夢子のニッポン大好きシリーズ

阿賀野川メランコリー     

 99年11月20日土曜日。新潟駅3番ホームから磐越西線(ばんえつさいせん)の列車に乗

り込む。9時15分発会津若松行き各駅停車、3両編成である。本当は8時23分発に乗るつも

りだったのだが、ゆうべの酒が抜けずにホテルで起きてからボーッとしている間にその電車は行

ってしまった。都心には無い1人掛け用の座席が向かい合う席に座ると電車が動き出した。緊張

の旅。何も見逃さないつもりで車窓に目を凝らすのだが、暫くすると寝不足・宿酔連合軍は執拗

に眠りの世界に誘う。新津に着いた。本来の磐越西線はここから。8分停車中はぐっすり寝てし

まった。五泉(ごせん)。昔、この五泉から野菜を担いで売りに来たおばさんが各家を回ってい

た。「今日は何が美味しいの?」と母が問うと、不思議な旋律をつけて「ピ〜マン、ピ〜マン」

というおばさんだった。咲花(さきはな)当たりから阿賀野川が電車の左手に堂々と現われる。

阿賀野川は、只見川と会津大川が会津若松のはずれで合流して阿賀野川となり、新潟で日本海に

そそぐ。今回はその阿賀野川を遡る旅となる。五十島(いそじま)で7分停車し、下り列車を待

つ。煙草を吸おうかとホームに降りようとすると、電車の扉は各人がボタンを押して開けなけれ

ばならないのだ。最後尾で勤務についていた車掌さんも降りて来て、一緒にのんびり煙草を吸う。

ホームの前の銀杏が目に染みるように鮮やかに紅葉している。

 この磐越西線に乗るのは42年振りである。この駅から数駅行った鹿瀬(かのせ)で生まれて、

小学校1年の12月長野県大町市に引っ越した。それから3年近くたった4年生の夏休み、高校

1年の長兄と中学1年の次兄の3人で生まれ故郷を訪ねて以来である。父は昭和電工の横浜工場

から鹿瀬工場に転勤になり、ここで17年間を過ごす。工場が建設された頃は、新潟県東蒲原郡

鹿瀬村だった。鹿瀬の隣駅の日出谷(ひでや)を過ぎるともう福島県に入る山深い県境にある。

そして村の真ん中に阿賀野川が流れる。その豊富な水量で角神(つのがみ)ダムで発電を行い、

工業用の取水も行える。近くに石灰の山があることに加えて工場設置を決めたのは阿賀野川があ

ったからではないか。川を挟んで北側から開けた村だが、昭和電工は南側に工場を建設し、従業

員用の社宅や厚生施設を作った。という経過的理由からか、在の人から見て川の南側は、向鹿瀬

(むこうかのせ)と呼ばれる。工場近くの丘の上に工場長社宅。幼稚園の近くに部長社宅。そし

て町の奥の方から課長社宅、係長社宅、一般社宅、工員社宅というように役職別の社宅街が出来

た。幼稚園も昭和電工立幼稚園。工場の正門の近くには、これも会社が作った映画館がある。社

宅に通じるアカシヤ並木の坂を登切った場所に購買があり、当時のスーパーの役割を担っていた。

プールやダンスホールがついたクラブもあり、役場や学校を除けば、文化的・生活的施設はすべ

て昭和電工で賄っている、そんな場所だった。

 私が生まれた家は、社宅街の一番奥の課長社宅である。庭の広い平屋で、部屋数は8畳、6畳、

4畳半、3畳の4部屋。台所も風呂場も電気が熱源で電気料は無料だった。広い庭には草花が好

きな両親が、チューリップ、グラジオラス、ダリヤ、バラ、菊などを育てていた。季節毎に丹精

した花を数種類新聞にくるんで工場長社宅などに届けるのが私の役割であった。隣の家は島谷さ

ん。その隣の空地を両親はじゃがいも畑にして、秋に家族総出で収穫した。庭の先からちょっと

高い土手が下っていて、下り切ったところに磐越西線の線路がある。線路の手前に小学校に通じ

る道路。夜、雪がたくさん降ったら翌日は早起きをして、この土手の坂を転がり下りる。やがて

ラッセル車を先頭に一番列車がやってきて、線路に積もった雪を左右に激しくはじき飛ばして行

く。雪を扇形に蹴散らす豪快なラッセルに興奮して、兄達と列車を追った記憶が鮮明に残ってい

る。その線路を渡って、林の中を少し歩いたところに清水が湧いていて、ひんやりとした美味し

い水を飲むことが出来た。夏になると、毎日大きなヤカンを持って清水を汲みに行かされた。行

きは元気良く土手を走り下りていくが、帰りは清水で一杯になったヤカンがとても重かった。清

水を通り越して林を抜ければ阿賀野川。大雨が続いた時は増水を見に行ったものだ。普段から水

量の多い阿賀野川がごうごうと怒ったような濁流となっていた。線路沿いの道を左にちょっと行

くと、もうそこは鹿瀬小学校。家にいても、学校というものがかもし出す様々な音がすぐ下から

聞こえてきた。

土手を下りずに、そのまま右に小道を進んでいくと長谷川さんのお宅。おじちゃん、おばちゃ

ん、兄(あん)ちゃん、笑子ちゃん、典子ちゃんの五人家族。兄ちゃんと笑子ちゃんはもう働て

いて典子ちゃんが高校生だった。この長谷川さんの家には、私達3兄妹はそれこそ入り浸りで、

特に私なぞ赤ん坊の頃から這って行ったというのだから、本能が呼んだ一家だったのか。大町に

引っ越してからも親類つきあいは続き、小学校4年の時に3人で遊びに行った時も、もちろん長

谷川宅に泊めて頂いた。やがて兄ちゃんに教師のお嫁さんが来て、笑子ちゃんは郵便局員の久司

さんと結婚した。典子ちゃんは養鶏業のご主人と結婚し今も藤沢に住んでおられる。

 幼稚園の園長先生は佐藤先生。私と同じ年の娘がいて、男のようにさっぱりとした先生だった。

長兄は集団生活に馴染めず、母は2ヵ月間幼稚園に送り続けたのだが、やがて諦め中退させたが、

次兄もいたので佐藤先生には入園前からとても可愛がって貰った。入園式の最後に、佐藤先生が

こうおっしゃった。

「今日入園したお友達の中でお歌かお遊戯をしてくれる人いないかな?」。

すかさず私は手を挙げて

「は〜い! お歌もお遊戯も両方やります!」

と舞台に乗り、母から教わった「十五夜お月さん」という曲を歌いながら踊ったのだそうな。私

はこのことを覚えていなかったのだが、長じて母から聞き赤面した。同時に母は「長男と長女の

性格が逆だったら良かったのに」と思ったのだそうだ。兄は2ヵ月で中退だから。それからも、

カチカチ山のおばあさん役、会社主催のクリスマスパーティの余興で日本舞踊「荒城の月」を踊

ったりと子供の頃はエンターティメント系だった。とにかく4歳頃から「童謡魔」で、買って貰

った童謡の本を最初から最後まで歌うことを毎日3回繰り返していた。童謡の本もぼろぼろにな

り、仕方なく親は同じ本を買う羽目になる程、朝から寝るまで歌っていた子供だった。佐藤先生

は今もご健在で年賀状を頂くし、お嬢さんは裁判官になられた。

 電車が走り出した。阿賀野川の存在感が段々大きくなる。三川駅を過ぎると川幅が更に大きく

なり、車窓から目に見えるものは全部川面という一瞬もあった。まるで中国の三峡を下っている

ような錯覚すら覚える(行ったことないけど)。明鏡止水。ちょっと意味が違うか。向こう岸の

風景が川の中で逆に映し出され、水はまるで止まっているかのごとく静かである。こんな風景を

見ながら暮すのもいいなぁ。春と秋だけ過ごす家をこのへんに持ったら素晴しいだろうな。「春

秋荘」なんて名づけて。土地の価格はどの位するのだろう。そんな流れが津川駅を通り過ぎても

続き、いよいよ鹿瀬に近づく。見えて来たあの山に記憶はあるのか。あの木は? 答えが定まら

ないうちに電車は鹿瀬に到着した。

思いがけない程多くの人々が下りたが、どうやら麒麟山温泉当たりに職場旅行に来た人達らし

い。ホームで写真を撮っていたら、かすかにお香のような匂いがする。そんな筈はないから花の

香か。駅舎に最後に入っていくと、そこはどうだ、駅の役割を失っていたのだ。駅舎は待合のベ

ンチがいくつかあるだけで、他の三分の二が店になっている。蒲団や婦人物の衣料など雑多な物

を並べている。駅員など誰もいないから切符を渡す相手もいない。荷物を駅のロッカーに預けよ

うと思っていたが、もちろんそんな施設はない。戸惑っていると、店の女の方が声をかけてくれ

た。もう大分前から無人駅になっていて、駅舎の一部を「ステーションショップ高橋ふとん店」

にしてから4年経つという。荷物を預かってくれると親切に言って貰ったのでお願いすることに

する。何時頃帰って来られますか、と聞かれ「記憶のある所は全部歩きたいので多分午後2時半

位。でも見るものが少なかったら12時25分の上りまでに戻ります」。午前10時40分だっ

た。4時間になるのか、それとも1時間半の旅になるのか。混乱した頭で駅を出て歩き出す。

すぐ右手に阿賀野川の上にかかる橋がある。幼稚園の時だっただろうか、この橋が完成した記

念か、村から鹿瀬町に昇格した祝いか理由は忘れたが堤灯行列が行われた。私も堤灯を持って橋

を渡ったことを思い出した。踏切を渡って左手に折れると、そこにははっきりと記憶にある風景

があった。少し坂になった道の突き当たりに工場の正面玄関が見える。子供の頃は、工場までの

距離を500メートル位と思っていたのだが、今見ると200メートルも無い。子供の頃の記憶距

離は、大きくなって現実の場面に戻ってみると半分以下だったことが何度もあったが、ここはそ

れ以上だ。看板に「新潟昭和」と矢印が出ている。

 私達一家が大町に移ったのは昭和29年だが、それから数年して阿賀野川水銀事件が起きた。

水俣病事件から企業公害が大きな社会問題になっていたが、阿賀野川下流で、大量の魚が白い

腹を浮かべて死に、その魚を食べた人々が水銀中毒となった悲惨な事件である。やがて鹿瀬工場

が阿賀野川に流していた工場排水がその原因だということが明確になり、昭和電工はその賠償に

長い時間を費やすことになった。その時私は大町に住んでいたが、子供心にもあの美しい阿賀野

川を汚染させてしまった罪悪感、その結果多くの人々に甚大な被害を及ぼしたことに慙愧の思い

があった。幼児の身で何の責任を感じるのかと問われれば答えようがないが、それ程私達の生活

は会社と一体化していたし、愛着も大きいものだった。そして、あの鹿瀬工場が毒物の源になっ

たことが残念で堪らなかった。その時対策委員会のトップは「荒城の月」を一緒に踊った雪子ち

ゃんのお父さんの安藤常務でテレビのニュースでいつも頭を下げていた。見る度に白髪が増えて

いった。やがて昭和電工は鹿瀬工場を閉鎖し、鹿瀬電工として細々と稼働しているという話しを

聞いた。大勢いた従業員が次々といなくなり、社宅も住む人を失ったと。渓流釣りでいろんな地

方に行っている次兄から、釣りの途中で見に行ったら私達が生まれ育った家も壊されて無かった

と聞いたのはいつだったか。とにかく子供の頃に過ごした鹿瀬は無くなったのだと。何度も鹿瀬

に行ってみたいと思った。しかし、行ってみて本当に何もないことを自分で見てしまうのが怖か

った。確認したくない思いだった。

 秋の日差しの強い中、工場の正門までの道を歩き出す。すぐ右側に社宅街、そしてかつてのわ

が家に続くアカシヤ並木の長い坂道がある筈だ。しかし、両脇を高くコンクリートが囲まれたな

だらかなアスファルトの道に変わっていた。時折スピードを出した車が行き交う。正門。見える

範囲では建物は変わっていないような気がする。正面の門には「新潟昭和株式会社」とあった。

昭和電工鹿瀬工場から鹿瀬電工へ、そして今は新潟昭和か。昭和電工の関連会社かどうかわから

ない。駅で今日工場は稼働していると聞いたが、外から見る限り誰もいないので、聞くことも出

来ない。工場のフェンスに沿って歩く。「安全な車は電工のしるし」という古い標語を書いた看

板が立っている。社名は変わっても、電工時代の跡が寂しく残っている。プールの跡には老人福

祉施設のような新しい建物が立っている。そして社宅だった場所は大きな照明施設付きの野球場

とテニスコートになっていた。あのたくさんの社宅が、大きいとはいえ野球場とテニスコートだ

けに取って替わられたのか。呆然としながらとぼとぼ歩いていくと、購買のあった場所に何と店

があった。「電工売店トータス」。ここにも電工の名前が。買うものも無く入ることが出来ない。

わが家に向かって歩くと右側に墓地がある。ここは覚えている。雨の日に燐(りん)の青い火を

見るのが怖いと父の背中で顔をそむける場所だ。洗濯場がこの近くにあったが無い。そして突き

当たりの右側にわが家があった筈なのだが。・・・・・・・・・。建物が無くなってから長い歳

月が経っているように、そこはびっしりと生えた雑草の中に木々がまばらに立っているだけだ。

それだけ。そして傍らに、これからの工事に備えてか臨時の建設会社の事務所が建っていた。そ

れでも何かここにいたことを示すものはないかと執拗に探して見る。大きな紫陽花の木があった。

6月の満開の花がそのまま枯れてドライフラワーになったような紫陽花だ。そう言えば、わが家

の前庭には大きな紫陽花があったではないか。20年前に亡くなった母が季節になると、みずみ

ずしい花を玄関に飾ったあの紫陽花だ。それを生家の痕跡と考えるしかない。

 

 坂を下って小学校に行く。途中長谷川さんの家があった場所を見てみるが、やはり何も無いの

だった。ま新しい校舎。思い出の地で立派になったのは学校だけか。後刻聞いた話では、この立

派な校舎を持つ鹿瀬小学校には全校生徒が50人しかいない。隣町日出谷でも新しい校舎を作っ

たばかりなのに贅沢だと問題になったのだとか。線路際に立って、わが家があった土手の上を見

上げる。あの高いと思って駆け下りた土手も今見れば4〜5メートルしかない。今立っている木

にしても私達がここを去ってから成長したもののようだ。写真を撮ってこの場所を離れようと思

った時、線路際のあちこちに人が立っていることに気付く。そうだ、思い出した! 間もなくS

L列車が通過するのだ。五十島のホームで、煙草を吸いながら駅員さんに「この普通列車を追い

かけて35分後にSLが走って来るんですよ」と聞いたんだった。磐越西線に今年から「水と森

とロマンのSL列車ばんえつ物語」が4月から11月末まで走っている。今日は11月20日の

土曜日だから、もうすぐここを走るのだ。ということは何十年も思い続けた故郷を歩くのに35

分しかかかっていないことになる。写真を撮り、驚き、迷い、たじろぎ、探し、歩いて、たった

35分。何も見つけられなかった。そして雪の朝ラッセル車を追った場所に今私はいる。そこ

に当時と同じSL列車が来るというのだ。カーブした向こうで蒸気機関車の懐かしい汽笛が鳴り

響いた。周囲のカメラマンが緊張する。私の胸も高なる。もうもうと煙を吐いてSL列車が姿を

見せた。夢中でシャッターを切る。力強い音を引きずって近づいて来る。その時また汽笛が鳴っ

た。思いがけず大きくそして長引くその音が近隣の空気に爆発し発散される。機関車の圧倒的な

金属音と汽笛と煙が私の前を通り過ぎる。レンズ越しに列車を見る目に涙がこみ上げる。汽笛の

音が、一瞬私を45年前に連れ去り、そして今の時代に置いてきぼりにして、去って行った。

 鹿瀬の旅、故郷を探す旅はここまでにしようと、未だ煤煙の臭いが残る線路際の道を駅に向か

って歩き出す。SLに救われたと思った。紫陽花は定かではないし、確かな記憶に手で触れるこ

とが出来なかった。その時、右手になだらかな細い坂道が見えた。覚えはないのだが、その道一

杯に銀杏の黄色の落ち葉が敷き詰められて私を誘っているようだ。登ってみて愕然とする。一面

の原っぱで真ん中にとてつもなく高い銀杏の木が立っているのだった。その銀杏の紅葉がピーク

でハラハラと黄色の葉を落している。ここは幼稚園だ! 佐藤先生と遊んだ幼稚園の跡だ。この

銀杏は幼稚園とその前の神社の境に立っていたのだ。小学校は立派になり、幼稚園は11年前に

無くなったのだ。数人が両手を回さないと届かないほど大木の銀杏の木にそっと触ってみる。ご

わごわした木の表面だが、確かに幼児の私を見ていた銀杏だ。銀杏は、両親が未だ若く働き盛り

だった姿を見た。長兄が泣き叫んでいた。次兄が広瀬先生に甘えていた。昭和電工も活気があっ

た。鹿瀬町は工場で潤っていた。街にたくさんの人々の生活があった。人生があった。そして両

親も亡くなり、街も無くなった。幼稚園も無くなった。それをすべて見ていた銀杏よ。

「ただいま。そしてさようなら」。

      阿賀野川わがうぶすなは枯野かな 

                                おしまい

旅した日:1999年11月20日     書いた日:1999年12月

 

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