夢子の地球大好きシリーズ

モロッコ陽炎ゆらゆら パート1 

 成田から都心に向かう車の中から、沈む夕陽を眺めていた。傾くに従い急速に輝きと力を失っ

て、正視してもそれ程眩しくもない。長旅で纏わりついた汗や疲れを不快に感じながら身を動か

した時、ふと気がついたのだ。千葉県でぼんやりと沈みかけているあの太陽は、数日前メルズー

ガの砂漠で日の出を見た同じ太陽なのだと。メルズーガは、アルジェリアのサハラ砂漠に続くモ

ロッコの南の国境に近い街。当り前じゃないか。太陽も月も地球も一つだ。頭ではわかっていて

も、驚きだった。そして混乱している。砂漠の向こうから静かにスッと昇った太陽と、今見てい

る太陽が同じとは思えない。今戻って来た国モロッコは、いろんな色をキャンバス一面に塗りた

くったような実に不思議な国だった。

地形のデパート「モロッコ」

 出掛ける前、電話を貰った。イタリアの旅でご一緒して以来、何かと連絡を取り合っている添

乗員のAさん。「モロッコに行かれるの? モロッコは面白いわよ。ムチャクチャ面白い、ひと

ことであの国を表現するとコントラストの国と言うらしいわよ。」             

「ヨーロッパの果て、アフリカの始まり」と言われるモロッコ。アフリカ大陸の最北西端に位

置する。北は地中海、西は大西洋、東と南はプレサハラを経てサハラ砂漠に続く。そして国の背

骨のように、3000メートル〜4000メートル級の高山が連なる複数の山脈。大西洋側から

吹く湿気を帯びた風も、南西のサハラから吹き付ける熱風も、中心の山脈で遮られ、この地形が

もたらす気候は、地域によって全く違うことになる。海側は肥沃な緑なす平野、逆にアトラス山

脈の東南側のプレサハラ側は、乾燥して暑く不毛の地だ。もちろんアトラス山脈は高地だから気

温は低い。マラケシュなどの内陸では日中はとても暑い。地中海沿岸、大西洋沿岸、内陸高原、

山岳地帯、砂漠地帯と大きく5つの気候があり、四季でも気候は変化し、その上一日の気温差も

激しい。

そんな国を小さな円を描くように、8泊9日でぐる〜っと廻ったのだから、暑い、寒い、暑い、

寒い、暑いと存分に味わった。カサブランカから首都ラバト、ワインの産地メクネス、フェズま

での道のり、そしてマラケシュから再びカサブランカに至る地帯は、豊かな穀倉地帯で、緑の畑

や鮮やかな花々が咲き乱れる。特にラバトからフェズまでの高速道路の両脇には、地形がうねる

ような緩やかな傾斜地に赤や黄色、ピンクなどの花畑と草原が続き、まるで北海道・美瑛のラベ

ンダー畑を100倍にしたような景色だった。フェズから南に向かって丘をどんどん登っていく。

モロッコのスイスと呼ばれる涼しげな夏の避暑地「イフラン」は海抜1650メートル。そこか

ら少し下ると何千年も前から生い茂るアトラス・シーダの森となる。ヒマラヤ杉の一種で、かつ

てはエジプトのミイラの棺桶に珍重され、今でも高級家具や建材に使われ、中には樹齢数百年の

木もある。ポプラの木もあり、この当たりは積雪地帯で、道路の両脇には積雪時の目印が立って

いた。牧草地が続き、遊牧民のベントが所々に見え、羊の放牧の風景が広がる。再び登った一番

の高所のZADザド峠は2178メートル。この後も登りと下りを繰り返し、白樺の木があった

かと思えば、ミデルト周辺はりんごや無花果などの果物の畑が続く。やがてステップ地域に入り、

地層の隆起で出来上がったアメリカの中西部のような風景が出現する。今にも向こうの山の頂き

から狼煙が見えそうだ。そして砂漠地域に。砂漠と言っても、普通イメージする砂砂漠の他に礫

(れき)砂漠、岩砂漠、土砂漠があって年間の雨量は100ミリに満たない。干上がった川があ

り、それでもところどころにオアシスがあって、本来のオアシスの意味を実感する。アルジェリ

アの国境近くはプレサハラ地帯。これでやっと半周。ここまででも十分なコントラストがある。

         青麦や大西洋の風に揺れ

モロッコはどんな国? 

モロッコは、チェニジア、アルジェリアと並んで「マグレブ3カ国」と呼ばれる。いずれもアフリカ大陸の

北西部にあり、マグレブとは「陽が沈む国」という意味らしい。モロッコの歴史を、叱られる位簡単にまとめ

ると、「紀元前5千年くらいに、どこからかベルベル人がやって来て、この地に住み始める。紀元前1100

年頃、フェニキア人が来て、以来ローマ帝国の支配を受ける。7世紀頃、アラブ人が東から流入し、じわ

じわと数百年かけてアラブ語やイスラム教の浸透が進む。8世紀終り〜10世紀、初のイスラムのイドリー

ス朝がフェズに王国を建設。11〜12世紀、ベルベル人がとって替わってムラービト帝国。首都マラケシ

ュ。スペインを支配。12〜13世紀、同じくベルベル人のムワッヒド帝国。スペインのセビーリアを副都とし

て、スペイン国内にイスラム文化が繁栄する。13〜15世紀に、これもベルベル人のマリーン朝をフェズ

に建設。16〜17世紀ここからまたアラブ人に政権が移り、シャリーフ(ムハマンドの血統)を名乗るサー

ド朝がマラケシュに建国。17世紀〜現王朝のアラウィー朝がメクネスとフェズに都を建設。シャリーフ崇

拝が広まった。1912年にはフランスの植民地化・保護領となり、ラバトに遷都。フランス語教育が始まる。

1956年フランスから独立し、追放されていたムハンマドX世が帰還し統治する。1961年ハッサンU世

の時代。1999年ハッサンU世死去し、現在のムハンマドY世即位。」ということになるのだが、近年の出

来事でいえば、1975年、西サハラを領地だと主張して、ポリサリオ戦線と武力衝突したり、イスラム原理

主義を恐れて、1994年以来アルジェリアと国交断絶したりで、周辺国との火種はくすぶっている。「大モ

ロッコ帝国」の幻影は未だ強いようで、西サハラをモロッコの領土としていない地図を収録したガイドブッ

クを持っていると、空港で入国拒否にあったこともあったそうだ。国境付近には、今も地雷が埋められて

いるというから「モロッコはステキだ」なんて、勉強もしないで手放しで誉める訳にも行かない。モロッコで

は、政治や国王の話はご法度らしく、「今日のモロッコ」は、この目で見たものしか把握できない。

   

ラバトの王宮       フェズの王宮      マラケシュの王宮のパティオ

モロッコという国名は、フランス語、英語の表現で、アラブ語で正確に言うと「アル・マムラカ・トゥル・マ

グリビーヤ」って言うのですって。「西方の王国」という意味だそうです。モロッコの名は、何度も首都にな

ったマラケシュから来ているらしい。モロッコの住人で一番多いのはベルベル人。モノの本によって違う

が4割から6割。他はアラブ人と少しのフランス人、ユダヤ人。ベルベルの意味はギリシャ語で「ヘンな言

葉を話す人」ということらしい。言葉は、アラビア語とフランス語とベルベル語が通用し、公用語はアラビ

ア語である。しかし、ベルベル人とアラブ人、アラビア語とベルベル語の見分けは両方とも全くつきませ

んでした。そしてここはイスラムの国である。初めて体験するイスラム圏だったので、興味津々だったが、

予想よりそれは強いものだった。「アザーン」という夜明けから日に5回行われる祈りの声。エジプトやトル

コではテープのアザーンを使っているが、モロッコは全部ライブ生の人声だとマラケシュの現地ガイドが

威張る。ふとバスの中から見ると、崖の上でも東を向いて祈る姿。アメリカ系の5つ星ホテルの中庭にも

絨毯が敷かれた祈りのテントが設置されている。カサブランカは例外として、大きな街で一番高く立派な

建物は、もちろんモスクとミナレットである。年に1ヶ月ラマダンの断食。豚肉は食べない。酒も飲まない。

イスラムでは預言者ムハンマド(マホメット)の子孫はシャリーフ(サイイドとも)と呼ばれて特別な尊敬を集

めるが、サード王朝、現在のアラウィー王朝もシャリーフ王朝。シャリーフは、全能の神アッラーから神聖

な力バラカを授けられる。よって、アラウィー王朝とシャリーフ王朝の王(サルタン)は、政権とイスラムの

最高聖者を兼ね備えた存在となった。民家の扉には、ムハマンドの4女ファティマの手を象ったドアノッ

ガーの御守り。一番飲まれている水シディ・アリのシディも聖者の名前。敬虔なイスラム教徒は、街を歩

いていても貧しき者の手にそっと金を渡して喜捨をする。上から下まで、朝から晩まで、行住坐臥すべて

がイスラムの教えによって回っている。

     

マラケシュのクトゥビアのミナレット  メクネスのムーレイ・イスマイル廟      

 私たちが鮨屋で食べているタコやイカには、このモロッコの沖合で捕れるものが多く含まれている。鰯

の水揚げが最も多く、鮪も多い。鰯の缶詰の加工業も含めて、漁業は沿岸地域の重要な産業だ。北西

部や内陸部では、商業と並んで、柑橘類、ワインなどの輸出品を含めて農業が盛ん。また、プレートテク

トニクス運動の結果出来上がったモロッコの大地は、化石や鉱物の資源を豊富に含んでいる。南の砂

漠地方に行くと、「砂漠のバラ」と呼ばれる硫酸カルシウムの石膏やアンモナイト、オウムガイなどの化石

の店が多い。リン、鉄、マンガン、銀などが豊富で、中でもリン鉱石は、世界第3位の埋蔵量。日本にも

輸出している。牧畜、林業が盛んなのは山岳地帯。しかし、人口約二千八百万人のうち三分の一は、多

くの人手が必要な刺繍や絨毯、皮革製品、衣服などの手工業の生産と仲買、販売などに従事してい

る。

     

砂漠のバラ      アンモナイトとオウムガイ      モロッコ絨毯       鍛冶屋

雇用者の半分以上が、カサブランカに集中していて、貧しい地域からの流入が激しい。カサブランカ

の中心地から少し離れた大きな墓地には、地方から来た人々がバラックを建てて住みついており、そん

なバラックにもパラボラアンテナが立っていて何だか哀しい風景だった。旅行中、私たちのツァーと共に

ずっと一緒に廻った公式ガイド氏は、大学出のエリートだが、失業率や平均所得を聞いても、はかばか

しい答は返って来ない。「モロッコ政府は、そういった統計は取っていない」と言うばかりである。議会が

あるとはいえ、立憲君主制で国王が行政権、三軍の統帥権、国会での法令制定の拒否権を持つお国

柄だから、都合の悪い数字は公表しないのだろうか。古いデータでは、都市部に住む15歳〜24歳まで

の若者のうち、失業者は30%を超えているそうだ。

              あばら家のパラボラアンテナ春哀し

買い物はゲームと思え 

 ここまでの教科書調改め、いつもの夢子風に行きます。この旅で、最も熱中したのは買い物であった。

普段の自分は買い物がキライだ。面倒なのだ。だから、洋服などはサイズが合ってまずまず気に入ると

「何色あるの?5色?じゃ、それ全部」と言って一度の試着で済ませて来た。昨今はそれすら面倒で、大

半は通信販売である。それが、ガイドがこう言ったのだ。

「モロッコでは、商品に値札はない。すべて商人との交渉である。交渉をして納得がいけば、買えばい

い」と。げっ!いちいち交渉するぅ?普通に買うのだけでも面倒だという人間に、それは余りにコクだ。お

土産も買わねばならないし、自分用にもいくつか買いたいものがあるのだが、そんな面倒な方法では買

う気が失せる。しかし。しかしである。いやいやながらに、交渉&買い物をしているうちに、すっかりモロッ

コ風買い物にハマッテしまったのである。

 店の中をぶらつく。ふと何かが目に止まり品物を手に取ったとする。そこへす〜っと店員が近づいて、

二カッと笑う。そこで「ハウマッチ?」と質問。モロッコの通貨はディラハム(DH)で1DHは、昨今の円の

低下で12円になったが、10円と思えばいい。彼は「100DH」とぬけぬけと言う。「ふんっ」と軽くいなして

帰ろうとする。彼は慌てて「ハウマッチ?」。そこで、私は、「う〜ん、10DH」。彼は手で「それじゃあ、僕

はクビになっちゃうよ」という感じで自分の首を手で切るフリをする。で「90DH」、私「15DH」。彼「80

DH」。私「20DH。・・・・・・・・・。こんなことを延々と続け、最後に売り手が「ビンボープライス○○DH」と

言って、だいたい30〜50DH当たりで両者手を打って、めでたく握手。料金の決着には、「じゃ、その値

段でいいから、これも付けてね」」と客が申し出る場合もあるし、売り手が「その値段にまけるから日本の

ボールペンくれよ」というおねだりが出ることもある。日本のボールペンは何だかとても人気が高い。用意

の良い人は100円ショップで5本100円のボールペンを買って来ていた。私はボールペンの持ち合わ

せが無かったので、ハイライト1本をその道具にした。100円ショップのボールペンだって1本20円だけ

ど、ハイライトなら1本12円50銭だ。こんな交渉ごとが、数万円の銀製品を買う時も、200円の置物を買

う時も繰り広げられる。

 今回のツァー参加者は22名。多くの方と親しくなったが、買い物交渉の場は、それぞれの性格が明

確になって、それも興味深い。私は、仕事で値引き交渉などやったりやられたりで経験はある。だから、

大胆な始値を出し、強気で買い物を進める。おっとりしたSさんは、100DHに最初から80DHなんて言

ってしまうから、高い買い物をしている。そんな様子を我慢できずに、交渉場面に割り込んで代わりにガ

ンガン値引きしてしまう。一番粘ったのは、M夫人。もうバスが出ますよ〜というギリギリまで粘って、店の

人の焦る気持ちを利用して安い安い決まり値にしていた。買い物後のバスの中は「これは最初いくらだ

ったのを、これもつけていくらにした」という買い物自慢大会と化す。良い買い物をしたとほくそえむ人も

いれば、失敗したとがっかりする人もいて面白い。買い物はゲームになる。勝ったと客を喜ばせておいて

間違い無く店の方も満足しているに違いないのだけれど。例外的にフィックス値段の店にいくつか行っ

たが、購買欲が極端に落ちた。だって、一律5%オフで交渉ゼロなんかでは、買い物の妙味が無くてつ

まらないのだ。そんな買い物をずっと続けていたら、帰国後、成田のタクシーの運転手につい値切って

いる自分がいた。

今回のツァーでは、何軒か「外人観光客ご用達」のような店に何軒か行った。自由に店を選んで買え

る国なら、そういった店では私は買い物をしない。店の人間が巧みな日本語を使って、その気にさせる

のを冷静に眺めているだけだ。しかし、モロッコでは面白いから売り込みのショーも買い物も楽しんだ。

フェズのメディナ(旧市街)のスークの中で昼食を取った。食後のミントティは隣の店で出ますというの

で、移動するとそこはモロッコ絨毯の売り場。レストランが絨毯屋もやっているのか、絨毯屋がレストラン

を併設しているのかはわからなかったが。「何だ、こうゆう仕掛けかよ」と誰しもシラケたが、そこに見事な

日本語を話すハンサムな店員が説明し始めたので、暫くは許すことにする。

 

熱弁をふるう絨毯屋のバイリンガル氏      化石屋には年代別の説明図  

「モロッコ絨毯は、ウールで出来ています。だから、ペルシャ絨毯に比べたら安いです。安くても、全

部手作りで、とても時間をかけて作ります。ウールは、全部自然の植物で染めます。赤はポピー、オレン

ジはヘンナ、黄色はサフラン、青はインディゴ、全部植物で染めています。あの模様は(とある絨毯を指

し)ベルベルブルーで、ベルベル人独特の模様です。それでは皆さんに素晴らしいモロッコ絨毯のお勧

め品をお見せしましょう。これは、年代モノで35万円です。次は・・・・・・・・」と、助手に次から次へと絨毯

を広げさせては、立て板に水の説明をしていく。みんなジッと見ているだけで、買う気配はない。一番大

きな絨毯から徐々に小さくなって、ついに大きな玄関マットのサイズまでになった。新しい絨毯を出す前

に、畳むとこんなに小さくなる、というパフォーマンスも忘れない。この当たりで「それいくら?」の声。する

とあちこちで商談が始まり英語、仏語、日本語チャンポンの太った愛嬌ある社長が出て来て活躍する。

「ビンボプライス シルブープレ」「ノンノン、ビンボー値段」の応酬を重ねて、約10枚の小さな絨毯が売

れた。買ったかって? はい、私も将来住む大きな家(?)のために、大きな玄関マット買いましたよ。1

万8千円。エルフードの化石屋も、マラケシュの香辛料屋も負けじと頑張り、楽しかった。

カオスの迷路メディナ・スーク 

 フェズとマラケシュのメディナに行く日を楽しみにしていた。両方が世界遺産に指定されているから、と

いう訳ではない。とにかく形容し難い魅力があるというのだ。旅の3日目、フェズのメディナに向かった。

フェズは3つの地区に分かれている。旧市街フェズ・エル・バリとユダヤ人街のフェズ・エル・ジュディド、

そして新市街。フェズ・エル・バリは、9世紀の始め、最初のアラブ王朝イドリース朝の首都となったフェズ

に建設されて以来、この地で商業の中心となっている。大きな城壁に囲まれた中に、細い路地がうねう

ねと曲がりくねり、意外に起伏もあって膨大な小さな店を呑みこんでいる。一体何軒の店があるのか。店

には番号がついていて、1万5千の番号を見た人はいるが、答えは不明だ。フェズ・エル・バリとフェズ・

エル・ジュディドでフェズの半分近い人が仕事場と住居を兼ねて住んでいるというのだが、それも定かで

はない。

 たくさんある門の近くでバスを降りると、いきなり羊の頭がずらっと並んでいて、思わず目をそむける。

門から細い路地を進むが、匂いも凄い。細い路地の両脇には溢れる商品を並べた小さな店が延々と続

く。商店街の人々、買い物客、私たちのような観光客、ここに住む子供達・・・・、夥しい人々が縦になっ

てよろよろと歩き、走り周り、叫び、生きている。公式ガイドが必要な位の迷路で、前の人を見失うと心配

でならない。ここはさっき通ったではないか、いや初めてか、あらっ? どこかで先頭が曲がったのか、な

どと思いつつ、店の商品を、店主を、歩く人の表情を、転ばないように足元を見ながら歩くのだから忙し

い。雑多なようで、街は商品ごとにまとまっていて、生きた鶏が足を縛られて売られているコーナーを過

ぎると野菜や果物屋が続き、ジュラバやカフタンの衣料品、木工品、真鍮、爪先が反り返ったバルーシ

ュと言うスリッパ、靴、仕立屋、貴金属、蝋燭、香辛料、パン、おもちゃ、菓子、オリーブ、エスカルゴ、皮

革製品などが一塊となって店を開いている。スークに入った時の獣臭さも商品が代わると匂いも変わっ

て来る。木工屋では、その場で家具を作っていて、婚礼用の豪華絢爛キンピカの椅子が完成間近だっ

た。その値段は月給の数倍とかで、ダイヤモンドメーカーの何ちゃらという会社が映画館で「婚約指輪は

月給の何倍」と言って喧伝し、まんまと引っかかったのは、ブラジルと日本だけだったという話に似ている

ね。しかし、一説には、モロッコでは離婚率が5割を超えるらしいから、高額の結納金も合わせるとモロッ

コの男も大変。だから結納金を支払えないビンボーな男は、結婚出来ないことになる。で、外国人女性

なら「タダ」だからと、すぐ結婚しようと言うのだと聞いた。本当かしらね。

子供達は、我々を見ると「こんにちは〜」と「に」にアクセントをつけた挨拶をする。みんな「こんにちは

〜」。一目見て日本人と察する。ま、中国や韓国の人は今のところ殆ど来ないから、アジア風なら日本人

で間違いないのだろう。子供達は挨拶だけの場合もあるが、本心はキャンディやお金も欲しい。シッカリ

者の子供は観光客からセシメタ菓子を、売っているのだとか。子供はまぁいい。困るのは大人だ。皮の

財布、おもちゃのような楽器、駱駝の人形のどれかを手に、観光客に纏わりつく。「100DH、千円、10ド

ル」「100DH、千円、10ドル」「100DH、千円、10ドル」を何度も何度も繰り返して、纏わりつく。手を振

って要らない、なんて言ってもぜ〜んぜんお構いなし。見もせず、毅然と無視なんかしても全くお構いな

し。「うるさい! あっち行け!」と怒鳴っても、ちっともお構いなし。もう、ゲンナリして買ったとする。する

と別の商品を持ったおじさんが纏わりついて、「100DH、千円、10ドル」を繰り返すのである。でなけれ

ば、客の仲間に「あのマダム買った、あのマダム買った」とお買い上げモデルにされてしまう。逃れように

も、こんな狭い路地じゃあ、無理だわね。それでも買わない客には「ビンボー!!」と捨て台詞。そんな

時、後の方がザワザワとして男の大声が響く。「バーラック! バーラック!」。振り返ると、大きな荷を乗

せたロバのお通りだ。人々は慌てて両脇に散って壁に張り付く。ロバを引いた男が急ぎ足で過ぎ去る。

こんなことはしょっちゅうなのだ。バーラックの身の危険、強引な押し売りの煩わしさ、子供達の頂戴攻

勢、迷子になる不安、スリもいるという懐中モノへの緊張を抱えながら、それでもこのエネルギッシュなス

ークを楽しむのだ。

        

これがバカ高い婚礼用の椅子

 店の規模は大きな所も何軒かあったが、多くは極めて小さい。間口1メートルちょっとの店が大半だ。

店に入るドアも無いので裏に出入り口でもあるのかと思いきや、カウンターの商品をちょっと片方に寄せ

て、オッコラッショとカウンターを飛び越える。体操の鞍馬で両足を揃えて飛び越えるワザがあるが、あれ

をゆっくりやる感じ。入るのも出るのもそうやる。この日は、イスラム暦でいう新年の正月期間なのだそう

で、おもちゃ屋にはたくさんの商品が並んでいた。新年だけは子供達もプレゼントとしておもちゃを買っ

て貰えるらしい。堂々日本のピカチュウも人気者であった。イスラム暦元年は太陽暦622年で、ムハンマ

ド(モハメット)が迫害されメッカを追われ、ヤスリブ(のちのメディナ)というオアシスに移り住んだ年だとい

う。イスラム暦は1年354日なので、いわゆる新年というのが、少しずつズレて、長い間で考えると四季の

どこでも新年になる可能性がある。しかし、祝祭日などの日は決まっているが、太陽暦とイスラム暦がず

れてしまうので、本年で言えば、1月1日は3月27日、3月12日のモハメッド生誕祭りは6月4日、断食

のラマダン9月1日は11月14日頃、同じくラマダン明け10月1日は12月15日頃ってな具合になるんだ

ってさ。海外の人と日を設定したりする時は、太陽暦使わないとならないし、2つの暦を使いこなすのは

大変だ。そうゆうことで3月27日が1月1日だったので、未だお正月気分ということらしいのです。

地面がジメジメした路地を進みに従って、強烈な匂いが鼻をつく。ナンダ!この匂いは。そこでガイド

氏大量のミントを買って我々に配り始める。益々キツクなる匂い対策にミントを鼻に当てながらなめし皮

染街・ダッバーギーン(フランス語でタンネリ)に行くのだ。いやはや表現に迷う強烈な匂いだ。ある建物

の狭くキツイ階段をどんどん登っていくと、屋上に出る。そこから眺めた景色は、匂いを忘れる感動的な

ものだった。色とりどりの丸い染色桶がずらりと並び、その中に多くの職人がすっぽりと入って作業をして

いる。近くの建物の屋根には染めた皮が並べられ乾かされている。奥の方では運ばれて来た皮の毛を

取っている姿も見える。中世以来の同じ作業なのだと。覗き込むと、匂いは更に強烈に。ずっと見ていた

いが、段々我慢が出来なくなる。添乗員氏は、ミントの葉を鼻に突っ込んでしまった。暑い日向でぼ〜っ

としている大人もたくさんいるけど、こうした環境でツライ仕事をしているモロッコ人もいるのだなぁ。

 メディナの中は、スーク(市場)ばかりではない。14世紀に建てられたブー・イナニア・マドラサやアッタ

リーン・マドラサの神学校、ザウィア・ムーレイ・イドリス廟の修道院、カラウィーン・モスクなどがあり、メディ

ナの中に街としての施設が整備されていたことがわかる。フェズはモロッコで一番古い都だが、今でも学

問や芸術が盛んと聞く。絨毯屋の従業員の自宅にお邪魔した。昼間なのに真っ暗な狭い路地をくねく

ね曲がり、急な坂道を登ったところに、その家はあった。家とは言ったが、間口2メートル位の粗末な入り

口を入っていくと、何と300年前に建てられたアンダルシア風の堂々とした室内。家の中心には、およそ

3階建て程の高さの居間が屋根まで吹き抜けになっていて、明かりは屋根から取っている。外の喧騒が

嘘のように静かで、かつ涼しい。居間を真ん中に寝室が2つあり、1つは絨毯屋さん夫婦の部屋、他方

はお母さまの部屋。そしてトイレと小さな台所。主婦グループは、ぞろぞろと台所に入って見学させて貰

う。中産階級でないと、こんな家は買えないらしい。ここでも、ミントティの淹れ方を教わりながら、ご馳走

になる。

アッタリーン・マドラサの神学校         カラウィーン・モスク      絨毯屋の従業員氏自宅         

喧騒のフェズのメディナに春日陰

一方マラケシュのメディナは

 最初の王朝イドリース朝の首都はフェズだったから、フェズが一番の古都である。続いて出来たムラー

ビト王朝はマラケシュを首都にした。だから2都は、日本で言えば奈良と京都のような存在かもしれな

い。それぞれの街は以降3回づつ首都となっている。そのマラケシュにも、とても有名なメディナがあり、

双方が世界遺産に指定されている。南北に13キロ、東南に8キロの城壁の中にメディナ(旧市街)があ

る。メディナの南部分には史跡地区と呼ばれる王家の霊廟や王宮があるが、ここでは中央から北のスー

ク(市)の話を。フェズでは商店と住居が混在していたが、マラケシュでは完全に分かれている。だから2

500軒あるスークは、夜は無人になるそうだ。城壁を入ると、まずは住宅地で、日本で言えば銭湯に当

たる「ハンマーム」という公衆浴場があったりする。このハンマーム、時間帯で男湯、女湯となるが、男→

女→男の順で、こんなところでも男が得。中は3つの部屋に温度別に分かれていて裸は厳禁だそうだ。

住宅のドアにはここまでも何度か見かけた「ファティマの手」をかたどったノッカーをつけている家もある

掌は、中指を中心に左右対称の形で、指の5の数字がイスラムの五行(信仰の告白、15回の礼拝、

貧しきものへの喜捨、ラマダンの断食、メッカへの巡礼)を表わすという意味もあるようだ。私もフェズで銀

製の「ファティマの手」チャームを買いましたよ。何の魔を除けるんでしょうね。

 ようやくスークに入って、まずあるのは皮のなめし職人街。そう、またあの匂い。でも規模が小さいのか

匂いはやがて消えた。次に鍛冶屋。そんな風に、中心に向かう程良い香りのする街に構成され、中心の

フナ広場の一番近いところには香辛料の店となる。フェズに比べての違いは、道が広い。よって車やリ

ヤカーの進入が可能。よってロバや馬は激減する。商店街というより、生産現場と言った色彩で、徒弟

制度なのか若い男、子供までが親方の指導よろしくせっせと腕を磨いていた。中でも鍛冶屋の迫力は

満点で、店の前を歩くだけでこちらも熱くなった。商店の規模はこちらの方が大きく、店主らしきおじさんが

「コンニチワ」、「トーキョー、ナゴヤ、オーサカ」、「ヤマハ」と知っている限りの日本語を掛けてくる。中

には「ジャッキー・チェーン」なんておじさんもいて、日本も香港も同じようだ。ここにも、キャラバン・サライ

があって、面白い顔をした猫がぐっすり寝込んでいる。その昔、キャラバン(隊商)が駱駝や馬に品物を

積んで長い旅をし、メディナにようやく到着すると荷をほどいて動物を休ませた。キャラバン・サライの中

2階は簡単な宿泊施設になっていて、運んで来た荷を売り捌き、次に品物を仕入れる間、数日ここに滞

在したようだ。

     

公衆浴場ハンマーム  ファティマの手  商店というより生産現場

        春眠や隊商宿の屋根の猫

 さて、いよいよフナ広場。正式には「ジャマー・エル・フナー」。かつて公開処刑場だったそうで、意味

は「死者達の集会」とか「死者の広場」というのだから、名前からして凄いよね。フナ広場に来ることを楽し

みにしていたので、ちょっと緊張する。到着したのが午後5時。太陽が西に傾きかけている。朝は広場が

ガランとしているらしいが、この時間あたりから続々と屋台が到着して店の準備を始める。あちこちから煙

が立ち昇り、カバブの店だとわかる。夥しい食べ物屋の他に、芸のうまい下手もごちゃ混ぜの大道芸人

や、説教するものもいて何でも有の狂気じみた広場である。入れ歯を売っている。猿を私に抱かせようと

執拗に追ってくるおじさんがいた。女の子は、ヘンナという色素で手に網目の模様を観光客に描いてい

る。業務用のオイルの空き缶に棒を差し、針金を張ったハンドメイド楽器でキ〜キ〜と音を出しているお

じさんがいた。カバブ売りが良い匂いで客を誘う。若くてかっこいいお兄ちゃんが、エスカルゴを高く積

み上げて客を待つ。何種類のナッツ屋の商品に目を奪われる。ジュース屋のスタンドには、ずらりと生の

オレンジが並ぶ。アラブ音楽のミュージック・テープを売る店で了解を得て写真を撮ると10DHヨコセと

迫る。ならばとテープの値段を聞いて25DHで買ったのに写真代も払えとそれはシツコイ。無視して去

る私の代わりにSさんが5DH支払ってくれたらしい。ベルベル民族が、広場の一角で、演奏しながら踊

っている。蛇使いが笛を吹いている。羊の頭をずらりと並べ脳味噌を売っている。アクロバッドをしている

一団がいる。・・・・・・・・・。あぁ、何というカオスよ。一周するだけで疲れてしまい、広場を見渡せるホテル

の屋上に行く。入り口で8DHで好きな飲み物を買って屋上に出る。今掻い潜って来た騒然としたジャマ

ー・エル・フナーが一望出来る。同じ高さの視線で見た広場も凄まじかったが、全体を俯瞰で見るのも迫

力がある。陽は沈みかけていて、広場の人々やテント、屋台の影が長くなる。その周囲を馬に曳かせた

馬車が走っている。夜中にかけて、広場の熱気は益々増して、火吹き男などが登場するらしいのだが、

我々は6時過ぎに広場を後にした。マラケシュのジャマー・エル・フナー、凄い広場だった。

           フナ広場いかがわしさが春に溶け

陽炎や狂気集ひてフナ広場

健康食天国モロッコ 

 出掛ける前のモロッコ料理の知識たるやごく僅か。モロッコ料理を言えと言われればカバブと

クスクス。イスラムだから豚は食べない、酒もモロッコの人はほとんど飲まないとかね。つまり

何も知らなかった。羊肉ばかりの肉中心の食事はイヤだなぁ。で、行って見てびっくりした。野

菜が溢れていた、果物も選り取りみどり、肉の他に魚介類もがんがん食べる。朝はハリラという

日本の味噌汁に当たる豆スープが出る。アラビアパンやデニッシュパンもうまい。ヨーグルトは

実にうまい。卵は新鮮。クスクスはとても健康的。そして毎食出るタジンという土鍋料理の種類

の豊富なこと。毎回食事が楽しみだった。

朝食はすべてホテルで取ったので一般的なモロッコのそれとは違う。現地資本・経営のホテル

は沢山のパンとジャム、飲み物のコンチネンタルスタイルだったが、アメリカ系ホテルは、卵や

ベーコン、ソーセージなどがついたアメリカンスタイル。チーズも種類が多く滑らかなヨーグル

トも茹で卵もうまい。卵はよほど新鮮らしく、殻を剥くと白身が殻について来る。流通経路が単

純で短いのだろうな。オレンジジュースはもちろんフレッシュなオレンジの絞り立て。ジャガイ

モが美味しいんだ。肉でダシを取ってひよこ豆、微塵切りの野菜で作るハリラがあれば、もちろ

ん食べる。時々お替りまでして。マラケシュ、カサブランカのシェラトンホテルでは、その場で

クレープを焼いて、アツアツを食べることが出来る。いつもなら、ハイライト4~5本吸うだけ

で朝食を食べないのに、モロッコでは空腹で早朝目が覚めた。顔をざざっと洗って着替え、食堂

に急ぐ。同じ人間でも環境が変わるとこんなになっちゃうのです。

 モロッコの家庭は、それぞれの家で小麦粉を練り、発酵させた生地を近所のパン焼屋に持ち込

んで焼いて貰う。食事時になると母親から言い付かったのだろう、子供達が焼き立てのパンを受

け取って自宅に急ぐ風景を見ることが出来る。毎食焼き立てのパンを食べるって、とても贅沢で

羨ましい。ラバトの郊外で、何の料理のためかはわからなかったが、少女が道の真ん中で炭を熾

していて、その飛び火が私の首に当たった。今も赤い思い出として首筋に残っているが、昼時に

食事の支度を子供が手伝っている懐かしい風景だった。

 モロッコ料理の一番といえば、タジンだろう。浅い土鍋に材料を入れて、トンガリ帽子のよう

な背の高い陶製の蓋をして煮込む。毎日このタジンを食べたが、肉も牛、羊、鳥といろいろ、ジ

ャガイモや玉葱、人参など野菜ふんだん、干したプラムやオリーブ、アーモンドなどのナッツ類、

時には卵、そしてサフランや各種香辛料をたっぷり入れて作るので、バラエ−ションはそれは豊

か。長い時間グツグツと煮込まれたタジンが食卓に運ばれると、今日のタジンは何だろうと期待

が膨らむ。そこでウェイターのおじさんが、ぱっと円錐の蓋を取って「さぁ、召し上がれ」。こ

れが毎回楽しいんだよね。

イカ飯と野菜のタジン チキンと炒め玉葱の ケフタと卵の 牛肉とジャガイモの 牛肉とプラムの

タジンはこうして作られる

昼でも夜でも食事のコースは、3~4品にデザートと飲み物の構成だ。最初はたくさんの生野

菜やジャガイモで作るモロッコサラダやハリラのスープ、次にパイ皮にひき肉を三角に包んで焼

いたパスティラやベルベルオムレツ、カバブなどが出て、最後のメインディッシュにタジンや魚

料理、クスクスなどで仕上げとなる。クスクスは、粗粒状の小麦粉を蒸したものと野菜と肉がた

っぷり入ったツユだくのスープが別々に出て来て、かけて混ぜて食べる。北アフリカの代表的料

理で、イタリアのシチリア島などでも食べる。世界最小のパスタと言ってもいいかもしれないク

スクスだが、噛んでも歯応えがないし、何だか砂糖を入れていない黄な粉を食べているようで、

時々喉がむせて苦手の部類に入るかなぁ。大西洋と地中海に面しているから、魚介類も豊富。海

の魚が多かったが、アトラス山脈に近い街では湖で捕れたアトラス・トラウト(鱒)も登場した。

野菜も果物も種類が多く、もちろんうまい。野菜では、秀逸のジャガイモ、にんじん、キャベ

ツ、ピーマン、玉葱、サヤインゲン、レタス、サラダ菜、紫キャベツ、カブ、キュウリなどお馴

染みの野菜に加え、ビーツやアーティチョーク、ズッキーニなど日本ではそれほど食べない野菜

が日常的に出てくる。そんな野菜が8種類ほど皿にずらりと並んだモロッコサラダは贅沢な料理

だ。ひよこ豆の実力も評価したい。

 

モロッコサラダ サラダ、ひよこ豆等前菜8種 パスティラ   クスクスの鍋と料理

魚料理。左がアトラス・トラウト

アトラスの高地に棲む鱒喰ひにけり

 ムスリム(イスラム教徒)は、酒を飲まない。アッラーの神に約束したから。我々異教徒(無宗

教も含め)で外国人は酒を飲むことが出来る。普通はビールかワイン。私のようにビールとワイ

ンを飲む人もいる。ワインはテーブルワインのハーフボトルで60〜80DH。ワインは何箇所

か産地があるようだが、レストランとホテルで飲んだワインはすべてメクネス産であった。モロ

ッコビールが30〜40DHで輸入ビールだと少し高い。日本の酒代もモロッコ並だったら、い

つも金欠病で困ることないんだけどねぇ。

毎昼、毎晩、安い安いとグビグビ飲みました。しかし、トドラ渓谷とカスバ街道当たりの南の

街では、外国人でも仏教徒でも、持ち込みも含めて酒類一切厳禁。そんな時は、ファンタレモン

とか、飲みなれたシディ・アリなどのミネラルウオーターを飲む。で、ムスリムの人は何を飲ん

でいるかと言うと、ミントティなのである。タイトルヨコの写真の通り、生のミントの葉を入れ

た小ぶりな厚手のガラス製のコップに、高いところから茶を注ぎ入れる。高い所から茶を注ぐ姿

を売りにしている店もあり、撮影するだけでモデル代を要求される。ティーポットには、中国の

緑茶チャイとミントの葉、どっさりの砂糖が入っていて、とても甘い。とても甘いのに、テーブ

ルには砂糖が置いてあって、更に甘くしたい人は入れる。信じられない。甘さは暑さ対策でもあ

るのだとか。我がまま言える店では砂糖無しを頼んでいたが、長くこのミントティを飲んでいる

と「甘くてもいーじゃないか」という気分になって来る。このミントティは、酒を一生飲めない

モロッコ人達は「モロッコ・ウイスキー」とか「ベルベル・ウィスキー」と言い合って、日に何

度もちびちび飲んでいる。朝でも真っ昼間でも夜でも街中のカフェはモロッコ・ウィスギーを飲

む男達で一杯だ。だが、女はいない。

右端)日本語の看板「ウィスキーベルベル(ミントティ)」

デザートについて触れたい。ここまでモロッコの食事を誉めまくって来た。もう文句をつけよ

うが無い美味しさだったのだ。で、デザートでまたもや誉めるのだ。しかし、基本的に甘いもの

が苦手で、加齢と共に食べるようになった人間なので完食は出来なかった。甘い物好きにはコタ

エラレナイモロッコでもあった。今までの人生でこんなに甘いものを食べ続けたのは初めてであ

る。

 毎日、3食こんな料理を食べていた。親しくなった方々と「体重のこと考えなくて良いのだろ

うか」と誰かの素朴な発言に全員考え込んだ。結論は「それは帰ってから考えることにして、モ

ロッコにいる間は思い切り食べよう」ということになった。帰国後、自宅のヘルスメーターがプ

ラス何キロを差しても、その時考えればいいのだ。夕方自宅について風呂に入る前にドキドキし

ながらの計測。あんなに食べたしなぁ。毎日飲んだしなぁ。3食全部食べたしなぁ。デザートな

んか普通の4個分のシュークリームもあったし。いくら考えても仕方ないので「ヨシッ!」とヘ

ルスメーターに乗る。8.5キロ増? そんなバカな・・・・。いくら何だって10キロ近く増

えるのは許せない。だが、その時気がついたのだ。目の錯覚で本当は、な、な、何と1.5キロ

減っていたのだ!! ウレチイ!!! 8泊9日で1.5キロなら1ヶ月なら6キロ減? 1年

いたら72キロ減? そんなに減っては身体が無くなっちゃう。へへへ。ということで、食べて

美味しく、お通じにも良く、安くて、そして痩せるモロッコ料理なのでありました。モロッコ様、

厚くお礼をば申し上げ。

暁の駱駝と砂漠 

 サハラ砂漠。子供の頃によく歌った「♪ 月の砂漠を〜遥々と〜旅の駱駝が〜行きました〜♪」。

そして童謡の本の王子様と王女様が駱駝に乗っているシルエットの挿絵。それとパリ・ダカール

ラリーの疾走シーンの舞台。私が持っているサハラ砂漠のイメージは乏しい。プレサハラではあ

るが、その砂漠に行くことになったのだ。それも砂漠で日の出を待つという。出発前から興奮し

ていた。旅に出る3日前に夢を見た。早朝起きて砂漠の日の出を撮影しようと楽しみにしていた

のに、目が覚めたら午前10時半で、太陽は遥か上空に登っていたという夢だ。心底落胆した苦

さが起きてから暫く残っていた。だから、エルフードのホテルで寝る前の緊張は大変なものだっ

た。しかも持って来た新しい目覚まし時計は何故か作動しない。とにかくホテルの交換がウェイ

クアップコールをきちんと掛けてくれることを祈るばかりだ。早朝出発というのは、3時45分

だったのである。30分おきに目が覚めたが、無事3時半起床。ほっ、これで天気が良ければ砂

漠の日の出を見ることが出来る。

 4時15分出発。もちろん外は真っ暗だ。雨は降っていない。いいゾ。5〜6人が1台の四駆

のジープに乗り込む。気温は2〜3度くらいか、相当に冷える。市街地を抜けて、礫砂漠を走っ

ているのだろう、車が小さな石をハネて、その石がジープにぶつかる。パチーン、コチーン、バ

シッ。上下左右に激しく揺れる。しっかり掴まっていたつもりだが、一番後ろの窓側に座ってい

たので、激しくバウンドした時、ガツンと肩を打った。次はバウンドに合わせて身体も浮き、車

の天井にゴツンとぶつける。痛い砂漠行きだ。外は真っ暗だから、ヘッドライトが照らす前方十

数メートルしか見えない。横を見ると光る白い線のように見えたのだが、隣の席の方に「あれは

別の車のヘッドライトよ」と言われた。よく前方を見ると、走路の両脇に小石が並べられて、暗

い中での走行をアシストしていることがわかる。3時間程ウトウトしただけの睡眠不足が大きく

揺れる車体でもドッと出て来てうつらうつらしそうになる。しかし、気を抜いてはいけない。も

う限界だ、と思った頃、ジープは突然走行を止めて停車する。モロッコ東南のメルズーカに着い

たのだ。ライトが照らす光の中にずらりと座った駱駝が確認できた。そうだ、私は駱駝を予約し

たのだった。

 ここの駱駝はサハラヒトコブラクダ。駱駝の6%がこの種で、乾燥地帯に強いということだ。

1頭で米ドル30ドル。2人まで250キロの積載が可能と言う。ツァーの中では,月の砂漠を

自分で歩きたい派と駱駝に乗って行きたい派が半々で、女性2人組の1人とご夫婦のご主人と

いう駱駝ニワカカップルで駱駝に乗る。私は、もう1人の1人参加の最年少(と言っても39

歳)のM嬢と同乗することになった。私が前に、彼女が後というフォーメーションが決定され、

座っている駱駝に跨る。1つのコブに厚い毛布のような物が何枚も重ねて被されていて、そこに

ヨッコラショという具合に座る。座席の前に馬蹄形の金属があるので、そこに「これでもか!」

としっかりにぎり締める。M嬢も続いて乗って私の細い?腰にしがみつく。駱駝使いの遊牧民

の青年が、駱駝を突付いて合図を送る、立て、って言っているのだろう。駱駝氏、やおら後ろ足

を立ち上げるために、上体は大きく前につんのめる。落ちる〜〜。馬蹄形の金属にしがみつくが、

小さい円形なので、入れた力は一周して自分の手を指の長い爪が押し付けるばかりで痛い。未だ

落ちていないとほっとすると、今度は前足を立ち上げて後ろにのけぞる。いやいや命がけだなぁ。

添乗員のS氏が言っていた。「少し前に、駱駝に乗った日本人観光客が駱駝から落ちて怪我をさ

れました。今訴訟を起こしているらしいのですが、駱駝に乗りたい方は、くれぐれも自己責任で

あるということを認識された上でお乗り下さい」。行きの乗駱駝は何とかうまく行った。遊牧民

の青年が駱駝の綱を持って歩き出す。登りである。メルズーカの砂漠は、遠くから見ると小山の

ようだ。その丘を登って行く。登りでは後ろに乗ったM嬢が怖いらしい。帰りの下りが多い復

路では前に乗っている私が怖かった。真っ暗な砂漠。自分の発する声、M嬢のふんふんという

声以外に音は無い。余裕があれば、月を眺めたり、歌を歌うところなのだが、何せいつ振り落と

されるかと心配で必死でしがみつくのみだ。それでもそっと周囲を見渡すと,丘状の遠くで幾頭

かの駱駝ち人の姿が遠目に確認出来た。随分登ったところで丘は急に険しくなる。そこで駱駝か

ら下りて、自分で丘を登るしかない。駱駝から下りる時も一騒動。さて、砂漠の丘を登るのだ。

登る気もあるし、必死に登るのだが、上というか前に出した足が、サラサラの砂に敢え無く完敗

してズルズルと後退する。何度やってもなかなか登れない。そのうちバランスを崩して砂の上に

転んでしまう。立ち上がって、動きを繰り返すが登攀は全くはかばかしくない。力尽きてもう止

めてしまおうか、一番上に登らなくても朝日は眺められるんでしょ、と諦めかけた時、右腕に確

かな手応えを感じた。丘を登り出した時、アシストを断った駱駝係りの若きベルベル人の青年が

しっかりと私の腕を支えているではないか! 地獄で優秀な秘書に遭ったような気分。力強くグ

イグイと丘の頂上向けて引っ張ってくれる。私を引き上げているのに彼は「毎日毎日砂漠を登っ

ているから何でも無いんだよね」なんて息も荒げずに言っている。嬉しいねぇ。頼もしいねぇ。

で、やっと着いた。ほ〜っ。日の出にはまだまだ時間はあるが、空はかなり白くなり明るさも増

している。

力強く引き上げてくれた青年は、背負っていた敷物を敷いてくれて、そこに座って休めと言

う。ドッコイショ。指差して「あっちが東だ。あそこから太陽が上がる」というような説明も

ある。益々良いねぇ。座っていると寒さも忘れて気持がいい。静かだ。デジカメを取り出し薄

暗い砂漠の撮影をする。青年も撮影する。青年が私を撮影してくれる。ついでにデジカメのス

ライドショーを彼に見せる。ある画面で彼は「うぅ」と言った。そこで青年オズオズとこんな

ことを言い出す。「アルバイトに協力してよ。化石買って。アンモナイトもオウムガイも質の

良いものを自分で獲って来たんだ。買って」。「だってあなた、デジカメで昨日私がエルフード

の大きな石屋に行ったの見たでしょ? あそこでたくさん買ったから要らない」というとがっ

かりした。こんな幻想的な場所で、商売の話は誠に余計であった。それはともかく、砂漠の砂

は極めて細かい。手に取ってもさらさらと指の間からすべて滑り落ちる。先程難渋した丘登り

で靴の中はその細かい砂だらけである。砂の上には靴底の模様がそのままくっきりと残る程砂

が細かい。これでは砂漠での完全犯罪は難しい。何の小動物であろうか、足跡がそのままに残

っている。

 やがて東の空が一段と明るくなり、スッと太陽が上がって来た。あっけない程にスッとである。

あぁ、私はサハラ砂漠で日の出を見ているのだ、寝坊することもなく。特別な太陽。ちょっと感

動する。しかし、太陽はどんどん上がって、周囲を明るく照らし出す。特別の太陽もいつの間に

か、いつもと同じ太陽になってしまった。

       春暁や砂漠たちまち生き環へり

駱駝背に春の曙射し込めり

  私を乗せた可哀想な駱駝              

 感動的な日の出を見て、再び駱駝に乗る。自分達も含めた数頭の駱駝と乗客のシルエットがす

っかり明るくなった砂漠に長い影となって、その絵のような美しさに溜息。ここを撮影しないで

何のカメラぞ、とは思うが、下り坂で必死でしがみついているので撮影は出来ない。ぐやじ〜。

ところが、そこをしっかり撮影している観光客目当てのカメラマンがいるのですよね。大きな街

にいくと必ずツァー客をターゲットにバンバン撮影し、1枚20DHというバカ高い値段で写真

を売るカメラマンには、もう慣れっこになっていたが、ここでは心底写してくれ〜という気分で

あった。キャンプに無事着いて、ほっとする間もなく、いきなり駱駝担当兼砂漠牽引担当兼ニワ

カカメラマンの青年が、チップちょうだい交渉に入る。先程までの友好的な関係は何だったのだ

という具合の変身ぶりに、こちらもショックを受けることなく、地獄で何ちゃらという感謝は別

にして、タフに交渉に臨む。真っ暗な時に出発したのでわからなかった四駆のジープが勢揃いし

ていることに気づく。頼もしい姿。再びジープに乗るが、すぐに停車。そこは今登って来たメル

ズーカの砂漠を少し離れた所から見渡せる丘であった。

 帰りのジープの中は、一応にほっと安堵の溜息と寝不足の疲労が充満していた。そんな中でい

つも静かに皆を見守っているようなIさんの様子がおかしい。顔は真っ青で苦しそうだ。それで

も彼女は大丈夫と繰り返す。来る時はドライバーがどんな人か考えもしなかった。明るくなって

からよく観察するとベルベル人の若い青年で、音楽好き。音楽好きでもいいのだが、乗客にとっ

ては命がけである。明るいということは、とにかく大きなハンディが無くなったということだが、

悪路であることには違いはない。運転に集中して、しっかり前方を見て運転をしてくれないと困

るのだ。礫砂漠なんだから。然るに、然るに彼は、何という運転をしていたのか! 何だかわか

らないアラビアミュージックテープがかかっていた。彼はそのテープを別の曲に替えたくなった

らしい。乱雑にボックスに入っている他のテープを探している。前を見ろよ! 危ないじゃない

か。Iさんはもう顔は白くなっているんだぜ。やっと見付けたらしく、かけようとして、又気が

変わり、他のテープを漁リ出す。はっきり言ってどれをかけて貰っても、こちらは同じ曲にしか

聞こえない。外国人が日本の演歌を聞いたらみんな同じ曲に聞こえるのと似ている。どれでもい

ーじゃん!!! しかし、彼はコダワル。あ〜もう止めてちょーだい! 後ろから頭をコツンと

叩こうとした瞬間、彼は望みのテープを探し当てたらしく、早速入れ替えて、曲に合わせて「フ

〜フ〜アララ、ヘ〜へ〜レレレ・・・」と鼻歌歌ってご機嫌なのだった。そして、私たちは極

めてご機嫌ナナメだったのだ。

 

                        パート1おしまい  パート2に続く

 

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