夢子の地球大好きシリーズ
ポルトガルぐるぐる
◎大航海時代とポルトガル
首都リスボンに流れるテージョ川の下流、ジェロニモス修道院やベレムの塔の近くに「発見のモニュメン
ト」がある。川に突き出すように船型に形どった舳先に航海王子と言われたエンリケ王子を先頭に航海時代
の英雄達が十数人、縦にずらりと並ぶ。写真でこの「発見のモニュメント」を初めて見た時「この目でしっ
かりと見たい!この国に行きたい!」と強く思ったことを覚えている。自分でも引き付けられた理由はわか
らない。進取の気性の素晴しさや未知の国への憧れとロマンに溢れた彼等の表情が魅力的だったのか。冒険
前の興奮が自分に乗り移ったようでもあった。この「発見のモニュメント」は完成したのが1960年だか
ら未だとても新しい。20世紀の半ばに「発見のモニュメント」を作ったことでも、400〜500年もの
前の歴史を現代のポルトガル人が今も懐かしみ、かつ誇りにしていることが十分に汲み取れる。今はヨーロ
ッパの中でも存在感の薄いポルトガル。大航海時代の輝けるポルトガルの歴史が、現在の国民に奮起を促し
ているようにも見える。
実際に「発見のモニュメント」に行った時は、風速15メートル位の強い風が吹いていた。この私でさえ
吹き飛ばされそうでじっくり眺める状況ではなかったが、海かと見まがうような広々としたテージョ川にそ
そり出た真っ白な建物は想像通りの感動を与えてくれた。そのモニュメントの前の地面には、大理石が敷き
つめられて、ポルトガル大航海時代の制覇の記録地図が記してある。日本ももちろん登場するがどうした訳
か実際の1543年ではなく1541年の発見となっていた。もっとも、それは発見する側の論理であって、
私達日本のご先祖様は当時群雄が割拠したりで忙しくて「発見されてしまった」なんて意識は全く無かった
と思うけどね。
鐘鳴りてアズレージョの街暮れにけり
発見のモニュメント 向こうに4月25日橋が見える 日本発見は1541年??
ジェロニモス修道院 修道院の中にルイス・デ・カモンイスの墓がある ベレムの塔
1994年の大晦日。ロカ岬にいた。ヨーロッパいやユーラシア大陸の最西端の岬である。ポルトガルが
誇る詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・リジダアダス』に出てくる一節「此処に陸尽き 海始ま
る」は、あまりにも有名だが、この詩の言うところを実際に味わいたくて訪れる人が絶えない。そういう私
もそう。灯台があって、岬の突端に観光案内所(ツーリスモ)兼土産物屋兼軽食堂が1軒ポツンとある他は、
ルイス・デ・カモンイス先生の詩の石塔がこれまたポツンとあるだけで寂しい。でも岬なんてこうしたも
のか。しかし思いがけない程広い。危険だからこれ以上行くな!という突端の柵まで行って下を覗き込むと、
そこは断崖絶壁で高さ140メートル。福井県の東尋坊を思い出す。その先は果てしなく大西洋が広がる。
波が荒い。大西洋は、アメリカ側からは何度か見たことがあるが、ヨーロッパ側からはポルトガルに来て初
めて見た。パシフィック・オーシャン太平洋を見慣れた日本人にとってはアトランティック・オーシャンの
大西洋を特別の関心を持って眺めてしまう。深い青色の海上に白い波しぶきが激しくそして高く揺れてい
る。「この海の先に、きっと黄金を埋蔵する陸地がある、素晴しい国があるはず」と信じるかどうかは想像
性の優劣に寄るものか。実際にエンリケ王子やバスコ・ダ・ガマが海に漕ぎ出して行ったのは、リスボンだ
ったらしいが、大海原の先にあるものを想像し得た者の中で、荒海に乗りだす勇気を持った者だけが、その
上長く過酷な航海に成功したものだけが発見の栄冠と巨万の富を手にした。まっ、今で言うところの「創業
者利益」ですね。ここのツーリスモでは最西端まで来たという証明書を有料でくれる。
ロカ岬 「此処に陸尽き 海始まる」と書いてある(らしい)
ポルトガルの歴史を紐といてみると、一言で言えば、大航海時代の一時期を例外として、受難の連続だっ
た。古くはフェニキア人、古代ローマ人などの侵略を受け、その後イスラムの統治が長く続き「レコンキス
タ」という国土回復運動が718年から始まり1139年ようやくポルトガル国として独立するも、国土回
復運動が終了したのは500年以上経った1249年。しかし、その後もチョッカイを出して来た隣のカス
ティーリャ(スペイン)を追い払ってやれやれと思ったら、1755年に大地震でリスボンは崩壊。その窮
状をポンバル侯爵がバシバシッと采配を振るい回復工事をものの見事に成功させたので拍手喝采したら、そ
の後ポンバル侯爵は権力を盾に贅沢三昧。う〜む、困ったなぁと思っていたらフランスは押し寄せて来るは、
イギリスが攻めて来るはでおちおち寝ていられない。ブラジルに逃げてしまった王様一家はいっこうに帰国
する気配が無いし。1910年やっと共和制になって希望に燃えようかな、と思ったら1932年サラザー
ルが議長となって又もやゴッツイ独裁政治。ったくもう!と同情してしまうが、1974年4月25日(リ
スボンのテージョ川に4月25日橋がかかっている。それまでサラザール橋と言われていたが、革命を機に
名前を変えた)に、ようやっとカーネーション革命という無血革命があり、現在のポルトガルになったとい
うことらしいのです。
国の歴史を辿れば、2000年〜3000年の間、特に大陸では、支配したり、されたり又されたり。暫
くの間地図から消えてしまう国だってあった。小さな国、弱い国、大国の間に挟まれた位置に運の無い国な
どは悲惨な歴史を繰り返す。その中でポルトガルは、短くとも「輝ける栄光の時代」があっただけに、それ
以前の苦難の時代を超えて栄光の時代にたどり着くまでと、再び光を失ってから帯びた陰影がことさらに濃
く感じられるかもしれない。栄光の時代は余りに短い。15世紀始めから16世紀半ばまでのわずか150
年くらいしか光り輝やいていた時代は無いのだ。この時だけはポルトガルは七つの海に乗りだし、北アフリ
カ、喜望峰、インド、マカオ、中国、日本、さらにはブラジルと、隣国スペインと争うように新大陸や島国
を発見し続けた。諸国から仕入れた香辛料や銀などは、1回の航海にかかった全部の費用の数倍から数十倍
の値段で売れたそうよ。この時代、イベリア半島の二国ポルトガルとスペインが新しい国を続々と発見し、
世界を二分するような勢いであった。とてつもない金儲けが出来る貿易の仕事と聞いた当時の若いモノは、
毎日汗水たらして耕したり羊を飼ったりするのがバカらしくなって田畑を捨て故郷を見限り、港を目指す。
大きな木造船を作るために木は切り倒されて山は禿げ山のよう。バブリーな港町と荒れ果てる国土。しかし、
発見した多くの国を統治するには余りにポルトガルは小国に過ぎ、やがて覇権は徐々に他国に奪われていく。
大国が奪っていく。短い栄光と繁栄の時代の終焉である。そして、今ヨーロッパの西端にひっそりとたたず
むポルトガル。しかし長い受難の歴史の中でピカリと光る一時代があったのだ。
羽根休む銅像の肩冬カモメ
ポルトガルあっちこっち
今回の旅は、パリからポルトガル北部のポルト(ポルトガルの名前はここから)に入り、一旦もっと北の
ブラガに行ってから、後はひたすら南下しながらアヴェイロ、ブサコ、コインブラ、バターリャ、ファティ
マ、トマール、ナザレ、アルコバサ、オビドス、ロカ岬、シントラ、カシュカイス、エヴォラ、リスボンと
実に多くの街をバスでぐるぐる廻った。実質8日間でこれだけ廻ったので、頭もぐるぐる廻ってしまい、い
ささか心もとないが、印象に残った街の点描なぞ記す。
ナザレ:
先頃亡くなったファドの女王アマリア・ロドリゲスが歌った「暗いはしけ」で一躍有になったナザレは、
キリストの生誕地を町の名前にしている。ポルトガルは熱心なクリスチャンが多く、イタリア、スペインと
並んで「マリア崇拝」が大変根強い国。ナザレは大西洋に面した長い砂浜を持ち、漁師町と海水浴客で賑わ
う観光の町の2つの顔がある。白い砂浜に色とりどりのビーチパラソルがずらっと並ぶ夏の光景は、ホテル
に飾ってある写真で見ただけで、今は真冬。荒い波が誰もいない浜辺の寂しさに一層迫力を与えている。街
をぶらぶら。この地方だけに伝わる黒ずくめの衣装を着た何人かの女性がおしゃべりをしている。既婚女性
だけが身につける衣装だが、スカートをまるで十二単のように何層にも重ねて履いている。その重ね履きし
たスカートがペチコートの役割もして、遠くから見るとふんわり広がって可愛らしい。黒の上着に黒いスカ
ーフを被り、独特の味わいがある。一番ポルトガルらしい服装と感じた。今は若い人は余り着ないようで、
見かけたのは皆おばさんかおばあさんであった。最初に焼き鰯を食べたのはこのナザレだが、ここでは鯵の
干物も大量に作っているとか。但し、鯵の干物といっても大変塩辛く、焼いて食べるには十分塩出しをせね
ばならない程で、普通はスープに入れてダシにするようだ。
ナザレには真冬の海が吠えており
コインブラ:
大学の街である。ポルトガル最古の大学、コインブラ大学が丘にそびえる。大学の図書館のアズレージョ
が特に有名。男子学生は黒マントをまとうのが伝統と聞く。大学から続く長い階段を下りる途中、両脇には
たくさんの土産物屋が並ぶ。アズレージョを売る店が多い。陶器やガラス細工などの産地でいつも悩むのは、
重く壊れやすい荷物となること。日本なら「送って」と言えばいいが、外国の場合はなかなか難しい。ハン
ガリーのヘレンドでも、ボヘミアングラスのプラハ、ヴェネチアングラスなど、悩んで悩んで大物、セッ
ト物は買えず、小さな物でごまかしたが、帰って来て思うのはいつも「買ってくれば良かった」。アズレージ
ョ焼きのタイルを買って、将来建てるかもしれない家の台所に組み込んだら、どんなにか洒落た壁になるだ
ろう、とは思いつつも、当座の荷物の重さに気持ちは萎える。坂を下り切った広場で雨が降り出す。慌てて
小さな喫茶店に入りお茶を飲む。小雨の降る広場では黒マントの学生風の男がギターを弾きながら歌ってい
る。ファド。リスボンの哀愁に満ちたファドに比べ、コインブラのファドは軽快な恋の歌が多いのだとか。
しかし、黒マントに雨のせいか、何となく哀しみを帯びて聞こえてしまう。
コインブラ黒きマントに冬の雨
コインブラ大学キャンパス 同図書館
アヴェイロ:
駅舎の壁のアズレージョが有名というので見に行く。水郷の街で「ポルトガルのベニス」と聞いたが、ち
ょっと、いや、かなり違うだろ。しかしここには塩田があって、帰国してからここの塩がうまいと聞き、買
いそびれたことを悔やむ。駅から10分くらい歩いたところにポツンと建っている土産物屋に入る。特に買
うでもなく、何となく刺繍したテーブルクロスを見上げていると突然声をかけられる。「失礼ですが、夢子さ
んじゃぁありませんかぁ!」げっ!なんでこんなところで声かけるのよぉ。しかも名前まで知っている。振
り返ると知らない青年。「やっぱり夢子さんですね。私関西支社〇〇事業の××です」あっちゃ〜。同じ会社
の社員だわぁ。しかも以前担当した部署に今いるんだって。彼は、一度ポルトガルに来てすっかり魅せられ、
3年毎に4週間以内の休暇と1ヵ月の給与を獲得出来るステップ休暇という我が社独自の制度を取得してポ
ルトガルを回っているのだとか。北から攻めている私と、逆に南から北上している彼が擦れ違った訳だ。ス
ペインと2国を回るツアー客含め年間2万人しか日本人が訪れないポルトガルなのに、こんな小さな街の、
しかも何てことのない土産物屋で会ってしまうなんて。いやはや地球は狭い。
アズレージョで有名なアヴェイロの駅舎 ポルトガルのベニス?
ブラガ:
今回行ったポルトガルの最北端の街。祈りの街とも言われる。「ブラガで祈り、ナザレで働き、コインブラ
で学び、リスボンで使い果たす」という言葉があるのだそうだ。ここにはジェズス寺があり、山1つ分の階
段で有名だ。登る時は車で行き、教会を見学した後つづら折りの階段を歩いて下りる。旅で親しくなった年
輩の女性と左右に分かれて階段を下り、また会って、また分かれる。敬虔な信者は、この階段を一番下から
這って登ると聞いて、いやはや。全部の階段を下りた時は冬でも汗びっしょり。改めて階段を見上げてその
造形美に感慨もひとしおである。
ジェズスの長き階段冬の空
エヴォラ:
リスボンから4月25日橋を渡り、東を目指す。道の両脇にはポルトガル名産のコルクの林が延々と続き、
150キロも走るとエヴォラに着く。アレンテージョ地方の中心地でローマ人が作った街だ。街の真ん中に
はこじんまりしているが、ディアナ神殿とも言われるローマ神殿がある。曖昧な記憶だが世界文化遺産に指
定されたのではなかったかしら。カテドラル。天正時代、伊東マンショ、中津ジュリアン、千々石ミゲル、
原マルチノの4人の遣欧少年使節がエヴォラを2度訪れたが、伊東マンショと千々石ミゲルはこのカテド
ラルのパイプオルガンを見事に弾いたのだという。8年数ヵ月、イタリア、スペイン、ポルトガルを旅した
少年達は、どこでオルガンを覚え、そして弾いたのは何の曲だったのか。
オルガンを弾く少年に冬の影
ディアナ神殿
アルコバサ:
「凄まじき恋」。この街のサンタマリア修道院に安置されている2つの棺には「凄まじき恋」の主人公達が
眠る。最後の審判が下される日に蘇った2人がすぐ互いの顔を見えるようにと配置されている。時の王は、
レオン王国の侵略に怯えてその王女コンスタンツァを息子の王子ペドロの妃に迎える。その時、王女はわず
か8歳。戦略結婚などはさして珍しいものでもないのだが、ここで王女に付いて来た親類のお付きの女性イ
ネス・デ・カストロ(王女の遠縁らしいんだけど)と王子の目が合ってしまったことから大悲恋が始まった
のだ。すっかりイネスに心を奪われてしまった王子は、彼女との間に子供をもうける。4人も! 元々レオ
ンから侵略されることを怖れて仕組んだ結婚なのに、王女を無視して家来の女性に子供まで産ませてしまっ
たんじゃあ、「意味ないじゃん!」と王様や周囲は大いに困惑し、おろおろしたことは当然の成り行き。やが
てコンスタンツァが産後のヒダチが悪く亡くなると、王はイネスと子供達を殺してしまうのであった。激怒
した王子は、それでもじっと耐え、堪え、父の王の死後ペドロT世として王位に就くと、愛した女性イネ
スの殺害関係者を全員処刑し、かつ墓から掘り起こさせたイネスの亡骸に化粧を施し、王妃の椅子に座らせ
て結婚式を挙げる。で、家来に王妃の手に口づけを強要したっていうから凄いじゃありませんかぁ。ペドロ
の愛情の激しさに感動というよりも、その執念深さに恐怖を感じてしまう。今も並んで修道院の棺に眠って
おいでです。もしお2人が蘇られたら、かなり遠くからならお姿を拝見したい。
みそか雨恋をたどりてアルコバサ
永遠の女性イネスの棺
リスボン:
ポルトガルのカタチ「西の海を見る男」のちょうど「鼻くそ」当りにリスボンはある。リシュボアと呼ば
れる首都であり、港町である。7つの丘があって坂道が多い。その石畳の坂道を市電が喘ぎながら登ってい
く。サン・ジョルジュ城。丘の上の城からちょっと下ったところにあるサンタ・ルジア展望台からは、息を
呑むような眺望を見渡すことが出来る。テージョ川にかかる4月25日橋の向こう側に建っている巨大なキ
リスト像も、ここからはほんの小さなお姿に。十分に時間をかけてリスボンの眺めを堪能したら、帰りは徒
歩がいい。どんどん降りていくと、そこは最も古い街並を残すアルファマ地区。イスラム支配が続いていた
頃の中心地だったのだが、裕福な人はアルファマを捨て、貧しい層だけがここに残った。狭く迷路のような
階段でふと立ち止まって上を見ると、色とりどりの洗濯物がズラリと干され、滴が垂れたりする。ポルトガ
ルの洗濯女を突然思い出す。近代的なショッピング街バイシャ地区もいいが、取り残されたようなアルファ
マ地区にポルトガルの素顔を見る。
サンタ・ルジア展望台 遥かに見えるキリスト像 アルファマ地区
ポルトガルの食卓
シャルル・ドゴール空港からオルリー空港まで満員のバスにゆられ移動し、さんざん待って、ようやくイ
ベリア航空のポルト行きに乗り込んだ。わずか2時間半ほどの飛行時間だが、しっかりした食事が出る。待
ち時間に食事をしたことと成田からの長時間の旅で疲れて食欲がわかない。鱈料理をだらだらつっときなが
ら機内を見渡すと、ポルトガル人らしい乗客はもりもり食べている。その上、食事が半ばになった頃スチュ
ワーデスがパンをずらっと並べた大きな板を持って客席を回っている。パンのお替わりを配っているのだ。
あちらこちらからパンを貰う手が伸びる。大人気。「そうかぁ!ポルトガルはお替わり文化なんだぁ。これは
期待できるぞ」と、これからの食事に大喰いの私の期待はいや増すのであった。
いろんな国で食事して来たが、ポルトガルほど次の食事が楽しみな国も少ない。魚介類消費量世界3位と
あって、肉と魚は半々。野菜も多い。私が大好きなスープ類の種類も多く、コースには必ず最初に出て来る。
そして何と言っても「お替わり」が出来るのだ。今回はユーラシア旅行のツァーに1人で参加したのだが、
参加者20名の老若男女で、いつもお替わりをするのは私ただ1人。その点少しきまり悪かったがそんな事
を気にしている場合じゃない。ブッフェスタイルの朝食は別として、昼・夜の食事では一旦全員に配って
残ると(必ず残るような量がちゃんとある)、また始めの席から「どうぞ」とサーブし始める。スープもメイ
ン料理もパンも。もちろん私は全部お替わりをお願いする。1人だけ。旅が終る頃にはお陰で少し太った気もする。
ポルトガルの魚料理で日本人が小踊りするのは鰯(サルディーニャ)である。何と塩焼き。しかも炭火で
モウモウと煙を上げて焼くのである。日本ではマンション住まいで煙が出ると迷惑だからと秋刀魚や鰯を焼
くことを遠慮しているのに、ここは堂々と焼いている。いいなぁ、懐かしいなぁ。ただ、これにスダチを絞
り、大根おろしに醤油をちょっと垂らして添えて、白い温かいご飯と食べるという訳にはいかない。ワイン
とパンで食べる。ここがちょっとツライ。でも何となく感じるポルトガルに対する望郷のような思いの原点
の一つが鰯の塩焼きかと納得がゆく。さて、ポルトガル人の一番のご馳走と言えば何と言っても鱈(バカリ
ャウ)。干し鱈の料理も数多く、クリスマスには全国民が干し鱈の料理を食べるのだとか。アメリカ人の七面
鳥みたい。他に貝類、海老、烏賊、蛸もよく食べる。スープsopa(ソパ)は、すりつぶしたじゃがいもと青
キャベツのカルド・ヴェルデ(ヴェルデは緑という意味。ヴェルディ川崎ですよ)など野菜を使ったものや、
魚介類を入れたものなど、どろどろしたポタージュタイプのものが多い。それも気に入った。通が好むのは
コンソメらしいが、私はどうも腹の足しにならないようで、いつもポタージュタイプを注文してしまう。和
食でも、お上品なおすましより、三平汁、けんちん汁、大分のだんご汁など実だくさんの汁が好き。コンソ
メの正式な作り方を知ると軽々しく「洋風すまし汁」とは言えませんけどね。ポルトガルでは、お得感のあ
るソパをお替わりしてご機嫌であった。
ポルトガルでは、いろんなレストランで食事したが、そこで見かけた現地の人の食事は、ワイン、スープ、
メイン料理、パン、デザート、お茶というもので、ナッパ服を着た現場仕事をしている人でも、若いOL風
の女性も、ほとんどがそういった昼食をゆったりとしている。いいなぁ。食にこだわる国民は大好きだ。そ
れと一品料理を頼んだ彼等の前の皿を見よ。凄い量。あれではさすがの私もお替わりしようにも出来んな。
ポルトガルでは数少ない(と思う)少食家のためには、半分という注文も出来るらしい。何だか食べ物の量
にばかり心を奪われているようで、ちと恥ずかしい。
パンがうまい。これにテーブルの篭にどんと置いてあるガーリックバターをたっぷし塗って食べると、も
っとうまくなって止まらなくなる。どこでだったか昼食のメイン料理がなかなか出て来ないので、パンを食
べ始めたらやめられなくてそれだけでお腹が一杯になりかけたことがあった。今では雪印でも出しているが、
容器に入ったガーリックバターを初めて味わい、すっかり気に入ってしまった。以来食事の時はガーリック
バターを探して確保し、パンをパクつくことにした。
ポルトガルの人はデザートも好き。だ―い好き。あんなに料理を食べ、ワイン飲んで、美味しいパン食べ
て、でもデザートもちゃ〜んとたくさん食べる。それもとても甘い。近年日本でもポルトガル生まれのお菓
子のエッグタルトが大流行したが、あんなのは序の口で、甘さの王子様、王女様、女王様、王様がずらりと
並び、ポルトガル人の口に盛大に運ばれる。「別腹」という幻想はどこにでもある。
ポルトガルの酒といえばワイン。中でもポルトワインやマデイラ酒と並んでヴエルデ・ワイン、壇一雄が
愛したダンワインなどが有名。最初に訪れた都市ポルトではドウロ川の河岸に沿ってワイン工場がずらっと
並び、見学希望者には工場を案内し、ポルトワインの簡単な歴史なども説明してくれる。それが終るとキキ
酒。タダ酒。ウッヒョ〜と勇んで飲むが甘い! ハンガリーで飲んだトカイワインと同様、デザートワイン
だから甘いのですけど、それが実に甘いんです。トカイワインは貴腐ぶどうから作る甘さだが、ポルトワイ
ンは最終工程で混入するブランデーの甘さのようだ。日本でも昔から「赤玉ポートワイン」があって、子供
の頃、時々貰いモノの瓶があると親の目を盗んでキキ酒していた。甘くて薬臭いと感じた記憶がある。日本
ではヨーロッパのワインといえば、フランス、イタリア、ドイツ産を思い浮かべるが、ポルトガルもどうし
てどうして、質の良いワインをたくさん作り、しかも安いのである。
寒き日もワイン醸せしドウロ河岸
ポルトワインはドウロ川岸で作られる
ポルトガルホテル事情
パラス・ド・ブサコ
ポルトガル滞在三晩目の宿は王の館であった。ブサコにある。コインブラから30キロほど行った国立公
園の森の中にあって修道院に隣接している。1888年、王の狩猟用の館として建設が始まったが、ようや
く完成したものの、マヌエルU世が「ポルトガル最後の王」となり共和制に移行。宙ぶらりんになっていた
館をホテルに改装したのだとか。小雨の降る中、ホテルに到着。狩猟のための別荘みたいなものだからそれ
程大きくはない。ネオ・マヌエル様式というのだそうだ。庭園に丸く刈込まれた植え込みが美しい。椿が咲
いている。私が割り当てられた部屋はシングルでとても狭い。本館と別館の渡り廊下のような位置にある部
屋で、元々は家来しかも下っぱのコモノの居室だったんじゃないかなぁ。部屋も小さければ、ベッドも洗面
台も風呂も可愛らしいほど小さく狭い。西洋人イコール大きい人というイメージがあるが、ポルトガル人の
背はさほど高くない。にしても狭いのだよね〜。風呂。日本でも由緒ある古いホテルに行くと時々そうなの
だが、小さなバスタブがバスルームの真中の床にジカにポツンと置いてある。人間はどうも端っこが心落ち
着くらしく、こういう形で全方位空間の中で浮かんでいるという配置では、お湯につかってもゆったりした
気分にはなれない。何か不安で後ろをさっと振り返ってみたり。誰も見てないってば。ベッド。もちろん小
さく狭い。そういえば、フィレンツェで泊まったホテルのベッドが異常とも思える程幅が狭かったので不思
議に思い聞いた。ヨーロッパで昔の一時期「幅狭ベッド」が流行したことがあって、その名残りじゃないか
と。寝返りを打つ度にベッドから転げ落ちそうで、一晩中落ち着かなかった。誰だい?そんなひと迷惑な流
行を仕掛けたヤツは!
晩餐が始まる。この晩のためだけに持って来た一張羅を着て、ホテル内のレストランに向かう。皆な緊張
気味。咳払いをするにも小さくコホンと上品に。シャンデリアの下でタキシード姿のお兄さんがサーブして
くれる。いっときの王侯気分。何を食べたか何も思い出せないのだが、特にうまくもなく、しかしまずくも
なかったような。翌朝、客室の半分くらいが停電して、薄暗い朝の間に荷作りしていた私達は大いに困った。
寒椿王家の館けふの宿
パラス・ド・ブサコ
五ツ星リッツに三連泊
憧れのリスボン。しかもホテルは五ツ星のリッツだよ。それも三連泊。わくわくしてホテルに着いた。す
ると驚くじゃありませんか! ロビーのソファに座ったらすかさず熱いタオルのおしぼりが出て来るのであ
ります。さすがリッツ! たったそれだけのことに妙に感動してすっかり「気に入ったぞ」とAランク評価。
(しかしこの結論は短絡だった)部屋は広い。ベッドはダブルだし、部屋がゆったり出来ている。ま、パラ
ス・ド・ブサコとの比較で余計そう思ったのか。
ここの朝食には、和定食がある! しかし目が飛び出る程高い!! いくらか忘れてしまったけど、30
00円以上だったような。この旅行で買ったポルトガル土産で一番高価ものが3500円くらいで、それと
同じような値段だったという記憶がある。美味しいとはいえ、毎日ヨコ飯が続くとタテ飯も食べたくなる。
リッツの日本人ホテルウーマンが、厳かに「私どもでは日本食のご朝食も用意してございます」と告げた時
は、20人の仲間から「おぉ〜! さすがリッツ!」と大歓声が上がったのだが、値段を聞いてシンとなり、
以降3回の朝食時、和定食を食べている人を一度も見かけなかった。
第2次世界大戦で中立を貫いたポルトガル。従ってリスボンは自由港として世界中の情報の拠点となる。
スパイ小説の類ばかり読んでいる私はCIAやKGBのスパイが暗躍しリスボンの港からアメリカに亡命す
るなんて小説をドキドキして読みまくっていた。「霧にかすむリスボンの夜、裏通りの石畳に響くコツコツと
いう足音が跡絶えると同時に、男は穴蔵のような小さな酒場に身を滑り込ませた」なんて文章に酔い、そこ
で交される会話に耳をそばだて、男達が飲む酒を飲みたいと「ゴクリ」と喉を鳴らしていた。そのリスボン
の夜にいるのだ。酒を飲まなくっちゃ。とはいえ、暗い裏びれた酒場に1人で歩いて行って飲む勇気はない。
というか寒いし面倒だ。で、リッツのバーに行く。目が慣れるまでぼんやりとした人影がやっとわかる程ぎ
りぎり照明を落とした店内は、客の大半が吸う煙草の煙が充満している。どことなく怪しげ客が何組かひそ
ひそと額を寄せ合って話し込んでいる。時折聞こえる「消せ!」「密航」などの言葉。ワケ知り顔のバーテン
ダーが疲れた顔でグラスを磨いている。そんなバーを予想して1人バーに向かう。あら? 何だかと
ても広い。そして明るい。なのに客は誰もいない。イメージ全然ちゃうなぁ。客が誰もいないので「あれは
きっとスパイに違いない」などと想像したくても出来ない。だいたいバーテンダーもいないじゃないかぁ。
カウンターの奥の方に向かって「すみませ〜ん。どなたかいらっしゃいませんかぁ〜」と日本語を大声で叫
ぶ。イメージ違い過ぎる。3度叫んだところで、おじさんがやっと出て来る。貴重なお客が来てくれたなん
て感謝の表情はなく、めんどくさそう。カウンターに座り、ドライマティーニあたりからチビチビ始めよう
かという気も失せ「ジントニック」。テーブル席で3杯ぐびぐびと飲んで、部屋に帰って寝てしまった。
リスボンのスパイを照らす冬の月
最終日。6時半起床予定だったが、早く目が覚める。蛍光時計は5時をさしている。え〜い、起きてしま
おう。電気のスイッチを入れる、あら、つかないわ。外は未だ真っ暗。パラス・ド・ブサコでも停電があっ
た。ここも停電か。ドアを開けて廊下を見ると電気が立派についている。ということは私の部屋だけ電気が
つかないということ。あららぁ。今日は帰国の日なのに。電話があるらしいところも真っ暗。おまけにライ
ターも見つからない。どうしたもんか。廊下の遥か向こうに客室係のおばさんが2人、早くも働いている。
「すいませ〜ん。マダ〜ム」と叫んでパジャマ姿のまま手を振る。2人で顔を見合わせた後、手を振り返し
て来た。「そうじゃないんです〜。来て〜」と何度かやっているうちに、1人が不審そうな顔で来てくれる。
ポルトガル語もわからないので、おばさんを強引に部屋に引っぱって、電気がつかないことを懸命にアピー
ル。おばさんが誰かを呼びに行く。10分くらいしておじいさんが現われる。何となくこの部屋の電気系統
が故障しているようだ、と私に説明して帰ってしまう。20分程待つと脚立を持ったおじさんがやって来て
あっちこっちいじっているうちにやっと電気がつく。思わず拍手。どうしてポルトガルでは一流ホテルでも
電気が消えるのでしょうか。
リッツの客室 この廊下の奥に向かって叫んだ
ポウサダ
ポルトガル独特の「ポウサダ」という国営ホテルがあちこちにある。全国で40数箇所あるようだが、古
城や宮殿など歴史的に有名な建物をホテルにしている。残念ながら私は泊まる機会が無かったのだが、オビ
ドスというリスボンから程近い小さな街にあるお城を改装したポウサダを覗き込んで次回は絶対泊まるぞ、
と誓った。ホテルの名前は「ポウサダ・デ・カステロ」。元お城だったのにたった9室しかない。部屋数が少
ない上、大人気で泊まるのは超難関と聞く。「谷間の真珠」ともいわれるオビドスは。13世紀のドン・ディ
ヌス王妃イザベルが街と城を気に入ってしまい、そのままずっと住み続けられたことから、以後6世紀もの
間、歴代の王は王妃にオビドスをプレゼントする習慣になったとか。だからここは王妃の直轄地だった。小
高い丘の上にある小さな村。カステロは、こじんまりした家が並び、花が咲き誇り、いかにも女性好みの街
オビドスにある。
オビドスや歴代王妃の冬籠り
丘の上にあるオビドスは、どこを切り取っても絵になる可愛らしい街
ポウサダ・デ・カステロ
ポルト2泊、ナザレ1泊、エヴォラ1泊。他のホテルは、中級で特に特徴は無い。こじんまりとしかし清
潔で、平均的というところ。ポルトガル1泊目はポルトだったが、お風呂で長旅の疲れを取って「やれやれ、
西の果ての遠いところまで来てしまったなぁ」と思いながらテレビをつけると、知っている歌が流れて来た。
NHKで数日前やっていた「懐かしの愛唱歌集」。日本語アワーみたいな番組のようだ。深夜、ポルトのホテ
ルで日本の愛唱歌を1時間歌いまくったのだった。
♪ 七色の虹を越えて 流れていく風のリボン ♪
懐かしさの正体を探して
初めて訪れた国なのに、ポルトガルは何故か懐かしさを感じさせた。ず〜っと前にここに住んでいたよう
な、あるいは親の里に帰ったようにしっくりと肌に合う。無口ながら、誰をもやさしく包み込んでくれる懐
の広さと深さ。テージョ河に沈む夕日を見てガラにもなく涙ぐんでしまいそうに純真な気持ちになってしま
う。う〜む、ポルトガルが醸し出す「懐かしさ」の正体はいったい何なのか。ポルトガルの国のカタチは、
男の横顔だ。少し顎のしゃくれた男が、西の(左向き)海をじっと見つめる横顔。この男を懐かしいと思う
のなら、彼の性格を知りたい。日本人との関わりを知りたい。
確かに日本人が初めて接した西洋人はポルトガル人。1543年種子島に漂流したポルトガル人が鉄砲を
伝えたって話は誰でも教科書で習いました。ついでにイエズス会のフランシスコ・ザビエルがキリスト教の
布教に来たし、こんぺい糖や天ぷら、カステラ、パン、たばこ、しゃぼん玉、カッパ、メリヤス、ビロード
等を伝えたことも知っている。食べ物だけでなく、印刷術や医学など、南蛮(凄いね、この言葉)が伝えたも
のは実に多いのである。仮定の話をしても仕方無いと思いつつ、もし信長がこの時伝わった鉄砲を大量に使
用しなければ、日本の歴史は大きく変っていたかもしれない。江戸幕府に絶対来ちゃダメ!と言われるまで
の約100年間ポルトガルが日本に与えた影響は相当な大きさだったと思う。しかし独占していた貿易の権
利は、やがてオランダに取って代わられ、その後も鎖国終焉を迎えるきっかけはイギリスやフランス、アメ
リカの強行な開国要求であって、ポルトガルが及ぼすものは16世紀の半ばからは見る陰もなく薄くなった
ままだった。その昔日本に西洋の存在に初めて目を開かせてくれた国はポルトガルではあったが、その後親
密な関係が続いたわけではない。恩のある旧友といったところか。
「どうぞお願い」のプリーズはイタリア語で「ペルファボーレ」、スペイン語は「ポールファボール」、そ
してポルトガル語で「ファシャボール」あるいは「ファシュファボール」とちょっとした変化だけ。いずれ
も、ラテン語をベースにしたロマンス語から派生したものらしい。しかしそれぞれの気質はずいぶん違う。
イタリアとスペインの間にはフランスの「シルブープレ」があるのだが、フランスにはちょっと休憩してい
て貰って、つい、この3か国を比較してしまう。訪れた順番でいえば一番東のイタリアが最初だったが、陽
気でお茶目で浪費型の民族が、西に進むほど純朴素朴さがどんどん増していく。スペインはまさに中間。西
端のポルトガルは真面目、純朴、慎み深く、シャイな国民がヨーロッパ一安全な国を形成している。もうイ
タリア人気質と比べたら、正反対でしょ? そりゃ国民気質と言っても全員がそうではないから、女好きで
陽気な怠け者のポルトガル人だっているに違いない。違いないのだろうが、「全体を感じる」ってこともある。
それだ。さて、我が日本。世界一安全な国(犯罪の少ないという意味で)に住む真面目、努力家、主張を
しない、社交下手の働き者。今の若者はともかく、親の世代くらいまでの昔の日本人はこうだったんじゃな
いかなぁ。まず、気質に共通点を見た。
旅行社がツアーの案内を作る時に国につけるキャッチフレーズ。伝統の英国、エスプリのフランス、情熱
の国イタリア、火の国熊本、彩の国埼玉・・・・。ポルトガルの場合は「哀愁」である。哀愁のポルトガル
紀行。哀愁かぁ。当っている気もする。「サウダーデ」という言葉がポルトガルにはあって、国民的音楽のフ
ァドにはしばしばこのサウダーデが登場する。意味は遠く離れた故郷や恋人、家族を思う悲しくも熱い寂し
くやるせない心なんて訳される。作家新田次郎はサウダーデを「孤愁」と訳語を作る。しかし、ポルトガル
の人は「独特の感性であるから他国の人にはニュアンスをはっきり説明出来ない」と言うそうだ。確かにそ
の土地の人でなければ理解出来ない言葉はある。日本で言うなら「わび、さび」だろうか。信州なら「ずく」
かな。でも、わからないなりにサウダーデの気持ちを日本人はどこかに持っている。例えば音楽でいえば、
長調より短調が好きとか、リズムよりメロディーが好き(若い人は違いますよ)、節まわしにも増して歌詞に
引かれるというのは両国民に共通する。さしずめポルトガルのファドに対しては日本のそれは演歌だろうか。
寒空に大道芸の唄哀し
食べ物ではどうか。同じような物が好きだということも重要かもしれない。ポルトガル人は鱈が一番の好物とはい
え、青魚の光モノも好き。鰯の塩焼きを炭火で焼くなんて偶然過ぎる。ポルトガルに行って初めて聞いた時は心底た
まげてしまった。ナザレの海岸では鯵の干物が盛大に干されのだそうだ。蛸もイカも好き。お米料理もしばしば食卓
を飾る。じゃがいもや野菜をどろどろにして作るスープは味噌汁代わりのようにも思える。その昔ポルトガルが日本に
伝えた食べ物以外でもこうした共通点が多いんだよなぁ。
ポルトガルに感じる懐かしさ。日本とのいつくかの共通点を挙げたものの、「正体」にまでたどりつけたの
か。自信は無い。サウダーデと共にポルトガルを表わすもう一つの言葉「シンパチコ」(女性形シンパチカ)
は、思いやりがある、共感できるといった意味。炭火の上で煙を上げて焼いた鰯の塩焼きをぱくつくポルト
ガル人に「よう!隣人」と声をかけ肩を組みたくなってしまう。それがシンパチカ。そう感じるなら、懐か
しさの正体なんかわからなくてもいいじゃないか。懐かしいと思えるシンパチカの人達が住む国がポルトガ
ルだってことだけでいい。オブリガード、ポルトガル。
冬空に煙吹き上げ焼き鰯
おしまい
旅した日/1994年12月26日〜1995年1月2日
書いた日/1999年11月