夢子のニッポン大好きシリーズ    出雲島根ロマンス            

 志賀直哉の「城崎にて」で有名な兵庫県城崎。京都からJR山陰線に乗って来ると、途

中から円山川が見えてくる。徐々に川幅は広くなり、城崎付近では岸の高さとそう変わら

ない所までたっぷりとした水量となる。川の辺りに立つと、豊かな水が流れていく方向か

らほんのりと磯の香りがして、日本海までさほど距離が無いことが伺える。今日はその城

崎から山陰線を乗り継いで、島根の松江に向かう。ずっと各駅停車の旅。3回乗り換えて

4つの電車で松江までゆく。

 城崎9時54分発山陰本線各駅停車の電車に乗り込む。この電車で行けるのは浜坂まで。

のんびり電車なのだが、景観は日本海を右手に控えての、ただごととは思えない絶景であ

る。香椎海岸、但馬御火浦、浦富(うらどめ)海岸と山陰海岸国立公園は続いていく。断

崖絶壁だの島だのと、とにかく飽きることが無い。香椎は、NHKの朝の連続ドラマ「ふ

たりっこ」のロケ地だった。あのドラマでは、マナ・カナの双子姉妹がすっかり人気者に

なったが、1人が京大アメフト部のQB海東君(実在の東海君をひっくり返したのね)に

引かれ、もう1人は女性棋士となる設定だったが、アメフトと将棋両方のファンの私には

コタエラレナイ場面がたくさん出て来た。特に、長いこと私のプリンスだった(彼が婚約

するまで)谷川浩司さんがちょいと出演したり、大山名人をモデルにした役を桂枝雀師匠

がこれでもかと演じたのが面白く、朝の放映時間が待ち遠しかった。その枝雀師匠は不幸

な亡くなり方をしてしまったが。将棋界の職場結婚。やっぱり棋士の夫の出身地がこの香

椎で、確かエンディングシーンは、香椎の海をバッグに撮ったものだったような。香椎の

次は鎧(よろい)。鎧と次の餘部(あまるべ)の間に凄い鉄橋がある。全長310メートル、

橋脚40メートル余りの余部鉄橋である。「♪今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと……」

「♪鉄橋だ 鉄橋だ 嬉しいな」の歌そのものの展開。約1時間で浜坂に到着。10分の

待ち合わせで1回目の乗り換え、鳥取行きに。ここ浜坂は会社の先輩の出身地で、昔は駅

一帯を含めた、それは大きな土地がその人の家族の所有地だったんですと。でも格安で売

ったのだったか、騙されたのだったか、今は少しの土地をどなたかが継いでいるという話

を思いだした。ここから20〜30分バスに乗ると、吉永小百合が主演した「夢千代日記」

で一躍全国的に知名度を上げた湯村温泉に行くことが出来る。  

             秋の海香住あたりに広がれり

    

香住と餘部の間の駅は鎧  橋脚40メートル余りの余部鉄橋

  観光地・城崎温泉の松葉蟹はつとに知られているが、今眺めている日本海の漁場で獲れ

る。水揚げが一番多いのは鳥取県の境港(さかいみなと)。山陰では松葉蟹、福井・石川で

は越前蟹と呼び名は違うが、ずわい蟹のオスである。メスは身体も小ぶりで親蟹とかコウ

箱と呼ばれて値段も比較的安い。足が全部揃った松葉蟹は、浜値段でも2万円を下らない

という。蟹のシーズンはあと2か月もすると始まる。電車は兵庫県から鳥取県に入り45

分ほどで鳥取駅。ここからバスでしばらく行くと因幡の白兎伝説の白兎海岸がある。少し

前に鳥取砂丘に初めて行って、長年抱いていた鳥取砂丘のイメージが少なからず崩れた。

砂漠とミマゴウばかりの果てしない砂丘・・・・。ではなかった。一応幅2、4キロ、東西

に16キロということになっていはいるのだが、メヒシバなどの砂丘植物が根を広げ、防

風林の浸食も見える。砂丘が狭く小さく見える。砂丘→砂漠→月の砂漠→駱駝という図式

で、観光用の駱駝もいるのだが、他の観光客も「意外と小さい」とつぶやいてポケ〜ッと

していて乗る人は少ない。駱駝は楽だ。このまま植物の浸食が続けば、観光業には深刻な

問題になる。「失われる砂丘」か。砂丘の近くにはらっきょう畑が広大に広がっていた。

         秋潮や蟹育てゐて慌ただし   

 

小さくなったとはいえ、やっぱり鳥取砂丘は広い

 さて、次は米子行きでこれも各駅停車。倉吉。ここからは三朝(みささ)温泉や東郷温

泉、羽合(はわい)温泉に行ける。山陰にハワイがあるんだよ。山陰本線は日本海沿いに

走るので、今まで海の見える右手ばかりを眺めていたが、大山(だいせん)が見えて来た

ので左手の座席に移る。名前の通り大きな山だ。標高1729メートルの山陰地方では最

高峰。伯耆富士とも呼ばれる。中学3年の時一緒に転校生として同じクラスに入った友人

が今この近くに住んでいて「大山のスキー場に行った」と手紙に書いて来た。実際は日本

海側だからとても寒いのに、その頃は西にある鳥取なので何となく暖かいイメージを持っ

ていた。探してみれば、福岡県にも大分県にも四国の香川県にもスキー場はあるのだ。島

根県も寒いようだ。NHKの大河ドラマ「毛利元就」で尼子経久の城は雪の場面が多かっ

た。いつまでも眺めていたいほど、堂々とした大山だった。

 米子着13時34分。更に松江行きに乗り換える。これが最後の乗り換え。米子東高校。

父のかつての部下だった方の母校だ。東大に進まれて入社されたが、秋になるといつも

「実家から送って来ましたので」と二十世紀梨を一箱持って来て下さった。小学生時代、

鳥取県の連想といえば、砂丘、米子東高校、二十世紀梨の3つだったのだから情けない。

どじょうスクイの安来節で有名な安来を過ぎる頃には、降り支度を始める。「旅は各駅停

車でのんびり行くに限る」という。1つ1つの駅に停車し、ホームの観光案内板などが読

める位置にあると「ふむふむ、ここからあそこに行けるんだ」と新しいことを知ることが

出来る。地名からの連想でいろんな人を思い出せる。何と言っても日本海の絶景を長く楽

しめたし。でも4時間余に3回も乗り換えるのは、やっぱりせわしくない。14時4分、

ようやく最終目的地の松江に着いた。但馬を立ち、因幡、伯耆を通過して出雲に、と言っ

た方が感じが出る。国造の地、出雲である。

 松江駅前からタクシーに乗り「運転手さん、夕方までの時間で、松江に来たなら絶対見

逃せないという場所をくるっと回って下さい」。この運転手さん、寡黙ながらキワメて真面

目で良心的な方だった。3〜4秒目をつぶって考え込むと、方針が決まったのか迷いなく

南に向かって走り出す。しばらく郊外を走る。この辺は国引きの神話から地名となった意宇

(おう)平野で、たくさんの古墳や国分寺跡があって、古代出雲の中心地だった場所。到

着したのは「八重垣神社」。知っているぞ、ここは。素盞鳴尊(すさのおのみこと)と稲田

姫命(いなたひめのみこと)を祀った神社だ。

 中学、高校と合唱部に所属していたが、高校時代の集大成は文化祭での高校生オペラの

上演である。高校生用に作られたオペラというものがあるのですよ。中でも「真間の手古

奈」は名作。その昔、真間海岸近くに手古奈(てこな)という、それは美しい娘がおった

そうな。やさしい両親と村人に囲まれ平和に楽しゅう暮らしておった。そこへ都から軍隊

がやって来る。その隊長は当然の如く目ざとく手古奈を見初めて求婚する。何故か「承」

と言わない手古奈。家族・村人がおろおろする中で、ある日手古奈は断崖から身を踊らせ

て海に沈む。隊長はえらく傷つき泣き崩れる。というストーリーは何ということもないの

だが、歌がいい。実にいい。手古奈、隊長のアリアもデユエットも良ければ合唱もいい。

特にラストシーンに歌われる隊長の嘆きの恋歌「♪ おお〜麗しき手古奈よ、麗しき汝が

名は……………そして旅人はこの浜辺にもたれて〜かりそめの〜かりそめの幻を懐かしむ

であろう〜」はシビレてしまうのだ。私が1年生の時、クラブの主力の2年生が「真間の

手古奈」に取り組み、私は大道具担当だったが、夏休みにせっせと登校しては練習風景を

つぶさに見て、全員の歌を覚えてしまった程「真間の手古奈」にぞっこんだった。近隣の

都立立川高校の文化祭でも「真間の手古奈」を上演するというので見に行った。高2がク

ラブの幹部となり、オペラ公演の中心になるのだが、前年「真間の手古奈」をやられてし

まったので、私達の代ではそれは出来ない。で、やったのが「出雲風土記」。オペラでは主

役はソプラノがやることに何故か決まっており(「カルメン」だけは例外でメゾソプラノ)、

アルトの私は村人の役。チェッ。「真間の手古奈」じゃないし、村人だし、練習にも何だか

身が入らない。今覚えているのはオープニング合唱曲のたった1曲「♪八雲た〜つ〜出雲

八重垣に〜妻籠みに〜八重垣つくる〜その八重垣を」だけ。この頃はいやいや歌っていた

が、歌詞は日本最古の和歌だったんですね。豚に真珠だったのだ。ラブソング。素盞鳴尊

が稲田姫命と結婚したことを喜んだ歌というが、まさにここ八重垣神社がその地である。

 ここは縁結びの神社ともなっている。「村人役でしたけどお世話になりました」と恭しく

お参りし、占い用紙を買って裏の鏡の池に向かう。薄暗い木立の中の、鏡の池に占い用紙

を浮かべて硬貨を乗せる。早く沈めば恋は成就するのだとか。池の水は澄んでいてたくさ

んの硬貨が見える。まっ、一応やりましたよ。車で待っていた運転手さんが「すぐ沈みま

したか?」「いいえ」「…………」。遅く沈めば縁遠い、遠くで沈めば遠い所に嫁入りするの

だそうだ。正直、どっちでもいいです。だから重い硬貨(500円)を乗せて早く沈むよ

うな姑息なことはしない。成就したい恋も無いしね。次は、神魂(かもす)神社。現存す

る最古の大社造なのだそうで、国宝。伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っている。出

雲大社が建造される400年前に作られたとかで、大化の改新までは出雲朝の本拠地だっ

たらしいですよ。タクシーは市内に    

            神々の恋が沈みて水の秋

 

鏡の池に私が浮かべた占い用紙に滲み出た文字は「信念をもて 願いかなう 西と北 吉」

ラフカディオ・ハーン。ア・ハーン? なんて怪訝顔の人も小泉八雲といえば知ってい

るはず。彼の作品、耳なし芳一とか雪女とか「怪談」ありましたよね。夏に怪談を聞くと

怖かった。「知られぬ日本の面影」は読んだことはありませんでしたが、教科書に載ってい

たような。明治23年来日。この前年に徳島の眉山の麓に眠るポルトガル人のヴェンセス

ラウ・デ・モラエスが日本に来ている。モラエスは芸者だったオヨネと神戸で結婚し、オ

ヨネの死後彼女の出身地の徳島に移り住み、その姪のコハルと暮らした。で、コハルが死

んで12年、性懲りもなくその妹のマルエに……。閑話休題。ともかく、ハーンはギリシ

ャの島でアイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれた。アイルランド人とギリ

シャ人の混血ならさぞや大男が、と思うがさにあらず157センチ位の小さな男だったら

しい。小泉八雲旧居と小泉八雲記念館が並ぶ。ギリシャ・レスカダ島→アイルランドまで

来たところで両親離婚、片目失明、養育者破産とか次々と悲劇がハーンを襲うが、めげず

に→アメリカ→西インド諸島→日本と新聞記者などしながら地球を半周する。エライ! 

最初はハーバー社の特派員だったが、すっかり日本が気に入ってしまい、島根県尋常中学

校の英語教師となって松江にやってきた。松江大橋のたもとの旅館「大橋館」に5ヵ月も

滞在したそうで、橋を渡るカランカランと鳴る下駄の音を聞いていたようです。士族の娘、

小泉セツさんと結婚して後年家族のために帰化し小泉八雲を名乗ることに。松江を「神々

の国の首都」と絶賛して、わずか1年2〜3ヵ月の滞在であったのにも関わらず、八雲を

名乗ったことでハーンがどれほど松江・島根を愛していたかわかろうというものだ。侍の

家に住みたいと選んだ旧居や遺品の数々を見ていると、日本の良さを八雲先生からあらた

めて教えられるばかりで、居心地が悪い。こんなに愛した松江を彼が去った理由は、その

冬の寒さだったようだ。

   

小泉八雲旧居と月照寺

月照寺。1664年松平直政が亡き母月照院の冥福を祈って建立した松平家の菩堤寺で

ある。松平というからには徳川家の血である。関ヶ原の合戦の後、堀尾吉晴が入国して来

たが3代で絶え、次の京極氏もすぐお家断絶。で、徳川家康の孫で秀康の子・松平直政の

登場となり、以後10代234年間松平時代が続いた。江戸徳川幕府って諸大名の失敗や

血統が断えると、素早くお国召し上げ、天領にしたり、徳川子孫に分け与えたりしてたか

らなぁ。戦いをせずとも領土を増やす戦略。親類なら謀反を起こすことも無いし。そうやっ

て、天下りの原形みたいにお越しになった松平家なのであるが、名君も生んだ。七代松平

治郷で「不昧公」(ふまいこう)として有名だ。倹約令と増税(いつでも統治者は同じこと

を考えるみたい)でバシバシと松江藩の財政を立て直したが、彼を有名にしたのは風流な

文化人としての側面である。茶と禅に親しみ茶禅一味を唱えたんだって。不昧流というらし

い。200年以上経った今でも松江はお茶や和菓子が盛んで不昧公の影響は大きい。不昧

公が考案されたという独特の「鯛めし」は、以前銀座の料理店で食べたことがあるが、お

上品で風流なお料理でございました。寺の墓所には月照院と初代〜9代までの歴代藩主達

が昼でも薄暗い程の木々に囲まれ眠る。面白いと思ったのは、他の藩主の廟と違って初代

直政と七代治郷・不昧公の廟は少し離れたところにあって実に立派なのである。初代はと

もかく、名を成した人は墓も違うのであった。

 何度も空を見上げる。太陽が覗いているか心配なのだ。昼過ぎまではからっと晴れてい

たのに、午後になってから雲に隠れて時々顔を覗かせるくらい。ここに来た目的の一つは

夕陽を見たかったから。宍道湖から見る夕陽が素晴しいと聞いたので、宿も玉造温泉など

には行かず、宍道湖の辺りのホテルを予約してある。それを見るには太陽が空に出ていな

ければならないし、日没前には宍道湖のホテルに到着していたい。そのことを、運転手さ

んに伝えると、真剣な顔でホテル一畑を目指して走り出す。「間にあったようですね」と嬉

しそうな運転手さんに感謝して、ホテルにチェックイン。鍵を貰うのももどかしく

「客室から湖に映る夕陽を見られますか?」と聞くと

「ちょっと角度がですねぇ。湖に映る夕陽をご覧になるのなら、向こうの宍道湖大橋の途

中位まで行かれるとよく見られますよ」。

アッチャ〜! 宍道湖に面したホテルなら確実と思っていたのに、思わぬ死角が。写真で

見た夕陽と同じものを見るのなら、今からがんがん走らねばならない。間もなく太陽は沈

んでしまうというのにぃ。あ〜あ。諦めようっと。結構諦めの早い人間である。さっさと

最上階の大風呂で温泉に浸かっていると、曇りガラスが夕陽を受けて、ほんのり赤くなっ

ていた。

 夕食は大食堂で。開高健さんの「新しき天体」という本に宍道湖の白魚釣の話が出て来

る。釣の面白さはさておき、白魚の透き通った危なげな肢体を残酷に生きたまま食す場面

に心を奪われた。それは後年、春先の博多で何度か経験した。器の水に放されてノンキに

泳いでいる白魚を、数匹小さな網で掬って酢醤油の皿に落とす。白魚が驚いてびちゃびち

ゃと暴れる。暴れたままの白魚を口に運び、うごうごと噛んで飲み込んでしまう。白魚界

では、血も涙もない悪魔と憎まれているだろうな、と思いつつも旨くて止められない。そ

の白魚の本場に来たのだが、残念ながら時期を逸していて、小さな貝の鍋に冷凍保存した

茹で白魚と三ッ葉を卵とじにしたものが食卓に出た。淡水と海水が混じるこの宍道湖は豊

かな漁場でもある。白魚と水揚げ日本一の蜆、あまさぎ(わかさぎ)、すずき、鯉、うなぎ、

もろげ海老を「宍道湖七珍」(しっちん)と言うのだそうだ。松江の街を走っているとあち

こちに七珍料理屋の看板を見る。この夜も一通り出て来た。食事を終えて、湖の水際に行

ってみる。宍道湖は汽水湖。初秋の9月中旬で、暗い湖面から静かに寄せる波にかすかに

夏の名残りを感じる。少し離れた場所に若いカップルが湖面を見つめながら語りあってい

る。出雲は古代のロマンとロマンスの国だなぁ。急に歌いたくなって「真間の手古奈」の

アリアなど30分近くも歌っていた。湖にだけに聞こえるような小さな声で。            

            暗き湖色なき風が呼びし波

宍道湖              車窓から見た風景   出雲大社にはこんな電車で行く

 宿泊したホテル一畑は、一畑電鉄の経営である。だから、今日出雲大社に向かう一畑電

鉄の松江温泉駅は、すぐそこ。夕陽を見逃した代わりにその位のメリットはあっていい。

小さな2両編成の電車で、一番に乗り込んだから先頭の座席に陣取る。運転席が全部見え

て楽しい。電車は、しばらくの間、宍道湖の湖岸に沿って走る。秋らしく晴れ渡った日で、

海のように広く見える宍道湖が朝の太陽を受けてきらきらと光っている。開け放した窓か

ら入ってくる風は少し冷たいが気持ちがいい。民家ぎりぎりを走ったりして、このへんの

住民の生活まで見えてしまいそうだ。ご機嫌で乗っていたのだが、どこの駅だったか電車

が走り出すと何だか様子が違う。えっ! 電車が後に動いている! スイッチバックされ

て、電車が逆方向に走っちゃうとは。一番先頭ではしゃいでいたのに、いっぺんに最後車

両(2両だけだけど)となってしまった。平田市で乗り換え、更に川跡(かわと)で乗り

換えるとたった1両に。松江温泉から出雲大社まで直通もあるようなのだが、昨日から乗

り換えばかりしているから、そう気にならない。出雲大社駅で荷物をコインロッカーに預

け、いよいよ出雲大社に向かう。            

             爽涼や出雲路小さき電車ゆく

 まっすぐ進む。大きな鳥居が向こうに見えているから迷いはない。秋晴れで歩いている

と汗ばんでくる。5〜6分ほどで大鳥居。高さ23メートルの日本一の大きさで中央の額

面は畳6畳もある。鳥居をくぐってもまっすぐ。400メートルの松並木を歩いて松の馬

場を過ぎると胴鳥居。この先に拝殿が現われる。いやはや何ともご立派な注連縄(しめな

わ)が向拝にかかっている。周囲が3メートル、長さ8メートル、重さが1500キロも

あるんだって。これでも大いにたまげたのだが、最後に行った神楽殿の大注連縄は重さ6

000キロというのだから、凄いじゃありませんか。普通神社では二礼二拍手一礼をする

が、ここでは四拍手をするですって。出雲大社は大国主神(おおくにぬしのかみ)を祭っ

ている。大黒様とも言われる大国主神は素盞鳴尊の息子であり、天照大神(あまてらすお

おみかみ)は叔母さん。イザナギノミコトとイザナミノミコトの孫でもある。出雲国造の

祖は、天照大神の息子で大国主神の従兄弟に当る天穂日命(あまほひのみこと)で、今も

出雲大社の宮司を勤める千家はその子孫と聞く。そう言えば、大好きな市川猿之助のスー

パー歌舞伎の第1回公演は「ヤマトタケル」で、数年前には「オオクニヌシ」にも挑戦さ

れました。大国主神が国を譲る条件として「自分が住む立派な宮殿を造ってくれるならば」

と条件を出して造られたのが出雲大社ということになっている。

   

 

大黒様こと大国主神

 拝殿を真ん中にして左右に西十九舎、東十九舎がある。旧暦の10月に全国から八百万

(やおよろず)の神が会議のために出雲大社に集合されるが、十九舎は御旅舎(おたびし

ゃ)とも言って神々の宿舎となる。相部屋でぎゅーぎゅー詰めでも八百万の神様を収容出

来るのか心配になる。会議室は、ここではなく境外摂社上の宮。議題は縁結びとか国政。

離婚の増加を嘆き対策を議論したり、核の廃絶なども議題に上るのだろうか。神々がここ

に来られる10月は、他の地方は神無月(かんなづき)、出雲は神在月(かみありづき)。

本殿は拝殿の真後ろに位置するから、角度をつけた場所に立つとよく見える。大社造で最

古のものは昨日神魂神社で見たが、スケールの大きさに思わず「おおっ」と声を出しそう。

急角度の屋根の中央前方と後方に24メートルのX型の千木(ちぎ)が付き出でて、その

先端は男神だから垂直にすっぱりと切られている。24メートルの高床式。現在の本殿は、

1744年に建てられたものだが、平安時代の頃は千木も床の高さも50メートルあった

んだそうな。福を呼ぶのも得意と聞くが、ここも縁結びが主力商品で、御守所には縁結び

祈願のお守り、お札、縁結びの糸まで売っている。もっと若い頃来れば良かった。真剣な

のに何故か縁遠い女性の友人2人に縁結び祈願お守りを買い、そこでちょっと迷ってもう

一つ追加した。

           空澄みて神々集ふ大社かな

 

 

中央前方と後方に24メートルのX型の千木(ちぎ) 大注連縄は重さ6千キロ

 大鳥居の近くのそば屋で昼食。出雲そばを注文。3段か5段かで迷うが、ええい、5段

にしてしまおう。実は、昨日タクシーに乗っての見学途中でも出雲そばを食べた。小泉八

雲記念館の近くで。運転手さん待たせて。丸い小さな漆塗りの器に盛られた割子そばで、

そばは黒く歯応えがある。薬味は葱、かつお節、海苔、卵、とろろなど。そばつゆを一段

ごとにかけて食べるが、辛いつゆだ。昨日店でお姉さんから「つゆはのの字を書く要領で」

と言われた。今日の店のおばさんも「つゆはのの字よ〜」。硬くてちょっとごそごそするか

ら、量が少ないと思った一段でも、意外と食べるのに時間がかかる。時間がかかると脳に

もしっかり伝達されて、5段食べる頃には「満腹だから止めなさい」という命令が来てし

まった。いつもは命令が来ないうちに、急いでいっぱい食べちゃんだけどね。さて、これ

からどうしようか。隠岐島も見えるという西端の日御岬(ひのみさき)に行くか。いやい

や、帰りの飛行機までそれほど時間も無いし、5段のそばを食べて満腹で動くのが面倒に

なった。荷物を駅のロッカーから取り出すと、いつもの癖で空車のタクシーに手を上げた。

「出雲空港まで」。

 大社町から出雲市を横切って斐伊川を渡る。田んぼの中にぽつんぽつんと大きな家が建

っている。敷地面積もたっぷりで堂々とした家が多い。風避けの役割なのだろうか、どの

家も生け垣の一方向だけに高い木が何本か立っている。決まりごとのようだ。田んぼには

稲刈を真近に控えて穂がたわわに実っている。しかし何箇所かは倒れた稲が。きっとコシ

ヒカリに違いない。高く売れるが茎が弱くて、強い風など吹くと倒れてしまってリスクも

ある。タクシーに乗ってから一言も口をきかなかった運転手さんが倒れた稲を見たのか、

初めてしゃべった。

「最近は、島根のコシヒカリが知れ渡っちまって、全国のあっちこっちでえらく高く売れ

るらしいってよ」

「えっ?」

「だから島根のコシヒカリが有名になったってこと」

「………」。

私はね、コシヒカリの本場の越後生まれだよ。農家やっている親類からもコシヒカリを送

って貰うけど、買う時は南魚沼産のコシヒカリだよ。島根のコシヒカリ?

「あの〜、運転手さん、私、新潟の出身なんですけど」

「それがどうした!」

「コシヒカリは新潟で作られて、それが全国に広まったんですよ」

「へんっ。……………………。島根のコシヒカリはうまいからなぁ」

 かつてコシヒカリとライバルだったササニシキもうまい。ひとめぼれ、秋田こまちもう

まい。滋賀米も実にうまい。一番うまい米競争の話ではなくて、運転手さんが自慢してい

るコシヒカリは新潟が本場だ、ということを言いたかったのだが、全く無視された。完全

無視。聞く耳をこの人は持たない。狭いタクシーの個室での会話だから、何ともいえぬ気

まずい空気になる。きっと運転手さんにとっては島根が日本の中心なのだ。全国から八百

万の神々が集うのもここ。「古事記」も「日本書記」も出雲の話が一杯。土地が狭いからと

新羅と隠岐の島と能登半島の余分な土地を「国来(くにこ)国来」と国引きした話。神話

のロマン。現代のロマンスも司る。国造の出雲。運転手さんだけがそう思っているのでは

なく、島根県民は全員そう思っているかもしれない。全国で人口は鳥取県に次いで2番目

に少ない。全国の販売促進費を減らす議題になると、決まってマークされてしまう島根県。

行ったことが無い県にしばしばあがる島根県。でもその当地に来てみると、古代から延々

と郷土に誇りを持ち続けた出雲の人がいる。出雲は「特別な土地」なのだ。                  

                神様もほほえみてをり豊の秋

 

おしまい

旅した日:1990年9月7日〜8日       書いた日/2000年1月 

注)何枚かの写真はこの旅の前に撮影したものです。電車に乗りながら、渡る鉄橋を下からなんて撮

れませんものね。鳥取の砂丘も電車からは見ることが出来ません。

 

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