夢子のニッポン大好きシリーズ

阿弖流為 ( アテルイ ) と行く秋田秘湯めぐり

 東京から牽引したような格好のやまびこ号を盛岡で切り離し、こまち号は大きく左折してひと

り秋田に向かう。身軽になった筈なのに特別スピードを増す訳ではない。どころか停車駅で無い

ところでも上りを待って一時停車。鍵の仕組みがどうなっているのかさえ知らぬのだから、機関

車、増してや新幹線の構造などはとんとわからない。こまちがやまびこを引っ張っているのか、

それとも逆に押されているのか。連結部分はあるが、互いに全く影響を与えずに走っているのか。

上り列車が来て、運転を再開。秋田新幹線が開通して間もなくのこと、角館、田沢湖の旅の途中

でこまちに乗った。その時は何故か一時停車ばかりしていて、同じ車両に乗り合わせていた福島

県の(多分)お爺さんが「こんつら停まってばっかしいでもよぉ、そんでも新幹線っでいえるべ

か」と言っていた。私もそう思った。しかし今日の一時停車はこの一度きりだった。車窓の外で

は秋田こまちだろうか、稲穂がたわわに実り静かに佇んでいる。新潟のいとこからは9月早々に

新米が送られて来たが、この当たりの稲刈りは1ヶ月程遅いと見える。今回の旅は、8世紀の終

わりに蝦夷制圧に何度も押し寄せた大和朝廷の大軍に堂々と挑んだ「北の燿星アテルイ」を偲ぶ

旅にするつもりだ。胆沢、東和、黒石、志和、伊冶、鬼切部、鹿角・・・・。しかし、その地を

実際に訪ねるつもりはない。アテルイが吸った空気を、見たであろう山を、馬で渡ったかもしれ

ない川を味わえばよい。何となく感じればよい。

角館駅到着。この駅や周辺の清々しさはどうだろう。初めて来た時もトイレに至るまで清掃が

行き届き、清潔感に溢れていたことに感心した。春の角館の桜はつとに有名だが、前回も秋に来

た。駅からぶらぶら歩いて行くと武家屋敷の黒塀が続く、しっとりとした美しい街並に出会う。

石黒家などの武家屋敷を見学し、平福記念美術館で絵画を楽しみ、秋田名物の稲庭うどんを食べ、

生のもろこしを買い求めて秋の一日を楽しんだ。しかし今日は車でまっすぐ「たざわこ芸術村」

に向かう。開演時間が迫っているのだ。

秋の田のこまち追い越しこまち行き

栗の実やポツリと落つる武家屋敷

こまちとやまびこ 人力車

 わらび座は前身の楽団「海つばめ」の創立から今年で50周年を迎えた。「たざわこ芸術村」

はわらび座の本拠地で、700人を収容する「わらび劇場」の他に、地ビール「田沢湖ビール」

ブルワリー、食事処「ばっきゃ」や温泉「ゆぽぽ」、宿泊施設などが大きな敷地に点在している。

昭和28年にこの地に居を定めて民族芸術を追究して来た同座は、50周年を記念して「北の燿

星アテルイ」の1年間ロングランに挑んでいるのだ。東北出身の友人に強く勧められて高橋克彦

氏著の『火怨』(講談社刊)を読んだのは、もう2年前だろうか。「うん、読むよ」と気楽に言っ

てしまったが、上下2巻、9百頁を悠に超える大作で慌てた。安請け合いを多少悔いながら書店

に注文した本を受け取った。しかし読み出すと止まらない。中世の東北地方の歴史といえば、多

賀城、坂上田村麻呂くらいしか知識が無かったから、8世紀終わり北東北地方の男達の勇気や苦

悩、夢が再現されたドラマに夢中になった。壮大なドラマを超カンタンに記すとこうなる。

 7世紀から8世紀。時の日本は大化の改新、壬申の乱を経て律令国家の体裁を整備し、710

年平城京に遷都する。仏教の影響が徐々に強まり朝廷は東大寺の大仏の造立に着手。東国攻めも

北上し柵を設けて朝廷に従属させていく。724年に現在の仙台の少し南に多賀城を作ったまで

は良かったのだが、そこから北の制圧がなかなか進まない。そんな時、小田郡で豊富な黄金が発

見され、朝廷は何が何でも金が欲しくなった。小田郡の金があれば、開眼間近の大仏にもたっぷ

り貼れるし、寺をたくさん作ることが出来る。陸の奥に暮らす蝦夷(えみし)は卑しき者だ、じ

ゃんじゃん兵を出して屈服させてしまえ〜! 一方、陸奥の蝦夷達は慌てた。これまでずっと貧

しくも平和に暮らしていたのに朝廷とやらが攻めて来るという。しかも自分達蝦夷を卑しい奴等

と言っている。人間として見ていない。屈服する? 戦う? 戦おう!子孫のために蝦夷の誇り

を見せよう!ということになって、リーダーに祭り上げられたのが、胆沢の長・阿久斗の倅であ

阿弖流為(アテルイ)であった。アテルイ、その時18歳。その若者に黒石の智恵者・母礼(も

れ)、強き従者・飛良平(ひらて)、陸奥の地域の長である気仙の八重嶋(やそしま)、志和の阿

奴志己(あぬしこ)、江刺の伊佐西古(いさしご)、そして膨大な金品と都の情報を提供した東和

の物部天鈴(もののべのてんれい)・・・・。物量、人数において圧倒的に不利な蝦夷だったが、

騎馬隊を組織・訓練し、奇襲を仕掛け、山に砦を作り、十倍、時には二十倍もの朝廷軍を迎え撃

って撃破する。何度も何度も。それでも朝廷は攻撃を止めない。桓武天皇は山城京に次いで平安

京に遷都を計画しており、天皇の威光を内外に示す必要があったし、何かと物入りでもあったか

ら陸奥が欲しかった。しかし、どんなに大軍をつけても負けてばかりいる官軍。そこでとってお

きの「ピカ一」を出して来た。坂上田村麻呂。彼は多賀城で幼少の時代を過ごし阿弖流為とは幼

馴染み(原作ではそうゆうことになっている)の間柄。戦いにくい。蝦夷が都の人間と同じ人間で

あることを良くわかっている。悩みぬいた末田村麻呂は無用な戦いは止めようと提案するが、ア

テルイは勝手に攻めて来ての和議は無いだろうと断る。しかし、もう戦い始めて22年も経って

いる。故郷は疲れ果てている。蝦夷を守るために決心したアテルイは、母礼と2人で朝廷軍に

投降し捕われの身となる。802年、2日間首から下を土中に埋められて晒された後2人は斬

首される。最後にアテルイは周囲に叫ぶ。「俺たちはなにも望んではおらぬ。ただそなたらとお

なじ心を持つものだと示したかっただけだ。蝦夷は獣にあらず。鬼でもない。子や親を愛し、花

や風に遊ぶ・・・・。俺は蝦夷に生まれて・・俺は幸せだった。蝦夷なればこそ俺は満足して果

てられる」。

 カンタンに纏めることは出来なかったね。中身のぎっしり詰まった大作だから。最後に田村麻

呂が首を刎ねられたアテルイ、母礼、そして後を追った飛良平の唇に酒を湿らせる場面なんて、

号泣してしまうほどの涙、涙、涙。しばらくして読了した仲間で「アテルイの会」を作ってしま

った程、感動したのであった。朝廷に屈しない「まつろわぬモノ」は蝦夷に限らず、南の「隼人」

とか、2月に行った大分では「土蜘蛛」なんて呼ばれていたのだ。国を統一する立場とされる立

場の矛盾。吉川弘文館の『日本史年表』には「801年坂上田村麻呂蝦夷を平定」とだけあった。

高橋克彦氏著書   ミュージカル「アテルイ」の台本

 わらび座は、そのアテルイをミュージカルで上演すると言う。場内が暗くなり和太鼓の演奏が

始まった。後刻台本を買って確認すると鎮魂の「レクイエム」の曲と舞いとある。その後の展開

を詳しくは言わないが、物部天鈴役を語り部にして、スピーディに歌い、踊り、苦悩を演じ、未

来を信じると言った構成だった。原作とはかなり違う。でも映画化とか舞台化というのは、原作

を下地にしたというものも多いから、これでもいいのだろう。一幕ものだが、朝倉摂さんのシン

プルな装置は効果的。高橋亜子さんの作詞、甲斐正人さん作曲の音楽もいい。

アテルイ ♪ 冬に気高き星よ

       夏に遥かな銀河よ

       永久に輝く星に 俺はなりたい ♪

              略

村人達 ♪ 他に何もいらない この国があれば

       美しい日高見は 我が心を満たす泉

       あぁ日高見   あぁ日高見

       この胸に深く 流れ来る想い

       日高見 わがまほろば  ♪        ※日高見は現在の北上

上演時間100分の後、出演者達は直ちにロビーに走り、帰る観客に握手をしながら、笑顔を

浮かべて送り出している。プレゼントを貰っている人もいる。写真も一緒に撮って。交流を大事

にしているんだね。わらび座に詳しい人の解説に寄れば、今日の主演級の役者は1人を除いて全

員わらび座二世なのだとか。つまりご両親がわらび座の団員で、ここで生まれ育った若者が今わ

らび座を支えているということだ。01年の8月8日から02年8月16日まで上演している。

当日券3千円、前売りなら2500円。

 車に乗り込んで田沢湖方面に行く。車の中では「♪ 冬に気高き星よ〜」と私が歌い出せば、

他の3人が「夏に遥かな銀河よ〜 永久に輝く星に 俺はなりたい〜」と合わせて歌い、ライブ

鑑賞後の興奮が見事に4人を高揚させている。この興奮は、その夜の宿でも何度も持ち越された

のである。囲炉裏を囲んで♪ 冬に気高き星よ〜」。

                              わらび劇場         場内と舞台   上演が終わっての挨拶

先達川に掛かる先達端を渡ったところに上質な蜂蜜を売る店があるから行こうということに

なった。提案者に店名を聞いても「単に蜂蜜屋と聞きました」としか言えず頼りない。しかし着

いて看板をみると本当に「蜂蜜屋」なのである。正式には「山」の絵を書いてその後に蜂蜜屋。

建物が洒落ている。蜂の巣箱型のログハウスである。店内に入ると、周囲ののんびりした田園風

景には全くマッチしないほど都会風で明るい。本来甘いものが苦手で、中でも濃い甘さの蜂蜜は

大の苦手であったが、余りの空腹に試食。サンプルを何種類もリッツに載せて頂いた。あら、お

いしいじゃん。蜂蜜にもたくさんの種類があって、花によって味が違うことをこの年になって発

見した。栃の木の栃蜂蜜、アカシア蜜、レンゲ蜜、みかん蜜。何でもあちこちの山に蜂と一緒に

移動してたくさんの花々の蜜を集めるとか。化粧をしたことが無いから化粧品にも興味は無いの

だが、プロハーブ入りと書いてあるのが目に止まる。蜂→プロポリス。プロポリス配合。うん、

これはキキそうだ。幾つか若い友人の土産に最適と基礎化粧品セットを買った。彼女に必要だ。

そこでハッと気付く。化粧はしなくてもイイ年になったら基礎化粧品位は使った方がいいらしい。

必要なのは私も同じか。で、自分用に単品を1つ求めた。この時店には他の客は誰もいなかった

が、たった1人で店番をしていたお姉さんは、テキパキ親切で、頭の回転も速い。愛想も良い。

鄙びた場所で押し付けがましくない売り込みのうまさに、男性陣も私もついふらふらとたくさん

の品物を買ってしまったのだ。貰ったパンフレットを見たら有限会社ビー・スケップという会社

の店舗だとわかる。

 今夜の宿は、乳頭温泉郷の「鶴の湯温泉」。長い間来たいと思っていた。黒湯、白湯、中湯、

滝の湯、内風呂と温泉をハシゴする。かの有名な中の湯の混浴露天風呂には、勇気が無くて入れ

なかったが、女性専用の露天風呂も2つあるから嬉しい。乳白色の露天に浸かりながら、秋の夕

暮れをしみじみ味わう。淋しいようなゆったりするような気分。ランプに灯がともり、客室の白

熱灯の赤身がかった明かりが目に懐かしい。江戸時代、殿様が湯治においでになった時、伴の武

士が詰めたという由緒ある本陣(明治時代に立て替えられたようだが)、新本陣、東本陣、自炊棟

から、夕食前の静かなさんざめきが伝わって来る。ここ鶴の湯温泉は国有林にポツンとある一軒

宿だが、長らく味わっていない「家庭の匂い」がある。昔友人が夕暮れの寂しさは耐えられない

と言っていたことを思い出すが、私はこの時間が好きだ。母が待っていてくれるイメージがある

からかもしれない。

          秋夕に赤き燈ともる出湯かな

鶴の湯やランプ揺れいて肌寒し

 鶴の湯のご馳走は自然の豊かさである。素朴に味付けられ山菜、きのこ、川魚、そば、野菜が

上等な料理となる。囲炉裏の炭火で焼き、暖めるのだから、それが極上のご馳走。中でも「山の

芋鍋」は、団子状の山の芋がしこしこと意外な歯応えがあり、きのこや山菜から出たうまみを味

噌と豚肉でコクを増している。山の芋シコシコ、具はあっさり、汁はこってり。毎日食べたい味。

田舎の家だって、昨今では囲炉裏を切っている家などは稀だ。案外この囲炉裏の炭火の扱いが難

しい。炭のおこし加減、灰の効果的なかぶせ方、炭火からの距離の調節・・・・。みんな酒呑み

だからゆっくり温めればいいやと思っていたのだが、1人の真面目な青年が山の芋汁を飲みなが

らご飯も食べたいと言い出す。それで後輩役の青年は、早く暖めようと必死に炭を吹いたのだっ

た。お陰で見事に?温まった山の芋鍋の完成!

 翌日、玉川温泉を目指した。昨日341号線を右折して登って来たが、その道を引き返し八幡平・

鹿角(かづの)市に向かって341号線をひたすら進む。程なく山深い景色に変わり、対向車もほ

とんど来ない。いくつもの雪囲いのためのトンネルを抜け、この道が冬季は通行止めになる程の

豪雪地帯であることを窺える。やがて鎧畑ダム、そして玉川ダム湖の宝仙湖が見えて来た。もう

随分走ってきた。温泉は未だ先だろうか。あら?右手遥か前方の森の上に蒸気が見える。地図を

見たところ後生掛け温泉当たりだろうか。右側に玉川温泉大橋という大きな橋がある。渡ってみ

よう。大きな駐車場には車はほんの数台だけ。今や「医者より玉川温泉」という信仰めいた熱狂

的な支持者がいる温泉とは思えない。調べてみれば、ここは「玉川温泉ビジターセンター」があ

り、焼山を中心とした火山活動や自然環境についての展示があるのだと言う。駐車場の向こうに

はかなり新しい建物がある。新玉川温泉の宿泊施設ではないだろうか。以前温泉通というタクシ

ーの運転手さんに聞いたことがある。「玉川温泉があんまり人気なので、隣に女性でも行きやす

い新玉川温泉が出来たんですよ」と。隣と言われたので、隣接しているのかと思いきや、車で橋

を戻って玉川温泉に行くには2,6キロもあるのだった。但し山崩れの危険があって車の通行が禁

止されている道を徒歩で行けば、9分で到着すると言う。

341号線に戻って暫く進んで、ようやく玉川温泉に到着。定期路線バス以外の車は、温泉のか

なり上の駐車場に停めなければならない。車を降り立つと、下の方にもうもうと蒸気が立ち上っ

ている。あたり一面がもうもうとしている。キツイ下りの階段を下りて行くと、何人もの人々が

小脇に茣蓙ムシロを抱えて、盛大に蒸気を上げている方向に向かって行く。ラジウムが岩から放

射されている岩盤の上に茣蓙ムシロを敷いて横たわる蒸気浴に行くのだ。岩盤とは逆方向の下に

大きな売店、右側に宿泊施設のフロント、食堂、左手に大浴場、その先に自炊棟があり、案外大

きな施設であることに愕きを覚えた。もっと鄙びたこじんまりした温泉を想像していたからだ。

ただ温泉情緒を楽しむと言った雰囲気はほとんど無く、真正面から温泉治療をしようという静か

な闘志のようなものを感じる。そうかと言って湯治客の表情は悲壮でも暗くもない。

   玉川温泉周辺地図           駐車場から宿泊棟と岩盤を望む

 大浴場に行く。大人600円。係りのおじいさんが陽気に愛嬌を振りまく。私がそのおじいさん

に「お風呂は混浴ですか?」と聞くと「残念ながら男女別々で〜す!」と大声で答えて笑いを誘

う。この玉川温泉の源泉は、PH1,1〜1,2の強酸性泉(主に塩酸)で、毎分9000リットルと

いう日本一の湧出量がある。浴場に入ると湯煙でぼんやりとしているのだが、とてつもなく広い

ことに気づく。う〜ん、テニスコートくらいの広さかなぁ。小さめの体育館並の大浴場は、真ん

中の通路を境に左右いくつかの湯船に分かれている。左手は余りに強い源泉を5割にして薄めた

湯。その奥が屋内なのに何故か「露天の湯」、ジャグジー風の「泡の湯」。そこで一旦湯船は終わ

り、飲用の蛇口と台があった。ここも5割に薄めてあるのだが、飲用の注意書きを読むと更に5

倍に薄めて1日に29ミリリットル以下にせよ、とある。5割の5倍だから10倍に薄めた温泉

を少しだけ飲めということだ。6倍位に薄めて一口飲んで見た。酸っぱい!!! 何という酸っ

ぱさだろう。その上、歯がギシギシ言うようだ。PH1,1〜1,2の強酸性泉の威力を口で味わった

よう。特段悪いところがある訳でもないので、その一口限りで飲むことは止めた。その奥に木製

の箱が2つ並び、首の部分だけ穴が空いている。その1つに入り座って蓋を閉める。だんだん箱

の下から上る湯気でカラダが温まってくる。でも首だけ出しているという姿勢がアテルイの最後

の場面のようでイヤだな。気持ちいいけど早めに出る。その奥は小さめのサウナ。ここで一番奥

の打たせ湯があってUターンする格好になる。打たせ湯の注意書きは「直接湯を肩等に当てると

肌が荒れる可能性があるのでタオル等で肩を被ってください」とある。右側の一番奥は寝湯とか

座り湯などの浅い湯船。そしてその手前が、いよいよ10割の源泉の湯船が続くのだ。奥から「熱

い湯」、「ぬるい湯」そして調度良い湯加減の湯。熱い湯に恐る恐る入ってみる。それほどの熱さ

ではない。しばらく入っていると首の当たりがチリチリと痛い。いつも首には移動性のシミのよ

うなものが出来て悩みの種なのだが、そこを強い湯が刺している。チリチリ、ピリピリ。余り長

く入っていてはいけないような気がして、大勢の人が入っている10割調度良い湯加減の湯船に

移る。湯に湯の花だろうか乳白色のものがいろいろと浮いている。隣の女性達の話に耳をそばだ

てると

「最近随分湯が汚れたなぁって思って残念なのよ。昔はね、この湯船もキレイなお湯だったの。

それがお客が増えたんでしょうねぇ、ほら、ちょっとねぇ」。話している女性は、何度も玉川温

泉を訪れているようだった。初めて来たという同じ年頃の女性に昨今の玉川事情を説明している

ところだった。

特に皮膚病に効果があるという玉川温泉だから、近年はアトピー性皮膚炎が治ったという人の

話をよく聞く。末期癌の人も持ち直したという話もあった。無明舎出版の『鶴の湯温泉ものがた

り』によると、皮膚病などはたちまち治ると言われて来た一方で、玉川の川水が酸性化して玉川

流域の農作物に多大な被害が及び「玉川毒水」と言われていたそうだ。よって玉川には魚も棲め

なかった。江戸時代から温泉の湯が直接玉川に流れ込まないように土木工事が繰り返し行われ、

昭和初期には湯の川の横に長いずい道を掘って一旦大地に浸透させ酸性を薄める努力をして来

た。しかしいずれも大量の湧出湯には効果がなかったようだ。その後20年かけた玉川ダムの建

設の際、玉川温泉の300メートル下流に「玉川酸性水中和処理施設」が建設され平成3年に運転を

開始。これによって長い間苦しんで来た玉川の水質改善がようやくなされたということだ。薬

になり毒になる玉川温泉。温泉を味わって外に出ると雨が降り出していた。岩盤で蒸気浴をして

いた人達がぞろぞろと帰って来る姿が見えた。寒い!この季節の昼間でも10度を下回りそうな

気温。浴場の前にはバス停がある。JR田沢湖駅から確かバス便があったような気がする。40

キロの距離だ。でも通行止めになるという冬場はどうやって来るのだろう。

玉川や湯が肌を刺し秋時雨

    大浴場 男女別々です  宿               泊棟フロント 右側は売店               レストラン

 

        自炊棟        9月中旬でも10度C                   もうもうと湯煙りを上げる湯畑

 車は再び北に向かって走り出す。小さな車の中が異様にクサイ。玉川の湯の匂いを付けた4

人が平等に発している硫黄の匂いだ。地図で見ると右方向には、後生掛温泉の他、大沼温泉、大

深温泉、蒸ノ湯などがあるらしい。341号線の左にトロコ温泉が見えて来た。次ぎは銭川温泉、

そして東トロコ温泉、志張温泉。秋田はまことに出湯の地なのだなぁ。山間の道端にバス停を見

つける。周囲を見回しても山、山、山。誰がここから乗って降りるのだろうか。鹿角市に入った

という表示があるが、未だ山深い。鹿角(かずの)は、アテルイを物心で多大な援助をした物部

天鈴が、東和を捨て移り住んだ地だ。豪族の物部氏が何故蝦夷の援助を続けたのか。物語では、

物部氏も元々は出雲蝦夷で、迫害を受けて陸奥に移り住んだ先祖の無念の思いがあるからだ、と

説明されていた。下り坂が続き、やがて道は平らになる。そこで見たものは道の両脇に咲く花々

である。手入れが行き届いた赤や黄色、ピンクなどの花がそれは見事だ。その見事な花畑が延々

と続いている。1キロ、2キロ、3キロ・・・。これほど長く続く花を誰が手入れをしているの

だろう。車の中から拍手を送る。やっぱり物部氏の優雅さが今の鹿角市にも生きているのだろう

か、などと何でもアテルイに結びつけて考えてしまう。ここには盛岡から出ているローカル線花

輪線の名前にもなっている花輪駅がある。

遅い昼食を取ることにして、観光協会に電話をする。「市内で美味しいそば屋は?」。教えて貰

ったそば屋に急ぐ。鹿角の中心街をぶらぶら歩く。賑やかな飾り付けはされているが、人通りは

あまりない。紹介されたのは手打ちそばの「切田屋」。店の外観からいかにも「うまそう」な雰

囲気が漂ってくる。中に入ると、こぎれいな店で、天麩羅を揚げる匂いが香ばしい。奥は座敷に

なっていて、昼時はとっくに過ぎたのに、所謂贅沢な「ビジネスランチ」客が未だ談笑している

声が聞こえる。さ〜て、何を食べようか。鶴の湯の朝食を食べてから、もう6時間も経過してい

る。強い湯にも入った。長い間車にも乗った。空腹の理由はいくらでもある。「この昼食は私の

奢り」と3人に伝えると、みんな急に熱心にメニューを見つめ始めた。先程入って来た玉川温泉

の10割の湯が頭にあって、限定15食の十割そばを食べることにする。しかも大盛り。その上

天麩羅もつけて特上天盛りにしよう。頼んでテーブルの上を見ると、何とメニューのカロリー表

があるのだった。まずい。特上天盛りはカロリーが高い。しかも大盛りだしなぁ。でも頼んでし

まったんだから仕方ないか。誰からともなく「旅の締めくくりはそばで」の言葉。4人のうち、

3人は山形のそばと温泉を巡った仲間だ。あの時も山深い「三百坊」のそばで旅を締めくくった。

 鹿角から高速に乗って盛岡に向かっている。昨日、盛岡から西の角館に向かい、今日北東の鹿

角に来て、今南東の盛岡に行く。つまり鹿角を頂点とした三角形を辿ったカタチとなる。玉川で

降り出した秋時雨もすっかり止み、秋らしく空気が澄んでいる。岩手山が右手に美しい姿を見せ

ている。途中「志和城跡」の表示もあった。阿奴志己(あぬしこ)はいるだろうか。この美しい

東北の風景も、また平和な暮らしも、昔の人々の夢をかけた熱き思いの結実だと思いたい。アテ

ルイさん、ありがとう。あなたの夢は叶いましたよ。穏やかな蝦夷の土地は、1200年以上経

ってもそのままですよ。

           阿弖流為は秋の野におり山におり

                                          おしまい

旅した日/2001年9月

参考文献 ・『鶴の湯温泉ものがたり』無明舎出版  ・『火怨』高橋克彦氏著 講談社

      この旅で宿泊した鶴の湯は、ホテル日記「乳頭温泉郷・鶴の湯温泉」に掲載しています。

ご参照ください。

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