夢子のニッポン大好きシリーズ  

土佐高知ドキドキ         

高速船が動き出した。午前8時半広島港発の松山観光港行き。ゆうべ広島市内の飲み屋「な

わない」でしこたま飲んだ酒がほんの少し残っているが、早くも空腹を覚える。左手に呉の町

が真近に見える。戦艦大和などを建造した造船所があることで有名な町だ。湾の中にいる間船

はゆっくり進んで、幅が200メートルも無い一番狭いポイントを越えて瀬戸内海に出ると速

度を上げる。温暖な瀬戸内地方というイメージがあるが、風も冷たく肌寒い。松山観光港から

松山駅にバスで出て、長距離バスに乗り換えて高知に行くつもりだ。

 高知に行こう、と思ったのは二十歳の時だ。

長兄が大学院の博士過程に進んで間もないある日、突然「勉強ヤメタ!」と宣言する。もう

5月で、4月に入社した新入社員や入学した新入生から「五月病」が出る頃である。「そんなぁ。

今ごろ就職したいなんていっても……」と周囲は慌てるばかり。長兄の勉強スタイルの基本は

丸暗記で、中学3年になった4月1日から全科目の教科書を大声で読み上げながら暗記勉強

を始めた。その頃住んでいた家はまずまずの大きさだったが、外から帰って来る時、家の10メ

ートル手前位まで来ると、もうこの兄の教科書早口・大声復唱の声が聞こえて来て、小学生の

私もきまりの悪い思いをした。秋になった頃にはすべての科目の教科書を丸暗記してしまい、

翌年1〜2月の入試まで「忘れないでいる」ツライ期間があった。担任の先生も深刻な表情で

「試験までに全部忘れてしまわないといいんですがねえ。」と母に話していた。それでも何とか

志望校に合格したが、ピークを持ってくるタイミングを大幅に間違えたことは明白であった。

大学を終えても大学院、修士を終了しても博士課程とその兄の勉強道は続いていたのだが、ヤ

メルという。学者としての将来に明るさを見い出せなかったのか、遊び回っている弟と妹を見

て、急にバカらしくなったのか。

 しばらくして、アルバイトをしていた経団連のお世話で、証券会社の総合研究所に職を得ら

れて家族はほっとした。3ヵ月の試用期間が終わり、本採用になって2日目の朝、長兄は「歯

を磨いていたらコーヒー吐いちゃったよ。飲んでないんだけどなぁ」と言いながら出勤して行

った。会社から連絡があり、社内で大量の吐血をしたので慈恵医大に救急車で運んだが、入院

してからも吐血し危篤状態だと。いつも冷静沈着な母も慌てふためき、病院に駆けつけた。十

二指腸潰瘍だったが、手術をするには失った血液を大量の輸血で補い、体力を取り戻さなけれ

ばならない。手術は成功したが、輸血が元で血清肝炎になって結局4ヵ月以上の入院となった。

母は、父や兄の世話、家事などすっかり私に押し付けて、病院に泊まり込みつきっきりで看護

していた。危険な時期を脱すると、長兄は暇を持て余す。本を買ってきて、という。指定され

た本は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の1巻だった。買って渡した翌日病院に行くと「2巻買

ってきて」と読み終った1巻を私に払い下げる。そんな繰り返しを5回やった頃には、兄も私

も寝不足になってしまった。もう読み出したらヤメられない。土佐の郷士の末っ子・坂本竜馬

にすっかり魅せられ、お竜さんに嫉妬し、幕末の激動に夢中になって。兄は数年後生まれた長

男に「竜太郎」と名づけた。大学の史学科で日本中世史のゼミを受けていた私は、4年になっ

て「幕末」のゼミに急遽変更した。

 卒論を書かなければならないのに、4年でゼミを変えるのは無謀と言われた。が、すっかり

竜馬病になっていたから「ちゃっちゃっ、おぬしら、こまいぜよ」などと耳を貸そうとはしな

い。ゼミの先生は何と大久保利通翁の孫、大久保利謙先生だった。しかし、坂本竜馬をテーマ

に選んだのでは、司馬さんの丸移しになってしまいそう。で、ちょっとズラして「最後の将軍

徳川慶喜と大政奉還に関する一考察」とした。タイトルは立派だ。初めて大久保先生に卒論の

諮問を受けた時、勝海舟の『昔夢会筆記』(せきむかいひっき)を(じゃくむかいひっき)と言

ってしまい、思いっきり軽蔑顔をされてショボクレた。前途多難なのであった。それかどうか、

期日通りに分量も80枚以上書いたのに、卒論の評価は「可」だった。文章を書いて「可」の

評価は初めてだった。それはともかく『竜馬がゆく』を読んだ二十歳の頃から、高知に行きた

いと思った。竜馬の銅像が建つという桂浜に立ってみたいと思った。名所の月を眺めたいと思

った。大久保利謙先生が暫く前に大往生されたと新聞が伝えていた。高知に行きたいと思い始

めてから30年以上経ってしまった。

 松山観光港から、道後温泉行きのバスに乗る。途中大きな病院がいくつかあり、通院するお

年寄り達の乗り降りに忙しい生活バス便である。松山駅到着。ここまでは随分昔だが来たこと

があって、松山城に登りながらラジオで甲子園の高校野球を聞いた記憶がある。暑い暑い日だ

った。JRの乗車券売り場でバスの切符を買う。朝から空腹でしっかりした食事をとりたいが

時間も無いので、駅舎にあるうどん屋に行く。この店の一番人気はカレーうどんらしい。せっ

かく松山にいるんだからとじゃこ天うどんを注文する。黒いじゃこが、しこしこと歯応えがあ

ってうまい。が、うどんは隣の讃岐風ではなく比較的柔らかい。

 11時発、JRバス高知行き。3時間半の長距離バスだ。乗客は4人。高知まで禁煙かと嘆

いていたのだが、何と座席10列目からは「喫煙可」とある。気がきくねぇ。嬉しいぞ。松山

の街を抜けて南下する。10キロも行くと砥部の町。砥部焼きが有名だ。陶器好きとしては降

りたいところだが、先が長くてそうも行かない。このバスはワンマンバスだが、流されるテー

プが観光ガイドもつとめてくれる。だから、ガラガラの車内でゆったりと座り、いろんなことを

教えてくれるテープに耳を澄まして外の眺めを楽しむ。煙草をくゆらしながら。最高だ。バ

スは登りに差し掛かり、標高720メートルの三坂峠を越えて行く。だいぶ登ったと思った頃、

ひょいと後ろを振り向くと、松山の街が一望出来る息をのむ景色だった。ここからは久万(く

ま)高原。バスの中の空気まで浄化されるような緑に溢れた高原の景色が続く。今年は暖かで

全国的に紅葉が遅れているが、10月の中旬というのに深い緑だ。こここそ今度来てみたい。

久万高原の東側には、西日本の最高峰標高1982メートルの石鎚山(いしづちさん)がある。

         奥伊予のそのまた奥の秋の山

どこからだったか、バスは川の流れと並行して走っていることに気付く。工事現場の看板で

仁淀川(によどがわ)と知る。石鎚山の麓を源流とした面河川(おもごがわ)が仁淀川となっ

て、土佐湾に注ぐ。バスはこの仁淀川の右を走り、橋を渡って左を走り、堰止めるダムの横を

通過して進んで行く。やがて「高知県」の表示の隣に「あったか高知」の看板があった。引地

橋で10分間のトイレ休憩。ここ吾川村の南には、石灰岩の巨大台地の四国カルストがあるら

しい。バスの運転手さんと並んで煙草を吸いながら、この当りのイラストマップを見ていると

「笑いの里・吾川村」とあった。笑いの里かぁ。高知はやなせたかしさんやはらたいらさん等

漫画家をたくさん輩出していて、漫画を県のアピールに使っている話は聞いたことがあるが、

こんな山の中でも笑いが主題なのか。仁淀川沿いの山深い地にも、人家はぽつり、ぽつりと見

える。あんな山の上にと思うような所にも洗濯物が見えて人の住む気配がある。旅から帰って

から、師と仰ぐ先輩の父上がこの当りのご出身と伺って驚いた。「父は高知県、仁淀川の上流の

山の中で生まれてね、誰も知らないような所」という先輩に「先週、そこに行って来ました」

という話をした。3時間半の予定は、高知市内に入って渋滞にはまって4時間近くかかってし

まったが、このバスの旅は実に素晴しい旅であった。広島からの高速船が5800円だったの

に、3700円というのも得した気分だ。

          水澄みて土佐を流るる仁淀川   

  バスの車窓から仁淀川沿いの風景を見る

高知市立「自由民権記念館」に行く。路面電車に乗って。普段は180円らしいが、今は何

とかキャンペーンとかで一律100円。はりまや橋で乗り換えると「ごめん」行きなんて電車

もある。南国市の後免のことだ。地元出身者から聞いた話だが、江戸時代、荒れ地に人を住ま

わせるため税金を免除したことから御免→後免となったんだとか。桟橋通り4丁目で下車。記

念館の前に、ツツジの植え込みがあって、その中に御影石を斜めに立てかけた石碑がある。石

碑の言葉は「自由は土佐の山間より」。誰の言葉なのだろう。たちまち惹き付けられる。入場料

300円払って2階の展示室に行く。土佐の自由民権運動の歴史。短期集中で幕末史をちょっ

とかじったものの、その後の土佐については知識が無い。明治維新後、高知県で激しく展開さ

れた自由民権運動を知って不明を恥じる。土佐高知の先人も紹介していて、坂本竜馬、武市半

平太(瑞山)、後藤像二郎、中岡慎太郎などの幕末の志士始め、板垣退助、浜口雄幸、吉田茂、

三菱の創始者岩崎弥太郎、中江兆民、幸徳秋水、大町桂月、「天災は忘れられた頃くる」の言葉

で有名な物理学者にして随筆家の寺田寅彦など、錚々たる顔ぶれである。国のかつての中央・

京都からもその後の江戸、東京からも遥かに遠い辺境の地にありながら、幕末・維新に重要な

役割を果たし、近代においても国のリーダー的人材、思想・文学の重鎮的人材をきら星の如く

に輩出したのは何故なのか。高知は流刑の地の一つだった。遠流(おんる)の罪。イギリスに

おけるオーストラリア。土佐は、京からやんごとなきオン方々が、政争に破れて流され、太平

洋を見ながら無念の涙をこぼし続けた地だ。そして、そのやんごとなき優秀な血は土佐の血と

混じり、多くの人材の祖先となった。かどうかはわからないが、そんな説があった。都からの

遥かなる距離を逆に転じた格好だ。

 板垣退助が岐阜で刺された時「吾死するとも自由は死せじ」と言ったんだそうな。この時板

垣退助は死ななかったが、民権運動は下火になっていく。展示の中に「自由は土佐の山間より」

の言葉の作者を探すと、それは植木枝盛(えもり)のものであった。隣接した映像展示室で「行

動する思想家 植木枝盛」を上映していて、その目もと涼しげで端正な顔が印象的だ。イイ男

ぉ・・・。竜馬先生の後輩にこんなヨカ男がいたのかぁ。安政4年1857年に生まれ、高知

新聞の主幹や県会議員、第1回衆議院議員を勤めながら生涯自由民権運動を推進して36歳で

亡くなった。枝盛が書いた膨大な著述の中に「東洋大日本国国憲案」があるが、同じ土佐の北

川貞彦の「日本憲法見込案」と共に、現在の「日本国憲法」制定時に多大な影響力を及ぼした

と聞く。書かれた明治15年から60年以上経ってのことである。しばしば醸造税を引き上げ

る政府に対して、高知の酒造組合が「酒税減額願」を出したが却下されてことを知り、枝盛は

徹底抗戦。各地方の酒屋にチラシをまき「全国酒屋会議」を計画する。官によって会議をつぶ

されると新聞で次期会議と場所を伝える、といったイタチごっこだった。結局、この会議開催

と減税願いは叶わず、逆に酒税2倍という政府のしっぺ返しが待っているのだが、われわれ酒

党のためによく闘ってくれたと思う。あっ、そうゆうことではないわね。この枝盛、女性のた

めにも大いに働いた。明治13年1880年、高知県庁は上町町会規則の婦人参政権条項の削

除を命じたが民権派が激しく反撃し、県庁はついに屈服して婦人参政権を認め、ついでに隣の

小高坂村会規則でも婦人参政権が実現したんだって。上町は坂本竜馬が誕生した地。こんな時

代から町会規則に婦人参政権を盛り込んでいた高知にたまげるが、枝盛は明治17年から土陽

新聞の社説で婦人の地位向上と封建的家庭の改革を訴え続けた。「家」制度廃止の主張の中には、

親家族と子家族の別居の勧め、姦通罪の男女間の不平等是正を含んだ夫婦間の同権の主張もあ

って、土陽新聞の読者は近代的女性観にパッチリ目が覚めてしまった。枝盛がイイ男だっただ

けでなく、こうしたこともあって女性からはモテモテだったようだ。ぐやじ〜。

 1階の郷土情報室に寄る。もう閉館時間に近いのに、利用する人が少ないのか愛想の良い応

対だった。「植木枝盛について知りたいんですが、資料になる本とか販売していますか?」「枝

盛に関する本は数冊ありますが、ここで販売しているのはこれ1冊です」と外崎広光氏の『植

木枝盛の生涯』を出してくれた。お金を出す私に、若い係の女性は「今年の春は植木枝盛展も

やったんですよ〜」と、さもいとおしい人のことを思い出すような口ぶりで言う。むむ、今の

時代にも恋ガタキはいる。

            

高知といえば、大きな皿に、たくさんの料理を盛りつけた皿鉢(さわち)料理である。銀座

の土佐料理で何度も食べた。しかしそれは大勢の宴会用。今回1人なので、そうした本格的郷

土料理店は無視して、こじんまりした店を探す。高知大丸デパートからちょっと駅寄りにいっ

た小路に、飲食店が何軒も並んでいる。開店したものの未だ今晩の仕込みに忙しい店のカウン

ターで、しげしげとメニューを検討する。まずは鰹のタタキだな、本場だから。「にろぎ」って

何だ? この辺で獲れる魚だって。それも頼む。じゃこの生もメニューにあるが今日は入荷し

ていないって。あん肝。和風コロッケ。蟹サラダ。こんな感じか。鰹のタタキは、いつも自宅

近くの鮨屋でバカうまいものを食べているので、ここでは特にうまいとは思えない。翌日昼に

もタタキ定食を食べたが同じようなものだった。だいたい鰹は、それほど有難がって食べるも

のでもないでしょ。「にろぎ」は最後に出て来たが、何と大きな蓋付きの陶器になみなみと盛ら

れた味噌汁に入って。平べったい魚だが、やたらに小骨が多くて食べにくい。食べにくいこと

を別にすれば、魚の旨みが味噌汁に出ていて美味しかった。イゴッソウの街では、人は何升も

酒を飲むという。男だけでなく、朝まで飲む女性も多いのだとか。しかし、空きっ腹に、生ビ

ール中ジョッキ2杯、冷酒5本も飲むといい気持ちになってくる。竜馬や乙女姉さんのように

は、まっこといかんぜよ。

 高知駅前から定期観光バスに乗る。Aコースで客は16人。今日のガイドさんは、21歳位

で可愛らしい。朝8時半出発。高知城を目指す。街にいればどこからでも見える堂々としたお

城だ。追手門通りを通ってすぐそこ。この通りは毎週日曜日に市が立って賑やかと聞く。県立

追手前高校が右手にあり、高知の秀才が学んでいるらしい。バスがついたところに、高知県立

文学館。ここも来たかったが昨日は自由民権記念館で枝盛さんとおつきあいしていて時間が無

くなった。傍らに初代城主・山内一豊の銅像。重要文化財の大手門をくぐって城内へ。世の中

にはお城マニアがかなりいるようだが、果たして自分はどの位の城を見たのか。子供の頃一番

早く見たのは、黒い壁からカラス城とも言われる松本城。北から弘前城、名古屋城、長浜城、

彦根城、大阪城、和歌山城、松山城、熊本城、それにここ高知城。何だ、たったこれだけか。

登らずに見ただけの城なら他にも色々あるけどね。山内一豊の妻と名馬の像。この高知城は、

関ヶ原の戦いで功を挙げた山内一豊が24万石の土佐を褒美で貰い、1601年に創建された。

一豊が武勲を挙げたのも、偏にこの妻が戦いに臨む夫に名馬を買い与えた逸話は余りに有名だ

が、「それもこれも奥さんと馬のお陰でしょ」と言わんばかりの銅像が可笑しい。その反対側に

は「板垣死すとも…」と言ってその時は死ななかった板垣退助先生が、右手を前に差し出した

銅像。城に来ると、石段の上りがキツイ。同じバスの乗客も、アエギアエギ上っている。敵か

ら容易に攻められない

ために、わざと歩きにくくしてあるから始末が悪い。ようやく天守閣の入り口に辿りつくが、

ここから城内に入って又大変。スネが踏み段にくっついてしまうほど急な階段が続き、膝がが

くがくしてくる。こんな苦しい思いをして何が得られるんだ、もうヤメちゃおうか、と思う頃、

天守閣のテッペンに着いた事を知る。四方から高知の街が見渡せ、気持ちの良い風が汗びっし

ょりの身体に気持ちいい。チョー気持ちいい。この気持ち良さと達成感で、人間やっぱり上っ

てしまうのだ。山登りと一緒。復路の石段を降りていくと、あちこちに「高知名物アイスクリ

ン」を売る店がある。汗かきついでに買って食べる。和風シャーベットのよう。この味は、昔

秋田の山に「鍋っこ遠足」に行った時、道端で売っていたものとそっくりだ。

   

どこから見えても堂々たる高知城 板垣死すとも・・ 山内さんの奥さんと馬         

この定期観光バスAコースは、8時間かけても4ヵ所しか回らない。高知城のあとは、南国

市の「はらたいら漫画館&オルゴール館」と龍河洞、それに桂浜。だから、どこでも時間がゆ

ったりとれて、乗客が集合時間に遅れるなんてことは全くない。どころか全員早く集合してし

まうので、時間はオセオセの反対で早め早めの出発となり、この日の所要時間は7時間そこそ

こだった。値段のことばかりで恐縮だが、これで4350円。安い!龍河洞。鍾乳洞である。

バス会社と提携している土産屋兼食堂で「上から水がしたたって来ますから」と渡された薄手

のハッピを着る。中に入ったら一方通行で、かなり上り下りが厳しいから、足に自信の無い方

は止められた方がよろしい、という親切なガイドさんのアドバイスに心はグラッと動く。さっ

き高知城を登ってハーハー、下って膝がくがくだったから。「残られる方は手を挙げて下さい」。

周囲を見回すが誰も手を挙げない。一番年配のご婦人も手を挙げない。行くらしい。こういう

時は「中に入られる方は手を挙げて」と言えばいいのだ。きっと後悔するだろうと思いながら、

入り口までのエスカレーターに乗る。入り口には「涼しい散歩道 龍河洞」と書いてあった。

 入ってから、すぐ後悔が始まった。鍾乳洞には、もう何度も入ったことがあるが、ここの歩

きにくさはド級。約40分間の三分の一は身をかがめて歩かねばならない。天井が低い。狭さ

も狭い。私だから良かったものの、正面を向いてはとても通れず、横向きで身体を石壁に擦り

ながら進む。上からぴちゃぴちゃ水が垂れてくる。水避けに借りたハッピなんて暑くて着てお

れない。後からどんどん人が来るので、休むことなく歩き続けねばならない。どうぞお先に、

と言いたいが道を譲る幅が無い。階段が多い。やっと上ったと思ったら、今度は下り。で、ま

た上る。どうして旅に出てお金を払ってまで、こんな難行に出会っているのか。途中、鍾乳洞

の見せ場らしき幾つかの場所にナマの人間が立って「ここは………」と説明している。聞く気

も起きないから、とっとと進む。この湿気は何だ! どこが涼しい散歩道だ! あの説明係の

人は仕事として毎日ここに立っている。職業とは難しいものだ。一方通行、入ったら戻れない

というプレッシャーと究極の閉所恐怖が更に苦しめる。一刻も早く出口に辿りつきたい。その

一心で進みに進んだ。上の方にポッと明りが見えて出口だとわかる。最後は走って。出た! あ

〜気持ちいい。風と明るさと解放感。私はやった! でもないか。安堵も束の間、外階段では

あるが延々と下りが続き、がくがくの膝がついには笑い出した。下り切った道はそのまま1軒

の土産物屋に通じている。店のおばちゃんが「はい、お疲れさん。Aコース? なら、あんた

が一等。笑った膝にはこのお茶が一番効くっちゃっ」と梅こぶ茶を奨めるのだった。

        幾秋も滴り落ちて龍河洞

桂浜が近づいて来る。いよいよ竜馬先生にお会いできる。胸がドキドキする。昔から抱いて

いた桂浜のイメージはこうだ。長い砂浜に荒い波が押し寄せている。砂浜の陸側、防風林の松

林のちょっと手前に、台座を合わせて3〜4メートル位の竜馬の銅像が立っている。大勢の竜

馬ファンが集まり写真を撮っている………。が、実際は違った。またもや階段を何段も上り息

が苦しくなった頃、広々とした広場に出る。その真ん中に、竜馬先生はどーんと立っていらっ

しゃった。台座だけでも10メートルはあろうという巨大な銅像。右手を着物の懐に入れて寄

りかかったポーズをとっておられる。袴から出た足には靴を履いて。心の中でつぶやく。「竜馬

様、遅くなりました。ようやくお傍に参りました。この瞬間を長い年月、待ち望んでおりまし

た」。この銅像を作る折、未だ健在だった竜馬の姪御さんに顔の確認をして貰ったそうな。子供

の頃ちらっと見ただけの叔父の顔を覚えていられたのだろうか。新し物好きな竜馬が撮らせた

という写真のお顔とは随分印象が違う。何だか、とても、立派過ぎる。死後132年経った今、

土佐随一の人気者になった坂本竜馬を余りに英雄視してはいまいか。竜馬先生、土佐の海を見

つめながら「まっこと、ここまでするこつ なかろうにぃ」とおっしゃっているような気がす

るのであった。

今の秋喜びおわすや竜馬像

秋風は自由の海へ桂浜 

坂本竜馬の銅像の後ろ姿         竜馬が見つめている桂浜前に広がる太平洋

                                おしまい

※データ/旅した日:1999年10月       書いた日:2000年1月

 

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