昨年に続き、ウィーンとザルツブルグで音楽漬けの1週間を過ごした
ウィーン楽友教会 ウィーン国立歌劇場
1月 27日(月)晴れのち曇り
フジテレビ記者会見 港社長と嘉納会長が辞任
今日は24時間+8時間=32時間
朝 明石町「ダイニングルーム」A定食(塩鮭の焼き物、はんぺんと野菜の煮物、小松菜のお浸し、ご飯、
味噌汁、飲むヨーグルト、キウイ)770円、納豆220円、南高ハチミツ梅干し、コーヒー165円
フツーに朝ご飯食べて
昼 明石町「ダイニングルーム」A定食(胡麻醤油鉄火丼、さつま芋のレモン煮、わかめサラダ、味噌汁、コー
ヒー)1210円
フツーに昼ご飯も食べて
夜‐@ 明石町「ダイニングルーム」今週のアラカルトメニューから サンマーメン1155円
夜ご飯まで食べたのだよ
夜‐A 羽田空港第2国際ターミナル ビジネスラウンジ 赤飯おにぎりと稲荷寿司
夜‐B 全日空羽田=ウィーンビジネスクラス機内食(洋食)、ビール
ビールは飲んだが食事はどうも・・
夜‐C 全日空羽田=ウィーンビジネスクラス機内食
あら?このきつねうどんちっとも美味しくないわ
昨年10月末イタリアに向かう時、成田空港から午後10時20分発のエミレーツ航空に乗った。あの時は
今日一日何をするんだっけ、と落ち着かない出発日一日を過ごした。今日も午後10時55分羽
田空港発。空港までのタクシーは午後7時半予約した。それまではフツーに過ごした。午前中はパクパ
ク日記を更新したり、午後遅くからはフジテレビの記者会見なんかをボンヤリ見たりしてね。それに
してもフジテレビのゴタゴタはいったい何だろう。元々SMAPにも特段興味も無かったし、そのうち
の一人が一昨年に女子アナにケシカランことをした、しない、その女子アナをテレビ局の人間が手引きした、
いやしない・・ようわかりませんわ。それにしても今まで人気モノとしてチヤホヤされていたのに、
引退宣言した途端手の平返しでボッコンボッコン。楽しくなければテレビじゃない、なんて言っていた
テレビ局の上層部を総攻撃!!!溺れた犬の頭を棒で叩きのめす勢いだ。ヤラレル方は弱みがあるの
だろうが、一緒になって叩いているあなた、どうゆうご関係ですの、ってな感じ。とにかく社
会全体がヒステリックになっていてまともじゃないわな。こんな時は海の外に行くのがよろしい。今
回乗る全日空のウィーン直行便には初めて乗る。ツァーの皆さんはルフトハンザ機に朝乗ってどこかで乗り
継いで今夜8時過ぎにはウィーンに到着しているハズだ。8Aの座席に落ち着いて、寝る前に何か食
べるかな、とビールと洋食のワンプレートを注文。離陸してマツコデラックスのバラエティを観ながら缶ビールを飲
んでいるうちに眠くなってしまって殆ど食べなかった。すみません、こんなにフードロス出してし
まって。少しウトウトしてから注文したきつねうどんはムチャ不味かったが、ロス出してはアカンよ〜の声
が響いて全部食べたのだよ。映画「スオミの話をしよう」を観た。ゴージャスな話かと思ったら・・。
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1月 28日(火)オーストリア・ウィーンは曇り
1ユーロ€=約165円
朝5時半にウィーン空港に到着し、6時過ぎにはブリストルホテルチェックイン。オペラ座ビューの客室169号室
朝 ウィーン・ブリストルホテル「ブリストル・ラウンジ」朝食ヴュッフェ
荷物を整理して、7時半からブリストルホテルの朝食を食べる
観光はパスする予定だったが、10時発の馬車(フィアカー)に乗って歴史地区を見学
45分観光後シュテファン大聖堂で下車。大聖堂の屋上に上る
この後皆さんはモーツアルトハウスとランチに出かけられた
昼 ブリストルホテル客室にて パン半分、パイナップル
和食「日本橋」に行くと火曜日定休日😿 仕方なくスーパーに行く
夜 ブリストルホテル客室にて パン半分、バナナ
フライト時間は15時間だった。眠ったのは4,5時間くらいだろうか。前半に眠ったから、今日は午前
1時頃からずっと起きている勘定になる。予定より35分も早く午前5時25分にウィーンに到着した。
ウィーン在住30年の方が迎えに来てくれた。こちらの大学で日本語を教えていらっしゃるそうだ。オース
トリアの人々に日本はとても人気があり、日本語を学ぶ熱もずっと高いそうだ。ホテルには6時に到着。
早くも添乗員のI川さんが迎えてくれる。彼女とは先月金沢の旅でもご一緒した。客室は1階の169
号室で、窓からはケルントナー通りを挟んでオペラ座が見える。ササッと荷物を片付けて7時過ぎには朝食会場
へ。このホテルは確か4回目。毎回4泊しているからここの朝食も食べ慣れている。どうもグループの方
らしいと目星をつけてご挨拶したら、何と同じ場所の住人ですって!N井さんは14階、私は22階。
ビックリだ。今日の日程は午前中馬車と徒歩でウィーンの歴史地区の見学。昨年も同じツァーに参加しているし、
寝不足なので不参加のつもりだったが、朝食食べたら元気が出た。行こうかな。ウィーンの中心街は全長
約5`のリンクと呼ばれる輪の中にスッポリ入るが、皇帝墓所であるカプツィーナ教会、午後無料のコンサートが行わ
れるペーター教会、ブルグ劇場、フォルクス庭園、首相府の前を通ってスペイン乗馬学校、シシィ博物館入口、新王
宮・・・そして終点のシュテファン寺院。私が馬車を降りる前に中国人親子が近づいて来て「いくらだ」と
交渉してる。そうか、春節が始まったんだね。今年ウィーンは暖冬だそうで、そう言われれれば昨年に比
べて暖かいなぁ。しかし寺院の屋上にエレベータで昇ってみると風があってムチャ冷たい。この後、モーツアルトハ
ウスに行ってからランチだが、私はこれ以降パスしてホテルに帰ることにした。1時間程休憩して和食レストランの
「日本橋」に行ってみると、やっていない・・。月曜日と聞いた定休日は今日火曜日なのだそうだ。
仕方なく近くのスーパーに行き、パンとフルーツを買う。今日の昼も夜もそれで賄ったので却ってよかったか
も。夜は初日であるが、楽友教会大ホールで内田光子指揮・ピアノでマーラー・チェンバー・オーケストラを聞きに行く。ひ
とり参加のG藤さんと私をI川さんが送ってくれた。エレベータに乗るまで10分以上待ってイライラの場面も
あったが前から4列目の通路側7番に座って落ち着く。舞台ではピアニストが客に背中を見せるようなカタ
チで座るようおかれている。そう、内田さんは指揮しながら協奏曲のピアノを弾くのだ。イヤイヤ、弾くだ
けでもタイヘンそうなのに振って弾いて、弾きながら合図して・・しかも譜面無し!!モーツアルトのピアノ協奏
曲変ロ長調ケッヘル456。コジンマリしたマーラー・チェンバー・オーケストラを聴くのは初めてだが、楽団員の皆さんが内田
さんと演奏出来て嬉しい!って感じで演奏しているのが伝わって来る。内田さんと言えば若い頃モーツア
ルトピアノソナタと協奏曲のチクルスでも知られるからなぁ。2曲目はヤナーチェクの木管6重奏。これを聴くことなど
最初で最後かと思うので面白く聴いた。最後はやはりピアノ協奏曲ハ長調ケッヘル467、有名な21番だ。イチ
ロー、大谷さんと並んで日本が誇る世界の日本人。私より1歳若いだけでこんな活躍している内田さん
は文句なくそのおひとりだ。ドイツ語がわからなかったが、演奏後どこかから表彰を受けられ、満場の
観客から大きな拍手が送られていた。午前1時から起きているのにも関わらず、居眠りしなかった私
もかなりエライ(笑)。ごったがえすクロークで迎えに来てくれたI川さんを見つけたぞ。有難い!!無酒日
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1月 29日(水) ウィーンは曇りのち晴れ
朝 ウィーン・ブリストルホテル「ブリストル・ラウンジ」朝食ヴュッフェ
ホテルでは今夜のオペラの演目と歌手が張り出される
偉大な演出家の死を悼む 毎晩演目が変わるので舞台装置も毎日造り直される
昨年に続き、オペラ座の見学ツァー
バレエと音楽の殿堂「オペラハウス」の美しい階段 隣のホテル、ここがブリストルホテルだ
徒歩5分程のところに「音楽の家」がある ハイドンから始まり
モーツアルトに続き・・
お次はベートーヴェン
そしてシューベルトと
ヨハンシュトラウスに続く ヨハンシュトラウスとブラームスは仲が良かった
マーラーが弾いたピアノ 著名指揮者と指揮棒 あなたも指揮者に!
昼 ウィーン「Plachuttas GASTHAUS zurOPER」野菜スープ、ウィンナーシュニッツェル、パン、ポテト、チョコレートケーキ、
アールグレイ紅茶4ユーロ
夜 無し!
オペラ「ラ・ボエーム」を観る 健康的なミミ
5時半起床。寝不足なのに、夜中に何度も目が覚めてしまい積もり積もって超寝不足である。シャワー
を浴び、朝食を済ませて8時45分集合。集合するロビー辺りに、隣にあるオペラ座の今日の演目のポス
ターが掲載される。今日は「ラ・ボエーム」だね。今夜観に行くんだもーん。9時からウィーン国立オペラ座ガイドツ
ァーを予約している。昨年も同じツァーに参加したが、昨年はウィーン大学日本語学科を卒業した若い男性の
案内だった。今回はこちらのガイド資格も持っておられるガイドI上さんが担当された。彼女は年間オ
ペラ鑑賞100回という猛者でウィーン暮らしを全うされているような方だ。このオペラ座が開場したのは
1869年。オープニングを飾る作品は、初のドイツ語で書かれたオペラであるモーツアルトの「魔笛」と決まってい
たが、何かの都合で叶わず替わって演奏されたのが同じくモーツアルトの「ドン・ジョバンニ」となって指揮し
たのはグスタフ・マーラーだった。歴代作曲家達の肖像が並ぶ中、ワーグナーだけナゼ別室にひとりだけなのか、
などクラッシック界の興味深い話などね。次はオペラ座から歩いて5、6分の「音楽の家」に行く。ここも
昨年見学コースに入っていたのだが、お腹が急に痛くなってホテルに帰ってしまった。結論から言うとこ
こは本当に面白い。ウィーンに所縁のある作曲家達の紹介するフロアがあれば、ウィーン・フィルの資料が並ぶフロア、
そして最上階には「あなたも指揮してみよう」なんて仕掛けもあってね。小学生達の社会科見学の
場にもなっていた。近くのレストランでランチ。今日は名物のウィナーシュニッツェルだった。薄いがあまりの大きさに
M田さんのご主人がポカンと口を開けておられた。若い頃は好物だったウィナーシュニッツェルも、この年齢にな
るとなかなかね、途中からは衣を剥いで食べてみたが半分は残ってしまった。これが夕方までずっ
とこなれなかったせいで夕食は抜き。プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」は7時開演。今夜の座席は平土間の
4列目の10番だった。この劇場の観客になるのは4,5回目かと思うが、体験のためにたまには良い
がロージェと呼ばれるボックス席はあまり好まず、平土間の席の方が好き。まぁ年々目や耳の機能が劣化し
ているとうのが一番の理由なんだけど。ボエームとはボヘミアンのことで、詩人、画家、音楽家、哲学者な
ど貧しい芸術家の卵の青年とお針子と女優の恋の話だ。1幕目の途中で突然体調を崩した人がいらし
て幕間に帰られた。ミミは結核を病むお針子の役だが、ミミ役はアイリーン・ペレスは健康的!ミミと恋に落ちる詩
人ロドルフォはリバリト・アヴェティシアン、画家のマルチェッロはクレメンス・ウンテライナー、ムゼッタはマリア・ナザローヴァはアザトさを感じ
させる人だった。わかってはいても、ミミの静かな死で終わる舞台終盤には涙がポロリ。帰る時、右隣を
左隣と間違えて出てしまい「ブリストルホテルが無くなった!」と叫んで(心の中で)しまってね。無酒日
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1月 30日(木) ウィーンは曇りのち晴れ
朝 ウィーン・ブリストルホテル「ブリストル・ラウンジ」朝食ヴュッフェ
ドレス姿の客を意識したエレベーター
今夜は「魔笛」 部屋番号の下の表示は過去に宿泊した著名人の名前が
9時からウィーン楽友協会ホールガイドツァーがあった
黄金のホールと呼ばれる大ホールの収容人数は1680
小ホールであるブラームス・ザール。ブラームスは楽友協会のメンバーであり、1872年から3年間指揮をした。ここ撮影してはいけなかった
昼 ウィーン・ブリストルホテル「ブリストル・ラウンジ」(スモークサーモンとオニオンスライス、パン、チキンソティ、アップルシュトゥルーデル、ア
ールグレイ)、フレッシュオレンジジュース 7€+1€
今日のランチは珍しくブリストルホテルで
夜 ウィーン・ブリストルホテル 客室にて ツナマヨおにぎり 3、8ユーロ
意外といけるツナマヨ
オペラ「魔笛」はモダン演出だった。歌は良いが衣装がねぇ
昨夜オペラの間に体調崩されたE子さんは元気になった由。代わりにという訳ではないだろうが、元
気一杯だったM田夫人が朝食は抜かれると。いつも真っ先にどこか変だと騒ぐ私は今のところ順調
である。あまり食べていないからね。飲まないし。昨日の午前中はオペラ座を見学したが、今日は朝
からウィーン楽友協会の見学だ。我々を案内するためだけにアンナさんが来られ、説明をしてくれた。ウィー
ン楽友協会は1870年、大規模なコンサートホール建設を皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に請願した結果、現在の土地を
与えられデンマーク人テオフィール・ハンセン設計を基に3年の月日をかけて完成した。絢爛豪華な装飾から「黄
金のホール」と呼ばれる大ホール、その隣の「本当の宝箱」と呼ばれる小ホールの「ブラームス・ザール」、それ
に広場地下に2004年に出来たホール、計4ホールで年間800もの大小含めた音楽イベントが行われているの
だと。正月のニューイヤーコンサートでお馴染みのホールであり、ウィーン・フィルの本拠地でもあるが、ウィーン交響楽団、
ウィーン放送交響楽団なども盛んに演奏を行っている。この後、グループはセセッションでクリムトの「ベートーヴェン
・フリーズ」を見学に行かれたが、何度か行ったことがあるのでE子さんと帰ることに。E子さんは青
森弘前にあるオペラ研究会のメンバーでソプラノの役を歌われるなんて楽しい話を伺いながらホテルまでぶら
ぶら。「そうだ、グランドホテルの地下にはお寿司も売っている食品スーパーがあるから覗いてみましょう
か」と誘っておにぎりなどを買った。今日のランチはホテルで。お2人欠席だったから6人で。たっぷり
時間のある時、こうしてゆっくりお喋りしながらのランチは楽しいね。午後は本を読んで過ごした。夜
は希望者だけオペラ「魔笛」だったのだが、全員が希望したので全員が行くハズだった。しかし、E子
さんは欠席、M田夫人は早退となった。それぞれ好みの席を購入したのでロージェが2人、残りは平土
間。私は8列目の3番で舞台に向かって右側。周囲が大きな人ばかりで圧迫感が凄いのと、寝不足
が限界まで来ていて1幕目はウトウトしてしまった。モダン演出だったが、王子タミーノは助けてくれた侍女
3人に身ぐるみ剥がれていきなりシャツとパンツ一丁という情けない姿に。恋に落ちるパミーナも寝間着姿
だったし。このパンツ王子と夜の女王の寝間着娘パミーナの恋物語と世界征服を狙う夜の女王と大祭祀
ザラストロとの対決が二重構造になって話は進んで行く。夜の女王だけはそれなりのドレス姿で観客はホ
ッとし、あの有名なコロラトゥーラソプラノのアリアはヤンヤの喝采を浴びた。タミーノの「なんと美しい絵姿」やパパ
ゲーオとパパゲーナの「パ・パ・パ」は楽しいね。このオペラはモーツアルトの最後の作品で、モーツアルトは初演後
わずか2ヶ月後には亡くなってしまうのだが、彼は自分の作品「魔笛」が大好きだった。無酒日
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1月 31日(金) ウィーンもザンクト・フローリアンもザルツブルグも曇り
朝 ウィーン・ブリストルホテル「ブリストル・ラウンジ」朝食ヴュッフェ
さよならウィーン!さよならオペラ座! さよならセセッション!
バスの窓からメルク修道院が見えた あれはザンクト・フローリアンだよ
昼 ザンクト・フローリアン「Restaurant Stiftskeller」挽肉入りスープ、ポークソティ ポテトとダンプリング添え、
コールスロー、ケーキ
広い敷地のザンクト・フローリアンには、ホテルもレストランもある。そのレストランでランチ
9世紀に創建され、11世紀に聖アウグスチノ修道院が再建
1744年より建設された図書館。多数の写本を含む約13万点の蔵書を有する
聖フローリアン 見事な大理石の間
荘厳なザンクト・フローリアン修道院 ブルックナー・オルガン
子供時代この修道院の聖歌隊でもあったブルックナーは演奏していたオルガンの真下に埋葬された
ザルツブルグのホテルゴルデナ-・ヒルシュに到着。本館の向かいにある別館に客室はある
夜 ザルツブルグ「BLAUEGANS」(西洋牛蒡のクリームスープ、パン、チキンのフライジャム添え、ポテト、パンケーキとフルーツ
とアイスクリーム)、生ビール、白ワイン、赤ワイン 20€
チキンのフライジャム添え旨し!
夜行便で行った私だけ3泊、他の皆さんは4泊したウィーンと今日はお別れである。昨日の午後荷作り
はあらかた済ませたから今朝は6時半頃起きればいいな、と昨夜思って寝たのだが、何と5時に電
話がかかって来て・・しかもこのホテル枕元で充電出来ないため離れたテーブルにスマホは置いてあって・・
鳴り止まないのでベッドから降りてスリッパ探してそのテーブルに近づき、電話に出ようとしたところで
プツンと電話は鳴り止んだ。もぉ〜〜!!!番号を見たら120で始まるもので・・結局、それから寝
るワケにも行かず起きてしまった。春節真っ盛りで、この高級ホテルにも大陸からのお客がかなり泊まっ
ていて、エッグステーションは順番待ち。え?オムレツ具の全部入りに目玉焼き2個乗っけですかぁ?その次の
人も同じ注文だって。そんなに食べるか!9時半バスで出発。西を目指す。5時起きだからすぐ眠り
に落ちて気持ちが良かったのだが、30分で起きてしまった。仕方なく本を読む。昼前ザンクト・フローリアン
に到着。約10年前もここを訪れて、美しい修道院だなぁと強く思った場所でもある。先ずはランチ。大
きな修道院には宿泊施設もレストランも何でも揃っているのだ。但し、味はね、保証の限りではないって
いうか。挽肉入りスープと豚肉の付け合わせの巨大なダンプリングの塩辛いこと!減塩運動にわい反対で
んねん、って感じのお父さんが作ったみたいだった。ほぼ残す。そこに奥さんが日本人だという男性
がガイドのために登場。先ずは図書室へ。そのドアの取手が素晴らしくてね。でも宗教の権化みたいな
場所でこんなエロイデザインがあるということがビックリだった。それはともかくこの図書館も、大理石の間
もその迫力に圧倒される。そして大聖堂。先ずは地下室から。作曲家であり、オルガニストだったブルックナー
は幼い頃よりこの大聖堂の子供聖歌隊の一員だったが、長じて後オルガニストになった。ウィーンに出て活躍
するも時としてこの大聖堂に戻ってはオルガンを弾いていたブルックナーは亡くなったらオルガンの下に埋葬し
て欲しいと願ったという。オルガンの音を聴きながら眠りたい。ロマンチックな話なのだが、ブルックナーの交響曲
が好きかと言われると・・う〜む、困ったぞ!え〜っとですねぇ、大の苦手だす。バスで更に1時間
半。ザルツブルグの旧市街に入る前に小さな車2台に分乗してホテルに着いたのは午後5時前だった。ゲト
ライデ通りに面したホテルでレストランの案内などがあった後、お部屋にご案内しますと通りを横切り、向かい
にある建物に。スィートルームやバスタブのある新館(建物は古いが)は別館に入っているのだ。2階の73号
室だった。トイレでシャワートイレを発見して喜ぶ。だけど、水がなかなか流れんなぁ。夕食は本館隣のレストランだ
った。明日午前中の市内観光はパスすることにしたので、旅に来て初めてお酒を飲むことに。生ビールと
白ワインと赤ワインの3点セットね。懐かしい!昔はいつもこれだった。料理も回数は少ないもののこれまで食
べて来た中で1番美味しかった。チキンカツにレモンを絞りジャムをつけるとムチャ旨いのだ。何だかご機嫌な夜だ。
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2月 1日(土)ザルツブルグは曇り 寒い!
朝 ザルツブルグ・ホテルゴルデナ-・ヒルシュ「レストランヘルツル」朝食ヴュッフェ
ひとり遅い朝食
左側のアーチ型が別館入口 ゲトライデ通りをブラブラする
ここから少し行くとモーツアルトの生家がある
昼 ザルツブルグ・ホテルゴルデナ-・ヒルシュ 客室にて(コーンスープ、濃厚チョコケーキ、梅粥)
夜 ザルツブルグ・ホテルゴルデナ-・ヒルシュ「ゴルデナ-・ヒルシュ」北極岩魚のカルパッチョ、クリームスープ、パン、仔牛料
理、デザート、ダブルエスプレッソ)
5時からホテル本館のレストランで早い夕食。その後徒歩でコンサートへ
ザルツブルグ祝祭劇場で「モーツアルト・ウイーク」コンサート鑑賞
急遽替わったテノール:ローランド・ヴィラゾン、指揮者はウクライナ出身のオクサーナ・リーニフ
皆さんは午前9時からホーエンザルツブルグ城にケーブルカーで登られた後、昼まで市内をあっちゃこっちゃ
され、12時から大聖堂で行われる無料のオルガンコンサートを聴かれる。しかし、私はどれも参加しない。
この街は何度も来ているし、こんな寒い中そんなに歩けそうにないから昨日パスを決めた。ゆっく
りシャワーを浴びて、8時半頃本館のレストランで朝食を、と部屋を出ようとした時、ドアが開かずに焦る。
チェーン式の鍵を閉めたのだが、そのチェーン鍵が開かない。どうしても開かない。何をやっても開かな
い。ふ〜、どうしよ。ツァーコンダクターのI川さんは未だホテルにいらっしゃる。LINEした。既読にならな
い・・国際電話した・・2度目でやっと通じた。どうされました?部屋から出られない!エーン!フロント
に援軍をお願いして彼を待つ。何の気なしにチェーンの鍵部分を押してみた。開いた!!!フロントの彼に
「開きました!お騒がせしました」と謝る。ついでにI川さんに掃除の時間とトイレシャワーが流れるよう
直して貰いたいと依頼。よし、これでよし。ぶらぶらと出かけた。ホテル前の通りが一番の繁華街だが、
通りと通りを繋ぐ道がいくつもあるので、自由自在。なかなか散歩には楽しい町だ。モーツアルトの生家
とか映画「サウンドオブミュージック」のロケ現場とか、昔は夢中になって行ったものだ。そろそろ帰ってカンタン
なランチでもするか。今夜はコンサートだし。モーツアルトは1756年1月27日にザルツブルグで生まれた。だからそ
の誕生日を含んで毎年「モーツアルト・ウィーク」がザルツブルグで行われる。昨年はウィーン・フィルのモーツアルト32番序
曲、ハイドンチェロ協奏曲1番、それに「劇場支配人」を演奏会形式で1日目に聴いた翌日、マチネでアンネ・ゾ
フィー・ムター率いるトリオでピアノ三重奏1、4、3、5と聴いて大満足だった。今年はどんなかな。午後5時、
ホテルのレストランでかなり早い夕食。北極岩魚のカルパッチョとクリームスープがなかなか美味しかった。ホテルと劇場
は徒歩2分程。何度も来たことがある祝祭劇場でコンサート。コンサートの冒頭でテノール歌手がどうしたこうし
たと説明し、その度に観衆はガッカリしたり喜んだり。つまり指揮者とテノール歌手が出演できなくなり代
演となる。自分もテノール歌手の代役として歌うよ、ということだったらしい。今日の演目はモーツアルトの
交響曲32番、「皇帝ティートの慈悲」、ヴァイオリン協奏曲第4番、そしてモーツアルト交響曲25番だった。最後は
盛り上がって良かったね。冬のコンサート後はクロークでの行列、コート争奪戦が凄まじくて疲れるね。無酒日
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2月 2日(日)ザルツブルグは曇り 今日も寒い!
今日は節分
朝 ザルツブルグ・ホテルゴルデナ-・ヒルシュ「レストランヘルツル」朝食ヴュッフェ
昼 ザルツブルグ空港ビジネスラウンジ サンドイッチ、カプチーノ
遅い夜 ANAフランクフルト=羽田ビジネスクラス機内食(和食)ビール、焼酎
皆さんは、ホテルを8時出発される。たぶん、5時半とか6時には起きておられるのだろう。私だって
みなさんにご挨拶したいから、本館のロビーに7時45分に行けるよう塩梅そして起き、シャワーを浴びた。
ロビーに行くとK野さん、次にG藤さん、そして・・・皆さんと思い出話をしながらお別れのご挨拶
を。気を付けてお帰り下さいね。さよなら〜!3時半後、迎えの方がいらして空港へ。10分程で着
いてしまう。話が面白いので続きをしたい、ってなことでチェックインを済ませても、そのままロビーでお喋
り続行。メンデルスゾーンがいかに素晴らしい人物だったか、ワーグナーがいかに邪険であったか、ブラームスが
クララ・シューマンに対していかに純朴であったか・・・などなど話は尽きないのだった。やっとお別れして、
ラウンジに行くと、座る場所もないほどの込みよう。午後2時頃空腹で気がつき、サンドイッチ2個をランチ替
わりに食べた。次の便でフランクフルトに到着したのは午後3時15分。AからBに移動して、羽田までの便
は午後8時45分までの5時間半をラウンジで待たねばならない。まぁそんなこともこれまで何度かや
っているので、本を読んだり、ウトウトしたりしているうちに過ぎてしまうのだ。ゲートが25番から22番
に移動していて暫くまごついたが、午後8時過ぎ無事ANA機に乗ることが出来た。あとはビールでも飲
んで映画を観たり、ビデオのバラエティを観たり、眠くなれば眠ったり、カレーも食べたりして・・楽しいな。
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【今週の振りかえり】
オペラの最高傑作は何か。これこそ好みが分かれるから誰からも異存の無い最高傑作を選び出すのは至
難の業となるが、それは「ラ・ボエーム」だ!と言う人がいる。もう36年以上前の話で恐縮だが、私にと
っての「ラ・ボエーム」はあの時の演奏だ。1988年の9月、東京文化会館で行われたミラノ・スカラ座日本公演。
指揮者はあのカルロス・クライバーで演出と美術はあのフランコ・ゼッフィレルリだった。ロドルフォはペーター・ドヴォルスキー、ミミ
はあのミレルラ・フレーニが歌ったんさ。マルチェッロはジョナサン・サマーズ、ムゼッタはバーバラ・ダニエル。あの、あの、って
あのちゃんでもあるまいしね、アハハハ。でもそれほど奇跡のような組み合わせだったのだ。
当時演出家のゼッフィレルリは大人気で、彼が描いた舞台装置は超立体的だった。突然舞台の上にパリの下町
が立体的に出来上がり、アーチ型の橋の上を、その下を人々が行き交う。そんな街の片隅で貧しくも青春
を燃え滾らせる若き芸術家達ボヘミアン。詩人の青年が隣に住む貧しいお針子のミミとクリスマス・イブの夜に知り
合って・・フレーニが扮するミミは決して美人ではないけれど可愛らしさがあった。そして柔らかくて透明
感のあるソプラノで「私の名前はミミ」を可憐に歌い上げて、ロドルフォと観衆と私をすっかりその気にさせて
しまった。余談ではあるが、このフレーニさん、イタリアのモデナ出身で、あの(すみません、あの続きで)「三
大テノール」のひとりパバロッティとは同じ年の幼馴染なのである。面白いわなぁ、同じ村さで生まれた男の子
と女の子がよ、ふたりとも世界のオペラ歌手になっちまうんだから、おったまげちまうわなぁ。ヘンテコな
お婆さんが突然出て来たので、次の話題に行きましょう。
カルロス・クライバーという指揮者が大好きだった。父親のエーリッヒ・クライバーもオーストリアの世界的名指揮者だった。ド
イツに生まれたが、母親がユダヤ人だったため、一家はナチスから逃れてアルゼンチンに移住。そこで育ったのでド
イツ式のカールでなくスペイン語風にカルロスと改名した。ある人に言わせると、指揮者の役割とはオーケストラのその
「演奏」にプラスアルファを付けて、真の「音楽」を造り上げることらしい。強烈で熱狂的な「プラスアルファ」
を創造することが出来た最高の指揮者のひとりと言われたカルロス・クライバー。しかし、どこの劇場ともどこ
のオーケストラとも音楽監督や常任指揮者といった契約を結ばずフリーランスの立場に徹した。そんなことから2004
年亡妻の故郷スロベニアでひとり亡くなったクライバーは「孤高の指揮者」と呼ばれた。享年76歳だった。クラ
イバーはインタビューぎらいだったし、レコーディングも極端に避け、何かと気難しい人でもあったらしい。練習中
楽団員と意見が対立すると定期公演でさえキャンセルしてしまうこともあった。自分の意に沿わないとわか
った仕事は次々とキャンセルする。そんなクライバーだから、演奏会には代役が立つリスクは覚悟の上で人々は彼の
指揮を聴きたいために買い求めるから、演奏会のチケットは早々と完売してしまうのだ。日本には、それで
も1974年を皮切りに、1981年、1986年、1988年、1994年と5回来日している。1992年はクライバーが体
調不良でキャンセル、シノーポリが代行した。確かクライバー指揮の演奏を2回聴いたことがあるのだが、思い出深
いのは最後の来日公演である。
1994年10月、カルロス・クライバーはウィーン国立歌劇場を率いて「ばらの騎士」を指揮した。来日がキャンセルになら
なかったことだけでも幸運!と喜んでいた私だが、会場では人生でこれ以上の幸運は無い!という席に
恵まれた。その会場の指揮席の高さは、聴衆から指揮者の肩の下くらいまでが見える高さであったのだ
が、私の席は、指揮するクライバーの真ん前の席だった!あのクライバーが熱烈な拍手に迎えられて、オケメンバーの
間をぬって近づいて指揮台に上がる。ヒョイとあの鼻の高いクライバーのお顔が目の前にあったのだ!わぁ〜、
クライバーだぁ〜、本物だぁ〜、こんな近いところにクライバーだぁ〜。もう既に夢見心地である。指揮する姿
が優雅で美しいと称賛されるクライバーだが、ちょっと寄りかかったような姿勢で指揮棒を振り、振らない
方の腕は台の上にさりげなく置かれたまま。その腕は私が手を伸ばせば触ることが出来る程の近さなの
である。もちろん、私は触ったりはしなかった。当たり前だろ!彼の動かない腕を見つめながら、時々
舞台も観てオペラ「ばらの騎士」は進んで行くのだった。
この来日公演は1994年10月7日から20日まで行われたのだが、 最終日20日の公演が、カルロス・クライバー
生涯最後のオペラ公演となった。のちにクライバーはこの日の公演について「生涯最高の「ばらの騎士」の演
奏が出来た」と言ったそうだ。私はクライバーの手は覚えていても、どの日の公演に行ったかまでは覚えて
いない。そうでないかもしれないが、もしかしたら指揮者本人が認める生涯最高の「ばらの騎士」の演
奏を聴いたのかもしれない。クライバーより12歳年上の名指揮者にレナード・バーンスタインがいる。バーンスタインはクライ
バーを深く尊敬していて、クライバーが指揮した「ラ・ボエーム」を「最も美しい聴体験の一つ」と語ったと聞く。
1992年のニューイヤーコンサートは、バーンスタインが振ることになっていたのだが死去によって叶わなくなり、その代
行をクライバーが勤めた。いい話だ。そのバーンスタインは1990年の秋に72歳で亡くなったが、その年の7月10
日東京文化会館でロンドン交響楽団を指揮した演奏が日本での最後の演奏となった。その夜は現上皇陛下御
夫妻もお見えになっており、この日の演奏を楽しみにしていた私も、度重なるカーテンコールがバーンスタインには辛
そうに見えた。後に肺癌で苦しまれていたことを知ったが、バーンスタインは翌日からの公演をキャンセルしてアメリカ
に帰った。8月19日タングルウッド音楽祭でベートーヴェンの7番を振ったのが本当の最後の演奏となり、10月9
日指揮活動からの引退を表明すると5日後には亡くなってしまった。
とまぁ、「ラ・ボエーム」を今週観たことから、それにまつわることも関係ないこともグダグダと書いてしまっ
たが、これまでオペラは他にもたくさん観て来た。ワーグナーオペラと、モダン演出以外のオペラなら、これからも
たくさん聴きたいし、観たいと思っている。
アタイの名前もミミ
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