夢子の地球大好きシリーズ

モロッコ陽炎ゆらゆら パート2

モロッコわくわく動物点描 

【猫編】

モロッコで一番悠然としている生き物は猫である。どの猫も、泰然自若というか、悠々と自由

に振舞っておられる。日本の猫なら、路上で知らない人間が近づく気配を察知したら素早く逃げ

る。決してつかまらない。それは多少なりとも人間にイジメられた経験があるからであり、親か

ら「人間には細心の注意をせよ!」と教育を受けているからに他ならない。ところが、モロッコ

では猫は逃げない。警戒もしない。寝ている猫を触ろうが撫でようが、目を覚ますこともない。

油断しきっておる。安心している。それが不思議だった。

ラバトとメクネスの猫3

フェズのメディナ内スーク(市場)の猫達

人間が叫び、ロバが重い荷物を背負って走り抜け、買い物客でごった返すフェズのメディナで

も、猫だけはゆったり。小さな店先で「看板猫」のバイトをやっている猫もいたが、たいがいは

遊んでいた。三毛君はカメラに向かってポーズまで取ってくれた。キャラバン・サライの屋根の

上で昼寝している白と黒2匹の猫の傍では、生きたまま足を縛られて売られていた鶏が逃げ出

し、その後をおじさんが必死で追いかけている。「コケコケケ〜」と逃げる鶏、「待て〜」と男。

猫は「そんなこと知らん」とまた眠りに入った。モロッコの猫で威嚇して触らせてくれなかった

猫はただ1匹。生き鶏屋の椅子の下で唸っていた白黒ブチ君だけである。仕事柄からかしら、

眼光スルドイでしょ?

「若女将猫」

ワルザザードからマラケシュに抜ける途中のティスカ峠は、2260メートルを超える高所。

気温も低く植物も少ないのだが、そこから少し下ってくると急斜面に段々畑が見事に作られて

緑が一気に増える。見晴らしの良いドライブインで段々畑を見ながらミントティを飲んでいると、

経営者が飼っている猫だろうか、ふっと現われてお客に挨拶するようにいくつかのテーブルを練

り歩いた。「いらっしゃ〜い」と言っているような。15分後バスが出発する時、ふと気がつくと

ドライブインの入り口にこの猫が正座(?)して私達を見送っていた。「若女将猫」と名付けた

い。器量もいいしね。

「舞妓猫」

暗い赤い照明のテント・レストランで撮影したので、ヘンな写真になった。マラケシュの郊外

に「シェ・アリ」というテーマパーク型レストラン施設があって、食事の後でモロッコの文化や

歴史を盛り込んだ「ファンタジア」のショーが楽しめる。モロッコに先住していたベルベル人の

各民族グループが、テントを順番に回ってダンスや演奏をドンドコドンドコと披露する中での食

事だから、とても賑やか。そんな中で、ふっとこの色白の猫ちゃんが、私達のテーブルを訪れた。

タジンの牛肉をたっぷりご馳走になると、ソファで寛ぎ喉をごろごろと鳴らしている。酒席に侍

る「舞妓猫」と名付けよう。色っぽいし。              

 これ全部マラケシュの宮殿にいた猫。宮殿にも、こんなにたくさんの猫がゆったりと暮らして

いる。大半はグーグー眠っている。他の動物がカワイソーになるほど猫天下のモロッコ。その秘

密が解けないままここまで来た。そしてこの日、ヘンな日本語をしゃべるモロッコ人(正確には

アラビア人とベルベル人のハーフだそうです)の現地ガイドの説明でようやく氷解した。

「モロッコの人、みな猫好きです。みな猫大事です。昔から大事です。とても大事です。犬違い

ます。犬いじめます。だから犬、街にたくさんいません。犬いません。猫たくさんいます。モロ

ッコの人、猫エサ与えます。王様、猫好きです。宮殿の門の扉に猫、通り穴開けます。ほら、こ

れ穴です。猫穴です。」

そうか、そうだったのか。ま、古代エジプトでも猫はとても珍重され大事にされて来たようだ

から、隣の隣の隣のモロッコがそうでも不思議はないね。と、めちゃ猫好きの夢子は嬉しくなっ

たのだった。

守備猫  

昼寝中の子猫達を見つけた時は思わず「キャッ」ト言ってしまった。市場の人も買い物客も観

光客もゾロゾロ歩いているのに、お構いなしに寝込んでいる。触ってもビクともしなかった。茶

トラを1匹持ち帰りたかった。右の2枚は、キャラバン・サライの荷車の上で面白い顔して寝て

いた猫ちゃん。何だか漫画みたいな猫。スキだらけのこの猫を見張るように、黒と白のしっかり

猫が見張っていました。「守備猫」とするか。

モロッコはこんな感じのまさに猫天国なのであった。

【ロバ・馬編】

 猫が一番遊んでいるとすると、その対極にいるのはロバである。ロバ、騾馬、馬、ほんとに良

く働いていた。一番活躍するのはフェズやマラケシュのメディナである。何しろ狭い迷路のよう

なスークの中で荷物を運ぶ唯一の方法がロバであるからだ。車など論外。リヤカーも幅があり過

ぎて通れない。人間が背負うには荷が重過ぎる。ロバ、ちょうど良い。ということになってロバ

の出番が多いのです。もっと荷物が重い時は馬になる。狭い路地に人が溢れる中、しばしば後の

方が更に騒がしくなる。「バーラック、バーラック!」の叫び声。ロバだぁ、と言っているので

あって「どけ〜」ではない。振り向くとロバが急ぎ足でやって来て、人々は壁に張り付いてやり

過ごす。ロバや馬だから人は避けるけど、人間が車なんて引いて来ても無視するからね。やっぱ

りロバなのだ。一度ロバが背負った荷物に引っかかって、夢子は倒れそうになった。すると周囲

のスークの男達がガッシと私を掴まえて壁際に押し付けた。助かった。

左はガテン系 モデルロバ

 一般には荷物の運搬を主業務としているが、モデルもやらされているロバに会った。フェズか

らエルフードに向かう日、バスが休憩のため停車した途端に、あっちこっちの丘から赤ん坊を背

負った母親や子供達がわらわらと走って来る。写真を撮らせてモデル料を貰うつもりか、ただ金

や飴をねだろうとする。中にはロバを連れて来た子供がいて、仲間の中で一番稼いでいた。

 例外は、エリート馬。首都ラバトのムハンマドX世霊廟の衛兵を乗せていた。じっと動かない

その姿勢はいかにも「僕はそのへんのロバや馬とちゃうんよ」という誇りに満ちた表情なのであ

った。

ラバトのエリート馬

【犬編】

 ロバとは違った意味で猫と対極的な存在が犬だ。涙ポロポロの犬たち。私は猫が一番好きだが、

犬も好きだから「モロッコ犬受難状態」を心から気の毒と感じてしまう。山の道を走っていると

犬が道端にいる。街の人間が山に犬を捨てるのだと。姥捨て山ならぬ「犬捨て山」だ。野犬にな

ってしまうのもいるが、たいていは車で通りかかる運転手が何らか餌を与えるので、生き延びて

いるらしい。ジズ渓谷にいた犬は片足の先が無かった。交通事故にでもあったのだろうか。賢そ

うな顔しているだけに余計に哀しい。それにしても、日本の犬は幸せだよね。

手前の黒が「芸有り犬」

 例外は、ワルザザードのホテルのロビーにいた小型犬。お金持ちそうな立派なお髭の飼い主に

抱かれて猫?可愛がりされていた。ティスカ峠の山頂には、白黒の大型に犬が2匹いた。1匹は、

お座りの芸が出来て、無芸のもう1匹より食べ物の貰いが多い。観光客からお菓子を貰ってバリ

バリ食べている様子を羨ましそうに見ていた子供が泣き、残りのお菓子はその子のものとなった。

春先のティスカ峠に犬座り

【駱駝編】

 駱駝も働いている。乾燥地に強いと言われるサハラヒトコブラクダが、砂漠での観光用や荷物

の運搬などに活躍している。砂漠では、観光客の多くは夜明けを見ようと来るから深夜からの労

働だ。日没目当てでも来るから、夜のお勤めもある。しかも、アイト・バン・ハッドウなどのカ

スバには、観光客はまっ昼間に来るのである。どこが「楽だ・ラクダ」なんだ、と嘆いているに

違いない。駱駝の座り方に注目した。まるで日本人の正座のような形で座るのである。これなら、

正式な茶席にも出られる。シビレルなんてことも無いのだろうし。

       正座中の駱駝           私を乗せた気の毒な駱駝

春暁や駱駝と人の長き影

【コウノトリ編】

 赤ちゃんを連れて来ると言われるコウノトリ。嘘でしょ? まぁね。しかし、その夫婦のあり

ようには、大いに人間が学ぶべきところがある。そのコウノトリは、今までハンガリーを旅した

時に遠目で見ただけだった。ところが、モロッコには実に多くのコウノトリが生息しているのだ。

夏は、暑さを避けてフランスのアルザス地方などに飛んでいくらしい。最初メクネスで見かけ、

イフランではたくさんの姿が。そしてワルザザード近くのカスバの屋上には、2つのツガイが卵

を抱いていて、すぐ近くで撮影することこも出来た。コウノトリは、長い嘴を激しく合わせて「カ

タカタカタカ」と音を出す、かなり大きな音だ。卵を抱いているメスに餌を探しに行くオスが嘴

で挨拶する。「おい、行って来るぞ。留守頼むからな」って感じ。メスは「行ってらっしゃい」。

こんな大袈裟な挨拶するのに、オスは5分もするとすぐ戻って来る。で、また「ただいま。餌取

ってきたぞ」、「あら、あなたエライわ。その餌美味しそう」って感じの会話であろうか、「カタ

カタカタ」、「カタカタカタカタカタ」と賑やかにコウノトリは暮らしているのであった。彼らは

一夫一婦制らしい・

モロッコの人々 

 モロッコの半分、いやそれ以上を占めるベルベル人は、何もモロッコだけに住んでいるのでは

ない。モロッコ・アルジェリア・ナイジェリアのマグレブ3カ国はもとより、それ以東のリビア

も含めて北西アフリカ広域に住んでいるのだ。『地名の世界地図』(文春文庫)に寄れば、ギリシ

ャ人がギリシャ語の通じない「野蛮人」=「バルバロイ」の蔑称がベルベル人の語源になった。

マラケシュで「ファンタジア」というショーを見て、ベルベル人にもたくさんの民族があり、そ

れぞれに個性的な衣装、楽器、歌、踊りを持っていることを知った。しかし、初めてのアラビア

圏を旅している身では、街で見かけるどの人がベルベル人でアラビア人か外見では判断出来ない。

 男が圧倒的に多い。街を歩いている人、カフェでミントティやエスプレッソをチビチビ飲んで

いる人、店番をしている人、或いはレストランで働く人は殆どが男。かと言って人口で男の割合

がそんなに多い訳ではない。つまり、外に出るのは男、女は家にいるものというシキタリのよう

なものでそうなっている。しかし、女だって外に出たいし、出掛ける用事だってあるだろう。そ

んな時、彼女達は民族衣装のジェラーバ、チャドル、カフタン等に身を包み、几帳面な人はフー

ドを被った上にベールで顔を隠すから、見えるのは目しかないようなイデタチとなる。顔ももち

ろんだが、髪を他人に見せることが最も恥ずべきことだと聞いて、俄かには信じられない思い。

そんなお国柄だから、公然とカメラを向けたら拒否されるし、隠し撮りもままならない。バスの

中から相手に気がつかれないよう何度も何度もチャレンジしたがうまくいかなかった。よく考え

ると、私達とは全く違う羞恥心が主な理由にしても、全身をほぼ覆うこの服装は、この国の気象

の理にかない、かつ身体の線を隠せるということで合理的なのかも。経済の中心地カサブランカ

は別格で、ピッチリしたスーツ、パンプスで闊歩する有能そうな女性は確かにいる。その意味で

カサブランカはモロッコの街とは思わない方がいいのだろう。

 さて。男は、というと。確かにメディナのスークで、ロバを引き荷を運ぶ人、鼻がもげそう匂

いの中でなめし皮染色をしている男達、火花を散らしながら鍛冶屋業にいそしむ親方と弟子達、

後述するアトラス山脈の峠越えをする大型トラックのドライバー、転がり落ちそうな断崖にへば

りつくように山羊を追う男など、厳しい条件下で働く男達を大勢見た。漁業で働く人々も海で命

懸けの仕事をしている。貧しさの中で彼らは必死に働いている。それは事実だ。しかし。そんな

男達と同じ位の数は、ただただぼ〜〜〜っとしている。早朝でもカフェはそんな男達でいっぱい。

びゅんびゅん飛ばすバスから見える風景は、日陰にいればいいものを、日向でぼんやりしている

男達のパノラマ写真を見ているようだ。みんな、ぼ〜〜〜っと。道のすぐ傍にうずくまっている

男は、いつ来るかわからないバスをひたすら待っているのだとか。バス停も時刻表も無い(そん

なもの無いんだってさ)道で、ただひたすら待つ。バスが来なければ、6時間位は待つこともあ

るってほんとかしら。確かに、2分おきに山手線と京浜東北線が来る駅でもイライラする東京人

は異常だと思う。何をせかせか日本人である。ゆったりと時を越えて暮らす贅沢というものもあ

ろう。が、私はモロッコの「ぼ〜〜男」になるのはイヤである。「モロッコ・怠け者ランキング」

を作成したら、猫の次の2位がこの男達ではないか。ま、10日やそこらで、こんな風に断定す

るのはおおいなる誤解かもしれないが、やっぱりぼ〜〜っとしている男が多いのである。教育面

では、無料の教育制度はあるが、山岳地帯、砂漠地帯の子供達は就学していない子供も多いとか。

遊牧、商業、手工業、それに“モデル業”に就いて、学ぶより働かざるを得ない子供である。

春昼や砂漠の民は座るなり

 ついでに、私達のツァーにずっと同行したスタッフの男性陣を紹介。彼らは間違いなく働きモ

ノに属する。

ガイド氏/公認ガイドで胸には写真入りのネームプレート。大学出身のエリートだそうで、語学

も達者。民族衣装のジュラバにモロッコ皮スリッパのバルーシュを履いていたかと思うと、ある

日はスーツ姿でパリッとしたりでなかなかお洒落。誇り高く、街を歩いて貧しい人がいれば、常

に小銭を渡す喜捨を忘れない敬虔なムスリム。

ドライバー氏/顔は紳士風で人懐こい。とにかく明るく陽気で一番の人気者に。しかし運転は

極めて強気で、前方の乗客は「居眠り出来ない」と緊張していた。何人かにターヴァンの巻き方

を教えてくれたが、彼が「大変な女好き」であることも皆見抜いていた。

アシスタント君/一度も話はしなかったが、見学や食事、撮影などでちょくちょく乗客が乗り

降りする度に、後部出入り口で手を差し伸べてアシストする。ホテルに着けば直ちに荷物を降ろ

す力仕事。毎朝、窓ガラスも車内もキレイに掃除されているので驚いたが、彼はバスの中で寝泊

りして清掃もしていたのだそうだ。バス泥棒の番人役でもあったらしい。

現地ガイド氏/マラケシュのみのガイド。他の街でも現地ガイドはついたが、ほとんど話しが

出来ず、国の観光政策のお陰で職が補償されているような人が多かった。ところがマラケシュで

初めて日本語を話すガイド氏が登場した。ほら、動物編で猫好きモロッコの秘密を教えてくれた

人ですよ。2年前から本を読んで日本語を覚えたのだとか。発音や助詞の使用法などアヤシイが、

独学でここまで話すとは凄い。商売っけも凄かったけどね。

     

ツァー公認ガイド氏 女好きドライバー氏 アシスタント君 日本語話す現地ガイド氏

私達、阪神航空の「幻想のサハラ砂漠とモロッコ10日間」のツァーに参加したのは、22名。

夫婦5組、女性3人グループ2組、女性2人グループ2組、女性1人参加2名の22人。最年

少39歳、最高齢70台半ば(推定)であったが、皆きわめてお元気であった。

モロッコの品々 

 モロッコでは土産探しに困らない。欧米系のブランド品とは無縁だが、手作りの素朴な品々に

こと欠かない。しかもどれもお安くて嬉しい。こちらでは、店を張っている人も、品物を持って

直接売り込む人も、道端に商品を並べている人も、商品を指しては決まって「オール・ハンドメ

イド」と売り込む。こちらもツラレて「全部手作りなんですって」と応じてしまう。日本だって

少し前まではそうだったのに、今や機械で作ることが常識化していて、手作り製品=手間がかか

っている高級品のイメージが出来てしまった。品物に限らず、料理だってそうだ。「手作りハン

バーグ」とか「手作りおにぎり」とかね。以前大阪の街で「手作りカレー」の貼り紙を見てぎょ

っとした。レストランでカレー作るなんて当り前でしょうに。それ程今の日本では「手作り」は

価値がある。モロッコに戻ると、ここでは製品を作るために機械など買えない。人手は溢れてい

る。しかも格安の人件費。従って「オール・ハンドメイド」となる。

モロッコぐるりとまわって

 成田からミラノ経由でカサブランカへ。深夜に着いて1泊。首都ラバト(93キロ)、古都メ

グネス(138キロ)を見学してフェズ(60キロ)へ。フェズに2泊。南部の街エルフード(

27キロ)に1泊して早朝砂漠の夜明けを味わい、カスバ街道を行く。トドラ渓谷で口をアング

リと開けて、ワルザザード(313キロ)へ。1泊し、これも世界遺産のカスバ「アイト・ベン・

ハッドウ」見学。ハイアトラス山脈を越えて、マラケシュ(205キロ)へ。2泊してカサブラン

(230キロ)に戻る。1泊してローマ経由で帰国。こんな感じで、モロッコを小さな円を描い

て一周したことになる。印象に残る街や名所を紹介。

王様の霊廟は凄い・ラバト

カサブランカから北に93キロ、大西洋に面している。12世紀ムワッヒド朝の都だったが、

1912年フランス領になった時にマラケシュから首都が再びここに移された。街の中心にブー

レグレグという大きな川があって、向こう岸はサレ地区。小船のタクシーで渡る。昔このサレは、

北大西洋、地中海を荒らし回わる海賊の拠点だったので「海賊の町」と言われたのだそうだ。1

627年、実際に海賊共和国が設立されたことがあったのだ。国内には王宮が4つあるが、ここ

の王宮は1864年に建てられた。王宮の敷地にはアフリカン・チューリップの並木があり、ま

るで日本の桜のような景観ではあるが、花は全く違う。赤と黒のコントラストの珍しい色の花。

王族だけの専用のモスクもあり、豪華な王宮ではある。

ムハンマド5世の霊廟は、極めて豪華。1954年にフランスから独立した時の国王だからか

扱いが違うようだ。「中興の祖」的存在なのかしらね。霊廟には3つの棺があるが、真ん中の大

きな棺がムハンマド5世。左側がその息子ハッサン2世。右側はその弟君の棺である。大理石だ

ろうか白い棺と、天井も煌いてそれは美しい霊廟である。四つの入り口の1つを中側から撮影し

た1点はお気に入りの作品となった。

     すみれ咲く霊廟護り若き兵

霊廟に隣り合う位置に、ハッサンの塔がある。12世紀末ムワッヒド王朝時代建設が始まった

が、途中で王様が亡くなり、大陸で大地震もあって工事は頓挫。当初は88メートルにする筈の

ミナレット(尖塔)は、ちょうど半分の44メートルで残ることになった。後日マラケシュで見

たクトゥビアのミナレットとスペイン・セビーリアのミナレットは「3兄弟ミナレット」と呼ば

れるのだそうな。それでもミナレットは半分出来たが、モスクは柱を建てた所で中止されたので、

200本の柱だけが寂しく残されている。

ブーレグレグ川が大西洋にそそぐ手前の丘にウダイヤのカスバがあった。城壁の中の植物に溢

れた庭園には、頭の良さそうな若者がそこここで厚い本を読んでいる。王宮の前にある国内最大

のムハンマド5世大学の学生達がカスバに涼を求めて勉強しているのだ。みんな賢そう。インテ

リ学生のそばでは、猫がのんびり遊んでいる。このカスバの中にカフェテリアがあり、その後何

杯も飲むことになるミントティを初めて飲んだ。初めてと言えば、モロッコのトイレも初体験。

真ん中の穴の両脇に足台、斜め前の籠にはくすんだピンクザラの使用済み落し紙が。右手後方に

小さなバケツと、その上には水道の蛇口。モロッコ式トイレの正しい手順。用を足したら、使用

した紙は籠にポイと入れ、おもむろに右後ろを振り返って蛇口をひねり適量の水を溜めた後、姿

勢を元に戻し便器の穴に水を注ぎ流す。以上。どこに行っても意外とトイレはキレイな国だった。

ウダイヤのカスバの裏にステキな一角があった。まるで、スペインのアンダルシア地方にさま

よい込んだような街。白とブルーの壁。狭く曲がりくねった緩やかな坂道。まさにアンダルシア

だ。対岸のサレがかつて「ジハード」聖戦と称して異教徒の船を略奪する海賊の拠点になった原

因は、17世紀イスラム教徒がスペインから追放されてここに住みついたことによる。というこ

とは、追われる前に住んでいたアンダルシアの街並をここに作っても不思議は無い。それは良い

のだが、やっぱり追放されたからって、腹いせに海賊共和国を作って異教徒を襲って暴れちゃぁ、

イカンよね。

 

ウダイヤのカスバ     モロッコトイレ          アンダルシア風の街並

モスクを見学・メクネス 

 ラバトから東へ138キロ、丘の上にメクネスがある。17世紀のアラウィー王朝時代半世紀

ほど都であった。標高522メートルで敵からの守りに有利なことと、水が良いという理由が都

となったと聞く。果樹の栽培が盛んで、良い水と結合した成果がワインである。モロッコで飲む

ワインの多くはメクネスワインだ。このメクネスに、イスラム教徒ムスリムで無くても入場でき

る唯一のモスクがある。先々代ムハンマド5世が「ここだけ許可する」と言ったのだと。アラウ

ィー王朝が最も威勢の良かった時代のスルタン・王ムーレイ・イスマイルの廟である。モスクと

ムーレイ・イスマイルの墓がある。中庭を通って、モスク内部に入るには靴を脱ぐ。大理石の沐

浴室、次の部屋の高い天井はアトラス・シーダで彫刻が施され。壁にはモザイクタイルや文様の

数々、吊り明かりの美しさ。いやはや、この廟にすっかり感動してしまった。

            

カスバと映画のロケ地 

 エルフードからワルザザードに向かう道は、カスバ街道と言われる。40代以上のおじさんな

ら「カスバの女は持ち歌だ」と反応するかもしれない。北アフリカやかつてイスラム圏だったス

ペインにあり、カスバの意味は城砦とか要塞,砦である。司令官だけが住まうカスバもあれば、

複数の家族が同じ砦に共同で住むクサルというカスバもある。赤茶けた道を進み、丘を登れば下

に、少し上を見ればそこにという具合にカスバが点々と存在している。この中で、最も有名なも

のは「アイト・ベンハッドウ」で世界遺産に指定されている。現在4家族だけが住むが、荒廃の

進むカスバが遺産指定を受けたことを機に改修を急ぐようだ。同時に出て行った村人を呼び戻し

たいとも考えているらしい。カスバが点在するこの地域は、また映画のロケ地としても大活躍。

1897年『モロッコの騎士達』という短編が最も古い作品らしいが、その後もエリザベス・テ

ーラーが主演した『クレオパトラ』や『ナイルの宝石』、『ガンジー』などが撮影された。作品か

らも分かるように、モロッコを舞台にした映画ではないのである。欧米の監督達が、この地にエ

キゾチックさを求めたようだ。現在でもロケは盛んで、ロケ跡地をそっくり観光施設にしてしま

う。つまり、映画業界の思惑とロケ地を提供して金を稼ぎ、かつ観光にも寄与させようというモ

ロッコ側の欲が一致するのだろう。この中でも『アラビアのロレンス』は特筆もので、トドラ渓

谷、ティフルトゥトのカスバ、アイト・ベンハッドウのカスバで撮影している。ティフルトゥト

のカスバはオーベルジュになっていて、屋上にはコウノトリのツガイ2組が大きな巣で卵を抱い

ていた。

紙幣のデザインにもアマディル  ティフルトゥト   アイト・ベンハッドウ 

アトラス山脈を越える 

 モロッコには、北のリフ山地、中央(モワイアン)アトラス、高(オート)アトラス、アンチ・

アトラスの3つの山脈がある。トゥブカル山は4167メートル。海もあれば、砂漠もある。夏

のリゾート地の涼しい高原、豊かな穀倉平原もあれば、万年雪に覆われた高き山もあるのがモロ

ッコだ。この山脈が存在していることで、北西と南東の気候は大きく分かれ、変化に富んだ気候

が共存するのだ。ワルザザードからマラケシュに向かうには、この高アトラス山脈を越えねばな

らない。これが巨大な日光・いろは坂のようで、車酔いと戦いながらも、車窓の外に繰り広げら

れるアトラス山脈の迫力ある景観に圧倒され続けた。

 細い道。左手は断崖絶壁。いろはいろはに曲がりくねる。そんな条件の道を我が女好きドライ

バー氏は、びゅんびゅんと飛ばして行く。対向車も大型バスや大型トラック。互いがスピードを

出したまますれ違う。前の座席ではそれをマトモに見るのだから生きた心地がしないようだ。現

Wさんの奥さんはバスから降りたら真っ青な顔で椅子に倒れ込んだ。その点、私も含めた最

後部座席組は、遊園地乗り物状態でしがみ付くしかない。しかし、中には大量の油や荷物を積ん

だ積載過剰の大型のトラックが時速20キロ位ののろのろ運転で行かざるを得ない場合もある。

そんな車が目前に来た時、我がドライバーは「まさか!」という行動に出る。追い越すのである。

こんな狭い道で、そのカーブを対向車が向かって来たらどうすんのよぉ! あのトラックは何時

間かかって目的地に着くのだろう。雲は秋のうろこ雲のようだ。高度を上げるに従って気温はど

んどん下がって、2260メートルの頂上・ティスカ峠に降り立つと冷気が肌をさす。やがて、

下り坂に差し掛かり、暫く行くと剥き出しだった山肌に急に緑が増える。急な斜面に段々畑が見

えて、目にも美しい。

赤き街・マラケシュ 

 高アトラスをやっとのことで越えて、マラケシュに到着。オリーブ畑やぶどう畑の間の道を進

んで行くと、どこもかしこも濃いピンクのような赤い街が現われる。赤土の日干しレンガで作ら

れた赤いメディナの城壁が続く。ホテルも商店の壁も、この色。モロッコでは、都市に色があり、

カサブランカは白、ラバトは緑、メクネスは黄色、フェズは青、そしてこのマラケシュは赤と聞

いて来たが、本当にどこも赤いのだ。標高450メートル、遠くにアトラスの山々を眺め、赤土

の平原にマラケシュはある。街は新市街、南北に19キロ、東西に8キロの巨大な城壁内の北側

のメディナ(旧市街)と南側の史跡地区の3地区に分かれる。ここは11世紀後半ムラービト王

朝の首都になったことを皮切りに、ムワッヒド王朝、更には15世紀のサアード王朝と3度も都

になった。千年に渡る栄華のヨスガをそこに見て取れる。

 マラケシュのランドマークは、クトゥビア。クトゥビアは本屋という意味だが、2番目のムワ

ッヒド王朝時代に建設されたミナレット(尖塔)で、高さ77メートルある。その昔、隣接して

モスクもあった頃、広場にたくさんの本屋(写本屋)が店を出していたことからクトゥビアと呼

ばれる。ラバトのハッサンの塔で触れたように3兄弟のミナレットの1つである。肉眼では見え

無いが、尖塔には3つの玉があり、下からユダヤ教、キリスト教、一番上がイスラムを表わして

いるのだそうだ。マラケシュを発つ日は金曜日だったが、ムスリムにとって金曜日は祈りの日。

クトゥビアには青い旗がハタメき「祈りの日だよ〜」と知らせていた。

 クトゥビアのミナレット  

 史跡地区に「サアード朝の墳墓群」がある。現在のアラウィー朝になってから、墓廟を厚い壁

で囲ってしまったため、200年人々から忘れられてしまい、1917年になって空からその存

在が発見されたというドラマチックなエピソードを持つ。第一、第二,第三の部屋があり、黄金

王アハメド・アル・マンスールの墓は第二の部屋、第三の部屋には女性や子供達の墓がある。花

や木々が溢れる庭内には、召使達の墓がある。モロッコでは土葬。墓の穴にメッカのある東の方

向に向けて遺体を横たえて葬るのだそうだ。それにしても長い間忘れられた墓の話は残酷のよう

だが考え方ようによっては別の王朝下でひっそりと静かに眠ることが出来て良かったのかなぁ。

 墳墓群の近くには「バイヤ宮殿」。現在も王宮として使用され、王が滞在していない時だけ一

部公開されている。19世紀終り、スルタン、ムーレイ・ハサンと大宰相バ・アフメドが命じて、

8haの地に壮大な宮殿を建設した。1000人掛りで7年かけて作ったのだそうだ。1884

年から10年間宰相の地位にいたバ・アフメドもここに住んだ。4人の妃と24人の側室。中央

には、女性達だけに開放されたムーア式のパティオが広々とあり、燦燦と太陽の光が注いでいた。

それだけいればたくさん子供もいただろうから小さな学校も併設されている。ここマラケシュは、

6〜9月の夏は気温45度以上、50度になることもある程暑いため、夏用の部屋は天井を高く

して涼を取れるようになっている。一方冬はとても寒いため天井の低い寝室には二重扉があり、

ユーカリの火鉢で暖を取る。1912年からフランス保護領になり、初代総督リヨテ将軍もこの

宮殿に住んだが、その頃から火鉢は暖炉と電気に変わったのだという。

マラケシュはバラの産地

ここは別格カサブランカ

 モロッコの街で一番知名度が高いのはカサブランカ。どころか、モロッコを知らない人でもカ

サブランカは知っている。かつカサブランカがモロッコにあることを知らない人もいる。笑って

しまうのは、カサブランカが街の名前とは知らずに覚えている人もいる。そう、1942年に作

られたアメリカ映画『カサブランカ』の影響たるや凄いものだ。皮肉にもこの映画、実際はハリ

ウッドのセットで撮影されたのだそうで、もちろん例のバーはカサブランカには存在しない。た

だ、国連広場の一角にあるハイアット・リージェンシーのホテルのピアノバーに、ハンフリー・

ボガードとイングリッド・バーグマンの写真が飾られ、衣装をつけて撮影できるようになってい

るのだとか。それはともかくカサブランカは、モロッコのみならずマグレブ諸国最大の経済大都

市である。人口も400万人を越えている。カサブランカはスペイン語で「白い家」の意だが、

1515年ポルトガルが海賊対策の拠点に「カサ・ブロンコ」と名付けたことが始まりで、その

後スペインに奪われてカサブランカに。18世紀ダール・エルベイダー、アラブ語で「白亜の館」

と名前を変更した時代を経て、現在の街名に戻ったようだ。

 マラケシュからの道路で、王様の行列らしい夥しい高級外車とバスと擦れ違いながらカサブラ

ンカに向かった。道路と並行して走る鉄道、建設中の高速道路。マクドナルドの看板も立ってい

たりで、この数日どっぷりと味わって来たモロッコが徐々に薄れて行く。ここまで高い建物とい

えば、ミナレットばかりで、高級なホテルでも3階か4階建て止まり。それがバスの進む向こう

に高いビル群が見え始め、大都会に近づいたことを知る。街の中はモロッコ風の服装の人ももち

ろんいるが、男は颯爽としてビジネススーツ姿が目立つ。アタッシュケースに携帯電話、みんな

急ぎ足で。

 大金持ちの邸宅や別荘の白い建物が並ぶ海辺にほど近いアンファ地区。第2次世界大戦中の1

943年、チャーチルとルーズベルトが、この地区のホテルでノルマンディ作戦の打ち合わせを

した。ドイツ軍は「白い家で会議がある」という情報を傍受し、ワシントンのホワイトハウスを

張ったがために、妨害が出来なかったらしい。その丘を降りると、もうそこは大西洋。荒々しい

並が押し寄せ、向こうには灯台も見える。潮風に吹かれながら海辺を散歩する。このモロッコの

様々な顔が頭を駆け巡る。多くの言葉を要しないで表現すれば、出発前に聞いた「コントラスト

の国」がピッタリ来るように思う。むちゃくちゃ面白い国だ。今回尋ねなかった最北端の街タン

ジェや南西のアガディールにも次回は行ってみたい。砂漠の落日も眺めてみたい。いっそのこと、

チェニジアやリビアのサハラ砂漠にも行ってしまうか。モロッコに触れたことを契機に、マグレ

ブへの興味はどんどんと深まるばかりだ。

 

                                 おしまい

旅した日/2001年3月〜4月    書いた日/2001年4月〜5月

この旅日記を書くに当り、以下の文献を参考にさせて頂きました。この場をお借りして厚くお礼申し上げます。

      ゴールデンブックシリーズ『モロッコ』(現地購入)

      『モロッコ流謫(るたく)』四方田犬彦(新潮社)

      旅する21世紀ブック望遠卿『モロッコ』同朋舎出版

      ダヤンのスケッチ紀行「モロッコへ行こう」池田あきこ(株式会社MC

      『来て見てモロッコ』小林 けい(凱風社)

      『地名の世界地図』21世紀研究会編(文春新書・文芸春秋)

      『民族の世界地図』21世紀研究会編(文春新書・文芸春秋)

      地球の歩き方『モロッコ』ダイヤモンド社

      『おばちゃまはアラブスパイ』ドロシー・ギルマン著、柳沢由実子訳(集英社文庫)

      JTBポケットガイド『アフリカ』JTB

尚、モロッコ旅行中宿泊したホテルにつきましては、ホテル日記に「モロッコホテル事情」

として収録しています。ご参考ください。

 

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