パクパク日記12年9月1週
こんな時であるが中国遼寧省に行った。北朝鮮を間近で見たぞ!
あれが有名な旅順口
橋の向こうは北朝鮮
9月 3日(月) 曇り 今日も少し涼しい
朝 家食 「魚久」のほたてしぐれの炙り、実だくさん豚汁、ふすまパン
昼 四谷三丁目 「ガスト」 スパゲティミートソース 523円、日替わりスープとサラダセット 199円、
ドリンクバー 208円
スーツケース完成!これで良し、と。いつも依頼する託送会社なら明日でいいのになぁ。さて、ランチに
出かけるか。2度目の「ガスト」。今日は並んでいなかった。メニューのサイズは大きいが、見慣れて来
るとそれ程料理の数が多いわけでは無いのだなぁ。それでも迷いに迷って、禁断食のスパゲティミート
ソースを注文してしまったぜい。右隣のテーブルは嬌声を発し続ける若い女性5人組、右隣は4人用テ
ーブルでドリンクバーだけで粘る若い男1人。薬屋で夏場だけある防虫スプレーをどっさり仕入れた。こ
ちらは日本の真冬に暑い国に行くこともよくある。そんな時店頭には虫除け商品は無い。買い溜める。
夜 荒木町 「おく谷」 付きだし:五目煮、茹でたて茶豆 600円、カレー大根 500円、新秋刀魚の肝
漬焼き 850円、アボガドのヤム(タイ料理) 800円、冷製ラタトイユ 750円、塩辛チャーハン(ハ
ーフ)、生ビール 2杯、「吉四六」ボトル @1万1760円
夕方佐川急便がスーツケースを取りに来た。午後8時までパクパク8月4週の作成作業をしてから、今
夜の夕食へ。「おく谷」に行く。先日も「サイゼリア」でご夫妻にお会いしたが、四谷三丁目の交差点でご
主人と会うこともシバシバ。「今度はお店で会いましょう」なんて挨拶して。毎年、新秋刀魚の肝漬焼き
を楽しみにしている。アボガドのヤムってナニ?タイ料理ですって。ラタトイユもここでは珍しい料理だ。
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9月 4日(火) 晴れ
朝のおやつ 白桃、アーモンド、低糖飲むヨーグルト
先日ケガをした染五郎が9月だけでなく、10月、11月の舞台を休演すると昨日発表があった。3ヶ月も
休演するということは、ケガの状況がかなり重いということではないのか。とても心配している。今回の
旅の目的地は中国。中国料理にふすまパンは合わないのでいつもよりグンと少ない量のパンを焼く。
昼 家食 札幌「YOSHIMI」のカレーヌードル、チャーシュー、茹で卵、メンマ、ヘルシア茶
一昨日に続き、8月4週アップ。やったね。あと1週作れば追いつくのだが、今日から成田前泊で時間
切れ。最近いいとこまで追い上げているでしょ。時間が無いので、昼食も家でチャチャッと。先日新千歳
空港で買って来た「YOSHIMI」のカレーヌードル。平麺でスープはかなり濃い。よく掻き混ぜないとね。
夜 成田日航ホテル「サンセットラウンジ」 野菜スティック、コンビネーションサラダ 1000円、水郷鶏
唐揚げとポテト盛り合わせ、チーズ盛り合わせ 1200円、生チョコ(サービス)、生ビール 3杯、赤
ワイン 2杯 @6900円(宿泊者10%割引)
5時にマンションを出発し、ダラダラ汗をかきながら地下鉄で新宿へ。5時半のリムジンバスに乗った。
これだけ毎月キチンと乗っているのに、「お得意様割引き」とか「ポイント溜まりますよ」なんてことはちっ
とも無いのだった。7時半いつもの成田日航ホテルにチェックイン。このホテルの1階には、ローソンが
併設されていて24時間営業している。だから夕食も朝食もコンビニ食にすればエラク安く泊まることが
出来るのだよ。私はいつものように11階の「サンセットラウンジ」。こちらはリムジンバスと違って、「今
月もようこそ!」と笑顔満面で迎えてくれるよ。いつも中国料理「桃季」から出前を頼むが、「明日から中
国に行くのにそれは無いわなぁ」とサラダや鶏の唐揚げなどオーダーした。ちょっとツマンナイけどね。
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9月 5日(水) 成田も中国・大連も旅順も晴れ 1元=約13円
朝―1 成田日航ホテル「セリーヌ」 朝食ヴュッフェ 2100円
5時半起床。シャワーを浴びオープン時間の6時には「セリーヌ」へ。ご飯と納豆同量の納豆ご飯に味
噌汁、パイナップル2片食べるだけなのに2100円払うのはもったいないなぁ。どうしてそんなに少量し
か食べないかと言えば空港のANAラウンジできつねうどんを食べるつもりだから。これからどうする?
朝―2 ANAスィートラウンジ きつねうどん、稲荷寿司、卵焼き、烏龍茶
8時10分集合だったが、7時40分に第一ターミナル南ウィングに到着。添乗員のSさんに挨拶。ANA
チェックイン。今回初めて参加する旅行社では出国手続き前に参加者全員で挨拶をする習慣と聞いた
が、かなり待つ必要があるのでお先に行くことに。今日通されたスィートラウンジの稲荷寿司旨くない。
昼 ANAナリタ=大連 ビジネスクラス機内食
乃木大将長男も戦死した激戦地南山古戦場 従軍記者正岡子規の句碑(金州) 100年以上の歴史ある旅順駅
10時10分発ANA大連行き。35席あるビジネス席は満席であった。機内食のランチ前にビールを飲
みながら周囲を見回すと、アルコールを飲んでいるのは私1人!皆お茶やコーラなんぞを飲んでいる。
ほぼ全員がビジネスマンで到着したら即仕事っぽかった。フライト時間3時間強、時差−1時間、大連
時間の12時15分到着。スルーガイドのキョウさんが迎えてくれた。スレンダー美人である。今回の旅
の参加者は7名(男性1名)、最高齢は91歳(!)のMさん。関空経由で来られて1時間待っておられ
たKさんと合流して7人全員が揃った。36人乗りのバスを用意してくれらから移動はかなり楽だ。早速
観光へ。南山古戦場。日露戦争初期、奥陸軍第2軍が占領した地で、第3軍の乃木司令官長男勝典
含め4千人以上の死傷者を数えた。ここに来るのは日本人位らしく全く道など整備されていない。近く
の金州は、日露戦争の10年前開戦した日清戦争でも戦場となった。ほぼ日本の勝利が決まってから
ではあるが、新聞「日本」に勤務していた正岡子規も従軍記者として金州に来た。副都統衛には「行く
春の酒をたまはる陣屋哉」の句碑があり、その横では現地の男性達がトランプカードに熱中していた。
高速道路に乗れば旅順には1時間で着く。車窓から旧日赤病院(現中国海軍施設)や旅順駅を見学。
夜 中国・旅順 「晋亨食府」 旅順料理コース(絹さやと海老銀杏炒め、牛肉と玉ねぎ炒め、いろんな
キノコ炒め、(海老塩焼き)、ピリ辛白菜鍋、鱸の姿蒸し、豆腐スープ、黄米を詰めたカボチャ蒸し、
チャーハン、スイカ)、青海ビール 25元、紹興酒ボトル5年モノ 150元
夕刻「大連営港大酒店」にチェックイン。2年前まで旅順は2ヶ所を除いて外国人には開放されていな
かった。その2ヶ所は日帰り見学だったということで、ここ旅順には新しい高級ホテルは存在しないらし
い。「大連営港大酒店」は現在旅順で最も高級の3ッ星ということだが、建物は古くてボロで、シャワー
のみの客室に入ったらトレイの臭いがプ〜ンとした。ま、一晩だからいいか。夕食はバスに乗って「晋亨
食府」で。旅順料理とは味の濃さと少し辛いことが特徴とか。どれもなかなか美味しかったが、キノコ炒
めとピリ辛白菜鍋が気に入った。アルコールはビールと紹興酒。紹興酒はボトル飲み切りだから、関西
からみえたKさんに手伝って貰い飲み干す。食後に自己紹介タイムがあった。有名なレストランらしい
が、階下のテーブルでは男性客の数人が上半身裸で食事をしていた。階下は冷房施設が無いそうだ。
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9月 6日(木) 中国旅順・大連 晴れ
朝 旅順 「大連営港大酒店」 朝食ヴュッフェ、持参のふすまパン
う〜む、の朝食ヴュッフェ
5時55分起床。シャワーを浴びてからパッキングして、早過ぎるかと思ったがスーツケースを廊下に出
す。7時前部屋を出ようとドアノブを回したら、そのまますっぽりモゲた。ゲェッ!いくらボロホテルでもド
アノブがモゲちゃうなんて。困った!部屋から出られなくなってしまった。ドンドンドン出してくれ〜!!
その時、スルーガイドのキョウさんが部屋の前を通りかかり、何とか部屋から出して貰った。7時から5
階会議室で添乗員Sさんの近代日本史の簡単なレクチャーがあった。Sさんは朝鮮族で遼東半島生ま
れの29歳の中国人。そのSさんが、祖父母のような年齢のお客を相手に、維新後の日本が中国(清)
や朝鮮半島の人々に何をして来たかを説明するのだから、なかなかに複雑な光景であった。40分のレ
クチャーが終わり、2階の食堂へ。余りに素朴なヴュッフェで正直食べるものが無いのだった。空腹!
旅順港の出入り口は狭い旅順口だけ 正面のあの山が二〇三高地である 関東軍司令部
大喜びでチェックアウトして9時から旅順観光に出かける。先ず旅順港を見渡せる白玉塔に上る。地図
も何度も見たし、小説でもその地形の特徴は克明に説明されているが、百聞は一見に如かずである。
これが旅順港かぁ・・・そしてあの狭い場所が唯一の出入り口の旅順口ね。開口幅は200mを超えるも
のの左右が浅いため、軍艦1隻通過するのがやっとという狭さである。旅順口の両端には巨大な砲台
があったと言うし、ロシア艦隊が旅順港に逃げ込んでしまえば、東郷平八郎率いる日本海軍は手の下
しようが無い。秋山真之達が旅順口に船を何隻も沈めて港から出入りできないようにしようと考えたの
も無理は無い。つまり旅順港に「蓋」をしてしまうということだ。目を右後方に向けると、いくつかならぶ
低い山の一つがあの二〇三高地であった。この後、旅順博物館、関東軍司令部、旅順ヤマトホテル、
旅順師範学校、清朝・粛親王王府(川島芳子旧居)などを見学したが、関東軍司令部で展示を見てい
る時、近くの部屋から中国人男性の罵声が聞こえて来た。誰に向けられた言葉なのかまたその内容も
わからないが、息苦しいものがあった。日清戦争後はロシアに、日露戦争後は日本に奪われた地だ。
昼 旅順・水師営 「瑞鑫賓館」 コース(膨らんだパン、豚三昧肉と野菜炒め、寒天と海老きゅうりの酢
の物、揚げ茄子と魚介類炒め、(蟹炒め)、サヨリの大連風串焼き、木耳と銀杏炒め、干し小海老
とキャベツのピリ辛炒め、アサリとピーマン入り卵焼き、(海草と卵のスープ)、(チャーハン)、りん
ごとトマト、お茶
ランチは何と水師営のレストラン。つまり、1905年1月1日降伏したロシア軍のステッセル中将と乃木
将軍が1月5日会見を行った場所の隣にあるのだ。風船のように膨らんだパンが珍しい。砕かれたモノ
を食べると、内側は甘い不思議なパンであった。サヨリの大連風串焼きも珍しい料理だが、皆さんに好
評であった。私は干し小海老とキャベツのピリ辛炒めが一番気に入った。アンタ辛ければいいのか?
日露戦争最大の激戦地二〇三高地 乃木将軍が山頂に建てた爾霊山(二〇三)記念塔 停戦条約時の記念撮影
午後は隣の水師営会見所見学。他の日本人客と一緒に日本語の説明を受ける。日本軍1万数千人、
ロシア軍5千人の膨大な犠牲者を出して二〇三高地が1904年12月1日陥落すると、ロシア軍が築
いた堅牢な東鶏冠山保塁なども次々と日本軍の手に落ち、ロシア司令官ステッセル中将は翌年1月1
日降伏した。1月5日水師営にて両軍首脳は会見を行い、旅順停戦条約を結んだ。現在の建物は復元
されたものだが、内部は当時の写真が掲示され会見が行われたテーブルとベンチも再現されている。
私はうっかりステッセルが坐ったベンチに座ってしまったよ。二〇三高地は標高203mあることからそう
呼ばれたが、本来は206mであった。それが激しい戦闘で3m低くなり、山のカタチさえ変わってしまっ
たと言う。その後二〇三高地に行く。元気な方は自分の足で上られたが、車で送ってくれるサービス
(100元)もあったので、5人で乗った。途中戦死した乃木大将の次男乃木保典の墓があり、お参りをし
た。山頂には、乃木稀典が戦後建設を命じた爾霊山(二〇三と読める)記念塔が建っていた。塔は戦
場に散乱していた砲弾などを集めて造られた。山頂から南を見ると、旅順港が一望出来るのであった。
夜 大連 「英都肥牛」 牛肉と海鮮とキノコのしゃぶしゃぶ鍋(オージービーフ、活海老、海老団子、イ
カ、キノコ5種、豆腐、野菜各種、春雨、うどん、ご飯)、スイカ、(生の棗)、ビール 25元、紹興酒
ボトル5年モノ 150元
二〇三高地から東鶏冠山保塁、最後に伊藤博文を暗殺した安重根も収監されたことがある日露刑務
所に行った。これにて本日の旅順での見学は終了。見学箇所が多い上、それぞれが歴史的にも重要
かつ重いもので、心身ともに疲れ果てた。そのまま一般道を走って大連に向かう。大連は人口670万
人の大都市で、夕方のラッシュ時間が近づいているので道路は大変な混雑だ。5時過ぎ大連の夜の市
場をぶらぶら歩いて冷かす。20元のTシャツや30元のスニーカーなどを売るオネエサンやオバサンの
傍らでオジサン達はカードゲームに興じているのだった。6時夕食のレストランへ。「英都肥牛」というし
ゃぶしゃぶ店だ。脂の少ないオージービーフに各種海鮮具材、きのこ、野菜などしゃぶしゃぶするもの
がいっぱいある。嬉しいな。しかも鍋は1人鍋。嬉しいな。食が細い人が多い。嬉しいな。ギザ食った!
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9月 7日(金) 大連は曇り
朝 大連 「ニューワールドホテル」 朝食ヴュッフェ、持参のふすまパン
昨夜は夕食を済ませて連泊する「ニューワールドホテル」に到着したのは午後8時過ぎであった。今朝
チェックアウトした旅順のホテルとは大違いのピッカピカ5ッ星ホテル。バスタブに加えてシャワーブー
スはあるし、NHK海外は映るし、やっぱり豪華なホテルはいいねぇ。6時に起きてシャワーを浴び、午
前7時から「梅ちゃん先生」を観る。それから行った朝食レストラン。中洋日と3種類の料理が用意され
何を食べてよいか迷うほどなのだ。しかし。その都度作ってくれるうどんを含めて味はイマイチ。残念。
このホテルが建つ人民路には5ッ星ホテルが並び、斜め前は大S子さんのお兄さんがお仕事で長期滞
在されているシャングリ・ラホテルだ。彼女とお母さんは今年5月連休にあのホテル泊まったと聞いた。
日本が建設した中山広場の旧横浜正金銀行 特急「あじあ号」を牽引したSL757 ロシア人街からの眺め
ここ大連は「三国干渉」後、ロシアが租借してパリを模した本格的な都市つくりを始めた。当時は「ダー
リニー」と名づけられた(それまでは青泥窪だった)が、ロシア語で「遠い」という意味である。その後日
露戦争が勃発して日本支配となったが、日本は古地図の地名「大連湾」から大連と呼ぶことにした。気
候が温暖で、中国では有数のビーチリゾートを有している。満鉄埠頭事務所(大連港務局ビル)を見て
から中山広場へ。ここは日本統治時代「大広場」と呼ばれたが、広場の周囲には日本が建設した欧風
建築物が建ち並んで現在も使用されている。当時の名称で言えば、横浜正金銀行、関東逓信局、朝鮮
銀行、大連警察書、大連ヤマトホテル、大連市役所・・・・。維新から近代化して間もないのに、ゴシック
様式、ルネサンス様式、バロック様式、コリント様式など西洋建築の技術を凝らした建物を建てた日本
人を誇らしく思ったよ。当時最高級だったヤマトホテルは満鉄が経営していたが、現在3ッ星ホテルで
営業を続けている。日本の歴代首相も利用した迎賓室や史料室などを案内された後、いつの間にかお
土産売り場に導かれるのであった。ちょっとゴミゴミした場所にある車両庫には、特急「あじあ号」を牽
引した流線形のパシナ形蒸気機関車SL757を保管していた。これに引っぱられた列車で上流階級は
優雅な旅をしたわけね。この後ロシア街に移動したが、うっかりM山さんを車庫に置き去りにしていた。
昼 大連 「大地春餅」 鶏の唐揚げ、麻婆豆腐、セロリと海老炒め、じゃがいも千切り炒め、麻婆茄子、
豚肉とキクラゲ煮、鯉の唐揚げ甘酢餡かけ、大蝦蛄揚げ、モヤシ炒め、牛肉と茄子炒め、春餅、
スイカ、お茶
今日のランチは中国・東北地方の名物料理の1つ春餅。クレープ状の薄い皮に千切りにしたじゃが芋
料理やもやしなどを包んで食べる。個室に入ると既にテーブルには料理がズラリと並べられている。そ
の後運ばれた料理は上に重ねるのだ。「いっただきま〜す!」と言った途端、携帯電話が鳴る。日本の
大S子さんからだった。忙しいお兄ちゃんが今夜私に付き合ってくれると言っているが如何かと。へぇ〜
S子さんのお兄さんと飲みに行くなんて面白そう、それにお勧めのマッサージ屋さんにも連れて行ってく
れると。極めて魅力的なお誘いだが今夜は忙しい!そして明日は早朝出発である。よって断念!残
念!鯉の唐揚げが美味しかった。このレストランは昨夜しゃぶしゃぶした「英都肥牛」の真ん前にある。
旧満鉄大連病院 満鉄が敷設した路面電車は現役 今も残る満鉄本社の建物
日本がこの地を支配するようになると、鉄道事業を始め広範囲の事業を展開したが、その経営の中核
を担ったのは半官半民の特殊会社・南満州鉄道(通称満鉄)だった。鉄道事業はもちろんのこと、炭鉱
開発、製鉄事業、港湾事業、電力供給、農林牧畜業、ホテル経営、航空事業・・・と多様な事業を行っ
た。また上下水道、ガス供給、土木、衛生、学校、病院、図書館などのインフラの整備も果たした。午後
は大連図書館、旧満鉄大連病院、満鉄本社、日本人街の楓町などを見学。旧満鉄大連病院はK近さ
んのお父さんが医師として勤務した病院だそうだ。たった1元で乗れる路面電車に体験乗車してみた。
夜 大連 「万宝海鮮舫」 海鮮コース(カシューナッツとセロリ・アスパラ炒め、フルーツと山芋、クラゲ
酢の物、平目の活造り、海草の酢の物、アサリ鉄鍋、アワビと豚肉の煮込み、いろんなキノコと野
菜炒め、海老の甘酢炒め、イシモチの姿揚げ、フカヒレスープ+チャーハン、牛肉と松の実炒め、
水餃子、芋春巻きデザート)、ビール 25元、紹興酒ボトル8年モノ 198元
スーパーで買い物(私は何も買わず、レジで本を読んでいた。笑)した後、一旦ホテルに帰る。今夜夕
食後にスーツケースを預けねばならないので、チョコチョコ準備をする。今夜の夕食は大連を代表する
海鮮料理店の「万宝海鮮舫」で。添乗員のSさんの言葉を借りれば「この旅行サイコーのご馳走」との
ことだ。昼間見た建物は金ピカだったが、夜は不夜城のような明るさ。地上5階建て全部がレストランな
のだそうだ。確かに、活造りの平目、アサリ、アワビ、姿揚げしたイシモチ、フカヒレと高級海鮮食材が
どんどん出て来る。最後のフルーツまで全14品。この店の厨房は戦場のようだろうなぁ。9時前にホテ
ルに戻り、30分以内にスーツケースを出すように言われる。明日乗る列車にはスーツケースを積み込
めないのでスルードライバーである帳さんが明日未明出発してバスで瀋陽まで運んでくれるのだった。
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9月 8日(土) 大連も瀋陽も曇り
朝 大連 「ニューワールドホテル」 朝食ヴュッフェ、持参のふすまパン
4時45分起床。シャワーを浴びてから6時前には朝食レストランへ。スーツケースは昨夜預けたから
大きな手荷物を持って6時45分集合。中国のホテルに泊まる場合、チェックアウトの際には鍵(カード
含めて)を返却してから出発まである程度の時間が必要だ。宿泊客が、ホテルの備品など持ち出して
いないか、金を払っていないのに冷蔵庫の飲み物を飲んでいないか等全室チェックするのである。そ
のチェックが終わらない限り出発出来ないのだよ。誰も備品を持ち出していないことがわかってから「行
っていいよ」と言われる。ドライバーの帳さんはスーツケースを積んだバスを運転して今朝4時頃出発
したので、小さなワゴンで大連駅に移動。特急の瀋陽行きに乗り込む。8号車の軟座(昼間の1等車指
定席)である。軟座と言っても特に座席が柔らかとも思わないが、2等車指定の硬座よりはずっと乗り
心地は良いのだろう。7時45分発約4時間の乗車である。以前と違って乗車マナーが格段に向上した
と聞いたが、確かにかなり静かだし、ゴミを床に捨てる人もいない。係員が何度かゴミ収集に来るしね。
停車中は使用禁止のトイレも存外汚くないのだった。途中濃霧のため、列車は少し遅れている。瀋陽
の手前にある製鉄の町・鞍山は添乗員Sさんの故郷、その先の遼陽はK近さんの生まれ故郷である。
昨年7月浙江省で起きた高速鉄道の事故映像が頭にあるのでちょっと緊張したが、無事瀋陽に到着。
昼 瀋陽 「割烹 清水」 鯖焼き定食
清朝黎明期の瀋陽故宮博物館 帳作霖爆殺事件現場 奉天ヤマトホテル
列車が到着したのは瀋陽北駅。時速350`で走る新幹線開通を前に駅の拡張工事が済んだところだ
った。約20の大学があるという瀋陽。まさに今入学シーズンで駅には新入生を迎える学生達でごった
返していた。瀋陽は遼寧省の省都で人口は800万人、日本統治時代は奉天と呼ばれた重工業が盛ん
な町でもある。ドライバーの帳さんは早朝大連から走りに走って私達を迎えてくれた。土曜日の昼間な
のに大渋滞で日本食レストランに行くのに1時間もかかった。エラクしょっぱい鯖焼き定食であった。午
後は瀋陽見学。この町は女真族国家「後金」(のちの清)太祖ヌルハチから3代の帝が住み、その後北京に
遷都した。世界遺産に登録された瀋陽故宮の大政殿、八旗亭、崇政殿を見学してから帳作霖;帳学良親子の
住まい長氏師府博物館へ。軍閥の巨魁・帳作霖の官邸兼私邸とのことだが、広大な敷地に贅を尽くし
た豪邸にビックリ!6人の夫人と大勢の子供達と一緒に贅沢三昧の生活をしていたのだねぇ。帳作霖
に対する日本での評価と、この地で英雄視されているギャップがなかなか埋まらないで困ったよ。その
帳作霖を日本関東軍が爆殺しようとした事件現場、奉天駅、奉天郵便局、藤田洋行を見て瀋陽中山広
場に着いた頃には既に暗くなっている。それでも最後には満州事変の発端となった柳条湖事件現場に
行く。周囲は真っ暗だが、ライトアップされた手帖状の石碑の文字が浮かび上っている。「1931 9月
18日」。満鉄の柳条湖付近の線路爆破事件で、関東軍の謀略事件であったにも関わらず、中国軍の
犯行と発表された。その後満州全土が関東軍の支配下に置かれることになった。瀋陽日本人ガイド氏
は「この日から我々の屈辱が始まった」と81年前の憎しみを隠そうとしない。心に棘がグサリと刺さる。
夜 瀋陽 「老辺餃子館」 蓮根炒め、冬瓜と海老炒め、キュウリと卵炒め、白菜醤油煮、鶏と玉ねぎ炒
め、蒸し餃子・水餃子・焼き餃子・スープ餃子など10種、鶏肉野菜炒め、コーンと野菜煮、牛肉とキ
クラゲ炒め、南果(なしと読むフルーツ)、ビール 20元、紹興酒ボトル9年モノ 260元
夕食は清朝中期時代の約200年前から営業を続ける「老辺餃子館」の本店で食べる予定であったが、
何と2日前火事になって現在営業を停止しているそうだ。そんなことで、同じ「老辺餃子館」の支店に行
く。餃子以外の料理も8種類あり、餃子は蒸し餃子・水餃子・焼き餃子・スープ餃子など10種あった。蒸
し餃子と水餃子は皮がかなり厚くて熱々ではないせいか、美味しいとは言えない。炭水化物一応NO
の身であるので皮は殆んど残した。焼き餃子だけは焼き立てだったから旨いと皆さんも評価していた。
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9月 9日(日) 瀋陽も丹陽も晴れ
朝 瀋陽 「瀋陽レキシントンホテル」 朝食ヴュッフェ、持参のふすまパン
スープワンタン旨いよ!
昨夜9時過ぎ瀋陽レキシントンホテルにチェックインした。最高級の5ッ星ホテルで客室がとても広い。
ここもNHK海外が映るからいいな。朝食は28階のレストランで。高い場所から眺望を楽しもうと思っ
たら、濃い霧で何も見えないのだった。スープワンタンがとても旨い!昨夜の「老辺餃子館」がイマイチ
だったので嬉しい驚きだ。午前中は丹陽まで4時間のロングドライブ。いつもの最後尾座席に陣取る。
昼 丹東 「丹東賓館」 牛肉とイブクロ、イシモチの唐揚げ、青唐辛子と牛肉炒め、きのこと細切り豚
肉炒め、牛イブクロとモヤシの唐辛子煮、チャーハン、栗とちんげん菜炒め、白菜と貝のスープ、
フルーツ:スイカとメロン、お茶
瀋丹高速道路で4時間。途中2度トイレ休憩を取って、正午過ぎ、国境の町丹陽に到着した。先ずは丹
東の迎賓館として利用されている「丹東賓館」で昼食を摂る。丹東の日本語ガイドは日本語の先生曽さ
んである。丹東は日本統治時代安東と呼ばれていて多くの日本人が暮らした街。S野さん兄妹が生ま
れた場所でもある。珍しい料理がどんどん出て来る。結論から言えば、ここで食べた食事が旅一番の
美味しさであった。特に牛イブクロとモヤシの唐辛子煮はその辛さがタマランし、白菜と貝のスープは
具材から旨味がたっぷり出ていて何度でもお替りしたくなるスープだった。青唐辛子の辛さがいいね!
鴨緑江遊覧船から見た北朝鮮新義州市の様子。人々が手を振っていた
日本が造った鴨緑江にかかる橋の向こうは北朝鮮 船を通すため橋は回転した 一跨ぎ先は北朝鮮
中国と北朝鮮の国境線約1300`の西端はここ丹東、東端は吉林省である。日本時代鴨緑江に掛け
られた2つの橋の向こう側は北朝鮮の新義州市。午後乗った遊覧船は川幅800mのセンターを遥かに
越えて、北朝鮮側ギリギリのところを並行して進むのだ。北朝鮮に行ってみたいとは思わないが、船の
上から見えるなら遠慮なく見させて貰おう。遊覧船の中では10元で双眼鏡を貸し出していた。一度も
動かないという観覧車が見える。工場らしき建物がある。広場らしき場所に掲げられた横断幕の文字を
訳して貰ったところ「金正恩将軍様、長くわれわれと共に」と書いてあった。日曜日だから水辺に多くの
人々が集まっている。親子が手を振っている。釣りをする人がいる。見張り小屋から兵隊らしき人物が
1人出て来たのが見えた・・・・ふーん、北朝鮮のごく一面を見た。この辺りは警備が厳しいので脱北者
はいない。もっとずっと上流ではあるらしいけど。40分の遊覧後、朝鮮戦争時米軍によって破壊された
鴨緑江断橋を歩く。S野さん一家を含め、この橋を渡って日本に引き上げたんだなぁ。万里の長城東端
となる虎山長城の傍にある「一歩跨」。走り幅跳び選手なら跳んでしまえる程の向こう側は北朝鮮だ。
夜 丹東 「双生漁港」 海鮮コース(豆腐と海鮮煮込み、海老唐揚げ、蟹と卵白炒め ブロッコリー添
え、魚の煮込み、セロリとコーン炒め、ハマグリの煮込み、白魚の天ぷら、スペアリブの煮込み、フ
ルーツ:トマトとりんご)、ビール(旅行会社サービス)、紹興酒ボトル3年モノ 100元
日露戦争で黒木為偵率いる第1軍が初陣を戦い勝利した九連城を通って丹東市内に戻り、そのまま夕
食を摂るレストランへ。大連「万宝海鮮舫」とは違って、大衆的な海鮮料理の「双生漁港」。これまで毎
晩のんだ紹興酒は5年、8年、9年モノだったが、ここは3年モノしか無いと言う。その代わり100元と安
いけどね。豆腐と海鮮煮込みと蟹と卵白炒めが美味しかった。8時過ぎ5ッ星ホテルクラウンプラザへ。
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【今週の振り返り】
日清戦争後、日本と清の間で締結された下関条約に基づいて遼東半島は日本に割譲された。そこで、
ロシアはドイツとフランスを誘って「それは良く無いと思うよ。北京や朝鮮に気の毒だしさ、返しなよ!」
と強く日本に要求した。これが世に言う「三国干渉」である。しかし、その舌の根も乾かぬうちに、ドイツ
は膠州湾を、フランスは広州湾を、そしてロシアは遼東半島南端の旅順と大連を租借してしまうのであ
る。日本は列強の「三国干渉」にトーゼン怒りまくり、「臥薪嘗胆」をスローガンに軍備の拡張に力を注
いで行く。これが10年後の日露戦争に繫がって行くのだ。
清の立場に立ったらとんでも無い時代がずっと前から続いている。日清戦争が始まる50年前、英国が
仕掛けた阿片戦争の結果、膨大な賠償金と共に香港を割譲し、不平等条約も呑んだ。「じゃ、こっちも
お願い」とアメリカともフランスとも不平等条約を結ばされている。弱り切った清朝を列強諸国がよって
タカってズタズタにし、吸い取っている図だ。日露戦争では、遼東半島を舞台に日本とロシアの戦争が
行われて、日本がロシアに勝つとロシアが租借していた土地が日本のモノになってしまう。中国の人に
してみれば、えぇ〜何でぇ〜どーしてぇ〜!だよなぁ。ヨソの国で勝手に戦争して、勝った負けたとヨソ
の国を取ったり取られたり。それは変ですよね、ゼッタイ。しかし、帝国主義が跋扈していた時代は弱い
国が狙われ、支配されたのだ。イギリス、スペイン、フランス、ドイツ、アメリカ、旧ソ連、トルコ、イタリア
は長い短いの違いはあれど帝国主義国であった時代を持っている。明治維新後極めて短期間で近代
化・西洋化した日本は、大国に挑んだ2つの戦争で勝利した結果、帝国主義を突っ走ることになってし
まった。
満州事変の発端となった1831年9月18日の柳条湖事件は、中国の学校では何度も何度も教えられ
ると聞いた。中国人なら誰ひとり知らない人はいない「9.18事件」なのだそうだ。
今週と言いながら、これを書いているのは9月17日である。この数日中国各地では、日本政府の尖閣
諸島国有化に抗議するデモが行われ、暴徒化したデモ隊は日本企業や商店を破壊した。つい1週間
前中国を旅して来た身には目を覆うばかりの映像は衝撃的過ぎる。「それは無いだろう」「それは止め
てくれよ」と出るのは大きな溜め息と涙ばかり。中国に住むたくさんの日本人のことも心配だ。不幸な歴
史を持つ両国ではあるが、日本と中国は切っても切れない経済上のパートナーでもある。お互いを尊
重せねばならないパートナーである。9月18日これ以上荒れませんように!沈静化することを折に願
っていま〜す。
ニャン子からもお願いするのだ
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