たいして美味しくもない夕食を食べ、自己紹介タイムと

なる。参加者21名、あとでわかったが、珍しく20代の若者3名、80代も3名いらっしゃる。午後10時に

はまたもや空港に向かい、深夜便でイースター島に向かう。どうして夜になると飛行機乗るのかなぁ。

           _____________________

2月 21日(木) イースター島は快晴

第1食 無し!

  

イースター島にはランチリ航空で。この航空会社は、一昨年ペルーに行った時乗った。南アメリカでは

アルパカの毛布で、余りの気持ち良さにカンドーしたが、今回は真っ白なカバーがついた清潔な毛布で

いいね。0時30分発だったので食事は断って寝るが、ゴボゴボ5時間咳していたら到着。パペーテとは

5時間の時差があるのでもう10時半である。こちらのガイド最上さんの案内でイオラナホテルへ。イオ

ラナは、おはよう、こんにちは、こんばんは共通語。8名の方々はホテルタハタイに分宿となるのだよ。

昼 イースター島 イオラナホテル パン、海老のサラダ、魚のソティ、バナナの砂糖がけ

  

 アフ・ビナプのアフ(石の祭壇)はインカ文化の石組に似ている    ラノカウ火口湖まで200mの高さ

ラノカウ火口湖の水面は美しい!     「鳥人の儀式」が行われたオロンゴ岬の沖にはモツ・ヌイ島など3つの島が

あまり食欲がわくとはいえないランチの後、イースターの最初の観光に出かける。島には大型バスなど

無いからギュウギュウ詰めの小さなバスで。しかも冷房無し、マイク無しだから、ガイドの最上さんは大

きな声で叫んで説明しなければならない。モアイは地面にそのまま立っているわけではない。アフとい

うプラットホーム状の石組み祭壇の上に立っている。アフ・ビナブのアフを見た時、あら?これどっかで

見たと思った。ペルーのクスコの石組みにそっくりではないか!イースター島の人々はポリネシアから

やって来たという説と、この石組みが残っているのでインカ文化の南米から来た説があるらしいよ。こ

の島は250万年前に火山が爆発して出来たようで、島の南西部にはラノカウ火口がある。湖まで

200mあるというのに、昔の島人は洗濯に通ったそうだ。オロンゴ岬。モアイ崇拝文化が廃れた後、島

には「鳥人の儀礼」が行われた。各部族の代表が、無人島のモツ・ヌイ島に泳いで渡り、その年初めて

産み落とされるグンカン鳥の卵を持ち帰ることを争ったんですってさ。それにしても風の強い岬だった。

夜 イースター島 イオラナホテル マッシュルームスープ、パン、チキンと野菜の炒め物 ライス添え、

ビール 4ドル、赤ワイン 1本 35ドル

  

2つのホテルに分宿しているが、食事はその都度バスで通って一緒に摂る。ランチを食べて、期待はす

まいと思った夕食だが、チキンと野菜の炒め物は結構イケた。今イースター島は真夏でサマータイム。

日の出は8時と遅い代わり、日没は9時!見渡す限りの海の真ん中に大きな太陽が沈んでゆくのさ。

       _______________________

2月 22日(金) イースター島は晴れ

朝 イースター島 イオラナホテル 朝食ヴュッフェ

    ふんだんにお菓子が並ぶイースター島の朝食

7時半、添乗員のS藤さんのモーニングコールでようやく目を覚ます。何たって2晩続きの深夜飛行機

でようやくベッドで眠ることが出来たからね。午前6時頃、猛烈な雨が降ったそうだが、全く気がつかな

かった。部屋の水周りには相変わらず極小の蟻の大群が湧くがごとく出没している。朝食は8時から。

レストランに行ってびっくり。ハムやチーズや卵は1種類なのに、焼き菓子系のケーキが5、6種あるの

だよ。ホテルタハタイでも同様の内容というから、イースター島の朝食はケーキ中心なのかもしれない。

    アナカイ・タンガタの洞窟前の海外と洞窟内の鳥人の絵               イースター島博物館に展示されている「モアイの眼」

     

                アフ・タハイ遺跡には目のあるモアイなど7体のモアイが立つ

イースター島2日目。未だ立っているモアイ像を見ていない。島唯一の村ハンガロア村の先にそれはあ

った。アフ・タハイ遺跡。海に背を向けて5体と離れたところに1体づつ。そのうち1体は目がついている

が、千体のうち目がついているのはこれだけ。すべのモアイは目を失っているから、撮影用につけたも

のだと言う。頭の上の赤い石はプカオと呼ばれ、帽子ではなくヘアスタイルだったようだ。迫力あるな。

イースター島博物館。日本の凸版印刷の技術と資金援助で新築された。翌日行ったアナケア・ビーチ

で発見された「モアイの眼」が展示の目玉。但し、目玉は模型で本物はチリ国立博物館にあるそうだ。

昼 イースター島 ホテルタハタイ 野菜スープ、牛肉煮込み、アイスクリーム、パパイアジュース 

     3ド

  

昨日の昼食・夕食はイオラナホテルだったので、今日の昼食・夕食はホテルタハタイで。このホテルに

はガイドの最上さんとその奥様も働いておられる。イオラナホテルにも猫が3匹いるが、ここは2匹だ。

  

   プカオが切り出されたプナ・パウの丘                   唯一海を見つめているアフ・アキビ

ランチの後は一旦ホテルに戻り、3時から午後の観光へ。日差しの強い土地だから、こうして休憩があ

るのが何より有り難い。プナ・パウは赤い帽子状のプカオを切り出した場所。赤色凝灰岩はこのヘンだ

けで採取できる。小高い丘を上って足がガクガク。モアイが海に背を向け島の内部に向かって立ってい

るのは、先祖の墓でもあるアフの上に立つモアイの眼から一族を見守っているから。なのにアフ・アキ

ビのモアイだけは海に向かって立っている。最初に島に渡って来た伝説のホツマツア王の7人の息子

を祀ったと言われ、ホツマツア王の出身地ヒヴァ島の方向を向いているらしいよ。ロマンチックやねぇ。

夜 イースター島 ホテルタハタイ 白身魚の刺身、肉じゃが、魚とズッキーニの天麩羅、潮汁、ご飯、

ビール 4ドル、白ワイン、赤ワイン @5ドル

  

  

夕食は嬉しいサプライズ。最上夫人が働いていらっしゃるからか、和食だった。但し、最近は生魚を食

べるとお腹を壊す恐れがあるので、刺身は元気なT山さんに差し上げた。肉じゃが、天麩羅いいねぇ。

夜―2 浜辺で夕陽を見ながらシャンパン

  

夕食後夕陽を見にアフ・タハイ遺跡へ。最上さんがシャンパンを用意してくれた。海に沈む真赤な太陽、

シルエットはモアイ像、そしてシャンパングラス・・・。このひと時でイースター島に来て良かったと思う!

            ________________________

2月 23日(土) 晴れ

朝 イースター島 イオラナホテル 朝食ヴュッフェ

毎晩咳に悩まされているが、珍しくすっきりと起きた。6時か。もちろん外は真っ暗。日の出は8時だか

ら。素早くベッドから出て洗面と着替え。暗いが朝の散歩にでも行くか。昨夜見たのと同じ位、満点の星

だ。部屋に帰って本でも読むかと、よーく時計を見たところで愕然!ドッヒャー!夜中の12時40分!

目覚まし時計の長針と短針を見間違えて起きてしまったのだぁ!パジャマに着替えて寝直した。フン!

  

        モアイ倒し戦争の激戦区アフ・バイフやアフ・アカハンガにはうつ伏せにモアイが倒されている、海の波は荒く東映映画のようだ

今日は一日観光。島南海岸から南東部、北海岸まで行く。18世紀半ばイースター島ではお互いのモ

アイを倒す戦争、フリモアイが激しさを増した。最初に訪れたアフ・ハイアはその激戦地。海岸沿いにモ

アイ像が顔を下にうつ伏せに倒され、それがホツマツア王の墓とされるアカハンガまで点在している。

  

          モアイ観光のハイライト、ラノララク。ラノララク山に千体のモアイのうち400体がここにある。モアイって大きいでしょ?

  

      キチンと正座したモアイはこれだけ        遠くにアフ・トンガリキが見える         これがモアイ製造現場   

モアイはどこで造られたのか。それはラノララクと呼ばれる山なのだ。ラノララク山の石脈を見つけ、下

段右写真のように、石を削って切り出して造る。最大のものは高さ21m(未完)、普通のものでも14m

もあるモアイを数十キロも離れた島の海岸部にどうやって運んだかは諸説あるが、解明されていない。

 ランチボックス

  

         ランチボックスはちょっと食べただけ            かつて最大の村があったとされるアフ・トンガリキ

  

      日本企業の協力により復元されたアフ・トンガリキの15体のモアイ像  中には大阪万博に出展されたモアイも

ラノララク山の麓の海岸に、かつて最大の人口を誇った村がある。そこに立つモアイは見事だ。しかし、

こうしたモアイはずっと無事だったわけではない。フリモアイの影響もあっただろうが、M9.5という観

測史上最大のチリ沖地震は1960年に起こったが、アフ・トンガリキのモアイもそれこそ薙ぎ倒された。

それを修復し、復元に一役買ったのが日本企業。日本製のクレーンが大活躍してこのモアイがある。

  

 ホツマツア王が初めて上陸したアナケナビーチ           「モアイの眼」も発見されたアフ・ナウナウのモアイ 

イースター島には意外なことに海に囲まれていながらビーチが少ない。ホツマツア王が初めて上陸した

とされるアナケナビーチは数少ないビーチで、真っ白な砂浜に海水浴客で溢れていた。ビーチからちょ

っと奥まったところにアフ・ナウナウのモアイ像が。ここで「モアイの眼」が発見されたそうだ。少し離れた

所に立つモアイ(写真中)はイースター島で初めて修復されたモアイ。強い日差しの中に立っていた。

 イースター島 イオラナホテル チキンスープ、ミートスパゲティ、パン、スイカ、ビール 4ドル

  

午後7時前から夕食が始まったが、日は未だ高く暑くてたまらん。汗かきかき夕食食べるってゾッとする

よな。食後ハンガロア村でポリネシアンショーを見学に行くことになっているが、酒を飲んだ後出かける

のは面倒だ。私だけパスして部屋でウィスキーを飲んでいた。この島には、約300箇所のモアイ遺跡

があるそうだが、この3日間で16箇所を見たことになる。それぞれに特徴があって、面白かったなぁ。

          ____________________

2月 24日(日) 朝方小雨 のち晴れ

朝 イースター島 イオラナホテル 朝食ヴュッフェ

  

相変わらずお菓子だらけの朝食を終えて部屋に戻ると雨が降って来た。部屋の窓から海が見えるが、

その海から大きな虹がかかっていた。虹を見たことは何度もあるが、虹の出所を見るのは初めてだな。

村にたった1つある教会に行く。約4千人の住人のほとんどがカトリック教徒で日曜日の朝9時からミサ

がある。観光客も押し寄せて教会は立ち見が出る程盛況だ。スペイン語の説教の後、賛美歌を歌うの

だが、それが実にポリネシアらしい陽気な歌なのよねー。パイプオルガンの代わりにバンドが演奏する

のだよ。1時間のミサの後はフリータイム。教会の隣のクラフトセンターでお土産を買う人が多かった。

昼 A部家の食卓 カップヌードル、南部煎餅

    こんな中庭を見ながらツルツル

一緒にホテルに戻って来たA部お祖母ちゃんの部屋に「カップラーメンご馳走してくださーい!」と無心

に行く。参加者の中に青森のA部お祖母ちゃんと3人のお孫さんがいらっしゃる。20代の3人のお孫さ

ん達は、イマドキの若者には珍しく言葉遣いも丁寧だし、お祖母ちゃん思いで皆からも可愛がられてい

る。そのお祖母ちゃんがスーツケース半分のカップ麺をご持参されたと聞いてゴチになりに行った。カッ

プヌードルをツルツル、南部煎餅をバリバリ頂いて充実したランチだよねぇ。どうもご馳走さまでした!

夜−1 イースター島 イオラナホテル アスパラスープ、牛肉ステーキ、ミックスフルーツ

  

本を読んだり、うつらうつらしながら午後を過ごし、夕刻にはスーツケースを出す。今晩遅くタヒチのパ

ペーテに向かうのだ。またも深夜便ってわけ。イースター島最後の食事不味くも無いが美味しくも無い。

夜―2 ランチリ航空 イースター島=パペーテ ビジネスクラス機内食

    フルーツがとても美味しい!

ガイドの最上さんに送られて午後10時過ぎランチリ航空に乗り込む。夕食は済ませたので、甘いフル

ーツをつつきながら濃いジントニックを3杯グビグビと飲む。あぁ酔っ払っちゃったみたいよー。ヒック!

            ______________________

【今週の振り返り】

日本からタヒチのパペーテまで約9500キロ、パペーテからイースター島まで4000キロ、計1万3500

キロ離れているイースター島。チリの首都サンジェゴからも3800キロ、一番近い島でも1900キロ離

れている絶海の孤島である。そんな遠くの島まで出かけて、見られるものってあのモアイ像だけなんで

しょ?と多くの人は言う。そう、見るべきものはモアイだけ。しかし、そのモアイの実物をその場で見ると

いうことがこんなに素晴らしいとは行くまで私も知らなかった。

海底火山が爆発して出来たというイースター島に初めて人間が上陸したのは、マルケサス諸島のヒヴ

ァ島から来たホツマイア王と言われている。西暦400年とも700年とも言われ、そのヘンのところは定

かではない。マルケサス諸島と言えば西のポリネシアだが、一方では南アメリカ大陸からイースター島

に入植したのだ、という説もある。それを証明するために、ノルウェー考古学者ヘイアルダールはコンチ

キ号という手づくりの筏で航海を試みたこともある。ま、細かいことは独特の象形文字ロンゴロンゴを読

むことが出来る人が絶滅したため定かでは無いのだが、8世紀始めから石を組んだ祭壇AHU(アフ)を

造り始め、やがてアフの上に石像を造る。一説にはこの石像はタヒチ島などで見かける素朴なティキが

原型と言われているらしいよ。親思いの息子が亡くなった父親の像を造ったのが最初だったらしく、先

祖を崇めるために造られたのがモアイ像。足元のアフから先祖の霊気がモアイ像の目を通して子孫を

守る、ということでモアイ像は島の内部を向いて立っている。モアイ遺跡の場所を示す地図を眺めると、

小豆島程の大きさの島の海岸線をほぼ埋め尽くすほどモアイだらけだったらしい。部族同士が立派な

モアイを作る競争になったわけね。モアイ像造りはどんどんエスカレートして、大きなもの、モダンなスタ

イルのものも出現。体長10m以上、重さは数十トンのモアイを造るには30人がかりで1年半の年月を

要した。モアイ製造工場でもあったラノララクの山には完成していないものの、高さが21mのモアイま

であったさ。

ラノララク山には凝灰岩の石脈がある。ここである程度モアイ像を仕上げ、そこからどうやって離れた海

岸線に運んで行ったのか。丸太を並べて引っ張るにしても、この島には高い樹木は少なかったらしいし。

海に運んで船で?海岸線は足場の悪い岩場だらけだ。その上、帽子に見えるプカオという赤い石はラ

ノララクからかなり離れたプナ・パウから切り出したようだし・・・。こうなると、「モアイは自分で歩いて行

った」という説を信じたくなるね。こうしてイースターの海岸線は千体ものモアイ像に取り囲まれることに

なったが、やがて食糧難から部族間の争いが激しさを増し、敵の守護神モアイを倒す戦争(フリモアイ)

が始まってしまった。長い耳を持つ支配階級と短い耳の被支配階級の戦いである。目に威力があるの

だから、モアイを倒すなら顔を地面につけろー!ということで、次々とモアイ像はうつ伏せに倒された。

1770年スペインの探検隊が訪れた時モアイは立っていたのに、わずか4年後ジェームズ・クックが訪

れた時にはモアイのほとんどが倒れていたとする記録が残っている。イースター島のモアイ像は倒され

てしまった。ウームなのである。

しかし、悲劇はモアイ像にとどまらなかった。18世紀後半スペイン人がやって来て領有を宣言、その後

もアメリカのアザラシ狩猟船が島民を労働力として連れ去り、19世紀後半になるとペルー船が数千人

の島民を奴隷として連れ去る。その上フランス人がキリスト教を布教するためにやって来て島民を虐待

し、伝染病の流行もあって島民の数は100人に。何ということだ!1888年チリ政府が領有を宣言し、

イースター島が自治を獲得したのは1966年のことだ。

観光に力を入れることになって、モアイ像も徐々にではあるが、起こされ修復され原型を取り戻しつつ

あった。そこに1960年記録上最大のチリ沖地震が襲う。最大のアフに15体の像が並ぶアフ・トンガリ

キのモアイは薙ぎ倒され、数百メートルも内部に流され散乱した。そこで日本のタダノ建設が1台のク

レーンを提供し、1体のモアイを起こした。同社は予算の関係で1体のつもりだったのだが、「あとは起

こしてくれないの?」と島民にせがまれて、結局すべてのモアイ像を修復することになる。よっ!タダノ

建設さん、よくやりましたね!そのお陰があったかどうか、1995年イースター島はユネスコの世界遺産

に登録された。

現在イースター島の島民は約4千人。島の西部のハンガロア村に纏まって住んでいる。病院、教会、郵

便局、銀行、役所、小さいスーパーなどは一通り揃っているが、新聞は無い。郵便の宅配も無いから自

分宛ての郵便物があるか郵便局で確かめる。自動車教習所も無いから、誰かに運転の仕方を教わっ

て役所に行けば免許は貰えるそうだ。自転車代わりだった馬も、車が増えてからは仕事も無くなり、島

の至る所でぶらぶらしている。牛乳は搾るのが面倒だし、肉は硬くて拙いので牛もぶらぶらしているだ

けだ。人家など全くない野っ原で野生化した鶏がコケコッコー!と鳴いたりする。4千人の島民は1箇所

に住んでいることもあって、ほとんどは顔見知り。こんな島民の最大の楽しみは、島の人々の噂話なの

だそうだ。新聞なんか無くても、朝あったことは夕方島民は全員知っている。

こんな島に永住を決めたガイドの最上さんが興味深いことを教えてくれた。昭和12年(1937年)、チリ

政府は極秘裏に日本政府にこんな打診をしたそうだ。「イースター島を日本に譲渡したいんだけど、ど

うかな?」って。昭和12年といえば、日本は日中戦争に突入した頃であり、欧米の干渉も恐れた。答え

は「ノン」であったそうな。この時の時代背景が許したとして、イースター島が日本の領地になっていた

ら、どんな風になったのだろうと想像するのも楽しい。演歌「モアイ恋歌」とか「イースター音頭」なんて

歌が流れ、モアイ饅頭、モアイ煎餅が売られていただろうか。日本人らしく、きっちりと千体のモアイは

修復され、300もの遺跡同士の観光合戦が繰り広げられているだろうか・・・。うーむ、確かに想像する

のは楽しいけど、やっぱりイースター島は現在のままの方がよろしいようで。

           13500キロなんてひとっ飛びだニャーン

        バックナンバーのトップへ      夢子倶楽部のトップに戻る

      あぁ、やっと23週を作ったよ。え?24週もはよう作れ?

  ちょっと待っててねー! 帰国しても具合が良くないもので。