夢子のニッポン大好きシリーズ  

豊の国大分サンライズ     

まずは宇佐八幡宮にご挨拶 

 大分空港から中津行きのバスに乗る。国東半島を横切る形で走って1時間余、宇佐八幡前に着

いた。長い参道沿いの門前町を歩きかけると、一番手前の店のおばさんが声を掛けてくれる。「あ

っこまで往復したら小1時間かかるでなぁ、そんな大荷物じゃ大変じゃろ。預かろ思ったんよ」。

いきなり人懐かしいおばさんの声に誘われて「八幡茶屋」に入る。もう午後1時近い。ついでに

昼食も済ませよう。メニューは普通の大衆食堂のそれだが、見つけたぞ。大好物のだんご汁の定

食。自分で作るだんご汁に比べると具が少ないが、鉄鍋に入ってぐずぐずと熱い湯気を立ててい

る。揚げたての天麩羅と酢の物もついて1050円。腹こしらえをし、荷物も預けて、いざ出発。

表参道   宝物館

 宇佐八幡宮は全国4万社以上あるという八幡宮の総本社。「裏の八幡さまにお願いして」なん

て庶民が昔からお参りしている八幡宮の大ボスです。だから最初にご挨拶。さすが総本社という

だけあって敷地も15万uととてつもなく広く、その敷地に上宮、下宮、頓宮、春宮、若宮等7

摂社と宝物館、霊水が涌くという菱形池などが数多い樹木と共に美しく配置されている。何より

色彩が実に美しい。落書きが全く無い真っ白な白壁、丹塗り(朱塗り)の柱、桧皮葺(ひわだぶ

き)の屋根、均整のとれた八幡造りの社殿が色鮮やかで目に美しい。上宮、下宮とも3棟接し

ていて左から第一殿、第二殿、第三殿となり、信心深い善男善女は第一殿から順番にお参りする。

よって浄財のお賽銭も3倍かかる。お参りする時は、二礼、四拍手、一礼の古式で、出雲大社

も同じ作法だったと記憶している。立派な上宮に対して下宮は位置に恵まれず、訪れる人が少な

い。私は行ったが、お守りや御神籤を売る社務所のようなところの担当の女性は暇過ぎるのか、

こっくりされていた。境内の看板にも「下宮参らにゃ片参りと昔から言い伝えられ・・・」とい

った文章が記載されているのだが、その看板自体を読まないのだから効果は知れているわね。

西大門               上宮本殿(左から第一殿、第二殿、第三殿)

 上宮本殿の第一殿が作られたのが725年(神亀2年)で、729年(天平元年)に第二殿、そ

して823年(弘仁14年)に第三殿が完成した。鎌倉初期時代までは33年毎に新しく造り直し

ていたらしいけど、何せお金がかかるから無理になって、現在の建物は1855年〜1861年に出

来たものだそうよ。さて、そもそも宇佐八幡宮はどうやって出来たのか。どなたを祀っているの

か。神橋手前の大鳥居の脇に表示されている「宇佐神宮御由緒」に寄ると、応神天皇の御神霊が

宇佐の地に八幡神として現われ、宇佐の各地を廻られて後725年一之御殿に鎮座された。729

年に比売大神を二之御殿に迎え、823年に神托によって神功皇后が三之御殿にご御鎮祭された、

んだって。しかし風土記の丘にある歴史博物館の展示や『大分県の歴史散歩』(山川出版社)を

読むと、諸説紹介されていて私の頭は大混乱。曰く、僧法蓮が朝廷に医術の功績として豊前に野

を与えられ、後に親族に宇佐君の姓(かばね)を賜り725年に宇佐八幡に祀られた説。曰く、

豊前国に勢力を張っていた帰化人秦氏の氏神である「弥秦いやはたの神」→八幡やはたの神に転

じた説、曰く、邪馬台国宇佐説から(境内にある亀山社のある)亀山は卑弥呼の古墳説、曰く卑

弥呼=神功皇后は同一人物説・・・・・・。ここまで来たら、もうわからんです。ここは一旦「宇

佐神宮御由緒」の通りということにいたしやしょう。

それはともかく、辛島氏と大神氏に祀られていた原始神の「ヤハタの神」八幡神は、ある時か

ら積極経営に乗り出し、朝廷との結びつきを強固にしていく。720年、大和朝廷が隼人服属に

乗り出すと「神軍」として参戦し、守護神と崇められる。その後東大寺の大仏建立の援助もし

て朝廷の信頼を得、一地方の神から「国家の守護神」の座を勝ち得て行くのだった。大出世。

因みに当時の記録では大和朝廷に従った豊の国の族長は「彦」とか「媛」と記されているのに、

反抗した人物は「土蜘蛛」と書かれているんだって。はっきりしているなぁ。ツチグモよ。更

には仏教とも親交を結んで神仏混コウの先駆けとなる。で、八幡の神を言うのに「八幡大菩薩」

という仏の尊称を朝廷から授かるのだ。今は無いが神宮寺の弥勒寺がかつては境内にあり、平

安期には九州一の荘園領主としても権勢を誇ったとか。信条などに拘らない柔軟思想で勢力を

拡大。う〜ん、凄い。そんなヤリテの宇佐八幡宮なのだが、境内は清々しさも溢れていて気持

ちよく歩く。大社見学の帰りは脇参道を歩いて呉橋を見よう。アメリカの屋根つきの橋で中年

の男女がどうしたこうしたという小説が大ヒットして映画化されたこともあったが、呉橋も屋

根つきの橋。それは美しい橋なのだった

寄藻川にかかる鮮やかな呉橋  鍵がかかっていて通ることは出来ない

           冬空に丹満開の宇佐大社

あしびきの両子寺に行く

今回の旅は国東半島を中心に廻るつもりだ。しかし、この魅力溢れる半島は極めて交通の便が

悪い。車で走る人なら良いのだろうが、免許を持たない私はレンタカーという訳にもいかない。

明日の予定コースになく、諦めようと思っていた両子寺(ふたごじ)にどうしても行きたくなる。

綿密に立てて来た今日の予定を変更し、タクシーに乗る。

大分県全体は、人間が後手をついて座り、足を豊後水道に浸しているようなカタチなのだが、

国東半島はちょうどヒトの頭部に当たる。半島の真ん中に聳える最高峰の両子山(711m)か

らチーズケーキのように放射状に山稜と谷が流れ出ているが、半島は大化改新で来縄(くなわ)、

伊美、田染(たしぶ)、国前(くにさき)、武蔵、安岐の六郷に分かれた。この六郷に宇佐八幡宮

の化身・聖僧仁聞菩薩(にんもんぼさつ)によって創設されたというのが通称「六郷満山」。本

山(もとやま)、中山(なかやま)、末山(すえやま)の三山に分かれ、神である宇佐八幡と仏の

仁聞菩薩が結合した神仏習合の独特の宗教となった。本山本寺は宇佐八幡に近い8寺で学僧の養

成と統率の役割を担い、国東半島の中心部の10寺を中山本寺として山岳修練の行の実践、半島

東部の10寺は末山本寺で在家の大衆と接しつつ修行することがそれぞれの職務であった。計2

8寺は法華経28品と同じ数だが、その後各本寺が末寺を作り、そのうち有力な寺37寺を選ん

で合計65ヶ寺となったそうよ。12世紀の初め、比叡山の末寺として六郷山寺院となったが、

一旦衰退し、13世紀の前半鎌倉幕府の祈祷所として組織を強化していく。筆頭・六郷山別当の

次に執行がいて、本山・中山・末山のそれぞれ権別当、そしてその下に各寺の院当といった六郷

満山独特の組織が作られていく。

しかし、良い時代は続かないことが常で、中世、支配した武士達は、寺領や院主職まで奪い取

って私物化していき、戦国時代の乱は寺を破壊し、更にお殿様の大友宗麟がキリシタンになっち

ゃったので圧迫されて弱体化の一途を辿る。が、捨てる神あれば救う神ありということで、江戸

時代になると新たな藩主が保護政策に乗り出し、次々と再建したというからほっとする。しかし

だ、時が流れて明治政府となると、あっと驚く「神仏分離」、「廃仏毀釈」の方針が打ち出され、

神仏習合の六郷満山はまたまた危機に陥る。両方ご本尊の神と仏を別の場所に移転するなど苦肉

の策を強いられた。両子寺の鳥居も村人が大挙して押し寄せて壊してしまったとか。が、やがて

ヒステリックな廃仏毀釈も下火になって徐々に元の姿に戻ったらしいのです。両子寺は、江戸時

代初期、それまでの長安寺に代わって、六郷満山の中心的な地位を果たした。その両子寺にどう

しても行きたい。

大分県のカタチ 拡大図・赤い点線は今回辿った道             

タクシーの運転手さんに「両子寺までどの位かかりますかしらね」と問うと、遥か向こうに見

える山々を指し「ずっと向こうに八面体の山が見えますね、その奥に見えるのが両子山、その

中腹に寺はあります。ま、40分くらいでしょう」と。都心の40分など渋滞を考えれば大し

たことは無いが、ぶんぶん車を飛ばせるこの地で40分とは。ヒトの襟足当たりの宇佐からこめ

かみ当たりの両子寺まで行くのだから仕方ないか。この運転手さん、極めて寡黙で時々口を開い

ても正面を見据えたままホソボソ言うので、半分以上聞き取れない。得意な「タクシー運転手重

要情報入手テク」は両子寺往復ドライブではうまく機能しなかった。遥か遠くに見えた山々が近

づいて、やがて山道に入る。道幅が狭くてカーブの連続だから後部座席にいても緊張する。そん

な時は寡黙の運転手さんが口もきかずに集中しているようで好もしい。鬱蒼とした山道なのに、

何箇所かで工事をしており、交通不便な半島の道路整備をしているのだとか。ちょうど40分で

両子寺に着いた。車のための迂回路が本堂のすぐ下まで続いていて、運転手さんはそこで待つと

いう。愛想もない人だが、山門を前に写真を撮ってくれるという。ただしデジカメ初めてとかで、

シャッターを押すまで時間がかかった。両子寺に来たかったのは、その参道の写真を見たからだ。

両脇に仁王像が控え、苔むした石段が続くその絵柄は何とも魅力的だった。写真の風景が今、目

の前にある。ただ写真には写っていなかった太鼓型の小さな無明橋の赤が意外で、しかししっく

りと合っている。無明橋(むみょうばし)の「無明」とは、修行を妨げる煩悩のことで、そんな

ものは橋を渡りながら捨てるのよ、とここにあるらしい。私も渡ったが捨てられなかった。見事

なボディバランスの2人の仁王様はほんとに力強い。長い時と共に磨耗した苔の石段を登ってい

くとさっぱりした山門がある。草葺きで「総合門」と言うそうで、六郷満山の最古の建造物なの

だそう。そこを過ぎるとなだらかな参道となり、両脇に木々が美しい。

     

赤い欄干の無明橋   左の仁王  見事でしょ、この参道  右の仁王

足曳山両子寺(ふたごじ)、六郷満山中山本寺。天台宗、本尊は千手観世音菩薩。印象深い長

い参道を登り切ると、左手に本堂のある高台がある。石段を登ると、あっさりとした護摩堂があ

った。両子寺(ふたごじ)というだけあって、昔から「子授けの寺」として熱心な信仰を集めて

来た。子授け祈願の手順を調べてみたが、何だか大変な作業をするように思えて、現代の夫婦が

やれるだろうかと、ふと心配になった。参道には梅がちらほらと咲いていたが、新緑の頃、紅葉

の頃は目にも鮮やかな両子寺になると言う。

             両子寺や仁王護りて冬籠もり

宇佐風土記の丘と歴史博物館

 復路、今晩の宿「かんぽの郷宇佐」にほど近い風土記の丘にある歴史博物館までタクシーで行

く。ちょっとチップも入れて1万3千円。高くついたが、あの両子寺の参道を歩けたのだから良

しとする。行き帰りの車窓を見ていて、あることに気がつく。国東半島の山々は何と個性的なこ

とか。広々とした田園の向こうにポコンとした山一つあったり、中国の桂林の山々にそっくりの

岩山があったり。こうゆうのを奇峯とか怪石とか言うそうだが、両子寺から下ってきたところに

並石ダムがあり、そこからの山々の景観が素晴らしい。展望台と共に「グリーンランドこっとん

村」もある。こっとん村というから綿製品を自慢にしているのかと思ったら、水車小屋が見えて、

どうも『百舌が枯れ木で鳴いている』の歌詞「♪コットン水車が回わってる」の水車が売りみた

い。写真を撮って貰いながら、寡黙運転手さんに向こうに見える山の名前を聞いたが、知らぬの

かモゴモゴ言っていて聞き取れない。地図から見ると尻付山、ハジカミ山、黒木山のような気も

するが、わからずじまい。寡黙な上に商売っけもない運転手さんは、私が「せっかくここまで来

たのだから文殊仙寺とか岩戸寺にも行ってみたいな」と誘っても「道がわからん」とか「専門の

もんが今日は休みだ」とかやる気に欠ける答えばかりするのだった。正直でいいけどね。                                        

閑話休題。歴史博物館は午後5時閉館だが、ラスト入場は4時半まで。入ったのが4時過ぎだ

ったから1時間足らずで回らなくては。若い頃はこういった所の展示は、じっくり見ることもな

く、真ん中をスタスタ通り過ぎるだけだった。まことに豚に真珠だったのだ。閉館時間が迫って

いるせいか、館内には私以外見学者はいない。館内に入ってまずびっくりしたのは、正面に実物

大の熊野磨涯仏のレプリカがどんとあってお迎え頂いたことだ。熊野磨涯仏は明日行くつもりだ

が、自然の景観ではなく、こうした人工の建造物の中にあると大きさがいや増す。左手に本地仏

の不動明王、右手に大日如来。不動明王は熊野修験道、大日如来は新仏教であった天台宗の仏さ

ま。大日如来が不動明王より小さく作られているのは、新しい天台宗の慮り(おもんぱかり)で

はなかったか、と解説があった。なるほどなぁ。やはり明日行く富貴寺の展示も素晴らしい。実

物大の大堂と堂内がそっくり復元されていた。資料には、実物の堂内の壁画は剥げ落ちてほとん

ど見ることが出来ないとあったが、ここでは最初に完成した時の美しい壁画を再現されている。

明日のために、今日ここに来たことは大正解であった。予習の大事さを知る。なんて子供の頃の

私にも言ってよ、なんてね。博物館を出る前に資料を買った。『国東半島紀行 六郷満山物語』

(中谷都志郎 文/写真 大分合同新聞社発行・2800円)。素晴らしい写真と文章で構成さ

れ、その晩宿で読み耽って「国東半島に何度も来よう!」と決心したのだった。土地の人は国東

くにさきを「くにざき」と呼ぶらしい。

大分県立歴史博物館は、駅館川(やっかんがわ)の上の台地に出来た史跡公園の風土記の丘に

ある。赤塚古墳など3世紀の頃の国造(くにつくり)の首長の古墳が6基ある20ヘクタール近

くの広々とした風土記の丘。赤塚古墳から出土された魏鏡は、邪馬台国の卑弥呼が魏王から貰っ

た鏡と同じ種類とかで、宇佐邪馬台国説も俄然、信憑性を帯びて来る。しかし、私にとって真実

はどっちゃでもよろしい。この遥かに広がる台地に古代のロマンを想像するだけで楽しいから。

           静けさや古墳の丘に冬茜

          宇佐の郷古代の冬に思い馳せ           

 

六郷満山寺巡り

2日目の朝、かんぽの郷宇佐にタクシーを呼んで宇佐駅に向かう。昨日から宇佐にいて駅に行

くのは初めてだ。約1700円もかかって到着した宇佐駅は閑散としていて、客待ち顔のタクシ

ーが数台いるだけ。観光案内所に行く。2日目の予定を少し変えようと昨夜思いつき、そのこと

を相談しようと思う。あまり客が来ないのか、小さな建物に余り愛想の良くないご婦人がいた。

しかし口こそ重いが、必要なことはテキパキと調べてくれ教えてくれてとても助かった。東京で

いくら綿密に調べて来ても、現地でなければわからないこともある。「1人で旅をするのでいつ

もあちこちの観光案内所に助けて貰っているんですよ。有難いです」とお礼を言うと、そのご婦

人にゆっくりと笑みが浮かんだ。

10時20分発の高田観光バスのミニ周遊バス。豊後高田を経由して富貴寺〜真木大堂〜熊野

磨涯仏をまわって、3時間半でまた宇佐駅に戻る。つまり生活の路線バスと観光バスが同居して

いるスグレモノのバスなのだ。11時20分発、12時20分発と1日3便ある。しかも富貴寺

では25分、真木大堂では20分停車する。スンバラシイ!しかし熊野磨涯仏では停車時間が少

ないから、磨涯仏を見るなら、1番バスに乗って行き、1時間後の2番バスに拾って貰えばよろ

しい。でも、3番バスだともう後が無いけどね。途中までは、もうしょっちゅう停まっては客を

乗せては降ろしで忙しそうだったが、いつの間に乗客は2人きりとなった。富貴寺の近くにな

ると、先ほどまで「次は○○です」と事務的だったテープのアナウンスが急に「ここぉ富貴寺は

蕗(ふき)の山里にぃ・・・・・」と観光ガイド風の口調に変わる。これも親切。そこでバスは

急停車する。熊野磨涯仏付き元宮磨涯仏があった。運転手さんが「写真撮りますかぁ?」とのん

びり問う。車内から写真を撮ろうと思ったら「構わないから、外行って」と、運転手さんも親切

なのだ。小さくて彫りも浅いので、印象は薄い。やがて富貴寺に着く。25分の停車。

蓮華山富貴寺、六郷満山本山末寺、本尊阿弥陀如来。急な石の階段を登っていくとここもまた

紅梅が咲き、のどかな山里の風景に彩りを添えている。そして階段を登り切ると、小ぶりながら

実に均整のとれた美しい大堂が目に飛び込んで来る。正面の扉は閉じられ、風雨にさらされた九

州最古の木造建築の大堂だが、う〜ん、実に美しい。国宝だもんなぁ。宇治平等院の鳳凰堂、平

泉の中尊寺金色堂と並んで日本三大阿弥陀堂なんですって。ここ蕗の里は榧の木が多い土地なの

だそうだが、阿弥陀如来も大堂も榧の木で造られている。大堂の前で靴を脱いで、外陣の左側か

らそっと堂内に入る。薄暗く空気までひんやりした感じ。昨日歴史博物館で見た金銀や朱青など

に溢れた色鮮やかな華々しい昔の姿はどこにもない。それがこの苦難に満ちた経歴のある寺には

ふさわしい気もする。阿弥陀如来の後方に描かれていた壁画は、平安時代の仏閣に残されたもの

は珍しいのだそう。これも日本三壁画だったが、今や野ざらしにされた悲しい時代に雨露に当た

って見るかげもない。よ〜く見ると、昨日見た残像があるからか、うっすらと一部がわかる程度。

大友の兵乱で大破し、17世紀後半、明治の末に大修理をして修復したら、太平洋戦争でアメリ

カの空爆で又もや大破してしまった。何て運が無いのだろ。でも、終戦後に国と大分県の努力で

蘇り、昭和27年に大堂が国宝に指定された。ご本尊の阿弥陀如来の穏やかなお顔を拝見すると、

そんな悲劇に何度も遭ったとは信じられない程、静かに澄んだ表情なのである。

   

堂内から外陣を回ると、大堂の周囲にたくさんの石造物があることに気がついた。早速庭に降

りて、じっくり観察。いやいや、何て良いお顔だろう。特に小さな十王像の魅力的なお顔に強く

引き付けられる。閻魔さまを真ん中にして並ぶ十王とは、極楽行きか地獄行きかを決める冥土の

裁判官なのだそうだ。十王さまのお顔、好きです。ゴマすりでなく。

早梅や静かにおわす富貴の寺

奪衣婆座像

国宝富貴寺大堂                            

寺を失った9つの仏さま

良いお寺だったなぁ、今度は紅葉の秋に是非来たいと富貴寺を心に刻んで真木大堂に向かう。

真木大堂の元の寺「馬城山 伝乗寺」は今はない。今どころか伝乗寺の名前は鎌倉初期の記録に

は既に消えてしまっていたそうだ。かつては本山本寺の一つで長講院の役割を担った伝乗寺が消

えた。その理由を渡辺克巳氏は、その著書『国東古寺巡礼』の中で「六郷満山の主力であった「本

山八カ寺」は、伝乗寺をはじめとして、ほとんど廃寺または無住の寺となり果て、往年の姿はな

い。それは、これらの寺院が、奈良時代の開基といわれるものもあるほど、六郷山中最も古かっ

たということと、学問、修業の寺であって、信徒の大衆と接することがなかった大寺であったた

めに、宇佐八幡宮のような強大な支持者が弱体化すると、支えるものがなく、たちまち崩壊せざ

るを得なかったからだ」と見解を述べている。こうして伝乗寺は無くなってしまったのだが、伝

乗寺の立派な仏像は現在もある。真木村の村人達が大堂に大切に保管し続け、今に伝えているか

ら。頭の下がる話だね。中に入ってびっくりした。ほんとに立派な仏像が9尊も守られているの

ですよ。阿弥陀如来座像(木造)、四天王像(木造)、大威徳明王(木造)、不動明王と二童子立

像と合わせて9尊。中でも大威徳明王は、大憤怒の大変なお怒りのご様子で、しかも牛に跨って

いらっしゃるお姿が印象的だった。当然撮影禁止なので、パンフレットの表紙だけでも。他の全

部お姿をお見せできず残念。

真木大堂   大威徳明王 真木村はのどか

           春待つや仏を守る真木の里

大汗かいて熊野磨涯仏

高田観光バスミニ周遊バス・観光の部最後の目的地熊野磨涯仏へ。真木大堂からすぐだ。とて

も気さくで楽しい運転手さんだったから、事前に磨涯仏で降りてからバスを利用しないことをお

伝えした。ここまでで千円。安い。重いリュックをしょって歩き出すが、すぐにかなりの坂道が

あり汗をかき始める。おっさ、おっさ。とにかくお店で荷物を預かって貰わねば。しばらく歩く

と、向こうでカメラを構えている中年の女性がいる。撮影の邪魔になっていると思い道の脇に避

けると、大きな声で「あなたさんが写った方がええでなぁ、もっと道の真ん中歩いて」と意外な

発言。旅行者のようでもないし、不思議な人だと思ったら、坂上のお茶屋のおばちゃんだったの

だ。ミニ周遊バスの到着時間に合わせてカメラを構えるという、彼女なりの集客策らしいと気が

ついたが、とても感じの良い人だったのでお勧めに従って店に行く。店にはもう1人、タイプ

は違うが親切そうなご婦人もいて、さぁ荷物を下ろしなさい、1時間後のバスに乗るなら時間は

十分だ、お茶を飲んでから行けとか、マメマメシク私の世話を焼いてくれる。磨涯仏見学後はバ

スでなくタクシーで杵築に行くと言うと、どこのタクシーを呼んだら料金が安くつくかと2

で熱心に考えてくれる。予約の電話もしてくれると言う。何という親切な人たちなのだろう。店

の前には古いものだが、子供用から成人男女用のズック(スニーカーではなく、あくまでの昔の

ズック)が並べられ、激しい坂道を歩く靴の準備が無い人のために用意しているのだ。話はヨコ

にそれるが、大分県の2泊3日で会話を交わした人々を思い返して1つの傾向に気がついた。結

論から言うと「男は欲がなくボーッとしている」、「女はほぼ例外なく積極的で働き者でどこまで

も親切」。男6、女8という恥ずかしい少ないサンプル数だが、きっとそうに違いないと信じ込

んでしまった。大分県は女性で持っている、と。熊野に戻ろう。

熊野磨涯仏に向かう前に、すぐそこにある胎蔵寺に行くべきだったのだが、時間も無いのでパ

スしてしまったことが悔やまれる。胎蔵寺は、先ほど行った真木大堂の元々のお寺・伝乗寺の末

寺であったが、12世紀に紀州(和歌山)の熊野権現を崇める修験と組んで独自道を歩いて来た。

どうして熊野権現か。平安時代に歴代天皇・上皇がせっせと熊野詣をしたことは知っている。後

白川上皇が31回、後鳥羽上皇は28回。新幹線や車で行った訳ではないので、その当時の行幸

は大変だったと思う。でも事実、やんごとないおん方々は、とんでもない回数の熊野詣をしたの

ですよ。宇佐は朝廷と深い繋がりがあったから、ここに熊野の影響があったというのも、それほ

ど不思議な話しではないのかもしれない。    

磨涯仏への道の最初に料金所があって200円払う。入山料ともいえるし、借杖代とも言える。

そう、杖「必携」なのだ。お茶屋の親切なおばちゃん2人も「そりゃ杖はいるじゃろ」と口を

揃えるし、料金所のお爺さんも「必ず持って行った方がいい」ときっぱり言う。そんなに薦める

のなら、と1本借りた。いきなりの急坂。北アルプスの麓で育ったから、子供の頃は山歩きなど

へっちゃらだったのに、体重の増加と共に、加齢と共に階段を上がるのさえツラクなった。それ

でも4ヶ月前からヘルスクラブに再度入会して水泳など始めたから最悪の時よりは心の臓は強

くなったか。いやいや、息が苦しい。難行苦行、難行苦行。大分登ったところで、坂を下りて来

る人に出会った。もうちょっと行けば「最後の石の坂」があるから、という言葉に励まされる。

「最後の石の坂」を目標に登り切って、それを目の前にして愕然とした。ゲ〜〜〜!!! やめ

てくれ〜。傍に誰かいたら、私の目が少し前に飛び出たことを目撃したのではないか。最後は最

後でも、とんでもない石の坂が私の目の前に立ちはだかる。鬼が一晩で築いたという乱積みの石

段。あぁ。溜息ついて汗垂れて。

しかし、この石段を登らねば、熊野磨涯仏を見ることは出来ない。山形・立石寺に行った時も、

昨年琴平さまに行った時も、ハナから石段を全部登る気はなかった。イヤになったら止めればい

い。で、半分も登らずに引き返した。しかし今日はここで諦めたら、来た甲斐がないのだ、完遂

が義務づけられる気持ちの重さ。あぁ、ようやく決心をして登り出す。細かく書くとまたあのツ

ラサを思い出すので、写真だけをお見せします。

 

杖を借ります  鬼の石段前の坂道   あぁ・・     うぅ・・

ただただ足元の石を見つめて、次は右足をあそこへ、そして左足はここへ、と神経を集中させ

る。かなり登ったと思っても後ろを、下を振り向いてはいけない。怖くなるし、イヤになるから。

決して後ろを向いてはならない。「黒いオルフェ」みたいだね。じっと見つめる石にぽたぽたと

汗が落ちる。ようやく、ここで良いだろうと上体を起こして後ろというか下を振返ってみた。や

やや、もう三分の二は来たぞ。しかし、上体のバランスを崩したらたちまち転げ落ちそうな危う

さだ。さぁもうすぐだ。あの石段の頂上まで・・・・・。ふと左下の方でヒトの話声が聞こえた。

え、何? 我に返って左下を見ると、何と熊野磨涯仏を通り過ぎてしまったことに気がついた。

それほど集中していた。帰ってお茶屋のおばちゃんに話したら「そうなん。でも気がついたから

ええじゃわ。いつだったかいなぁ、一番上まで行って帰って来ちょったお客さんが、行きも帰り

も磨涯仏に気がつかんで下りて来てしもうてなぁ、そんなお人もおるんよ。仏さんはおらんかっ

た言いよるんよ」。100段あると言われる〔絶対もっとあるよ〕鬼の坂の88段目くらいかし

ら。左手に突然平地が開けて、そのとっつきの30メートルの岩壁に磨涯仏があるのだった。

 

左手不動明王、右手に大日如来が見えますか?

 左手に8メートルの不動明王、右手に7メートルの大日如来。不動明王は熊野修験道、大日如

来は新仏教であった天台宗の仏さま。たった1メートルの差なのに、離れているせいか不動明王

の大きさがやけに目立つ。昨日の博物館の推理通り、新宗教の遠慮なんですかね。でも、どち

らもとても良いお顔で、長々と見つめているうちに汗が引いていく。あら? どこかで石を彫る

音が聞こえる。そんな筈はないから何度も耳を澄ます。やっぱり聞こえる。啄木鳥のような鳥が

木をつついていたのだろうか。何だろう。結局、音の正体はわからなかったが、お誂えむきの効

果音であったことは確かだ。

          冬尽きて鬼の石段汗の落つ

 磨涯仏石彫る音や冬日陰

 石段の下りこそ、借りた杖が大いに役立った。杖が無ければ下りられなかったかもしれない。鬼石段

の逸話はいろんな解説書やガイドブックにも出てくるが、この日の午後遅く、別府北浜から乗ったタクシ

ーの運転手さんの話し方が面白かったので、その口調で紹介する。今下りている鬼の階段の建設物語

である。「昔々、ある里にヒトを食べる鬼が住んでいたそうな。その里は豊かな里で村人は皆ぷくぷくと肥

えていたそうな。ある時、その里の山にエライお坊様が来た。鬼も畏れるエライお坊さんだったそうな。以

来、お坊さん怖さにヒトを食べられない鬼が腹を空かし、思い切ってお坊さんに頼みごとをしたんだと。

「腹が減って死にそうです。お願いですから、丸々太った村人を1人で結構ですから食べさせてくだせ

い」。何度も何度も嘆願に来る鬼が煩くなって、お坊さまは条件を出すことにしたそうな。「鬼よ、それで

は麓から熊野社までたった一晩で石の階段を造れ。夜が明ける前に百段の階段を造ったら、望みの肥

えた村人を1人だけ食べても良い。しかし石段がたった一段でも欠けたら、ただちにここを去れ」。お坊

さまは、こんな急な坂に石段を築くのは到底無理だと踏んで、始めから無理な注文をしたのだった。しか

し、それを聞いた鬼の一族は、喜び勇んで自然石を運んでは積み上げ、狂ったように働き出した。夜明

けも真近になった頃、お坊さまは上の熊野社から下を見下ろして驚愕した。鬼一族の必死の労働で、石

段は見事に築かれ、もう少しで完成するところだった。村人が食べられては困る。鬼は最後の石を持っ

てまさに完成寸前である。で、お坊様、一計を案じて「コケコッコー!」と一番鶏の鳴き声を真似た。最後

の石を手に持った鬼は、鶏の鳴き声に驚き、手にした石を遠くへ投げ放って、一目散に逃げたそうな。

この里の近くに「立石」という地に、石が縦に突き刺さっているが、それは鬼が投げ飛ばした石なのだそ

うな。

城下町の杵築の坂

 山香から来てくれたタクシーに乗って杵築に向かう。途中、城下カレイで有名な日出(ひじ)を通る。晹

谷城(ようこくじょう)跡の下の海に清水が湧いて、そこで繁殖するまこカレイのことなのだが、それ程水揚

げがある訳でもないので、養殖も多いと運転手さんが教えてくれた。どっちにみち旬は春以降なので、

今食べなくてもいい。40分ほどで城下町の杵築へ。せっかくタクシーに乗っているので、杵築城まで行

って貰う。公園の中を走ってお城を目指す。小さくて可愛いお城。城の中には入らなかったが、守江湾

を見渡すことの出来る、ここからの眺めは素晴らしかった。そのまま車は北台武家屋敷跡へ。酢坂を上

から眺めたのだが、こんな景色は今まで見たことがない。みなみこうせつさんが杵築を気に入って住ん

でいらした話を聞いたが、この街の坂道は、人を魅了する。

杵築・北台武家屋敷酢屋の坂

               冬うらら広々とあり酢屋の坂

石仏の郷臼杵に向かう

 杵築から別府・鉄輪温泉に向かい、豪華絢爛、夢心地の一夜を過ごした(ホテル日記「別府・鉄輪温

泉 神和苑」参照)後、3日目の朝、車で臼杵に向かう。宿で合流した3人が仲間に加わり、ひとり旅が一

転4人の車旅となる。別府から臼杵駅までJRの特急でも1時間弱かかり、しかも3連休の1日目だからと

覚悟するものの、意外と道路は空いていて1時間少しで「臼杵石仏」に到着した。道路も空いていたが、

臼杵石仏にも観光客の姿はない。未だ早い時間だからなのだろう。530円の入場料は払い坂道を上が

る。杖もあったが必要なさそう。臼杵石仏は推定したところ11世紀末から百有余年の歳月をかけて造ら

れたらしいが作者も意図もわからない。ここの看板には「伝説であるが」と断った上で来歴を書いてある。

曰く飛鳥後期〜奈良時代、真名野長者こと炭焼小五郎が亡き娘の供養にと中国の天台山に黄金3万

両を献上した。そのお礼に来られた連城法師からインドの祇園精舎の話を聞き、それをヒントに都から木

彫りの仏師を招いて彫らせたのが臼杵石仏であると。真実はわからぬが、千年もの間、ひっそりとした臼

杵の丘陵地帯に4群59体の石仏があったのだ。

国の特別史跡と重要文化財に指定されていたが、永い年月の風雪で壊れかけていた臼杵石仏を、こ

れまた長い歳月をかけて保存修理工事を平成6年に完成し、平成7年には国宝となった。磨涯仏での

国宝は初めてとか。まずはホキ石仏第二群、そして堂ヶ迫石仏群とも言われるホキ石仏第一群へ。この

土地の石は阿蘇溶粘凝灰岩で柔らかく、ためにまるで木を彫るように丸く削ることが出来る。代わりに表

面温度の変化に弱く風化が進み易い。地下水がしみ出て苔が繁殖し劣化したり、亀裂が生じやすいと

いう欠点も持つ。修復ではアンカーボルトをたくさん打ち込んで崩落を防ぎ、樹脂を含浸させて石質硬

化させたという。二群、一群ともにいくつかの「龕」がんというくぼみがあって、その中に仏が並んでいる。

 如来三尊像 地蔵十王像                            

ホキ石仏第二群から振返ると、ちょっと離れた高台に小さなお堂があって、そこが山王山石仏である。

なだらかな山道を登っていくと小さなお堂にふさわしく、小さな3尊の仏。如来像を真ん中に幼子のよう

な3つの仏さまが微笑んでいらして、心底慰められるような気がするのだった。立ち去り難くはあるが、最

後の古園(ふるぞの)石仏へ。ここの中尊である大日如来像は、いつの時代か、首が折れて落ちてしま

った。仕方なく、仏の胴体の足元に仏頭を台座の上に安置していたのだが、平成の修復に合わせて、

無事胴体と一緒になられ元のお姿になられた。帰りに立ち寄った近くの土産物屋では、台座の仏頭が

置物として今でも置いてあった。臼杵石仏の祈願には、合格祈願や当選祈願などの他に「リストラ除け」

があって、仏頭が戻ったから考えついたのか、そのアザトイ考えが不快だった。大日如来像はお怒りに

ならないのか。

 

臼杵石仏の麓の里に紫雲山満月寺がある。境内には、臼杵石仏由来の伝説に出て来る真名野(満

野)長者夫妻とこの満月寺を開基したと言われる連城法師の像がある。入り口には、太股から下が土の

中に埋れてしまったままの仁王像が二体。鹿児島・桜島だったか火山灰で埋まってしまった大鳥居があ

ったなぁ、と思い出した。寺の裏手には重要文化財の「日吉塔」があった。

             石仏の笑みにゆるりと冬日向    

        山里の仏頭戻りて春近し

ふぐもいいけど街がいい臼杵

3連休なのに空いていると心配していた臼杵石仏だが、帰る頃には大型の観光バスが次々と到着し、

麓から見ても行列状態になっていることがわかる。これだけ素晴らしい石仏を見る人が少なければもった

いないと思うし、かと言って、こうじゃんじゃん団体が押しかける様子を見ると良さがわからんじゃないか、

と心配にもなる。勝手な言い分だね。賑やかになった臼杵石仏を後にして臼杵の街に向かう。海がすぐ

そこにあるということを全く感じさせない臼杵川が真ん中にとうとうと流れ、寺院の多いしっとりとした町並。

臼杵城址、稲葉家下屋敷、野上弥生子文学記念館、早春賦の館など、見たいものが多い。今度ゆっく

り来ようと心に誓い、龍原寺と仁王座・寺町界隈を少し歩いた。

龍原寺     仁王座・寺町界隈

旅の仕上げは関アジ関サバ

 右手に素晴らしい海の風景が続いている。日豊海岸国定公園に指定されているそうで、南ヘリアス式

海岸である。『大分県の歴史散歩』を読むと『豊後風土記』が紹介されていて、「この郡の百姓(おおみた

から)は竝(みな)、海辺の白水郎(あま)なり。因りて海部の郡という」とある。天然の良港に恵まれて漁

業をよくし、平安時代には海部水軍が生まれ代々大きな戦力になった。16世紀から大友氏の時代にな

ると南蛮や明の船が臼杵や佐賀関に寄港し、様々な文化がどっと入って来る。1600年にはオランダ船

リーフデ号が臼杵に漂着したが、その乗組員がその後、徳川家康に仕えることとなる。な〜んてこと、今

まで、知りませんでしたよね? 佐賀関の近くの海岸に「四国に橋を架けたい!」という看板があったが、

その昔は外国の玄関的存在だったのだから、四国くらいいいじゃないか、などという気分にもなる。しか

し、ここ佐賀関には歴史を辿るとか景色を見に来たのではない。はっきりと関アジ、関サバを食べに来た

のだ。最初行った店「関の漁場」は、行列が出来ていて1時間待ちと言われ諦め、「関の亭」に向かう。こ

こも混んでいるらしいのだが、今すぐ来るならと、電話で予約したお陰で入れることになった。関アジと関

サバの定食、丼などのメニューが並ぶが、アジと関サバ両方を食べられる3千円の定食を注文。イカの

天麩羅も注文。待っている間、全長50数センチの関アジの魚拓に感心した。かなり待ったが無事お盆

が目の前に現われた。何だ、これだけかと思ったアジとサバの量だったが、食べて納得。もう噛み応えが

あるのなんのって。それも飛び切りデカクカットされているので一口でほお張ると2〜3分は咀嚼に集中

して口もきけない。脂が乗っている。うんうん、もごもご、かみかみ、うんうん。奥歯と顎が痛くなる程の関

アジと関サバであった。豊後水道の早い潮で揉まれた魚が豊富な運動量と引き替えにシマッタ身体を

保障されるという関係になっているのだが、昨今はニセモノの出現で、尾鰭に「関アジ」「関サバ」の称

号?を書いた紙を巻きつけているとどこかで聞いた。それほどブランドになってしまったということ。一方

豊後水道の四国側で捕れる魚も品質はほぼ同じ。しかし「関アジ」「関サバ」とは名乗れないことから、安

値に泣いて来た。「じゃ,俺タチも負けない名前をつけようぜ」ということになってつけたのが岬アジ、岬

サバだったかな。確か岬とかいてハナと読ませるのだったか。地図で見ると、愛媛の佐田岬と佐賀関は

すぐそこなんですよね。

佐賀関波荒きほど魚育ち

大分までの帰り道、吉田水産という魚市場のような店に寄る。アジもサバも生きて水槽で泳いでいる。

アジはぼんやりしていたが、サバは回遊魚らしく、水槽の中でもぐるぐると全員で回りながら泳いでいた。

アジの開きの一夜干しは目方で1000円前後。急速冷凍にして送って貰うことにした。大分に来る日も、

来てからの2日間の朝も、夜明け前から起き出して精力的に歩き回ったこの旅だったが、またもやどっさ

りと食料品を仕入れた。お約束のだんご汁は半生タイプに乾燥タイプ、どんこの干し椎茸、椎茸の佃

煮、椎茸茶、わかめ、関サバのお茶漬けの素、青海苔、うこん、ひじき、ゆず胡椒の赤と緑、味噌、「いさ

ご」という落花生のお菓子、ごまだれ団子・・・・・。県内どこに行っても「一村一品」運動が目につく。平松

知事の力や影がちらつく。でも、そのお陰で大分の国が「豊の国」の通り豊かになり、旅人がその豊かさ

の一部を持ち帰れれば文句はない。結構なことである。どころか、結構過ぎてしまって、また大分に来て

しまう予感を強く感じながら、大分空港に向かうジェット・ホイールに乗り込んだのだった。

                                                                                    おしまい

旅した日/2001年2月

1日目に宿泊した「かんぽの郷宇佐」と二日目宿泊した「神和苑」の記録は、

ホテル日記「夢子のホテル大好きシリーズ」に収録しました。ご参照ください。

旅の間の全食事内容は「夢子のパクパク写真日記」に収録しています。

     参考文献 豊の国大分サンライズを書くに当たり、以下の文献、ガイドブックを

参考にさせて頂きました。ここに記して、お礼を申し上げます。

        新全国歴史散歩シリーズ44 新版 『大分県の歴史散歩』 山川出版社

        『国東古寺巡礼』 渡辺克巳著 双林社

        『国東六郷満山霊場めぐり』 渡辺克巳著 国東六郷満山霊場会

        『国東半島紀行 六郷満山物語』 中谷都志郎文と写真 大分合同新聞社刊

        『ひとり歩きの九州』 JTB

        ブルーガイドニッポン38『福岡・熊本・由布院』 実業之日本社

 

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