パクパク日記16年2月1週

        ヴェネツィア・フェニーチェ劇場とミラノ・スカラ座でオペラに酔いしれる

 

  オペラの巨匠ヴェルディ  ミラノ・スカラ座

 

2月 1日(月)東京は曇り    1ユーロ€=約135円

第1食 家食 チキンと野菜のフォー

第2食 成田空港第一だ―ミナル北ウィング・デルタ航空ラウンジ クラムチャウダー、プチサラダ、

一口カレー

 

   なんでこんなに器が小さいの!

  

第3食 アリタリア航空ビジネスクラス機内食(イタリアン)

 

  

 パスタは旨かった

 

朝早く起きる。出発は比較的ゆっくりだが、その前にやらねばならぬことが多くて。カンタン朝食、朝

風呂、着替えの他に植物水遣り、ゴミ捨て、パクパク12週アップ、手荷物準備など。忘れモノは無

いな、よし出発。午前11時過ぎには成田空港第一ターミナル北ウィングに到着。添乗員は体育会系の

S海氏である。今回は貴重な劇場での公演が2つもあるから22名参加と盛況だ。あれМ山さんだぁ〜。

一緒のツァー3回目ね、一昨年ウィーンでも擦れ違ったっけ。朝食が少なかったのでデルタ航空のラウ

ンジでアレコレと空腹を満たす。避けていたアリタリア航空にこんなに早く乗ることになるとはなぁ!

第4食 アリタリア航空ビジネスクラス機内食

 

  行きは和食の予約も出来る。それにすれば良かったか

 

第5食 イタリア・パルマ NHパルマ客室にて おにぎり(鮭ハラミ)、ウィスキー

 

   夜中のおにぎりパクリが堪らない!

 

ミラノまでの直行便で12時間45分のフライト、時差8時間。映像は全く観ることなく、週刊誌3誌

と持参の文庫本を読んで過ごす。アリタリアのビジネス席はガラガラに空いていた。直行便は楽ちん

だが、ここから大型バスでパルマまで行かねばならない。寒くて眠くてツライ2時間の移動だった。

あちこちにあるNHホテルは清潔で機能的ではあるが、手狭な客室である場合が多くてね。3泊する

狭い客室に何とか荷物を押し込める。着替えるとようやく落ち着いて、ヤレヤレ。成田空港出発フ

ロアの上階にあるローソンでおにぎりをゲットして来た。ウィスキーで飲み込んで。うぅ、旨い!

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2月 2日(火)イタリア・パルマは曇り

朝 パルマ NHパルマ 朝食ヴュッフェ

 

  

       20世紀を代表する名指揮者トスカニーニの生家        パルマ川に架かる橋を渡ればピロッタ宮殿

      ピロッタ宮殿の内部にある木造のファルネーゼ劇場は1944年破壊されたが復元された

      今でも年に数回は公演が行われる。多くの彫像は破壊されたが、上の2点は残った貴重なもの

             破壊される前と破壊後修復される前のファルネーゼ劇場

 ファルネーゼ家の居城ピロッタ宮殿   オペラ上演で有名なレージョ劇場はナポレオン妃のマリア・ルイーザの命で建設された

 

あまり天気は良くないが、それほど寒くも無い。パルマは雪で埋もれる土地柄というのにイタリアも

暖冬の影響なのだろう今のところ全く雪は無い。パルマの旧市街の見学。先ずはトスカニーニの生家

見学だが、長い徒歩がツライ5人組は生家までタクシーで。アルトゥーロ・トスカニーニは貧しい家

が立ち並ぶ界隈で仕立屋の父と裁縫師の母親の間に1867325日生まれた。写真の建物を4家族

で借りていたがやがて両親は家賃が払えなくなり、幼い彼を連れてこの家を出た。ミラノ・スカラ座

やNYのメトロポリタン劇場での音楽監督などを長らく務めて20世紀を代表する名指揮者となった

トスカニーニだが、タイヘンなカンシャク持ちだったから、リハーサルで指揮棒を真っ二つに折るな

んてのはフツーで、楽譜を投げつけたり椅子を蹴っ飛ばしたりして暫く大暴れしたらしい。完璧主義

者だったから、ちょっと楽譜と違う演奏するとすぐ演奏を止めては「NO!」「NO!NO!」。だか

ら「トスカノーノ」と呼ばれたんだってさ。ファルネーゼ家の居城ピロッタ宮殿には国立美術館や考

古学博物館などがあるが、木製のファルネーゼ劇場がある。どこかで見たような、と思ったら去年4

月に行ったヴィチェンツァのオリンピコ劇場をモデルにしたのだった。欧州では最古の劇場の一つで

あったが戦争で破壊され、1944年修復された。現在でも年に数回公演が行われるらしい。パルマは、

オペラを初めとする音楽ファンが多く住む町。ナポレオンの2番目の皇后となったマリア・ルイーザ

の命で建てられたレージョ劇場は、玄人受けする演目を取り上げる劇場として人気を博している由。

昼 パルマ「Ce Bistrо」(自由食)ミネストローネスープ8€、ボロネーゼラザニア9€、

コーヒー25€、水とチップで計22

 

  

左がドゥオーモ、右が洗礼堂        美しいドゥオーモ内部       アンテラーミ作「キリストの降架」

   八角形のロマネスク・ゴシック形式の洗礼堂。内部は13世紀後半のビザンチン的なフレスコ画とアンテラーミの彫刻

     洗礼堂にある二重構造の洗礼盤。洗礼を受ける者の身体全身を水に浸す浸礼盤である

 

観光一日目の昼食にしていきなりの自由食である。ナゼなら午前中の観光でスケジュールは終了して

午後はフリータイムだから。そうは言ってもどこに行って良いのか困るので、多くの人はS海添乗員

のお勧めレストランへ。パルマと言えば、パルメジャーノ・レッジャーノと生ハムの本場である。ハ

ム盛り合わせを注文する人もいれば、私のようにミネストローネスープにパルメジャーノ・レッジャ

ーノを山のように振りかけて食べる人も。スープは大したこと無いが、チーズの旨みがいい。午後は

S海添乗員とドゥオーモと洗礼堂を一緒に見に行く。ドゥオーモの円天井にはコレッジョの「聖母被

昇天」が、祭壇の右手にはアンテラーミの傑作「キリストの降架」が大理石に彫られていた。隣の洗

礼堂内部に入ると、誰しも思わず「ほぉ〜」と驚く。洗礼堂は建築家アンテラーミの作品だ。彫刻家

でもあったアンテラーミは八角形六層の洗礼堂の中に多くの彫刻作品を残している。パルマに来たら、

どっちも必ず見るべきものだ。美術館に行く人、チーズを買いに行く人、レージョ劇場の見学に行く

人など銘々の午後。タクシーで帰るというО田さんにお付き合いすることに。О田さんは長崎の人だ。

夜 パルマ NHパルマ パルミジャーノチーズのリゾット、ローストポーク、クレームカラメル、

ビール6€、白ワイン6€、赤ワイン6€×2杯

 

  

 

夕食はホテルのレストランで。これで3回目となるМ山さんと添乗員のS海サさんと。食事の前に自

己紹介タイム。これが苦手なのだが、今回は22人+1人もいらっしゃるので「出来るだけ簡略に」と

指示がある&じゃなくて安堵する。一皿目はパルミジャーノチーズのリゾット。真っ白なリゾットは

濃厚でチーズの香りがふわ〜っとして何とも旨い。完食出来ず残念!ローストポーク半分だけ食べる。

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2月 3日(水)パルマは曇り夕刻から雨

朝 パルマ NHパルマ 朝食ヴュッフェ

 

 ロンコレ村のヴェルディの生家         少年時代のジュゼッペ・ヴェルディを思わせる演出も

  この部屋で彼は生まれた    両親が音楽好きの息子に中古のスピネットを買ってくれた   妹と遊んで部屋

    生家から徒歩2分の聖ミケーレ教会で洗礼を受けた   ヴェルディが弾いたオルガンは今も現役

ヴェルディを支援した音楽好きの商人パレッツィのブッセートの家  パレッツィの娘と最初の結婚をした

  ブッセートに建てられたヴェルディ劇場とヴェルディ広場の銅像  小さなヴェルディ劇場内部

 

今日はヴェルディの足跡を訪ねる日だ。午前9時どんよりした曇天の中をヴェルディの生まれ故郷

ロンコレ村に向かう。本当に小さな村で、ヴェルディの生まれ故郷という以外何も無いせいか「ロ

ンコレ・ヴェルディ村」とも呼ばれているらしい。当時としては珍しく文字の読み書きの出来た父

親は農業の他に宿屋や食堂、郵便取扱い業なども手掛け、貧しいながらも多少の余裕のある家庭に

ジュゼッペ・ヴェルディは1813年長男として生まれた。その頃この村はフランスに併合されていた

のでフランス人ヴェルディとして誕生したわけ。音楽に興味を示した少年はすぐ近くの聖ミケーレ

教会のパイプオルガンを熱心に聴き、弾き方を教わるとアッという間に先生の腕を上回った。その

評判は5`離れたブッセートの商人バレッツィの耳にも入り、音楽好きだったバレッツィは少年の

両親にブッセートでの勉強を勧めた。10歳のジュゼッペは家を出てブッセートに下宿してラテン語

や音楽の勉強に勤しむ。やがて学びの場はミラノに移り、師匠についてスカラ座にも出入りするよ

うになるが、バレッツィに呼び戻されてブッセートに帰って来る。22歳の時ブッセートの長女マル

ゲリータと結婚し、作曲も始める。娘と息子に恵まれたが、幼くして相次いで亡くなり、妻のマル

ゲリータまで亡くなってしまう。仕事もうまく行かなくなった27歳の彼は音楽から身を引くこと

さえ考えた。暫く経って強引に預けられた台本を放り投げると、偶然開いた頁にあった台詞「行け、

わが思いよ、黄金の翼に乗って」が目に入って来た。たちまち「ナブッコ」の旋律が頭に浮かんだ。

昼 ブッセート「I DUE FOSCARI」パルマ産生ハム盛り合わせ、緑のキッケ(小さな

ニョッキ)、カポコッロ(黒豚のプロシュート)のオーブン焼き、セミフレッド、コーヒー5€

 

このレストランの先代オーナ―(写真左)は元テノール歌手でパバロッティ(右)とも親しかった

         サンターガタの広大な農場に建てた邸宅で再婚したジュゼッピーナと住んだ

   サンターガタでは音楽を忘れて農業や庭作りに取り組んだ。自家製のワイン蔵と数台ある馬車

 

ロンコレ村見学の後、ヴェルディが10歳から勉強し、最初の結婚をしたブッセートに行く。理解者

であり支援者、後には義父になったパレッツィ家を訪れ、最初の妻マルゲリータの写真やヴェルディ

の盛大な葬式を伝える新聞などを見る。またヴェルディ劇場にも入ってみたが、ここにはヴェルディ

本人は一度も来たことが無い。45歳になって再婚したソプラノ歌手ジュゼッピーナにブッセートの人

々が冷たかったことに腹を立てたからと聞いた。300人入れるかどうかのごく小さな劇場でオペラの

「アイーダ」をゼッフレリの演出で上演したのだそうだ。ウソみたい話だがホントらしい。ランチは

1時半から「二人のフォスカリ」で。4コースで白赤ワインがつく豪華版で食べ終わったのは午後3

過ぎだった。最後の見学地はサンターガタのヴェルディ邸。住みづらかったブッセートの家を離れ、郊

外のサンターガタに既に買ってあった農地にジュゼッピーナと住む屋敷を建てた。ここで二人は農業に

精を出し、屋敷も増築していく。屋敷の中を見せて貰った。寝室と仕事部屋は一緒で、思いついたこと

をすぐ記録に残せるよう工夫がされている。寝室の奥には、ミラノのホテルで亡くなった時使用してい

たベッドがホテルの厚意で寄贈されてひっそり置かれていた。ジュゼッピーナ死去の3年後のことだ。

夜 NHパルマ客室にて(自由食)スパゲティピッツァ1片、豆菓子など、ウィスキー

 

   今夜の夕食代は3€!

 

ホテルに帰ったのは午後5時半だった。今夜の夕食も自由食なのでS海添乗員は夕食に行く希望者を

募ったところ誰も手を挙げない。午後3時にたっぷり過ぎるランチを食べ終えたばかりで誰もお腹が

空かない。私でさえね。隣のカフェでスパゲティピッツァ1片買って帰ると雨が降って来た。無酒日

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2月 4日(木)イタリア・ヴェネツィアは晴れ

朝 パルマ NHパルマ 朝食ヴュッフェ

 

  

           パルマ郊外ヴィレッタ墓地のパガニーニの墓     ヴァイオリン製作者SGARABОTTОの墓

 マントヴァは三方湖で囲まれている     ドゥッカーレ宮殿            結婚の間の天井

  ゴンザーガ家の居城ドゥッカーレ宮殿の結婚の間の見事なフレスコ画   

  

    ダンスホール鏡の間の天井       フランドル産のタペストリー        リゴレットの像

 

3泊したパルマのホテルを8時チェックアウト。郊外にあるヴィレッタ墓地のパガニーニの墓を見に

行く。ヴァイオリンの超絶技巧者として知られるパガニーニはジェノバで生まれ、フランスのニース

で亡くなったが、悪魔に魂を売り渡したことで演奏技術を手に入れたと噂され、その噂のため墓地が

見つからず遺族は困った。86年後ようやくこの地がパガニーニの安息の地となった。その隣にはヴ

ァイオリン製作者SGARABОTTО(スガラボット)の墓もあった。10時マントヴァ着。マン

トヴァは、ミラノ・ヴェネツィア・ボローニャの3都市が作る三角形のほぼ真ん中に位置する。防衛

のため造られた3つの人造湖に囲まれた町で、先ずはヴィヴァルディが宮廷楽長を務めたゴンザーガ

家のドゥッカーレ宮殿で結婚の間などを見学した。マントヴァは、ロミジュリの物語にも登場するし、

ヴェルディの傑作オペラの一つ「リゴレット」の舞台にもなった。どっちも架空の話ではあるけどね。

昼 マントヴァ「FRAGOLETTA」牛肉のワイン煮込みポレンタ添え、マントヴァ風ケーキ

 

  

 

   ヴェルディの時代ポレンタは主食だった   マントヴァケーキはカスタードソースをつけて食べる

 

夜 ヴェネツィア ホテル・モナコ&グランド・カナル バジルペーストのトルキエッティ、ベイ

クドサーモン ズッキーニフライ添え、マカロン ザバイクリームと共に、ビール12、5€、

白ワイン13€、赤ワイン13€

 

  

    黄昏ときヴェネツィアのホテル・モナコ&グランド・カナルに到着      ロビーもカーニバルの雰囲気

  ナゼヘップバーンとプレスリーなのだろう    ヴェネツィアは食べ物飲み物高いのに味は・・・

 デザートムチャ甘で1個食べられず

 

長い間歩かされてようやく今日のランチレストランに着いた。はぁ〜。今日のデザートマントヴァ

風ケーキってどんなのかしらと思ったら、ビスコットを冷たいカスタードソースをつけて食べるの

だった。甘いモノ大好きなМ山さんは「今回の旅で一番好き!」って。半分あげるよ。バスで移動

し、4時半にはヴェネツィアに到着。ここからホテルまでは船に乗り換える。昨年の4月以来だね。

サンマルコ広場にほど近いホテル・モナコ&グランド・カナルだったのは良かったが、私の部屋は

実に狭い。でも考えてみれば、2年半前に泊まったヴェネツィアのホテルなぞ、トイレとシャワー

スペース併せて半畳位の激狭の部屋だったからこれでもいい方だな。夕食はホテルのレストランで。

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2月 5日(金)ヴェネツィアは晴れ

朝 ヴェネツィア ホテル・モナコ&グランド・カナル 朝食ヴュッフェ

 

  

   国立マルチャーナ図書館と鐘楼          カーニバル期間中であっちもこっちもこんな人だらけ

         ヴィヴァルディが洗礼を受けたサンジョバンニ・ブラゴーラ教会

サン・ジョバンニ・イン・ブラゴーラ教会内部    ここでヴィヴァルディは洗礼を受けた

  ヴィヴァルディの生家があった場所(緑の建物)               この家で「四季」を作曲した

           時間があったのでサンマルコ広場に戻ってサンマルコ大聖堂を見学

 

今日午前中はヴェネツィア徒歩観光。と言っても仮装もしないし、ゴンドラにも乗らない。この町で

生まれたアントニオ・ヴィヴァルディの足跡を徒歩で追うのである。どこまでも音楽に対して大マジ

メなツァーなのである。16783月サンマルコ広場から歩いて10分程のカステッロ区で生まれたが

瀕死の状態で洗礼を受けたのも生後2ヶ月後だったという。生まれつき身体が弱く喘息の持病があっ

た。庶民階級の彼は将来のことを考えて教会の付属学校で教育を受けて聖職者にもなった。ヴィヴァ

ルディと言えば「四季」の作曲者として知られているが、実は50曲以上のオペラや協奏曲など多岐

に渡る多数の作品を作曲したのである。ヨーロッパ中を演奏して回わる売れっ子音楽家であったが、

時代の変遷と共に徐々に忘れられ、最後はウィーンで失意のうちに63歳の生涯を閉じたのである。

昼 ヴェネツィア「DO FORNI」(自由食)ベジタブルスープ16€、スパゲティカルボナーラ

19€、ビール5€、水と席料5€とチップで計575

 

   サンマルコ広場ではカーニバルのイベントが行われている。観る人々の方が衣装は派手ね

仮装している人々は写真を撮られるのが励みらしい      こんな粋な老夫婦も

 

今日は昼も夜も自由食。ランチはS海添乗員が14名分予約してくれた「DO FORNI」で。ベ

ジタブルスープとスパゲティカルボナーラ味はまずまずだったが57€超えるってバカ高いわ。ヴェ

ネツィアングラスのアクセサリーでも買おうかとたくさんの店を覗いたが収穫はゼロ。ま、いいか。

夜 ヴェネツィア ホテル・モナコ&グランド・カナル客室にて(自由食) サンドイッチ、水

 

   今夜の夕食もチョー簡素

  フェニーチェ劇場の正面玄関        豪華なロビーのシャンデリア      劇場は2度火災にあった

         数々のオペラ新作初演が行われて来たフェニーチェ劇場は「不死鳥」の意味だ

 

今夜はいよいよフェニーチェ劇場でのオペラ鑑賞である。演目は初演もここで行われたヴェルディの

「椿姫」だ。ホテルから劇場までは細い道を歩いて約10分。午後7時開演だが、6時半前には到着し

た。火災で焼失したサン・ベネット劇場跡に1792年建てられたのがフェニーチェ劇場であるが1836

年と1996年にも火災に見舞われた。1996年の火災は修復工事中に起こったもので、原因は工事遅れ

で違約金の支払いを求められていた工事業者の放火であった。劇場は全焼。何てこった!なのである。

2003年ムーティエの指揮でコンサート形式の演奏会で再開場し、音響面を手直しして1年後2004

「椿姫」をもってオペラ上演が再開された。「椿姫」も「リゴレット」もこの劇場で初演したのだ。

そして今夜の「椿姫」は時代を近代にしているせいか、ヴィオレッタはワンピース着ていて何だかし

っくり来ない。とはいえイリーナ・ドウブロスカヤは美人だし美しいソプラノだ。アルフレード役の

テノールは顔が・・。ヴィオレッタの次に拍手が大きかったのはアルフレードの父親マルセロ・ロシ

エッロだった。隣に座った人はほぼずっと寝ていた。もったいないよね。10時過ぎホテルに帰った。

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2月 6日(土)イタリア・ベルガモもミラノも曇り

朝 ヴェネツィア ホテル・モナコ&グランド・カナル 朝食ヴュッフェ

 

   朝日が上がる中アルベデルチヴェネツィア

  

   公共バスに乗ってベルガモ・アルタへ          作曲家ドニゼッティが生まれた家は当時貧民街にあった

 ドニゼッティの一家8人は地下の部屋に住んでいた         ドニゼッティが最後に住んでいた家

サンタ・マリア・マジョーレ教会とコッレオーニの礼拝堂    ドニゼッティが埋葬された教会内部の墓所

   教会隣のドゥオーモ            ドゥオーモの中も美しい!      バラ色の大理石で出来た洗礼堂

 

4時半起床。今日は740分と出発が早い。シャワーを浴びてからパッキングし、6時にはバゲージ

ダウン。ヴェネツィアでは、スーツケースは人間と別の船で運ぶ必要があるからね。朝食を済ませて

から2艘の船上タクシーで移動。船は乗り降りがタイヘンだ。大型バスでミラノ近くのベルガモに向

かう。10時半ベルガモ着。ベルガモは標高336bの小高い丘の上にあるベルガモ・アルタと麓の町ベ

ルガモ・バッサがあって2つの町はフニクラというロープウェイで結ばれている。ところが、そのフ

ニクラが故障して休止しているというので公共バスで丘の上に行った。バスを降りて暫く歩けばそこ

にドニゼッティの生家がある。当時この辺りは最も貧しい一角だったが、彼の一家8人は地下の部屋

に住んでいた。後に埋葬されたサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂で楽長を務めるマイールの支援で

音楽を学んだガエターノ・ドニゼッティは70ものオペラを作曲した。中でも人気のある作品は「愛

の妙薬」と「連隊の娘」だが、一度社会に忘れられたドニゼッティに再び光が当たったのは20世紀

最高のソプラノ歌手と言われたマリア・カラスによる復活上演が大きいと言われている。カラス様様

なのだね。それにしてもサンタ・マリア・マジョーレ教会とコッレオーニの礼拝堂の美しいこと!!

昼 ベルガモ「CAFFE DEL TASSO」カゾンチェッリ(ベルガモ名物ラビオリ)、

兎肉のポルケッタ ポレンタ添え、トルタ・ドニゼッティ、コーヒー2€

 

  

   このお菓子の名はトルタ・ドニゼッティ

 

ランチは、ドニゼッティも通ったと言われる「CAFFE DEL TASSO」で。カゾンチェッ

リというラビオリはベルガモ名物とか。メイン料理は兎だった。私の小学校の給食には、兎や鯨肉が

時々登場したっけなぁ。デザートはトルタ・ドニゼッティだとあったので興味津々だったが、格別特

徴も無いケーキで「なーんだ」って感じだった。帰りの公共バス乗り場までは各自で向かったのだが

5人が迷子になるやら、一番先に到着した人が見つけにくい場所に座っているやらで、一時はてんや

わんや。それでも全員揃って丘の町ベルガモ・アルタから降りて専用バスに乗り換えることが出来た。

夜 ミラノ・グランドホテル・エ・デ・ミラン客室にて(自由食)きつねうどんとパニーニ

 

  

            今日から名門のグランドホテル・エ・デ・ミランに2連泊

         オペラ前だから、そそくさと客室でカンタン夕食。きつねうどんが旨かった!

          オペラファン垂涎のミラノ・スカラ座で「リゴレット」を鑑賞する

 劇場廊下にプログラムや配役表が貼りだしてある            ホテルに帰ってビールで乾杯!

 

夕刻ミラノの町に入り、2泊する名門の宿グランドホテル・エ・デ・ミランにチェックインした。お

洒落な店が並ぶモンテナポレオーネ通りに面し、スカラ座まで400bという絶好のロケーションに加

えて、ジュゼッペ・ヴェルディが愛した定宿のホテル。しかも彼はここで人生の最後を迎えたのだ。

昨夜に引き続いて今夜もオペラ鑑賞。オペラファンなら垂涎の的であるスカラ座で上演される「リゴ

レット」だよ。生憎の小雨が降る中、ホテルで借りた傘をさしてスカラ座へ。一本道だ。前から4

目という良い席であったが、右側と左側を間違えて暫くすったもんだした後左側の席に落ち着いた。

リゴレットはレオ・ヌッチ。73歳の大ベテランのバリトン歌手で、幅広いレパートリーの中でもこの

リゴレットを最も得意としているだけあって、素晴らしい舞台だった。上演前にリゴレットの娘ジル

ダ役の変更が伝えられて満席の会場はドヨメイタが、代役の歌手の名前を聞いてもっと大きなドヨメ

キが。名前は聞き取れなかったが、役柄にぴったりの健気なコロラトゥーラソプラノだった。マント

ヴァ公爵のテノールも良かった。カンドーの幕が下りて周囲を見回すと左右の3人はぐっすりお休み。

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2月 7日(日)ミラノは一日中雨

朝 グランドホテル・エ・デ・ミラン「カルーソ」 朝食ヴュッフェ

 

  

 ロビーに飾られたヴェルディの肖像画

 ヴェルディが建設した音楽家のための「憩いの家」。身寄りの無い音楽家の養老院   音楽家が眠るチミテロ・モニュメンターレ

スカラ座博物館の階段には古いポスターが   トスカニーニの像        スカラ座3階のホワイエ

      3階のボックス席から舞台を見る。ボックス席は意外に広い          プッチーニの像

     ヴェルディが最初の妻マルゲリータの父に買って貰ったスピネット         ヴェルディの死に顔のスケッチ

名ソプラノのマリア・カラス    美食家とも知られるロッシーニの像  スカラ座の前にはレオナルド・ダヴィンチ

 

昨夜からの雨が止まない。どうしようかと迷いながらも半日観光に出かける大型バスに乗る。先ず

はヴェルディが晩年熱心に取り組んだ音楽家のための「憩いの家」に行く。音楽を職業とし、身寄

りの無くなった人のための養老院だ。ヴェルディが亡くなってから50年間も彼の印税で賄われて

いたため入居料は無料だった!現在は寄付と入居者の僅かな家賃が集められ、100人の老人に混じ

って10人の若き音楽家も入居して老若音楽家同士の交流が行われていると言う。この「憩いの家」

の中庭には、ヴェルディの霊廟があり、2人の伴侶マルゲリータとジュゼッピーナの墓標も立って

いるのだが、私は緊急の用事(汗)で近くのカフェに飛び込んでいて見ずじまいであった。トスカ

ニーニやパバロッティ、アバドなどイタリアが生んだ偉大な音楽家が眠るチミテロ・モニュメンタ

ーレに寄ってから町の中心に戻りスカラ座博物館の見学。その前に劇場のボックス席に入って舞台

を眺めてみる。中は意外に広く舞台も近く見えるが、やっぱり私は平場のアリーナの方がいいかな。

博物館ではヴェルディを中心に多くの音楽家たちの貴重な資料が展示されていて時を忘れる程だ。

昼 グランドホテル・エ・デ・ミラン「カルーソ」(自由食)前菜ヴュッフェ22€、アーティチョー

クと海老のタリオリーニ19€、白ワイン8€、コーヒー55€、水3€ チップ5€入れて625

 

 

夜 グランドホテル・エ・デ・ミラン「ドン・カルロス」黒目豆のスープ小海老のソテーとピサレイ

(自家製手打ショートパスタ)と共に、イシビラメのフィレ南瓜のクリームと橡のフラン添え、

カプチーノ味のドルチェ)、ビール、白ワイン、赤ワイン(旅行会社のゴチ)

 

 スカラ座やヴェルディに捧げるインテリア

左の2つ目の部屋106号室でヴェルディは亡くなった。105号室とはコネクティングされている。私の部屋入り口で撮影

   ヴェルディの部屋だった105号、106号室の廊下には彼の肖像画か飾られている。101号は私の部屋

 

スカラ座博物館の見学の後は解散となった。希望者は巻き舌得意の日本人ガイドの方とドゥオーモ

の見学に行かれたが、私は何度も来ているし、お腹の調子も心配なので雨の中とぼとぼと一人でホ

テルに帰った。午後1時半さすがにお腹が空いた。今日の朝食が美味しかったことを思い出し、ホ

テルのレストラン「カルーソ」で食べよう。ヴェルディも食べたんだろうね。ここのランチはなか

なかの優れモノで、22€の前菜ヴュッフェ(ピッツァやデザートもあり)だけでもいいし、それに

パスタやメイン料理をプラスしてもいい。アーティチョークと海老のタリオリーニ19€を注文した。

良いランチだった。未だ雨は止まないので部屋でJSテレビを観る。「ピタゴラスィチ」は大好き

な番組だ。武井壮の少林寺拳法体験入門みたいなドキュメントは凄まじい映像でビックリこいた。

「COOL JAPAN」も好きな番組だ。夕食は7時半から、ホテルのもう一つのレストラン

「ドン・カルロス」で最後の晩餐だ。こじんまりした店の壁にはスカラ座やヴェルディに関連する

絵画や写真、ポスターなどでぎっしり飾られている。創作料理のような趣きだったが、昼食べ過ぎ

てお腹が空かなかったのでチョイと食べただけ。お酒は旅行会社にご馳走になった。ここでヴェル

ディがどこの部屋で暮らし亡くなったのかを聞いて胸がドキドキした。だって私の部屋の斜め前の

部屋なのだ、彼が亡くなったのは!一昨日から滞在していてどうして気付かなかったか。廊下には

ヴェルディの肖像画が飾ってあったし、仕事部屋だった105号室には「sala Veri」とあった。

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【今週の振り返り】

パルマ生まれの希代の指揮者アルトゥーロ・トスカニーニは、1895年イタリア人で初めてワーグナ

ーの作品(「神々の黄昏」を振り、1930年にはバイロイト音楽祭に非ドイツ系指揮者として初めて

出演した。レパートリーは極めて広く、その膨大な曲をすべて暗記していた。合奏曲約250曲の

全パート、オペラ約100曲の総譜と歌詞、他にも小品を完璧に覚えていたというから人間技とは

思えない驚異の記憶力があったから出来たことではあるが、極端に目が悪いトスカニーニは譜面

台に置いた楽譜を読むことが出来なかったことが暗譜の理由でもあった。そんな彼もアメリカ・

カーネギーホールで「タンホイザー」を演奏中、記憶に障害を起こして演奏を中断。それが最後

のコンサートになって引退した。86歳の春の出来事だった。

 

トスカニーニは独裁者を徹底的に嫌って避けまくった。ムッソリーニやヒットラーが跋扈してい

た時代は、彼らがいる国、地域から逃れ、アメリカや南米に飛んで活動の拠点としていた。女好

きでも有名で、オペラに出演する歌手達何人もと浮名を流した。それじゃあ家族をナイガシロに

したのか、と言えば全く逆でタイヘンな家族思いだった。次男は幼い頃病気で失ったが、長男と

二人の娘がおり、次女ワンダは名ピアニストとして誉れ高いホロヴィッツと結婚した。その夫婦

の娘ソニアを溺愛して養女にしたいと申し出て当然ながら断られている。孫を養女にくれ、って

どうゆう祖父ちゃんだよ、まったくって感じね。そんな祖父ちゃんトスカニーニは、1957年脳血

栓の発作を起こし、11689歳で亡くなった。

 

ヴェルディが1901127日の夜中、ミラノのグランドホテル・エ・デ・ミラン106号室で亡

くなると、その日の朝ヴェルディの棺はホテルを出て「憩いの家」に運ばれた。出棺の時、ホテ

ル前には、トスカニーニが指揮をして、820人もの歌手が「ナブッコ」の「行け、わが思いよ、

黄金の翼に乗って」を歌ってヴェルディを送り出したと言う。そのエピソードを聞いただけで私

なんぞは涙ボロボロなのだよ。この「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」が第二のイタリア

国歌と言われた時代もある。ヴェルディは遺言で簡素な葬式を望むと記していたが、1ヶ月後彼

の意向とは大きく違う壮大な国葬が行われた。この時もトスカニーニが指揮をして「イル・トラ

ヴァトーレ」から「ミゼレレ」が歌われた。のちにヴェルディは「国民の父」と呼ばれるように

なる。

 

大島真純美の「ピエタ」(ポプラ文庫)を読んだのはいつだったろうか。そうだ、スペインのメノ

ルカ島&マヨルカ島の旅で読んだのだから1年半前だ。ヴェネツィアが舞台。女の赤ちゃんの捨

子養育院兼音楽院で育った主人公を語り手として、音楽院の司祭であり音楽教師であったヴィヴ

ァルディのウィーンでの死が伝えられるところから物語が始まるのだ。18世紀のヴェネツィアに

いるような錯覚を覚えるほど引き込まれて読んだ記憶がある。音楽をテーマにしていながら刺激

的な作品だった。その旅で親しくなった方がクラッシック音楽ファンだったので読み終わった本

は差し上げてしまったからその後思い出すことが無かったのだが、以前は教会で現在「四季」を

主に演奏するホールでピエタの娘(捨子をこう呼んだ)達が歌う場所という言葉を聞いた時、こ

の本のことを突如思い出した。その時は、まさか自分がヴィヴァルディの生家跡や洗礼を受けた

教会、「四季」を作曲した家をまで訪ね歩くことになるとはツユほども考えたことも無かった。

ヴェネツィアングラスの買い物もいい、ゴンドラも一度は乗るべきだ、カーニバルには仮装する

のも楽しいだろう。でも音楽好きなら、今回私がしているような音楽の旅も楽しいと思うけど、

いかがだろうか。ヴェルディ、パガニーニ、ヴィヴァルディドニゼッティ、トスカニーニ・・・

多くの音楽家に出会う旅だった。未だ終ってないけどね。

 

        トスカニャーニャ指揮「ニャブッコ」でっか?  ちゃう!

 

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