夢子のニッポン大好きシリーズ

長崎県に生鯖と鯨を追って

生鯖を食べに松浦市へ

 目の前に並ぶ生の鯖、鯖。この時期五島列島沖や済州島沖などで捕れた400g以上の真鯖を

「旬鯖ときさば」というらしい。生の鯖の刺身を食べる。思ったより身は柔らかく、しかし青

光りした皮と身と皮の間の脂に歯応えを感じる。うまいねぇ。次は〆鯖。ごく浅く〆てあるか

ら、生のようにも感じる。そのまま食べてもいいし、独特なタレにつけると又変わった味を楽

しめる。次は鯖のカルパッチョだ。そして鯖を燻した燻製。鯖料理の数々の合間に飲む酒は地

酒の「松浦星」だ。自己主張をせずにひたすら料理を引き立ててくれる酒。ここは長崎県の松

浦市にある「あじ彩」。10月下旬の日経新聞の夕刊に、九州では「昔からサバは生で食べるも

のだった」という記事が出ていた。刺身は「あじ彩」で食べることが出来るとあった。「食べた

い!」と思った。そして12月初旬の今、私はここにいる。

 長崎県の地形は複雑だ。県庁所在地の長崎市は県の南部にあって、更に南には橘湾を中に長

崎半島と島原半島、県の中央部には巨大な池のような形で大村湾がハバを利かせている。その

大村湾の北の端にハウステンボス。県北部は佐世保市、更に北部は佐賀県と接する東松浦半島

と北松浦半島。北松浦半島の西側に平戸島、生月島、そして壱岐島や五島列島が海に広がる。

全国で一番島が多いのは、この長崎と聞いたが、地図を見ると島だらけの県であることを改め

て感じる。さて、松浦市にはどうやって行くか。長崎空港を基点に向かうのが順当と考えがち

だが、大村湾に浮かんでいるような長崎空港から松浦市はうんと遠い。結局、福岡空港から博

多駅に出て特急で有田へ。有田から松浦鉄道に乗って伊万里に行き、そこで乗り換えて松浦駅

というコースにした。家を出てから7時間。生鯖を求めた松浦は遥か遠くだった。

 

 「あじ彩」には6時の予約をした。「東京から1人でウチの鯖食べるためだけに来られるんで

すかぁ?」と予約時の電話で女将さんらしい人に言われた。だから、店に行くと「ほら、あの

東京からの夢子さんよ」と板さんのご主人に伝えている。でも1人ではないのだ。私の松浦行

きを聞きつけた福岡在住の後輩男性達が、勝手に予約を追加して彼らも来ることになっていた。

店には地元の人が次から次へとやって来て、座敷はあっという間に満席。聞けば、鯖料理も自

慢料理だが、和・洋・中を混ぜたおまかせ料理のコースが、2千円、2千5百円、3千円、4

千円という安さなのだ。お昼も営業しているらしく、定食のメニューも数多い。さんま焼き定

食、鯖塩定食、いわしフライ定食は400円、玉子丼は380円の安さ。夜の一品料理、旬鯖の刺

身は千円、鯖の燻製は480円、カルパッチョは580円。いいねぇ、こうゆう店は。1時間遅れ

で到着した男性2人を交えて、地酒の松浦星を呆れられる位飲みながら、とても変わった豚の

角煮、特製肉味噌を乗せた豆腐のステーキなどをパクつき、最後は3種類の鯖鮨。はるばるや

って来た甲斐があった。

あじ彩外観        生の旬鯖の刺身           〆鯖

旬鯖の燻製      松浦星           3種類の鯖鮨

電車の旅は楽し

福岡空港から博多駅まで地下鉄に乗った時、気がついた。どの駅の看板にもステキなイラス

トが入っていた。以前からぼんやりとは見ていたのだが、はっきり意識はしていなかった。有

田駅から、松浦鉄道に乗りこんで、駅に着くごとにきょろきょろ見ていると、福岡の地下鉄駅

にあった駅ごとのイラストがここにもある。「夫婦石」めおといし駅は太鼓を叩く絵、「金武」

かなたけ駅は教会と信者、「川東」かわひがし駅は球場が2つ、伊万里で同じ松浦鉄道の佐世保

行きに乗り換えた次の「里」さと駅は大きな木、「鳴石」なるいし駅は海と橋、「久原」駅は

船とカモメ・・・・。こうなると、次の駅の名前とイラストが楽しみになる。いったい、駅の

イラストを何にするのかをどう決めたのだろう。私のようにジックリ見る人は少ないだろうが、

それでも住民にしてみれば、「おらが駅」の絵柄は何でも良いという訳ではないだろう。駅イメ

ージイラストを募集でもしたのだろうか。

松浦鉄道は、数年前焼き物巡りに来た時、伊万里から有田まで乗ったことがあった。有田か

ら1両編成の後ろから乗る時、番号のついたチケットを取り、降りる時は前の運転手さんの目

の前で運賃を支払うのはバスと同じ形式だ。旅の客は私だけで、買い物や通学の乗客が乗って

は降りる生活電車だ。時折林の中を走り、両脇の木々が電車のすぐ傍まで迫って、木のトンネ

ルをくぐるようで楽しい。島根の松江から出雲大社に向かう時、3回乗り換えて行ったローカ

ル線も楽しかったなぁ。博多駅からの特急も、色鮮やかなハウステンボス号と佐世保行きのみ

どり号が連結されて旅心にポッと火が灯る。九州の汽車の旅は楽しい。

「あじ彩」でさんざん飲んだ翌日は、6時に起きて7時半にはホテルを出るつもりだったの

に、起きてみたら7時半だった。「松浦星」が効き過ぎた。昨日の電車の続きとも言える「佐世

保行き」に乗ると、次の駅は「松浦発電所前」。想像せずとも絵柄は頭に浮かぶ。昨日松浦駅に

着いのは、日没まであと1時間という時刻だった。松浦には鯖を食べに来たのだが、それでも

せっかく来たのだから、松浦をぐるりと回ってみよう。駅前からたった1台停まっていたタク

シーに乗り、「初めて来たんですけど、どこでも良いから松浦ならここに案内したい、というと

ころを回ってください」と言うと、車を発車させた運転手さんの様子がどうも落ち着かない。

走っていても気もそぞろ、背中は悩みに満ちていて、正面から見たら目もウツロだったかもし

れない。ややあって

「あのぉ、松浦で見せたいとこ言われても・・・無いとよ、平戸ならある」。

 「いえね、観光名所みたいなところではなくて、魚市場とか海を見渡せる山の上とか、そう

ゆうところでいいの」

 「市場はもう閉まっておるし、山登るのは大変だし・・・・。海と原発しか無いとです。平

戸に行けばいろいろあるとです」

 「平戸は明日行くからいいの。じゃ、市場に行ってください」

 「閉まっておるとよ・・・・」

というようなことで、ちょっと前まではアジの水揚げ日本一だった西日本魚市場に行ったのだ

が、広い敷地に空っぽの駐車場があるのみで、やっぱりな〜んにも無かった。市場の隣の堤防

で写真を撮ったのみで、松浦市の観光は終了した。帰り道、心の重荷を下ろしたのか、急に口

が軽くなった運転手さんは「松浦鉄道でたびら平戸口駅まで行けば、駅前から平戸行きのバス

がバンバン出ているとです。タクシーで700円くらい」と翌日の案内までしてくれるのだった。

松浦シティホテルで降りる時「役立たずですんません」と何度も繰り返すので、悪いことして

しまったなぁ、とこちらが恐縮した。

「松浦発電所」を過ぎて、20数分で「たびら平戸口」駅に着いた。ここは日本最西端の駅。

東経129度35分、北緯33度21分。駅にはそれを自慢する看板がたくさんあった。駅前から平

戸行きのバスがバンバン出ているとタクシーの運転手さんから聞いたが、駅前からは1時間に

1本位、他は駅から徒歩10分の停留所前まで行かねばならないことがわかった。あらら。じ

ゃ、700円位と聞いたタクシーに乗ろうかと表示されている行き先別運賃を見ると、平戸橋の通

行料も入れると700円ではとても済まない。昨日「役立たず」とご自分で言ったタクシーの運

転手さんの顔を今朝思い出して、にんまりとしてしまう。

伊万里行きの松浦鉄道        松浦駅(トイレがきれい!)  松浦のイラストは何の絵かしら

松浦の海の向こうには原発が見える        日本最西端の駅「たびらひらとぐち」

平戸は博物館のような街

 目が覚めるような真っ赤な平戸橋を渡る。橋の下の青い海は、朝日を反射して鏡のようにキ

ラキラと輝いている。西海国立公園の中心地平戸。北には玄海灘、南に九十九島の絶景を擁し

ている。約7時間でこの平戸をどう回るか、たびら平戸口から乗ったタクシーの運転手さんに

相談すると(昨日の方とうって変わって)テキパキとした彼は、一番手前にはあるが、他の観

光地と少し離れた最教寺から見ていくのが一番効率的と教えてくれた。次の平戸城に行く時は、

営業所に電話すればすぐ迎えが来ますとカードも渡してくれる。ついでに平戸の観光マップも

貰った。有能だなぁ。しかも、最教寺には奥の院があって石段を登るのが大変だろうから、上

の奥の院に先に行きましょう、と目から鼻に抜けるように気がきくのだった。

最教寺。2月の節分の時には「子泣き相撲」で有名らしいが、タクシーを降りたところには、

鮮やかな朱色の三重の塔があった。大きい。地上33.5メートルで、聞けば日本で最大級の塔な

のだそうだ。西高野山・奥の院と根本大塔。九州八十八ヶ所第七十七番札所であり、九州観音

霊場第三十番札所。未だ朝が早いせいか、観光客は誰もいない。お供えのご飯を持ってやって

来た係りらしいお婆さんと目が合うと「お参りして行かれますか?」と聞かれる。そう言われ

たら入らないわけにも行かず、参拝料400円を払って塔の中へ。2層、3層に続く急な階段を

上り出すと、シャーシャーという大きな音が響いて何事かと驚いたが、それは塔内の案内のテ

ープが回っている音だった。音が割れているので、内容はほとんど理解出来なかった。最上層

に上って外廊下に出ると、平戸の街と海が一望出来て息を飲む美しさ。先程渡って来た平戸橋

もそこに見える。きれいな街だなぁ。1層に戻ると、先ほどのお婆さんから言われた。「地下に

胎蔵界巡りがありますが、行かれますか?」。行かない訳にはいかないよね。階段を下りて行く

と薄暗さがどんどん増して行く。裸電球でようやく読んだ貼り紙に「右手で壁をさわりながらお

進みください」とある。先は闇。ちょっと躊躇したが、ええい!行ってしまえ、と進み出し

た。数歩歩いたところで、完全な闇となった。もうどこにも光が無い真っ暗闇である。慌てる。

こんな暗い闇を経験したことが無い。何も聞こえない。この暗闇に私は1人で怯えながら立っ

ている。戻ろうか、それともこのまま進もうか。行こう。目を開けていてもムダなので、目を

つむることにする。右手で触る壁は左側に曲線を描くのだろうと、何となく思い込んでいた。

スタートしたところから、馬蹄型に左にカーブを続けて元に戻ると思い込んだのだ。しかし、

壁は右に曲がっているではないか。帰って来られなくなるのではと益々不安になる。そろそろ

と歩いている歩幅は、誰かが見ていたら、大笑いする程の小ささだ。寒いのに手が汗ばんでい

る。その時思い出した。ここは胎蔵界、人間が生まれる前の暗黒の世界であって、恐怖の館で

はないのだ。人間が生まれる前の世界なら、母の胎内と考えることも出来る。失って長い母の

胎内にいられるなんて嬉しい。すると急に元気が出て来て、歩幅も大きくなって来た。右手で

触る壁は更に大きく右にカーブして、やがて小さな明かりが見えた。そこにはかすかな光があ

って小さな千手観音様がいらした。お参りをしてからは、どんどん進んでスタート地点に戻っ

た。階段を上がって1層に戻ると、お婆さんが心配そうに私を待っていてくれた。「お勧めしま

したけど、よくお1人で回って来られましたねぇ。男の方でも途中で怖いって戻って来てしま

う人が多いのに、よくもねぇ。勇気のあるお方だわ」と褒めてくれた。何だか思わぬ所で勇気

があるなんて褒められて素直に嬉しい。

「奥の院」前の境内には、椿が咲き、柑橘類の実がたわわに実っている。最教寺に下りてい

く下り坂には、両脇に赤いよだれかけを掛けた小さな石仏がずらりと並び、不思議な静けさを

醸し出していた。朝日をいっぱいに浴びた石仏の表情がやさしい。

平戸橋               根本大塔        最教寺に続く階段 影は私

延々と続く石仏                         最教寺の山門

日本最初の貿易港・平戸

徳川幕府が鎖国をしている間も、長崎の出島では細々とではあるが交易をしていたことは多

くの人が知っている。しかし、出島の前に平戸が最初の貿易港だったことはあまり知られてい

ない。種子島にポルトガル人が漂着してから7年後の1550年、平戸に初めてポルトガルのド

ワルテ・デ・ガマの船が平戸に来た。領主隆信の時代で、隆信は中国との交易の経験から交易

に大いに魅力を感じ、交易と切り離せないキリスト教の布教も許可した。この時フランシスコ・

ザビエルが平戸に来ている。平戸はポルトガルから生糸や銀を買い、両者の蜜月時代は続いた

のだが、1561年言葉が通じないことから十数名の死傷者を出す事件が起きて、ポルトガル船は

大村領横瀬浦に移ってしまった。しかし横浦領でも諍いがあって、2年後再びポルトガルは平戸

に戻って来る。隆信は大いに喜んで天主堂の建設を許可し、初の教会を造らせた。しかし、ポ

ルトガルは領主自身がキリスト教に帰依しないことを不服として別の港に移り、15年間の平戸

との交易に終止符を打つ。隆信の子鎮信の時代、ポルトガル船が去って17年経ってスペイン船

が平戸に来て、鎮信もまた歓待したが、望んだ交易や布教は、スペイン艦隊がイギリス艦隊に

撃破されて急速に力を失って叶わなかった。

1600年にイギリス東インド会社設立、続く1602年、それまでの先駆的諸会社(フォールコ

ンパニーオン)を統合してオランダ東インド会社(VOC)が設立された。イギリスとオランダ

は、喜望峰から東、マゼラン海峡から西に至る地域で敵対していたポルトガルとスペインを牽

制し、香料貿易の独占状態を確立するために、現地政府との交渉権や軍事力の行使など国家機

能とほぼ同じ権限をVOCに与えた。そして1609年平戸にオランダ商館を開設した。平戸城の

展示で、当時の商館の実態を知ってたまげてしまった。平戸のオランダ商館の業務といえば、

貿易活動より海上で発見したポルトガル船や中国船などを襲撃して積んでいる荷物を奪うとい

う海賊行為が中心だったというのだ。奪った荷物を一旦平戸商館に集めて、まとまるとインド

ネシアのバタヴィアに送っていたらしい。何たることだ! 1613年にはイギリス商館も平戸に

出来たが、こちらの「お仕事」も同じようだったのだろうか。蘭英貿易のお陰で平戸は大いに

栄えた。オランダ船リーフデ号の航海長で、豊後に漂着して以来家康の信任を得て外交顧問に

なっていたイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)も平戸に来た。シャム(現タイ)か

らの帰りに暴風雨にあって琉球(沖縄)に避難したが、琉球藷を持ち帰って栽培したのが平戸

甘藷である。彼は帰国の願いも虚しく、1620年平戸に没した。しかし、この時代の徳川幕府は

揺れていた。キリスト教や外国との交易にも危惧を抱いていた。地元民と外国人の間での諍い

も数々とあった。やがてキリスト教は禁教となり、信者への弾圧が強まった。1623年イギリス

商館は閉鎖され、1637年島原の乱が起こって、幕府は一揆軍を支援したポルトガルを国外追放

する。平戸にも調査団が訪れ、オランダ商館の破壊と閉鎖を命じたことから、1641年オランダ

は長崎・出島に移ってしまった。33年間のオランダ交易が終わり、そして平戸は静かな街に戻

った。亀岡公園の平戸城で展示を読み耽りながら、1617世紀の平戸の短い栄華に思いを馳せ

た。史学科の学生だった頃、これくらい集中して資料を読んでいれば、もうちょっとまともな

卒論を書けたのに、と悔やむ。「可」だったもんなぁ。西洋人は、平戸を「フィランド」と呼ん

だという。

 

この湾に諸外国の船が行き来した               市役所の横にはイギリス商館跡がある

平戸松浦8百年

 平戸は、松浦藩の中心地だった。松浦藩主松浦氏とは? 平安時代、嵯峨天皇の第十八子「融

とほる」姓は源氏がその始祖である。左大臣で京都の嵯峨野に住んでいた。3代仕(つかう)

から武将となるが、中でも、5代渡辺綱(つな)は、大江山で酒天童子を退治し、主君源頼

光に従って、唐津付近の叛乱軍を抑えて武名を挙げる。これが松浦家の祖先が肥前の国と関係

を持つこととなる最初の出来事であった。話はそれるが、今全国に山のようにいらっしゃる「渡

辺さん」という姓は、この攝津、渡辺の地に居た渡辺の綱から全国に広まったと、何かの本に

書いてあった。渡辺さん、そうゆうことなんですってよ。閑話休題。8代久ひさしは、1069年

御厨検校(みくりやけんぎょう)として肥前国松浦に赴き、その後検非違使となって国の一部

を治めたことから、地名の「松浦まつら」を名乗ったことが松浦氏のおこりとなった。久以降

の松浦氏は、その親族を国のあちらこちらに配して族的結合を強化したが、そのカタチは共和

的合議的結合体で、これが世に「松浦党」と呼ばれるようになったのだそうな。松浦党は水軍

としても名を馳せ、元寇の役、倭寇、八幡船から恐れられたらしい。カッコいいねぇ。11代

持は、1225年に平戸の館山に城を築き、平戸松浦の礎を築いた。28代隆信、29代鎮信しげのぶ

が蘭英との交易に尽力したことは前述の通りである。鎮信はまた、山鹿素行の山鹿兵法を積極

的に取り入れたことでも知られているが、亀岡に「日の岳城」を築いたものの、豊臣秀吉と親

交が厚かった松浦家を徳川家康は疑い始め、疑いを晴らすために、この城を焼いてしまうとい

う即断実行の人でもあった。松浦家の歴史を読んで一番驚いたことは、中山忠能に嫁いだ34代

清の第11女愛子の娘慶子が、孝明天皇に仕えて、明治天皇の生母となったことである。松浦氏

は、平戸藩の茶道「鎮信流ちんしんりゅう」を皇族に伝えたともある。ふ〜ん、そうだったの

かぁ。昭和天皇のお祖母さまが、松浦出身の慶子姫なんだもんねぇ。他にも紹介したいお殿様

は何人もいらっしゃるが、明治になっての廃藩になるまで、37代一度の転封もなく、平戸松浦

800年も続けて来たって、稀なことだし凄いなぁと思うのであった。

 その歴史は、平戸城と松浦資料博物館で知ることが出来る。松浦資料博物館は、蘭英貿易時

代の藩主邸「御館」跡で、石垣と石段は当時のまま残っている。屋敷は、最後の藩主となった

37代詮あきらが藩主を降りてからの住まいで「鶴ヶ峯邸」と呼ばれていたらしい。中に入って

みると、代々受け継いで来た武具、什器、書類、美術工芸品などを展示していてなかなか面白

かった。庭内にある茶室「閑雲亭」は今も抹茶のサービスをやっているが、「鎮信流ちんしんり

ゅう」宗家・詮が設計した茶室で、台風で壊れたものを再建したもの。お茶を頂くか考えたが、

長い正座に自信が無いので、茶室には足が向かなかった。

 石垣と石段は、当時のまま。この石段をウィリアム・アダムスもオランダ商館館長も上り下りしたのだよね

キリスト教と平戸

 「寺院と教会の見える風景」と地図にある。どうも坂を上ったかなり上の方らしい。いいで

すよ、最近は健脚になりつつあるんだから、上り坂だってへいちゃらさ。と坂道を上り出した

が、結構キツイ。ゼイゼイ、それにしても○○寺、ハァハァ、○○教会ならわかるが、ゼイゼイ、

見える風景という名前は何のことだろう ハァハァ。息を切らして暫くして、その謎は一

瞬のうちに解けた。大きな寺院2つの向こうに教会の尖塔が見えたのだ。日本にはたくさんの

寺院も神社も教会もあるから、それが隣り合っていても、それほど不思議では無いが、ここの

景色は、ミスマッチな絵柄がまさに「絵」のようであり、暫し口をあんぐりとさせる。寺院は、

手前に瑞雲禅寺、その向こうに光明寺。その前を通過しても延々と石段が続いて、ようやく上

り切ったところに1931年、日本最初の天主堂があった地に建てられた平戸カトリック教会(そ

の後、聖フランシスコ・ザビエル記念堂と名称を変える)がひっそりと佇んでいた。ゼイゼイ。

     一番奥に教会の尖塔が        この石段がキツイ          

フランシスコ・ザビエル記念堂と内部         平戸殉教者の慰霊碑

 フランシスコ・ザビエルが平戸にキリスト教を伝えて以来、平戸には急速に信者が増えた。

しかし1597年、豊臣秀吉が禁教令を出したことから、殉教者が激増して平戸藩だけでも、その

数は400名を超えた。殉教しなかった信者も、隠れキリシタンとしてキリストの教えを守り抜

いた人は数多い。平戸島の丁度真中辺りにある紐差教会に行ってみたが、ロマネスク様式の真

っ白な教会の中ではミサが行われていて、今もキリスト教がしっかり根を下ろしていることを

実感した。天井画やステンドグラスが美しかった。

紐差教会                  入り口の天井画とステンドグラス  

生月鯨太左エ門の故郷

1825年、生月島に生まれた要作は、生まれつき大柄で、3歳の時その大きさを藩主に

褒められたそうな。7歳で米俵を担ぎ、本人は嫌がったものの勧められて15歳で玉垣額之助

門下となって角界へ。成人した要作は、身長7尺5寸(2m27p)、体重45貫目(180s)

と日本一の大男に成長していた。生月鯨吉と名乗り、3年後には前頭に出世したとある。しか

し、24歳の若さで病死。藩主は、その功績を称えて、死後「生月鯨太左ェ門」の名前を贈っ

た。生月鯨太左ェ門の足型が、松浦資料博物館に展示されている。傍らには彼が履いたものと

同じ大きさの下駄も。デカイ! お元気な頃のジャイアント馬場さんとお会いしたことがある

が、馬場さんが来られる30分も前から緊張してそわそわした。その馬場さんより大きい力士

が江戸時代にいたというのだ。何故鯨か? それは江戸時代に生月島は捕鯨が盛んな島だった

から。今、その生月島に鯨料理を食べるために向かっている。平戸城で資料を読み耽っている

時、携帯電話が鳴って、昔仕事をした後輩が偶然平戸に仕事に来ているという。一緒に来られ

たIさんも含めた2人と合流することになった。ゆうべもそうだったが、ずっと1人旅の筈が、

次々と2人連れの男性が現れて賑やかな旅に変わる。それも面白い。松勇商店で川内(かわち)

蒲鉾を買い、彼らに付き合って平戸の南東部の津吉町にある「日本ヒーリング科学研究所」に

見学に行ったり、平戸島で一番眺めの良い川内峠に行く間にすっかり日は落ちてしまった。1991

年に完成した平戸と結ぶ960メートルの生月大橋を渡って生月島に入った。迷いに迷いながら

今晩の宿「くらた別館」に着いたのは6時過ぎだった。

 くらた別館に着いて玄関で声を掛けても「いらっしゃいませ。さぁどうぞ、どうぞ」という

お約束の言葉が無い。言葉どころか、従業員全員が料理を持って走り回り、泊まり客の相手な

んかしてらんないよ、という感じ。忙しいから仕方ないか。「1人でもどーぞー」と予約を取

る時に電話の向こうから聞こえたのんびりした声からは、こんなに繁盛している宿は想像出来

なかった。ようやく2階に上がって、私が宿泊する部屋、3人で食事をする部屋に通されたも

のの、仲居さん達は相変わらずてんてこ舞いで急いで食事を、なんて希望は叶えて貰えそうに

無い。それ程周囲の部屋からは、大勢のお客さんの話し声、笑い声、拍手があり、楽しい宴会

の模様が聞こえて来る。くらた別館大入り満員ということだ。今日の料理は鯨料理。捕鯨が盛

んだったのは江戸時代の話だが、今でも鯨料理の伝統を生月の2軒の宿が継いでいるようだ。

料理の順番など滅茶苦茶に出て来るので、調理場も大混乱なのだろう。ようやく料理が揃って、

頂きま〜す。オバケの異名も持つさらし鯨の甘酢味噌掛け、ベーコン・尾のみ・さえずり・百

ヒロ・うね・皮鯨の刺身盛り合わせは、鯨のいろんな部分を食べることが出来て嬉しい一品だ。

今は調査捕鯨の鯨しか食べることが出来ないが、昔は豚肉や牛肉が希少で高価だったので、学

校給食には鯨を使った料理が多かったし、我が家でも鯨の皮と脂部分の塩鯨を入れた鯨汁がよ

く食卓に出た。コースの締めは、鯨の水炊き。既に1度この宿で水炊きを食べたことのある合

流男性達は鯨のすき焼。ぐつぐつと煮えるに従って、鯨の脂がダシにじんわりと流れ野菜や豆

腐を包み込む。うまい鍋だ。これから福岡まで帰るという男性軍2人を見送ったのは、午後の

10時半だったが、気がついてみると宿の中は静まり返っている。先ほどまでの賑やかさが嘘

のように静かだ。その筈で、翌朝調べてみると、泊まったのは3人だけだったのだ。あとは宴会

のために来た地元の人だったのだ。

くらた別館外観                 鯨の刺身盛り合わせ          鯨の水炊き

 早起きしてタクシーで生月島を走る。南北に約10キロ、東西で最も幅が広い所で3,8キロ

の長細い島だ。最北端の大バエ灯台。100メートルの断崖の上に無人の灯台と水原春郎氏の句碑

(渡り鳥殉教の島綴りゆく)があった。眺めは素晴らしいが容赦なく吹き付ける北西の風が冷た

く強い。句碑にあるように、生月島も隠れ切支丹の殉教の島である。ガスパル様、だんじく様

など殉教の遺跡が残っている。大バエ灯台から少し南に下った西海岸に天然記念物の塩俵の断

崖があった。5〜7角形の蜂の巣状の俵を垂直に重ねたような玄武岩が南北に500メートル

も海岸沿いに続いている。20メートルの高さの奇岩群は、海岸まで下りて眺めると凄い迫力

なのだそうだが、風がぴゅ−ぴゅ−と寒くてとてもそんな気は起きない。南の方にどんどん走

って来ると、牛があちこちに放牧されている。昨日平戸の「市山」平戸牛を食べたが、この当

たりで育てられた牛も平戸牛なのだそうだ。運転手さんに、ゆうべのくらた別館での宴会のヒ

ミツを聞いてみた。あれほど大勢の地元の人が盛大に宴会するのは何故か。「海以外に何にもな

い島だから、生月島の人間は何かと言うと酒飲みたさに宴会をやる。今は12月だから、たい

がいの人は平均10回は忘年会出て飲むのだ」と。納得。干し飛び魚のあごダシで有名という

「大氣圏」のラーメンは時間が合わずに食べることが出来なかったが、せめてと「大氣圏」前

の停留所からバスに乗って生月島とお別れした。

 大バエ灯台              塩俵の断崖                生月大橋

ハンバーガー天国佐世保

 旅の最後は長崎市に向かう予定だったのだが、九州食事情に詳しいIさんとゆうべくらた別

館で食事をしながら話を聞いて急遽佐世保に行くこととした。「状元楼」という小さな中華屋の

汁ビーフンを是非とも食べたいと思ったのだ。しかも佐世保はハンバーガーのうまい街だとも。

ハンバーガーなど普段は滅多に食べることは無いが、舌が肥えた人が勧めるのだからタダモノ

ではないのだろう。生月=平戸、平戸=佐世保とバスを乗り継いで、ようやく市役所近くの「状

元楼」を探し当てた。汁ビーフンってどんな味なんだろう。豚バラの天ぷらもうまいと言うじ

ゃないか。ふふふ。あれ?何だか様子が変。店に入ってみると、内装工事のお兄ちゃんが脚立

に登って、天井に何かをやっているところだった。「今日、お店はお休みなんですか?!」と詰

問調で問うと「さぁ・・・。工事頼まれているだけで・・・」とオロオロするのだった。ガビ

〜ン! それが食べたくて、予定を変えてここまで来たのに!でも仕方ないよな。やってない

んだもん。じゃ、ハンバーガーだ。気を取り直して「ヒカリ」に行こう。「ブルースカイ」が一

押しなのだが、午後6時からの開店ということで時間が合わない。次にうまいのが「ヒカリ」

だという。とぼとぼと歩いていると後ろから個人タクシーがやって来た。つい手を挙げて乗っ

てしまう。竹藤タクシーの竹藤登さんというお爺さん。それが半日お付き合いすることになる

とは、この時は思わなかった。

 佐世保は、世界を席巻しているMが出店したが、程なく閉鎖した日本で唯一の地だという。

それ程ハンバーガーショップが多く、どこの店も創意工夫で味を競い合っているという。汁ビ

ーフンの頭からハンバーガーに切り替わった。既に店の前には大勢の客が待っている。殆どの

人はテイクアウトらしい。店の中に入って注文。出て来たハンバーガーは見ただけではガッガ

リする。パテも薄いし、パンが大きい訳でもない。レタス、トマトを挟んでもちょっとミスボラシク

さえ感じる。それが一口噛んで、印象は大間違いだったと知る。何ともうまい。パンは

優しい味で切り口がほんのり焦げてカリカリ。レタスはしゃきしゃき。マヨネーズも存在感を

主張せずに控え目に自分の仕事をしている。パテは薄いのだが、複雑な味を醸し出して香り高

い。小さなハンバーガーが1つの世界を作っているようだ。聞けば、パンはヒカリ用に特注で

焼いて貰い、マヨネーズも自家製とか。あぁうまいなぁ。ポテトチップも、注文してから作ったアイ

スコーヒーを飲み干しても、あと3つは行ける。とは思うが、これからの食事もあるから我慢する。

ほんとに佐世保のハンバーガーはうまい!

お休みだった状元楼      これがヒカリのハンバーガー     ヒカリの外観

ビュースポットだらけの佐世保

 竹藤タクシーの竹藤登さんの車に乗って佐世保で見晴らしの良い場所を回ることになった。

この竹藤さん、趣味がクラッシック音楽とカメラということで、話が合うのだ。一眼レフのカ

メラを個人タクシーに積んでいるから、2人で撮影大会のようなことになった。先ずは361mの

弓張岳展望台。一緒に車を降りて、2人ともカメラを手に持ち、竹藤さんの観光案内を聞きな

がら、展望台を登って行く。あちらが○○、こちらが××と説明が詳しくて有難い。この辺で

は一番高い場所なので見渡せるメリットは大きいが、景色が遠いのが難なのだそうだ。「さぁ、

次は石岳展望台に行きましょう。あそこは良いですよ」と張り切っておられる。一眼レフを何

台かもっているが、デジカメも買いたい。しかし昨今は個人タクシーの売上げが厳しく、奥さ

んの目が怖くて買えないのだそうだ。デジカメを買えば、パソコンも欲しくなるし、今は我慢

なのだと切なそうな声だ。石岳展望台は、亜熱帯動植物園の上にあり、車を降りてから展望台

まではかなり徒歩で登っていくしかない。細い道を重い撮影機材を担いだ人達が何人も続く。

何があるのだろうと思ったら、撮影のポイントとして素人カメラマンの集まるポイントなのだ

と言う。竹藤さんは、あの湾の航跡を狙うと良い、とかデジカメのサイズを大きくして撮った

らどうか、と撮影指導までしてくれて、ご自分も撮影に忙しいのだった。偶然知り合った方だ

が、今度佐世保に来ることになったら、竹藤さんの車を1日予約して一緒に旅したら楽しいだ

ろうなぁ。その彼とももう一箇所の撮影ポイントに行ってから清岩寺まで送って貰ってお別れ

した。

撮影指導を頂いて撮った佐世保の風景

撮影に夢中の竹藤さん

長崎の猫事情

 清岩寺は、地元では福石観音として知られている。観音堂で観音様にお参りしてから、左手

の石段を登ってみた。息が切れた頃、裏山に続く細い道があり、ぐるっと回ると今度は下る急

な階段。途中で五百羅漢の表示があったから信じて行く気になったが、ここで襲われても誰に

も発見されないような所に来てしまい不安でならない。周囲も鬱蒼とした林の中で薄暗い。そ

んな不気味な雰囲気の中で崖の窪みのような場所に小さな石像がズラリと並んでいた。小さい

という以外、並び方も大きさもバラバラな羅漢。弘法大師が安置したと伝えられるらしいが、

人々から忘れ去られたような五百羅漢は寂しそうだった。

 駅の近くの店で皿うどんを食べる。店の隅の椅子で真っ白な猫が寝ている。触っても起きな

い。無理やり起こしてカメラを顔に近づけてもじっとしている。人間を怖からない。店の人に

聞くと、元はノラだったが店に居付くようになってミーちゃんと呼ばれているとか。そういえ

ば、松浦駅前にいた猫も、私が歩きを止めると、足に身を摺り寄せて甘えた。知らない人間で

も警戒しない。遊んでと誘っている。平戸のオランダ橋の袂にいたノラ猫2匹は、ニャゴニャ

ゴと鳴いて甘え、地面にごろごろ転がって腹を見せ、またニャゴニャゴと擦り寄って来る。い

つまでも2匹と遊んでいる訳にも行かず、歩き始めるとニャゴニャゴ鳴きながら追って来るの

である。う〜ん、一緒に連れて行きたい! 平戸大橋を渡った公園にいたノラだけ、近づこう

とすると身構えるという普通の猫だったが、あとの猫は警戒心ゼロ。人間にイジメられたこと

が無ければ、猫はこうはならない。これは8ヶ月前に行ったモロッコの猫とそっくりの状態だ。

モロッコと長崎。猫だけが共通項なのだろうか。長崎は奥深い。

清岩寺の五百羅漢          笑ちゃん亭のみーちゃん        聖心天主堂

                                              おしまい

データ:旅した日/2001年12月

行程:

1日目 羽田=福岡空港、空港=地下鉄=博多駅、博多=特急みどり13号=有田(2980円)、

有田=松浦鉄道=伊万里(400円)、伊万里=松浦鉄道=松浦(580円)、松浦=タクシー=市内

1740円)、松浦シティホテルチェックイン(0956−72−5000)、「あじ彩」(0956−72−2995)

夕食、宿泊

2日目 松浦シティホテル朝食、チェックアウト1泊2食付き8085円(カード不可)、松浦駅=

松浦鉄道=たびら平戸口=タクシー=(1760円)平戸市最教寺・奥の院、最教寺=タクシー=平

戸城=徒歩=オランダ橋=昼食 平戸牛焼肉レストラン「市山」(0956−22−2439)、寺院と教

会の見える風景=徒歩=松浦資料博物館=土産屋「婆沙羅」(名産品をどっさり買って宅配便で

自宅へ送る 買い物額内緒) 2人と合流=車=川内(川内蒲鉾購入)=津吉町「日本ヒーリン

グ科学研究所」見学=車=紐差カトリック教会=車=川内峠=車=生月島・「くらた別館」(0950

53−1520)1泊2食1万円

3日目 くらた別館朝食チェックアウト=タクシー=大バエ灯台=塩俵断崖=大氣圏(タクシー

5630円)=バス=平戸桟橋(680円)=高速バス=佐世保(1300円)、状元楼=タクシー600円=

ヒカリ=個人タクシー(竹藤タクシー090-8914-0559)=弓張岳=石岳展望台=西海パール・シー・

リゾート=清岩寺(5159円)=徒歩=佐世保駅前=笑ちゃん亭 食事=徒歩=聖心天主堂=佐

世保バスセンター=高速バス=長崎空港(1350円)=羽田空港 

 

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