パクパク日記8年9月3週

          中央アジア2週目は、国境を越えてカザフスタンとキルギスに行った

カラコルのロシア正教会 アク・ベシム遺跡で会った少年

9月 15日(月) ウズベキスタンもカザフスタンも晴れ       米のリーマン・ブラザーズ経営破綻

朝 タシケント・ホテル「マルカズィ」 朝食ヴュッフェ

    今朝ウズベキスタンともお別れ

 5時起床。急病のため、思いがけずに1週間も(私だけね)滞在したウズベキスタンとも今日でお別れで

ある。相変わらず、レストランでは朝食の料理は揃ってはいないが、プロフ(中央アジア風ピラフ)があ

ったので許したる。硬めに炊き込まれて米が旨い。丸くくり抜かれたフルーツはアイスクリームみたいだ

な。2泊したのに、結局タシケントの町は空港とホテルを往復しただけだった。タシケントはウズベキス

タンの首都で人口は200万人。近郊まで入れると400万人の中央アジア最大の都市である。17年真

絵までソビエト連邦時代も4番目の町だった。以前大地震があったが、唯一地下鉄も走っているのだ。

1時間でカザフスタンとの国境に着いた。詳しいことは「今週の振り返り」で書くことにして、この国境越

えが泣きたくなる程タイヘンでカザフスタン側で待っていたバスに全員揃ったのは3時間半後であった。

 カザフスタンの何とかという町の何とかというレストラン アティク・チュチュク(キュウリとトマトと玉

葱のサラダ)、チュチュバラ(ロシア風ペリメニスープ)、焼き立てナン、紅茶

  

ヘトヘトでバスに乗り込んだ私達に、またしても無情な知らせ。「昼食を予定しているレストランは、ここ

から3時間走ったところです・・・・」。冗談こくな!もう午後1時だぞ!午後4時までガマンできるかい!し

かも、この国は時差が1時間あり、今午後2時ってことになるのだ。当然ブーイングの嵐。ってことで、予

約は取り消して、どこかテキトーなレストランを探すことになった。40分後、何とかという町の何とかとい

うレストランに飛び込みで入る。サラダは念のため食べなかったが、チュチュバラというロシア風ペリメ

ニスープと焼き立てナンがとても美味しい。ここからホテルまでは6時間です」。ゲェーーーーー!!!

  

           悲恋のアイシャ・ビビ廟はライトアップされ佇んでいた                 今晩は仲秋の名月だよ

国境で余りに長い時間を取られたため、今日一日の予定がすっかり狂ってしまった。カザフで2ヶ所観

光して夕方ホテル着の筈が、移動しているだけで真っ暗になってしまった。それでも午後8時、アイシ

ャ・ビビ廟だけは観光することになった。真っ暗じゃ見えんじゃないか、と思ったがライトアップされてい

た。王子カラハーンとアイシャという娘の悲恋伝説があり、カラハーンがアイシャのために造った廟だと

言われているそうだ。今日は9月15日、仲秋の名月である。廟を見て、ふと後ろを見ると、カザフスタン

の夜空に美しい月が照っていたのだよ。「月今宵カザフの恋を照らしおり」なんてね。ホテルまだかぁ。

夜 カザフスタン・タラズ 「ジャンブル」 サラダ、パン、チキンと野菜 ポテト添え、アイスクリーム、

生ビール×2杯 6ドル

  

6時間こそかからなかったものの、ホテルに到着したのは9時前だった。ハラホロヘレー、やっと着いた

かぁと安堵したら、またしても厳しい現実。「皆さん、このホテルにはエレベータはありません。皆さんの

部屋は4階です。もう一度元気を出して4階まで上ってください!!」。・・・・・・。1回目は荷物もってよろ

よろと上り、たいして旨くない食事後は、生ビールジョッキ2杯飲んでよろよろと上ったのだった。へろ。

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9月 16日(火) カザフスタンもキルギスも晴れ

 カザフスタン・タラズ 「ジャンブル」 とても料理数の少ない朝食ヴュッフェ

    ろくに食べるもの無いぞ!

辺境地区で宿泊する時困るとの1つは風呂というかシャワーというか、浴室関係である。浴槽は大都

会の星のたくさん付いたホテル以外無いよ。シャワーのみがフツーだが、それも湯が出ればバンバン

ザイ。最初出てもすぐ水になったり、給湯時間に制限があったりね。昨夜も2分後には水になってしま

い、苦労したぜ。朝食のテーブルには、今日から3日間ガイドしてくれるジャニベック氏(愛称ジャニー)

がニコニコ藁って座っていた。ウズベキのフェルズ君もなかなか巧かったが、ジャニーは素晴らしい日

本語を使う。「昨日は国境で苦労されたと伺いました。しかしこれで旅の山は越えました」なんてね。彼

はキルギス人で今朝4時にホテルに着いた由。彼の方がずっとタイヘンだったんだ。朝食まずいぞ!

  

     8世紀の半ば「タラズ川の戦い」が行われた古戦場を望む。ここで朝鮮兵士中心の唐軍はアラブ軍に大敗した 

ここタラズは、ソ連時代の詩人ジャンブル・ジャバエフを生んだ町とか。ジャンブルはソ連共産主義のイ

デオロギーを巧みに織り込んだ即興詩を詠い、ソ連政府はタラズの町名を彼の名前のジャンブルに変

えた。今朝まで滞在したホテルもその名残りだろうかジャンブルだった。しかし、独立時に昔のタルズに

戻したんだってさ。今朝は昨日日没のため観光できなかった「タラズの戦い」が行われた古戦場を見渡

せる丘に行った。7世紀アラブがもたらしたイスラムは中央アジアに燎原の火のごとく広がり、それを食

い止めたい唐軍とアラブ軍はこの地で衝突した。751年のことで東西文明が激突したわけね。唐軍は

大敗して逃げ帰ったが、この時唐の持つ製紙方法がアラブに伝わったらしい。タラズは天秤の意味だ。

昼 キルギス 「アルズ」 トマトサラダ、ナン、ラグマン、サモサ、フルーツ、紅茶

  

    ウィグル料理は旨いです

午後1時半キルギスとの国境に到着。その30分前オンボロバスはたっぷり給油した。キルギスに入っ

てしまうと、原油を産出するカザフよりガソリンが2割高くなってしまうらしいよ。「国境越え」と聞くと皆自

動的にキンチョーする。また悪夢の繰り返しかいな、とゲンナリするのだ。ところが。キルギス=カザフ

スタン間だけは例外らしく、バスはそのまま利用できるのだ。パスポートと貴重品だけ持って降りて手続

きをし、バスで向こう側に渡ると係官がパスポートを集めに乗って来て、全部で40分で済んだ。やれば

できるじゃない!午後3時過ぎ遅いランチ。「アルズ」とはウィグル語で夢という意味らしい。じゃ、私は

アルズ子か?ここまで何度か食べたラグマンはウィグル料理らしく、ウィグル料理店のここは別格に美

味しかった。今朝から添乗員のS根さんが体調を崩し辛そうだ。何も食べず食事中はずっと寝ていた。

  

      どこまでも続くかと思われるポプラ並木          羊や山羊が車を止める             空も木々の美しい

目指すイシク・クル湖まで4,5時間かかるという。昨日と今日は移動ばかりだ。ところでこの旅行中トイ

レはどうしたか?大都会以外トイレなど無い。従って「青空トイレ」となる。2,3時間ごとにバスを止めて

トイレ休憩。「女性は後ろ側にある薮の向こうがいいでしょう。男性は女性に配慮して、そのヘンでテキ

トーに」と指示があり、女性は折り畳み傘を片手に薮の向こうに消える。慣れたら、これはなかなか気

持ちがよろしい。行列を作って臭くて汚いトイレを使う位なら断然青空だね。問題はどこまで行っても砂

漠とか大草原とかで隠れる場所が全く無い所が多いということだ。ドライバーにとって、トイレ場所を探

すのも大事な任務。途中から天山山脈の支脈が見え始め、渓谷地帯では高度もどんどん増して来た。

夜 キルギス・イシク・クル湖 「マルカズィ」 サラダバー、パン、マンティ、ケーキ、紅茶、輸入ビール 

5ドル

  

右手にイシク・クル湖を見ながら走って1時間余、午後8時にようやく湖に面した「マルカズィ」に到着し

た。高級保養施設で部屋も結構広い。添乗員のS根さんは益々具合悪くなってしまったので、余分の携

帯プラズマや風邪薬などを渡す。早くよくなってね。夕食は焼き餃子みたいなマンティとロシアビール。 

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9月 17日(水) キルギスは晴れ 夕刻ほんのちょっと雨

        高級保養施設のラドゥーガ内は樹木や花も美しい                この棟に我々は2泊したのだ  

幻の湖イシク・クル湖も夏は湖水浴場として賑わう             天山山脈の支脈が朝日に映えて

今朝早く起きてシャワーを浴びた。ちゃんと湯が出るだけでカンドーする。朝食は8時と遅いので、それ

まで散歩でもしよう。「マルカズィ」の敷地は広く、我々が泊まっているホテルタイプや戸建ての別荘タイ

プまで様々な建物が揃っている。湖まで撮影しながら歩いたら10分もかかった。ほう、これが幻の湖と

いわれたイシク・クル湖かぁ。朝日に映えてキラキラ光っている。桟橋では冷たい水に飛び込んだ若者

達が騒いでいる。ここは夏場には湖水浴場として賑わい、年間観光客は100万人。その7割が隣国の

カザフスタン、それも大都市のアルマトイからやって来るのだとか。この施設は、ソ連時代からあるとい

うから当時は別荘の「ダーチャ」として人気があったのだろうな。天山山脈と花も美しく、暫し見惚れた。

朝 キルギス・イシク・クル湖 「マルカズィ」 朝食ヴュッフェ

    甘いお粥が新鮮だった

お粥があったので喜んで食べたら甘かった。何で甘いの。しかもお粥といいながら米ではなく、粘り気

がある。ジャニーに聞いたら、小麦粉のセモリナ粉で作るのだと。S根さんが随分回復してホッとする。

  

ブルジュワルスキー博物館   ブルジュワルスキーが書いた地図   彼の墓はイシク・クル湖を見下ろす丘に

何と今日の出発は9時だよ?しかも連泊だからスーツケースを出す必要もない。9日目にしてようやく

余裕の朝だと皆さん喜んでいる。カコクな生活していると、人間些細なことでも喜べる。今日はイシク・ク

ル湖東端のカラコルの観光に行く。そこまで2時間半もかかるんだけどね。イシク・クル湖は琵琶湖の9

倍の広さを持ち、キリギス国土の3%も占めている。これだけ大きな湖だが、標高1600mの高さにあり

ペルーのチチカカ湖を思い出した。天山山脈から流れ出した181もの川が注ぎ込むが、出てゆく川は

無い。その昔、インドに向かう三蔵法師がこの湖に立ち寄り「大清池」と書き記したそうだ。冬は相当な

寒さになるのに、ナゼかイシク・クル湖は凍らない。イシク・クルの意味は「暑い湖」だ。ソ連時代外国人

の立ち入りが禁止されていたからか「幻の湖」と呼ばれた。湖底に集落跡があるのも謎なのだと言う。

19世紀ロシアの探検家ブルジュワルスキーの博物館に行く。1870年から4年間東シベリア探検を皮

切りに、第一次モンゴル、第二次モンゴル、チベットと4回も大探検を敢行し、88年から天山山脈を越

え、タクラマカン砂漠を横断してチベットに入る探検はここカラコルをベースキャンプにした。ところが、

彼は腸チフスを患って49歳で生涯を閉じる。「4千万歩の男」伊能忠敬も凄いけど、この人も凄いわ!

昼 キルギス・カラコル 「トルクスタン」 野菜サラダ、パン、肉団子と米入りスープ×2杯、ラグマン、

紅茶とビスケット

  

ランチで出て来た肉団子と米入りスープはメチャンコ旨かった。レストランのオジサンに「もう1杯おくれ

よ」と頼むと「ようがす」とお替りをくれた。だから、他の料理はほとんど食べなかった。大満足のランチ。

  

             木造のロシア正教会は今も現役でがんばっておる           中国回教徒ドンガン人のモスク

午後はカラコル観光。ロシアやウクライナから移住した人達が町を作ったことからロシア正教会がある

のは不思議ではない。木造の教会で今も使用されている。一方、中国で迫害されてこの地に逃げて来

た中国ムスリム(ドンガン人)が建てたモスクもあった。釘を1本も使用していないそうで、今も一日5回

の祈りが捧げられている。バザールに行ってみるとコンテナーを並べた店舗だった。買いたい物無し。

夜 キルギス・イシク・クル湖 「マルカズィ」 そうめん夕食サラダバー、パン、牛肉と玉葱ソティ 温

野菜添え、ビール 5ドル

  

今夜は、体調を取り戻した添乗員S根さんが作ってくれたそうめん夕食。中央アジアの水道水は、塩分

を含んで飲み水に適さないので、すべてミネラルウォータで洗ったそうだ。こうなると、そうめん好きの

私はレストランで出された食事などほとんど食べない。しかし、同じテーブルにライバルが2人もいて、

結局最後まで3等分して食べたのだった。私はもっと食べたかった!お腹は悪くても、喰い意地健在。

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9月 18日(木) 晴れ

 キルギス・イシク・クル湖 「マルカズィ」 朝食ヴュッフェ

高級保養施設のここも、午後1時から6時半、午後11時から午前4時まで電気は点かない。そういえ

ば、昨日行ったブルジュワルスキーの博物館でも電気は点けてくれなかった。今朝はだいぶ冷えるよ。

  

          岩絵野外博物館は4ヘクタール         山羊の岩絵がくっくり残る          イシク・クル湖よさよなら

ホテルをチェックアウトして、チョルポン・アタに向かう。イシク・クル湖岸で最大の避暑地である。この町

の郊外に岩絵野外博物館がある。見渡す限り石がゴロゴロと転がり、その石には4000年前からの岩

絵が残る。絵柄は山羊が一番多いがキャラバン隊とか狩りの様子も描かれていた。1000近くある由。

  

      三蔵法師も訪れたアク・バシム遺跡          昔はこんな建物だった?        馬に乗った少年に会った

イシク・クル湖を後にしてバスは西に向かった。6世紀から12世紀にかけてここに仏教寺院があった。

三蔵法師はインドに行く途中ここで歓待を受け、休養したと伝えられる。唐代の砕葉城とのことだが、想

像力を総動員してもなかなか当時のイメージがわかない。目を凝らしていた遺跡から目を離して遠くを

見ていたら、何かがこちらに近づいて来る。相当なスピードだなぁ。何だ?何だ?馬だよ。乗っているの

は・・・へぇ、少年ではないか。あっと言う間に近くまで来た少年は突然馬を止めた。こんにちは!声を

かけると恥かしそうに笑う。かっこいいなぁ。アメフット選手コショウ君によく似ている。人気者になった。

昼 チュイ村エリックさんのお家で  サラダ2種、パン、じゃが芋と牛肉のスープ、ガルプツィ(ピーマン

の米詰めと野菜の煮込み)、紅茶

    エリックさんちでのご飯

今日のランチは個人宅で頂く。チュイ村のエリックさんの家。ご主人は学校の先生でお留守だったが、

奥さんが料理を作り、娘さんが給仕をしてくれた。子供は3女1男。キルギスでは、昔の日本のように、

男の子がどうしても欲しいらしい。ピーマンの米詰めと野菜の煮込みがとても美味しかった。ご馳走様。

  

     11世紀始めに造られたブラナの搭           キリギス各地から集められた石人の表情は豊か

食後、すぐ近くのブラナの搭に行った。野っ原にポツンと立っていて、しかもピサの斜塔のように傾いて

いる。11世紀に造られた頃は45mあったが、地震で上部が壊れて今は24mの高さだ。何でもカラハ

ーン朝の首都のひとつだったらしいよ。希望者は搭の内部の階段を上られたが、私はもちろん行かな

い。野外博物館にはキリギスの各地から集められた石人が並んでいて、こちらの方がずっと楽しいな。

夜 ビシケクの何とかというレストラン キノコ・チキン・コーンのサラダ、パン、白身魚のグラタン焼き

 プロフ添え、バースディケーキ、紅茶、生ビール×2杯 6ドル

  

夕方5時、キリギスの首都ビシケクに着いた。100万人の人口は国全体の2割に相当する。ソ連邦時

代はフルンゼンという名称だったが、独立時旧名のビシケクに戻った。宿泊するホテル、ドゥストゥクの

外観や1階ロビーを見てイヤな予感がした。ソ連時代の陰鬱な匂いがプンプンとするぞ。しかし、チェッ

クインは5階でと言われて行ってみると、恐らくこのフロア-だけと思うが近代的な部屋にリニューアルさ

れていた。CLUB HOTELとあったから、ここだけクラブフロアなのだろう。ヘアドライアやバスローブ

まであったよ。夕食はバスで行ったレストランで。明日誕生日を迎えるS井先生(大学の)の誕生日パ

ーティ。「明日から後期高齢者になります」と挨拶された。久々に家に帰るガイドのジャニーは嬉しそう。

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9月 19日(金) キルギスもカザフスタンも曇り

朝 ビシケク・ドゥストゥク 朝食ヴュッフェ

今夜は機中泊だから今朝が最後の荷造りとなる。CNNによると、日本もちょっとは涼しくなったらしい。

5階のフロアはまぁ快適だったが、朝食のレストランに行くと、モロ・ソ連っぽかった。陰気でサービスが

悪い。だが中に野菜を練り込んだパンはなかなかイケタ。今日またカザフスタンに行って夜便に乗る。  

  

           カザフスタン一の大都会アルマトイではこんな近代的な建物が                          アルマトイのスケート場

キルギス→カザフスタンの国境越えも、3日前と同じで合計40分で終了。どこもこんな感じだと楽なん

だけどなぁ。ガイドがジャニーから若い2人に交代した。今年6月卒業したばかりという若者で、名前の

意味から、和男と光男という日本名もつけていた。2人は去年1年国費留学生として日本で過したそう。

京都と奈良で。キロロの歌を途中まで歌ってくれたが、キルギスではキロロが大人気なのだと。今まで

で一番良い道をぶっ飛ばして昼過ぎにはカザフ最大の都市アルマトイに着いた。3ヶ国の大きな都市

の中では、最も近代的なビルが建っていた。これも中央アジア?と不思議な感じがする。渋滞も凄い。

昼 カザフスタン メディマのユルタレストラン サラダ数種、パン2種、馬乳酒、ベシプラマップ、魚のフ

ライ、干し果物とお茶

  

  

  

           アルマトイのヤングエリートの結婚式? ド派手だ              早くも山は紅葉が始まっていた

東京なら箱根に当るような場所までランチに行く。標高1700mだそうで、バスを降りると寒さでブルッ

とした。遊牧民が使うユルタというテント式住居をいくつか組み合わせたレストランでランチ。馬乳酒が

出たのでちょっと飲んでみたが、余りの酸っぱさに飛び上がった。コレ嫌い!ベシプラマップという平べ

ったいパスタに肉を乗せた料理がとても旨かった。「5本の指」という意味で、現地の人は手で食べる。

夜 カザフスタン アルマトイの何とかというホテル 夕食ヴュッフェ

    脂っこい料理が多かった

アルマトイ市内の国立中央博物館やグリーンマーケットで時間をつぶして、旅の最後の夕食は市内の

ホテルで。私達はヴュッフェだったが、隣の宴会場では現地の人が大勢集まり食事をしていた。ラマダ

ン(断食)中の金曜日の夜は、こうして集まって食事をするのだとか。空港で23時10分発の便に乗る。

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9月 20日(土) ソウルは晴れ 東京は午後から晴れ

朝 アシアナ航空 アルマトイ=仁川 ビジネスクラス機内食

    アワビ粥は旨いが量が少ない!

深夜便とあって、到着2時間前の食事の注文をした後はお休みタイム。アワビ粥を注文してそろそろ寝

ようと思ったら、右隣の男性にラーメンの膳が運ばれて来たではないか。多分辛ラーメンかと思うが麺

の量が多くてキムチもついている。メッチャ旨そう。私も食べたい!でもガマンしたのだ。目が覚めたら

左隣の男性がラーメンを食べていた。くそっ!!私だって食べたいんだよ!それ。でもお粥頼んじゃっ

たんだよ!お粥はまぁまぁだったが、何せ量が少なすぎる。追加で頼もうと思ったら着陸態勢に・・・・・。

昼 アシアナ航空 仁川=成田 ビジネスクラス機内食

    プルコギは柔らかく味もいいが・・

空港のビジネスラウンジにも辛ラーメンは山のように積んであったが、機内で食べようとガマンした。成

田行きに乗り込んでメニューを見ると、やっぱりさっきの便と同じ。ったくもう、なのである。「メニューに

は無いけどラーメンちょうだい」と頼むと「アルマトイからの便とメニューは同じなんですけど、成田便に

はラーメンは積んでおりません」。エーン!!プルコギにした。これはこれで旨かったが、ラーメン・・・。

夜 舟町 「仙水」 付き出し:春菊と松茸の和えもの、富山湾の白海老刺身、野菜の炊き合わせ、加茂

茄子の揚げ出汁、甘鯛と松茸の出汁煮、生ビール2杯、冷酒 「白岳仙」 @1万2800

  

  

12時過ぎ成田着。荷物もすぐ出て来てタクシーに乗ったら、空いていて55分で到着してしまった。何で

も昨日から台風が来て雨が降っていたらしい。それで土曜日なのに外出を控えて道路が空いていたの

か。洗濯や片付けや写真の取り込みなど、帰国時のいつもの作業に入るが、どうも食事を作る気分に

ならない。じゃ飲みに行く?「仙水」で、白海老やら加茂茄子やら松茸なんか食べて大満足の帰国日。

                ______________________

9月 21日(日) 雨一時大雨

朝 家食 卵とハムのトーストサンド、カレーシチュウ、バナナ、アセロラヨーグルト、黒烏龍茶

  

帰りの飛行機では2時間しか寝なかったのに昨夜は午前1時まで起きていた。旅行中、アメリカの4番

目の証券会社リーマン・ブラザーズが経営破綻して世界中の株価はドスンと下落。アメリカのサブプラ

イムローン問題がはっきり形になったということだろう。そんなことで世界は大騒ぎなのに、日本は投票

前にも係わらず、自民党次期総裁は麻生で決まりとか、農水大臣と事務次官が辞任したとか、レベル

の低い問題一色だ。太田なんて人をどうして大臣にするんだろと不快に思っていたから丁度良かった。

シャワーを浴びる前体重を計ったら、2キロ減だった。あれだけ食べなくても、減ったのはこんなもん?

昼 四谷三丁目 「尾張屋」 カツ丼 820

    やっぱり日本の味はカツ丼

冷蔵庫には野菜など何も無い。お彼岸だから仏壇用にお花も買わなくっちゃ。買い物の前に「尾張屋」

でカツ丼。やっぱりこれが日本の味やねぇ。アハハ。両手に持ちきれない程買い物して外に出たら大雨

になっていた。びしょ濡れになった。帰ってから、パクパク日記の続きを作る。毎回これがツラクってね。

夜の軽食 家食 韓国のダイエットヌードル、「中村屋」の月餅(木野子餡)、幸水梨

    ダイエットは不味いのです

せっかく苦労して買い物して来たのに、パクパク作成の集中心が途切れるのがイヤになった。そこで、

仁川空港のラウンジでクスねて来たカップヌードルで誤魔化すことに。BODY LINE NOODLEと書

いてあったから、ダイエット麺ということだろう。熱量は僅か120カロリー。不味い!深夜アップ。無酒日

                ______________________

【今週の振り返り】

先週からの中央アジア4ヶ国(私だけ3ヶ国)の旅が終わった。旅の終わりに添乗員のS根さんが参加者に尋

ねた。「皆さん、今回の旅行で一番印象に残ったのは何でしたかぁ?」。全員が声を揃えて「国境越え!!」と

答えたのだった。

フツー国境なんて24時間開いていると思うでしょ?でもウズベキスタンは朝の9時から。しかし、9時に

国境に着いても開いているとは限らない。国が変わる(ウズベキスタン=トルクメニスタン、ウズベキス

タン=カザフスタン)と、バスも代わるため、通過者はスーツケース、手荷物全部持って待たねばならな

い。9月15日ウズベキスタンからカザフスタンに入る時、ようやく係が来て作業が始まったのが9時50

分だった。しかし、並んでいる私達の前に、現地の人々がちょこちょこと横から入って来るからちっとも

進まない。「行列に並びなさい!」と怒鳴ってもどこ吹く風。他の国に旅しても、中国人と韓国人は行列

に並ばないと評判が悪いが、中央アジアもそうだわ。ったくもう!なのである。1時間かかって、小屋の

ような事務所に入る。税関の書類をチェックされ、すべての荷物のセキリュティがチェックされる。とぼと

ぼ歩いてその先の小屋。ここで予め取得したビザやパスポートをチェックされて、ようやくウズベキスタ

ン側を通過。やれやれと思って、カザフスタンの国境事務所はどこなの?と聞くと、遥か向こうのずーっ

とずーっとずーっと向こうと言われた。ここからは見えない・・・・。そこまでの道は舗装もなく、ゴツゴツし

た石だらけで、荷車や車で土煙がもうもう。湿度は低いとはいえ、30度以上の気温である。そこをスー

ツケース引っ張り、手荷物すべて背負って歩くのだ・・・・。仕方なく歩き出す。スーツケースのキャスター

に石が嵌まって動かない。無理やり引っ張る。汗が噴出す。荷物が重い。旅には苦労は付き物とはい

え、こんな難行苦行をせねばならないのか?そうして、400mほど歩いたところで、ロバに引かせた荷

車(リヤカーね)の男が乗らないかと誘って来る。幾らだと聞いても答えない。いいや、乗っちゃえ!2人

乗ったところで「出してよ」、と頼んでも男は知らん顔。そうか4人まで乗せたいんだなと理解し、もう2人

を大声で誘う。ようやく4人になってギューギュー詰めで出発した。全員振り落とされそうで、必死にしが

みつく。途中で、全部歩くと決めたグループの数人を追い越した。皆苦痛で顔が歪んでいる。先が見え

ない程の土埃の中を進んで、やっとカザフ側の建物が見えて来た。あぁ、もうすぐだ。

カザフ側の事務所は建物の中だった。日差しを除けられるし、埃も無いのでホッとする。あと10分位で

終わるかなと思ったら、そんなに甘くは無いのだ、国境は。またもや現地人のもぐり込みが多数あり、

不快な思い。やっと番が来たら、上にカメラが据えてあった。アメリカかい!次の窓口はとんでも無い高

い所にあり、手を高く上げねばパスポートを渡すことが出来ない。ソ連時代の、いかにも人々を睥睨す

る、見下すような窓口のツクリである。これで終わりか?うんにゃ!先にチェックを受けたK田さんはス

ーツケースを開けての荷物検査を受けていた。全員やるのぉ?添乗員入れて22人もいるんだぜ?迎

えに来てくれたカザフの旅行社スタッフが小さな声で、「お金で解決する方法もあります」と言う。内緒で

相談した結果、@2ドルでスーツケースオープンチェック無しということに話がついた。エストニアからロ

シアに抜ける国境でもそうゆうことがあった。旧ソ連邦に関わる国では、今も袖の下が平然と幅を利か

せている。水心あれば魚心なんて言葉があるけど、こうゆうの、イヤだ!結局、全員がチェックを終える

のに、3時間半かかったことになる。病気で欠席したトルクメニスタンからウズベキスタンの国境でも、2

キロ以上歩いて3時間かかったと聞いた。まっこと中央アジアの国境越えはツライもんぜよ!

しかも、出発1ヶ月以上前に、現地から招聘状を貰い査証(ビザ)を取らねばならない。この代金と手数

料がウズベキとカザフ2国合計で2万円余。これに現地でなければ査証が取れないトルクメニスタンで

は65ドル払う。3国でカラー写真は4枚必要・・・・。更にはウズベキの出入国の度に、持ち金を税関に

正直に申告する必要がある。減る分にはいいが、増えていたら引っ掛かるらしい。

ソ連邦時代、国こそ違えども、中央アジア諸国は互いに国境など意識していなかった。自由に行き来し

ていたと聞く。もともとこれらの地域は、トルキスタンの地と言われていた。トルクの人々の土地、つまり

トルコ人の土地であった。あまりに広いので2つに分けて、東トルキスタンは現在中国の新疆ウィグル

自治区、中央アジア諸国は西トルキスタンと呼ばれた。19世紀後半、ロシア帝国の拡張政策で南下し

た結果ロシア領に、革命以後はソ連邦に組み入れられたが、相変わらず1つの大きな地域であった。

ソ連邦に組み込まれてから、カザフ人が多く住む地域、ウズベキ人が多く住む地域といった按配で分

割し、かつ1990年ソ連邦が崩壊したことから其々が独立したが、それから「国境」が現実味を帯びて

来ることになった。

カザフは原油や石炭などエネルギー源を多く埋蔵していて5ヶ国では最も経済的に恵まれている。トル

クメニスタンは最も西に位置するが、その西側はカスピ海だ。同国は私だけ行くことが出来なかったが

世界遺産のメルブ遺跡など有しているが、行った人の話によると「中央アジアの北朝鮮のような国」と

のことだった。内容はよくはわからない。5ヶ国の貧富の差がはっきりすると、富む国は貧しい国からの

人々の往来に敏感になる。ソ連邦ではなかったが近隣のアフガニスタンが麻薬の生産地として知られ

るようになると、その取り締まりも強化せねばならない。そして、いずれも豊かとはいえない土地柄であ

る。国境事務所で少なくない雇用を確保したいと思っても不思議は無い。24時間サービスを拡大して

利便性をあげよう、とか作業をマニュアル化してチェック時間の生産性を図ろう、とか利用者に愛される

国境を実現しよう、なんてことは夢にでも思ったことは無いに違いない。たぶん。それは雇用減になる

のだから、ゼッタやらないのだね、きっと。

景色が素晴らしい中央アジア、日本人の口に合う美味しい料理、思ったより古い遺跡が残る中央アジ

ア・・・この地域にたくさんの魅力があるのに、「国境越え」のタイヘンさで訪れる人が減ってはマズイと思うよ。

何とかそのヘンうまく処理して、懐を広く、深く迎えてくんちゃいな。

              アタシはねぇ、永久ビザ持っているんだニャ

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                        * 中央アジア旅の始まりは 9月 2週 をご覧くださいな。