夢子の地球大好きシリーズ

大汗たらり伊太利亜紀行  

伊太利亜紀行その1

伊太利亜の夏は暑い。とんでもなく暑い。今回行った7つの都市の気温は32〜40度であった。特に印

象深いのはフィレンツェ。そう、あのルネッサンスの古都だ。嘘としか思えなかった水上の都ベネツィアか

ら、バスに揺られうつらうつらして目を開けると、そこは山に囲まれた町。糸杉がすっくと美しい。先ずは、

ミケランジェロ公園に行く。フィレンツェの街を一望できる丘である。バスを降りる。ギャッ!!!

 なんだ、この暑さは。たちまち汗が噴き出す。噴水のように、泉のように私のカラダから汗が流れる。太

陽がギラギラと痛い。目が眩む。クラクラ。もう憧れのフィレンツェの風景などどうでもよろしい。写真を

撮ってバスの中に逃げ。この日のフィレンツェの気温は39度

 不思議なことは、この暑さと照りつける太陽の下でイタリアの人は帽子というものを全くという程かぶらな

い。頭の薄いおっちゃんも素敵なシニョーラもカンカン照りでも無帽である。帽子をかぶっているのは外国人

観光客であるし、日傘をさして薄ら笑いされているのは日本人である。ただ救いは湿度が低いことだ。10%、

20%台が普通で30%とあると「今日は湿度が高かった」と気象ニュースで報じられる。だから日陰に行く

と信じられなくくらい涼しくなる。

 高温、低湿度だから喉が渇く。街中いたるところで水を売っている。ガス入りと無しがあるが、日本人は圧

倒的に無しが好き。「アクア ミネラーネ ナチュラーレ」というか「アクア センツゥアガス」と言ってガ

ス無しを買う。バスで移動するとトイレ休憩があるが、こんな天候なのでトイレに行く必要感じず、皆トイレ

でなく飲み物を入れたケースに走り、水を確保する。何度も水を買うので、水の値段にも段々通じて来る。「あ

そこのドライブインは、1、5リットルが1800リラだったけど、ここは1600リラと安い。観光スポットは

0、 5リットルで1000も取るしなぁ」。こうして確保した水を常に持ち歩き、ガブガブ飲みながら街を歩

く。実質8日間で飲んだ水は0、5リットル瓶で20本。

炎熱のイタリアの水10リットル飲み

もう一つ信じられないというか気の毒なことは、この暑さでもイタリアではクーラーが入っている家が非常

に少ないことだ。もちろん車だってクーラー無しだ。だから走っている車はたいてい窓を全部開けて走ってい

る。日本だって昔は皆そうだったけど、もうそんなこと忘れてしまっている。夏はここイタリアよりスペイン

の方が暑いらしい。両国に昼寝のシェスタがあるのは、この暑さと関係があるのだろうか。因みに最終日に行

ったポンペイは40度だった。

 

 

帽子を被らない人々   毎日洗濯三昧                          

伊太利亜紀行その2

イタリアの食事についてふれたい。のっけから結論。あんな食事をずっとしていたら太るに決まっているじ

ゃん。一般的な朝食は、いわゆるコンチネンタル式で、コーヒーとかたいパンなのだが、私達旅行者はホテル

の食事だから品数は多い。ハム、プロシュートという生ハム、サラミ、薄切りのチーズ、ヨーグルト、果物、

パン、コーヒー。皿は多くても、やはり火を使った物は無い。4つのホテルで朝食を食べたが、スクランブル

エッグ、焼いたベーコンやソーセージが出たのは1軒だけだった。

昼も夜もリストランテで食べる場合、アンティパストの前菜を食べ、第1の皿(プリモピアット)というパ

スタ、ズッパ(スープ)、リゾット等から選ぶ。そして第2の皿(セコンドピアット)は主菜で、肉、魚介類

料理から選ぶ。これにサラダや付け合わせの野菜などを選び、やっと食事が終わったと思ったら、テラミスや

ジェラート等のデザートを食べ、カプチーノかエスプレッソのお茶を注文。この間、パンをムシャムシャ、ワ

インをグビグビ水もゴクゴク。最後はグワッパなんて強い酒も飲んで。いや〜、恐れ入谷の鬼子母神。食事の

後決まって「これだけ食べれば太る筈だ」と、和食で太った人間がつぶやくのだから笑止である。もちろん、

気軽に食事をするバルやファーストフード店、ピザ屋などもあるから軽く済ませたければそれでもいいのだけ

どね。

さて。本場のイタ飯はうまいのか。後述のように1度だけマックで済ませたが、他は全部リストランテで食

事をした。うまい店もあれば、普通の店、ちょっとどうかと思うよね、という店まで色々だった。今まで食べ

て美味しかったイタリアンの店が日本のイタリア料理店だったのは皮肉か。味は別として、料理を見る限りイ

タリア人は大雑把な人が多いなぁと思う。野菜の切り方を見ただけで食欲を失うようなサラダもある。鉈で削

いだのか!と叫びそうだ。そして、どこの店も塩味が大変濃い。地方色も結構ある。ミラノなど北の料理はフ

ランスに近く、オリーブオイルよりバターを使う。米を作るのでリゾットがある。サフラン入りの黄色のリゾ

ット・アッラ・ミラネーゼはミラノ名物である。一方ピッツァは南。ナポリ地方の料理である。薄い薄い生地

にポマドーロ(トマト)とモッツァレラチーズとバジルの葉だけをのせて釜で焼いたマルガリータというシン

プルなピッツァが人気。生地にチーズ、卵、ハムなどをはさんでオムレツのように半分に折り、釜で焼いたカ

ルツォーネはとても美味しかった。イタリアとして統合するまではいくつかの国に分かれていた関係で、正確

に言えば「イタリア料理」という概念は無いのだそうだ。昔の国ごとのそれぞれ違った料理を無理やり総称し

ているという訳だ。

ご存じのようにフランス料理は、フィレンツェ・メディチ家の娘カテリーナがフランス王妃として嫁いだ時

に連れて行った料理人が作ったイタリア料理を元にしていると言われている。それから数百年の歳月で、土の

香りそのままのイタリアンに対し、フレンチは高級料理としてお上品世界に君臨している。ううむ。両方とも

ラテン民族なのになぁ。謎は深まるばかり。最終日にお世話になった添乗の女性にご馳走することになり、彼

女の案内で洒落たリストランテに行った。店の触れ込みがヌーベルヨーロピアン。注文してみたら、イタリア

ンをフランス料理のように上品に少量、美しく飾り立てた皿が続いた。美味しかったか?う〜ん。やっぱりイ

タリアンは迫力がある方がいいや。毎晩「ヴィーノ・ロッソ」「ヴィーノ・ビヤンコ」とワインを飲んだが、

この晩だけ「ヴィーノ・ロッソキャンティクラシコ」と言ったら1万円のワインが出て来た。料理代も含め散

財した。

■イタリアで食べたメモ

アンティパスト前菜/プロシュート(生ハム)、かぼちゃの花、

第一の皿(プリモピアット)/スパゲッティ・アル・ポマドーロ、イカ墨のスパゲッティ、サーモンとトマ

トのスパゲッティ、スパゲッティボンゴレ、ポルチーニ・タリアッテーレ、スパゲッティペペロンチーニ、フ

ィットチーネ・アラ・ミラネーゼ、リゾット・アル・ミラネーゼ、ピッツア・アッラ・カプリチョーザ、カル

ツォーネ、リゾット・アッラ・ミラネーゼ、ズッパ(野菜のスープ)

第二の皿(セコンドピアット)

牛肉の薄切りステーキ、鱸のグラタン風、スカラップ(豚肉)、フリット・カラマーリ・エ・ガンベリ(海老

とイカのフライ)、フリットミスト(イカや小魚のフライ)、フィレンツェ風牛ステーキ、鮪のカルパッチョ、

飲み物

アクア・ミネラーゼ・ナチュラーレ、アクア・センツァ・ガス、ヴィーノ・ロッソ、ヴィーノ・ビアンコ、ビ

ッラ、エスプレッソ、カプチーノ                       

 

伊太利亜紀行その3

数年前、フランスにユーロ・デズニーランドが出来た時、本国アメリカや日本での大人気が嘘のような、フ

ランス人の冷たい反応に「フランスを筆頭にヨーロッパはアメリカに冷淡という噂は本当だったのだ」と思っ

た。大陸の人間はアメリカの軽い、薄い、成金趣味に「騙されないぞ。無視するかんな」と言っているように。

さて。イタリアで最初に訪れたミラノだが、街中いたるところ落書きだらけ。ここは第二次世界大戦で爆撃を

受けて、古い建物の大部分は崩壊して新しく作られた町並と聞くが、それにしても殆どの建物のおよそ人間の

手が届きそうなところまではびっしり落書きされている。何か悲しくなるまでの徹底ぶりである。

       ファッションのミラノ落書き油照り

 

ドゥオーモとヴィットーリオ・エマヌエーレ・U世ガッレリーア

もう一つ目を引くのは、マクドナルドの看板がやたら目につく。あっちにもこっちにも赤地に黄色の「M」

の文字。(赤地が禁止されているフィレンツェ(だったかな?)だけはこの色が違うらしい)地下鉄のメトロ

の看板も「M」で赤地に白文字。同じ赤地に白文字「M」と黄文字の「M」、そして落書きの街がミラノであ

った。イタリアの飲み物といえば、エスプレッソとカプチーノだが、冷たい飲み物業界ではコカコーラの天下。

コカコーラ、ファンタが大いに幅を利かせている。何やら三十年前の日本の状況である。同じラテン民族のフ

ランスとイタリア。フランスは敢然と「ノン!」と言っているのに対し、イタリアは唯々諾々とマックとコカ

コーラを受け入れてしまったのは何故だろう。フィレンツェやローマは、街ごと遺跡のようなところだからか、

賃貸契約が難しいのだろう、Mの文字は少なかった。フィレンツェのマクドナルドで昼食をとった。値段は、

チキンバーガー、フライドポテト(S)、コーク(M)で9700リラ。日本円で800円位だから高い?

イタリアの大卒初任給は10万円位という。給与水準は日本の半分〜三分の二位らしいのだが、物価はそう

変わらない。却って高いものもあり、ローマ市内の家賃は3LDKで50〜100万。煙草は400円。ガソ

リンは1リットル170円位なのだと。それでも、みなお洒落をして、食事はもりもり食べ、安かろうとワイ

ンをぐびぐび飲んでいる。水を買う生活は日本では近年になってからだが、彼等はずっとそうしている。どう

やって生活しているのかと不思議でならない。

失業率は全イタリアでは13%くらいだが、北ほど豊かで、南は貧しい。万引き、かっぱらい、スリなどで

有名なナポリあたりの失業率は20%を超えていて、更に「家業」に熱心になる状況のようだ。ナポリツアー

の添乗員は、街中では大袈裟にも私達客をバスから降ろさなかった。

        猥雑なナポリの街は昼寝して

伊太利亜紀行その4

ベネツィアは不思議な街だ。実に不思議。海に浮かんでいるのだから。と言って夢の島のように埋め立てた

のでは無い。微妙に違う。海の浅瀬の砂洲上に切り出して来た石を積み上げて街を作ったというのである。ま、

10uというならわかる。しかし巨大な街をそんな風に作ったということと、そもそもそうやって作ろうと思

ったことにたまげるのである。以前から沈む、沈むと言われながら、ちゃ〜んとありましたよ。建物の土台す

れすれの所も一杯あったけど。冬の満潮時は、かなりの浸水をするのだそうだが、そんな時は手慣れたもので

板を渡しでヒョイヒョイと渡っていくんだとか。サンマルコ教会に入ったら、最高水位の後が付いていて、そ

れが結構な高さだったので驚いた。

        色事師カサノヴァの孫汗をふく

ベネツィア本島というが、実際は118の島と150の運河、そして400以上の橋で成り立っている。道

は細く迷路のようで、勿論車は入れない。年中歩行者天国なのだ。本土から列車や車でベネツィアに入るには

長い長い橋を渡り、ローマ広場に着くとそこで行き止り(列車はサンタ・ルチーア駅)。あとは徒歩か、水上

バス、水上タクシー、ゴンドラ、自家用船が移動手段のすべてである。だから400の橋は運河を船が通れる

ようにアーチ型になっている。街に広場は2つで、前記のローマ広場と有名なサンマルコ広場だけ。因みに広

場はピアッツァ。私が泊まったホテルはローマ広場に近く、水上バスの乗り降りは「ピアッツァデルローマ」

という船着場。いつも野茂の女房役のキャッチャー、ピアッツァの顔を思い出しながら覚えた。ついでに言う

と、本島の他にほんまもんの島もたくさんあって、その1つムラーノ島に行ったのだが、そこはかつての美味

ん坊バンザイの村野武範の顔で覚えました。へへ、恥ずかしい。

        ベネツィアの不思議を巡る夏の舟

 

サンマルコ広場             ムラーノ島   

ベネツィアに来てゴンドラに乗らないというのもないな、と思いカンツォーネ付の舟に乗る。6人乗りにイ

ナセな船頭1人。私が乗ったゴンドラに、男女の外人が乗って来たので、相乗りなんてヒドイなぁと気を悪く

した。それも漕ぎ出してのあまりの気持ち良さで上機嫌になった頃、やおら外人の男が立ち上がる。何すんだ

ろこの人、と思ったら唄い出した。そうかぁ!カンツォーネ付の舟だから歌手と伴奏者なんだ、とようやく納

得。サンタルチアや帰れソレントへ等を女性のアコーディオンに合わせて朗々と唄う。余りうまくない。でも、

運河や海に溢れる夥しい数のゴンドラの中で楽団付は私達だけだったので許すことにする。海から狭い運河に

入ると次々と現われる橋の上の人が羨ましそうに見ている。どんなもんだい!ってな感じである。うまくない

歌声が静かな運河に響き渡る。これで1人75000リラ。6800円位。高いか安いか。

        夏日落ちゴンドラの唄運河ゆく

今回のツアー(阪神航空)は、移動日を除けば他の日は全部終日フリー。1人参加の私は半分以上の日々を

1人で行動し、既にご紹介した食事もほとんどは1人だった。疲れれば休憩し、何も決めずに気楽に行動する

って1人旅ならでは。ベネツィアのフリー日は水上バスに乗って島巡りをすることにする。リド島とムラーノ

島。水上バスは交通手段の基幹で、たくさんの運河をぬって実にたくさんの運行経路が用意されている。急行

も鈍行もある。島の突端のサンマルコ広場から島の反対側のホテルまで歩くと、一度も間違えないでさっさと

歩いて30分。水上バスで遠回りの鈍行に乗ったら40分。近い急行で20分だった。リド島は、映画「ベニ

スで死す」の舞台にもなったし、ベネツィア映画祭もここで行われる。北野武監督もここに来たのね。島に着

くと違和感があったので、よく考えてみたら車が走っているのだ。本当の島だから車があるという訳。金持ち

の島。

ムラーノ島はガラスの島である。有名なベネチアン・グラスの多くをこの島で生産している。だから船着場

から、ガラス屋さんが延々と軒を並べる素朴な島だ。ムラーノのリストランテで昼食をとったら、隣のテーブ

ルにドイツ人の家族がいて、7〜8歳の男の子が「バティステユータ!」と騒いでいた。サッカー選手の好み

が同じだね、と話しかけたかったが、ドイツ語は苦手だ。ヘヘへ。

      夏木立花いっぱいのリドに居り

ムラーノはガラスの島や夏の海

      ベニス夏水上バスで往き来する

 

あまり歌が上手ではないゴンドラの歌手(男性)      リド島                          

 

伊太利亜紀行その5

イタリア人点描。先ず交通道徳が象徴的かもしれない。イタリアの街を走り廻るのは、みな小さな車ばかり

だ。車は門外漢なので車種とか排気量が何CCと言えないのが残念であるが、何年も乗り廻した低年式の小さ

な車の窓を開け放って、びゅんびゅん飛ばしている。彼等が駐車する場合、縦一列に前後の車とくっつかんば

かりにギリギリに停める。出る時どうやって出るのだろうと心配になるのだが、一度その現場を見ることが出

来た。先ず前の車にコンとぶつかって前に押し出す。これを何度か繰り返して前の車との距離を確保すると、

今度はバックして同じことをする。しかる後ハンドルを器用に廻してメデタク脱出するというテクであった。

バンパーはその時のための物らしいのだ。大きな基幹道路であれ、どこでもいつでも歩行者が平気で道を横断

している北京という街もあるが、イタリアも相当なものだ。信号が青なので道を渡ろうとすると、突然ピュ〜

っと車が進入して来て慌てふためく。狭い道の多い国なのに、どの車も制限速度なんてぜ〜んぜん関係ないも

んね、という運転ぶり。少なくとも交通道徳に関しては、呆れるばかりである。それでも、中国よりはいいか。

高速道路の料金所では、早くもITSETC)が導入されている。車に据え付けた信号機のようなものを料

金所を通過する時自動的に読み取って、まとめて請求するという仕組だが、料金所で少しスピードを落すだけ

で止まる必要が無く実に優れものである。昨年出張で香港に行った時初めて目撃して感心したのだが、イタリ

アでもそれをやっているという事が何かしっくりしない。日本だってやればもちろん出来る。となると、導入

しない理由は料金所のおじさん達の雇用問題なのだろうか。しかし、建設資金を回収したら料金を低廉化もし

くは無料にするという約束も果たされていないわ、渋滞は解消されない、料金所の機械化も進まないというの

は、どういうことだ!えっ?日本道路公団! 

閑話休題。イタリアに戻る。人的徴収をする料金所の先に2、3人がたむろしている。何をしているかとい

えば、ティッシュを売るという名目で立っていて、実はヤミ煙草を売っている。イタリアの喫煙率は高く、特

に女性が高いのだそうだ。イタリア政府は、そこに目をつけて煙草に高い税金を課した。だから煙草が300

〜400円位の値段となって、ヤミ煙草売りがビジネスになるらしい。

ドライブイン等のトイレはほとんど有料。200〜500リラが相場。意外なこと(こういう表現はイタリ

アに失礼でしょうか)に、水を流すのにオートマチックの所が多かった。便座から離れると自動的に水が流れ

るのはいいのだ。一度など出る際にドアを開けるとやっと流れるトイレに入ってしまい、仕組がわからずにオ

ロオロしてしまったぞ。「もうやりたいことは全部済ませました。後片付けもきちんとしました。じゃ出まし

ょうか」という気持ちになって、人は初めてドアを開け、次の人に個室を譲るのだ。それを肝心の後始末もし

ない内に、いくらオートマチックと書いてあっても開ける決心がつかない。そうこうするうちに、トイレの前

でお金の番をしているおじいさんが、ドアをどんどん叩き「オートマチック! オートマチック!」と叫ぶの

でやっと出る決心をした。恐る恐るドアを開けたら、勢い良く水がジャ〜と流れた。ほっ。

ツアーで海外に行くと、決まってお土産屋に連れて行かれる。業界事情に詳しくなると、これが薄利の業界

の貴重な財源になることもわかってくるので仕方ないよなぁ、と理解のある態度をとる。しかし買わない。買

っているのは、そんなこと全然知らないおじさん、おばさんである。海外の商人は、それが10歳の子供であ

ろうと、旅行者ごとに使用言語を巧みに使い分け、売り込む。そのプロ根性に畏敬を覚える。いろんな国でバ

スの乗り降りする時、「これで千円」「まとめて千円」と売り込まれた経験あるでしょ? ベネツィアのある

ベネツィアン・グラスの店は日本人を専門にするということを戦略とし、店員は徹底的な日本語訓練と日本人

研究をしていると見た。いくつも部屋があるのだが、グループ毎に部屋を閉め切り巧みに説明し売り込む。一

種の密室商法。感心するのは、彼等の日本語がうまい! 連句やりましょう、と言ったらいい句を作るかもし

れない。「このベネツィアに来て、ベネツィングラスを買わずに帰れますか? 昔のお嬢さん。どうですかぁ、

この見事な赤を見て下さいよ。しかもこの廻りは24金ですよ、24金。旅の思い出に、豪華なお土産に、貴

重な家宝に、お子様方への遺産に、買いましょうよ!」ふらふらと皆買うのである。戦略成功。                  

伊太利亜紀行その6

人々はポンペイという街を忘れてしまった。時折思い出しても「恐ろしい忌まわしい所」ということで忘れ

ることにした。1600年もの間。ナポリから少し南に行った、ヴェスビオ火山の麓にある街ポンペイ。南イ

タリアから北に向かう交通の要所だったし、海からも近い。死火山と信じられていたヴェスビオ山からかつて

降った灰を含んだ土地は肥沃だった。だから昔からオスク族、ギリシャ人、エトルスキ人、サムニウム人、ロ

ーマ人などが代わる代わるやって来て、ポンペイを支配した。特にエトルスキ人の影響を色濃く受けて都市国

家を形成した。2000年以上前のことである。西暦62年、ポンペイに大地震が襲い街の大半は崩壊した。

それでも驚異的な復興で街は再生した。その17年後の西暦79年8月24日、死火山と思われていたヴェス

ビオ火山が突如大爆発したのだそうだ。同じ街に2度も襲った大災害。火山から6キロしか離れていないポン

ペイには、3日間灰が降り続け、有毒ガスが蔓延した。当時ポンペイには2万人が住んでいたそうだが、大半

は非難したが、ポンペイに残って有毒ガスを吸って死んだ人は2000人に上った。犠牲者には財産を諦め切

れない金持ちとその従業員が多かったようだ。降った灰は7メートルとなり、繁栄していたポンペイは完全に

埋もれてしまった。

1600年経って、井戸を掘っていた住人がブロンズ像を見つけたところからポンペイ発掘が始まったが、

宝石泥棒などが横行し、発掘しても保存する技術が無いので中途半端なものであった。1860年に何ちゃら

という偉い先生が先頭となって本格的に発掘、保存、研究を始め、今世界中から観光客を集めるポンペイ大遺

跡となって蘇った。1800年もの間、7メートルの灰に埋もれていたのだから、もちろん屋根などが残って

いる建築物は少ない。それでも横壁や柱、床、石畳などはしっかり残っている。街ごと残っている。壁画もく

っきりはっきり残っているものも。海から街に入るマリーナ門をくぐると、縦2キロ横1キロの街を縦と横に

各2本の主要道路で9つのブロックで区切られたポンペイに入る。公共施設が集中している場所にはフォルム

(フォーラムと言う言葉はここから来ているそうよ)を中心に、裁判所、選挙管理事務所、神殿、公共トイレ、

市場などが整然と並ぶ。続いて、食堂や喫茶店、洗濯屋、両替屋、公共浴場、5000人を収容するものもあ

る劇場が3つ、運動場が揃っている。この頃日本は弥生時代。表面がつるっとした土器なんか焼いて、耳くそ

が渇いているもんね、なんて言っている時に、彼等は選挙したり、法廷なんかも開いていたのである。負けた、

と正直思ってしまう。

       ヴェスビオの山静まりて夏の雲

石畳の道を歩く。馬車が走って出来た轍(わだち)がちゃんとある。だから歩道もあるのだ。家々の前の石

には馬を繋いだと思われる穴が開いている。街は微妙に傾斜していて下水の構造上、そうしたようなのだ。水

道管も残っている。住宅は間口の狭い家が多く、それは間口の大きさで税金を決めていたので、そこを狭くし

て奥に広くとった設計になっている。京都みたいだなぁ。共同の水飲み場がある。水の出口には古代人の顔の

彫刻が彫ってある。多くの人が水を飲む時手をついた場所の石は深く摩り減っている。丸みを帯びたその凹み

に手を当ててみると何か古代ポンペイの人と隣人になったような気になる。

         炎天のポンペイの人歩き出し

ポンペイの街並     下水道の跡          水飲み場

住宅に入ってみる。総合大家族の家ドムスには、アトリウムという天窓(開いたままなんですけどね)のあ

る中庭風の部屋がある。天窓の下は浅い池のようになっていて、雨水を生活用水にしていたらしい。食堂には、

部屋の床の四方にごく浅い溝がぐるっと掘ってあるので、何だろうと思ったら、皆さん、食べては吐く溝なん

ですってさ! そういえば、デカメロンにもそういうのありましたよね。古代ローマ人もそうだったらしいが、

貴族階級は食べて、お腹がいっぱいになると、後を向いて溝にぺっと吐いて、又お腹をすかせて食べていたら

しい。こういう食べ方って、太るのでしょうか、そうでないのでしょうか。太らないとしたらズルイ! 死ん

だ2000人のうち、死んだ人の形がそのまま残ったものに石膏を流し込んだヒトガタが残っている。子供を

抱えたまま死んだ母親の姿が痛ましい。

この遺跡には、やたらと犬がいる。もう街中でタムロしていると言っていい。全部野良犬なのだが、猫を別

格筆頭として動物好きな夢子は嬉しい。が、よく見ると可愛くない犬ばかりだ。近親交配を続けたからじゃな

いかなぁと疑う。フリーセックス犬。遺跡の周囲はレストランがたくさんあるから、餌には困らない。彼等も

結局ポンペイ観光にぶら下がって生きている性道徳に欠ける犬ということだ。当日のポンペイの気温は40度

だった。涼しければ、もっとゆっくり見たいと思う。皆さんにもポンペイ観光は是非お勧めしたいが、夏を除

く時期に行くべし!と強い注釈をつけたい。

石の道路に「⇒」が北西方向に向いて彫られた物を発見。それは何か? まっ、看板と言っておこう。どう

もポンペイ観光の目玉になっているらしいのだが、これは街に何軒かあった売春宿の最大店の方向を指してい

るのだという。「人類最古の職業」というのは本当だったのだろうか。そこに行く。石で仕切られた狭い個室。

小さなベッド。当時ポンペイ人の成人男子の平均身長は150センチだから、こんなもんでいいようだ。2万

人のうち半分は奴隷だったが、ここで働く女性は自分の意思で出稼ぎに来たギリシャ人。ポンペイ人の言語は

ラテン語だったからギリシャ女性とは言葉が通じない。で、各部屋の上に克明なイラストが飾ってあって、客

は好みに応じて、「これ!」「今夜はあれ!」と指して指名していたらしい。イラストって女性の顔や身体が

書いてあったかって?ううん。体位。ハハハ。今は営業していませんので。念のため。

   

 食堂跡の溝(ここに吐いた?)                         

 

伊太利亜紀行その7

いつもは美術館など行かない人が、海外に行くと何故かニワカ美術愛好家になる。私もなる。(正直に言え

ば、東京で美術館に行ったのは、たったの1回。ヘヘ正直過ぎましたね)訪れた国の名だたる美術館は殆ど制

覇してしまった程だ。今回私が行った美術館は4つ。

ミラノサンタ・マリア・デレ・グラーツイア教会 これは美術館ではないけど、この教会の食堂の壁にあ

のレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の壁画があるのだ。当然知っていると思うけど、レオナルド・

ダ・ヴィンチって、ヴィンチ村のレオナルドっていうことなんだよね。温度を一定に保つため、一度に20人

しか入れない。朝早く(7時50分)に行っても1時間待ち。で絵だが、暗くてよく見えなかった。ワルのユ

ダなんて真っ黒で表情なんてわからない。でもとても大きい壁画。

ダ・ヴィンチの暗き名画や夏の空

フィレンツェ/ウフィッツィ美術館 ここは凄い。何たって3時間待ちであることと、あのサンドロ・ボッ

ティチェリの作品があるのですよ。彼の「ヴィーナスの誕生」と「春」「マジ(三賢王)の崇拝」等があるの

ですよ。これがステキでありました。とても。ボッティチェリの絵の先生であるフィリッポ・リッピももちろ

んありました。彼は、宗教画に初めて人間らしさを描いたことで有名なんですって。修道士だったのが、好き

な女性が出来たので、さっさと坊主を辞めて結婚し、奥さんを聖母マリアのモデルにして絵を書いていたの。

だから感情が絵に出る。なかなかいい話ね。面白いなぁ、と思ったのはボッティチェリの「マジ(三賢王)の

崇拝」で聖母にキリストの誕生の祝いを述べるために集まっている人物に、スポンサーのメディチ家のコジモ、

その孫のロレンツォ(後の豪華王)とジュリアーノ(暗殺される)がしっかりと描かれている。だってキリス

トが誕生したのはベツレヘムでしょ?時代も場所もとんでもなく違っても、スポンサーであれば、まるでそれ

が歴史上の事実のように一緒に描かなればならない画家って大変だよね。「よいしょ!」って昔ほどあったん

だ。とはいえ、フィレンツェから始まったルネッサンスはメディチ家があってこそのもの。ボッティチェリも

レオナルド・ダ・ヴィンチもミケランジェロもメディチ家の金で勉強したり制作していたのだから。「何のこ

れしき」か。イタリアはキリストよりも、圧倒的にマリア崇拝の国で、教会も絵の題材もサンタ・マリア何ち

ゃらばかりでした。

       ウフィッツィを人取り囲み夏盛ん

     夢に見しボッティチェリの春夏に見ゆ

     ヴィーナスは炎熱の日に悲しかり

 

サンタ・マリア・デレ・グラーツイア教会 ウフィツィ美術館 フィレンツェドゥオーモの大クーポラ

パラティーナ美術館(ピッティ王宮)

川にかかる有名なベッキオ橋を渡ると、ピッティ王宮がある。栄華を謳歌するメディチ家に対抗した大金持

ちのピッティ家が建てたもの。対抗心というものは、欲にかられているから、勢い立派な物を作ってしまう。

メディチ家のリッカルデイ宮殿より、ずっと立派。なのに、その後ピッティ家は没落して結局、メディチ家に

乗っ取られてしまったのは悲しいね。そのピッティ王宮の中にあるのがパラティーナ美術館である。ボッティ

チェリもラファエロ(大好き!)もあるのに、見学者は少ない。空いている。ウフィッツィとパラティーナ。

数百年前の力の差が現在も続いているようで、判官贔屓の私は、ピッティ家の応援をしたくなってしまった。

ピッティ家のパラティーナの絵にダリア咲く

ヴエッキオ橋を渡ってまっすぐ歩く。暫く行くと左手のピッティ王宮の中にパラティーナ美術館がある

美術館や教会等、観光名所を団体で訪れる時、イタリアでは必ずライセンス・ガイドの同行が必要だ。ライ

センス・ガイドの資格は、イタリア国籍でイタリアのパスポートを所持し、そして結構難しいらしい試験にパ

スすること。彼等に英語は必修らしいが、非イタリア語・非英語使用の国からの観光客には、それぞれの言葉

を使える通訳ガイドがつく。日本語ぺらぺらの外人であったり、当地に住む日本人がガイドなのだが、彼等も

毎日のように観光名所に言って同じことをしゃべるので、ライセンス・ガイドの知識は当然通訳ガイドのもの

にもなる。そのうち、両者面倒になって、もっぱらガイドするのは通訳になってしまう。従ってライセンス・

ガイドの役割が奪われる。が、同行を義務づけられているから、ライセンス・ガイドは所在なさげに、ただト

ボトボと後をついて来るとか、先に歩いて団体チケットを買って待っていたりするしかない。ポンペイでは、

ライセンス・ガイドが同行し、ちゃんと仕事をしているかを見張る警官がパトロールしていて、今までボーッ

としていたガイドの兄ちゃんが、突然英語で説明しだしたのだから驚いた。イタリアの産業は農業と観光が主

ということだから、これも雇用の確保の国策と見る。推測だが、実際に働いている通訳ガイドよりぼーっとし

ているライセンス・ガイドの給料が高いのか、通訳ガイドはいつも憎々しげにライセンス・ガイドを見ていた

ぞ。

アッカデーミア美術館

待ち時間40分。ミケランジェロのあの「ダヴィデ像」がある。入ってちょっと行くと、もうそこに堂々と

裸で立っていらして「あら、まぁ。そんな」とモジモジする。ミケランジェロ広場とシニョリーア広場にコピ

ーがあるのだが、やっぱり本物は違うね。でも120年前までシニョリーア広場に雨ざらしで立っていたのだ

そう。何てことを!どこから見ても、均整のとれたカンペキな青年ダヴィデにうっとりしてしまうが、自分が

今の年齢になっていて良かったと思う。10代や20代の前半だったら、ダヴィデ像始め街のあちこちに立って

いる裸の男を凝視することは出来なかったのじゃないかってね。顔を赤らめて恥じることもあったのではない

か。今は悲しいかな、何でもない。ハハハ。でも、イタリアは裸といえば男だし、男は皆裸にして彫像するの

は何故なのでしょうね。決まって巻毛なんですけど、皆天然パーマだったのか、それともその頃はカラーで巻

いたりしたのか。フィレンツェをぶらぶらすると、ブラブラしているものが必ず目に入ってしまうのだ。 

       幾夏や花の都にダヴィデ立つ

 

               

伊太利亜紀行その8

「ローマは一日にして成らず」「永遠の都ローマ」「すべての水はローマに通ず」……。他にも色々あったな。

それほどローマは有名です。古代ローマ時代から歴史の変遷はあったものの、長い長い年月を経た今も都であ

り続けた都市なんて世界中には無い。凄いなぁ思う。建国の歴史は、兄弟殺しとか雌の狼が育てたとか双子の

殺し合いとか、到底事実とは思えない伝説なのでここでは触れない。そんなローマに、地下鉄は2本しか走っ

ていない。地下を掘ろうとすると街中遺跡だらけなので、ダメなんですって。教会だけでも市内に800もあ

るというのだから。それほど遺跡や古い建築物で溢れた街。

          鐘聞こゆローマの松や夏日陰

数多い教会の中で、圧巻は何と言ってもヴァチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂。カトリックの総本山

だ。まず目を見張るのは、大聖堂の前に広がるサン・ピエトロ広場の両脇にまるで巨大な腕を広げたような弧

を描く回廊である。あのベルリーニの設計というが、4本づつ建てられている柱がある地点で見ると、まるで

1本に見えてしまうからアッラー不思議。大聖堂の横で警備をしてるのは、これまた不思議スイス兵。大聖堂

に入る前にチェックがある。ノースリーブなど腕を剥きだしとか短パンの人間を排除する。絶対ダメの勢いで

ある。だいたいの日本人はちゃんと勉強して来ているから、バッグに薄いショールやスカーフを持っていて何

なく通り過ぎる。常識が無いのかうっかりしたのか、若い外人観光客はびしばしツカマっていて情けない。彼

等がどうするか見ていたら、短パンの上からジーンズを履いたりして苦労しておったぞ。

大聖堂に入る。20年前にここに来た時、いたく感動したミケランジェロの「ピエタ」像と再会出来るのが

楽しみだ。ピエタとは、十字架から下ろされたキリストを抱いて悲しみにくれるマリアの姿を表わすのだが、

この大聖堂のマリア様が言葉で表現出来ない程素晴しい。女の私でも見とれてしまう程、お姿が美しくマリア

様の悲嘆が静かにしかしひしひしと伝わってくる。私にとって理想の男性像である奈良・興福寺の阿修羅像に

何度も会いに行っているが、ローマが近所だったらマリア様に週に1度はお会いしたい。ミケランジェロは4

体のピエタ像を作ったが、完成したのは彼が一番若い時に作ったこの像だけ。因みに今回、ミラノとフィレン

ツェでもピエタ像を見たから、3体のピエタを見たことになる。

 

サン・ピエトロ大聖堂        これはフィレンツェのピエタ

昔、皇帝は死んだ後の自分を神にしようとした。皇帝が死んだら誰でもなれる訳ではなく、現役時代に功績

が大きかったり、人気がとてもあったとかでなくては神に推挙して貰えなかったらしい。だから歴代皇帝は人

気を取れることを考える。コロッセオもそうして作られた。6万人を収容できる競技場を1900年も前に作り、

皇帝は貴族や市民を毎日招待しては食事や酒を振る舞い、剣闘士の試合、剣闘士と猛獣の試合などを繰り広げ

てわぁーわぁーやっていたのですな。み〜んな仕事もしないでさ。そんなことを何百年もやっていれば、古代

ローマも滅びるよね。おまけですが、コロッセオとは「でかい!」という意味です。    

歓声の聞こえし夏やコロッセオ

パリの凱旋門はつとに有名だが(最近はツール・ド・フランスのゴールでも有名)、ローマには凱旋門があ

っちこっちにある。あっちこっちの国に行っては戦争をして、しかもよく勝つので、勝利の記念物をやたら作

らなければならなかったからだ。途中から土地が無いから小さいものにしてくれ、とか2000名以上殺した場

合のみ凱旋門の建設を認める、等と役所のようなことを言って制限したとか。コロッセオの隣にあるコンスタ

ンティヌス皇帝の凱旋門は、経費&原価削減のためオリジナルで作ったのは制作年と名前の文字だけで、あっ

ちこっちの彫刻を剥がして来て張り付けわずか4年で作った。経費&原価削減・納期短縮はいつの時代も共通

のテーマのよう。ビジネスマンの皆さん、納得した?

ローマには、古代ローマの中心部の遺跡フォーロ・ロマーノや噴水コンペで優勝して作られたトレヴィの泉、

「ローマの休日」で有名になったスペイン広場等、見るものがたくさんある。日本人観光客はトレヴィの泉と

スペイン広場には必ず行く。スペイン広場はブランド品の店が連なるコンドッティ通りが続いていることもあ

るのだが、やはり映画で見たあの階段に座ってジェラートを舐めたいというのが人気の理由だろう。確かあの

階段ではジェラート舐め行為は禁止だったと思うんだけどね。44前に作られた「ローマの休日」だが、今も

観光の貢献は大変なものだ。イタリア政府は、今からでもオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックに

改めて感謝し、凱旋門か銅像を作るよう進言したい。

        ローマには銭投げに来る泉あり

 

コロッセオの内部      コンスタンティヌス皇帝の凱旋門

おしまい

※旅した日:1998年7月17日〜26日   書いた日:同年8月中旬

 

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