夢子のニッポン大好きシリーズ

 秋しみじみ山形・庄内地方

新潟から鶴岡にむかう

 大きな川を渡る。阿賀野川だ。私の生まれ故郷の砂を、水を、空気を運ぶ川。そして加冶川、

内川、坂町を過ぎて荒川を越えた。川はみな日本海に注ぐ。川の行く手には微かに海の存在を感

じるのだが、その姿は見えない。村上を過ぎて鮭で有名な三面川を越えて、暫くすると日本海が

突然目の前に現われる。どこがどう違うのか説明は出来ないのだが、太平洋とは違う日本海独特

の姿がある。立松和平さんがここにいたとすると、ちょっと訛りのある口調でこうレポートする

かもしれない。

「日本海はどこまでも厳しいなぁ。大きな波がザンブゥサンブゥと容赦なく押し寄せて、人間の

小ささを笑っているような厳しさだねぇ。いや笑っているのではなく叱っているのかもしれない

なぁ。海にはすべてを包んでくれるような優しい海もあるけれど、それが母なる海とすれば、日

本海は父なる海、厳父の海と言ってもいいかもしれない。日本海の向こうは大陸。昔日本海側を

裏日本という言い方があったそうだけど、大陸側から見ればまさに日本海側が表玄関であった訳

なんだなぁ。僕が作家として興味を持つのは、どんな海を見て育つかで人間の性格というか価値

観のようなものに変化はあるのだろうかということ。海が及ぼす人間形成の影響力みたいなもの

に、どうしても引かれてしまうんだなぁ。長く続く冬の厳しい海を見て育てば、人生の厳しさを

海が教えてくれる意味は大きい筈だと考えているのだけれども、どうなんだろう。あっ、あそこ

に見えて来たのは粟島だなぁ。粟島は・・・」。(飽くまでも想像上のことですので当たり前です

が立松さんはおっしゃっていません。ごめんなさい。)

粟島がどんどん近くなって来る。椎名誠さんが怪しい探検隊でキャンプに行く島。岩船港から

高速船を使って1時間弱で行けるのだそうだ。周囲22キロ、地図で見た時は豆のように見えた

粟島も、こうして対岸から見ると堂々とした島だ。先ほどから海岸線は奇岩というのだろうか形

が面白い岩が続いて目を楽しませている。終わって砂浜になったと思うとまた奇岩。地図を見る

と笹川流れというのだそうで、隆起花崗岩が波で侵食されたのだとか。新潟の北部の海岸にはこ

んな美しい景勝地があったのだ。トンネルが多い。海岸線ぎりぎりに走る羽越本線なのに、山は

もっとぎりぎりまで押し寄せているということなのだろう。墓が並んでいる。どの墓も日本海を

向いて静かに佇んでいるようだ。こんなお墓なら入ってもいい。漁師小屋がポツリポツリと立っ

ている。鴎が飛んでいる。コスモスが揺れて、黒い瓦屋根との対照が鮮やかだ。山形県に入って

汽車は海岸線から離れて北東に向かった。

     向こうは粟島

               粟島や遠く近くに秋の海

 目覚ましの電話が鳴っている。わかっているって。乱暴に電話の受話器を置き、今日のスケジ

ュールを考えようと目をつむった。・・・・・・・。スケジュールを全部思い出して再び目を開

けたら、1時間40分が経過していた。時間泥棒に会ったのか。いなほ1号は私を置いて出発し

てしまった。ルーズな性格なのに何故か時間にはウルサイ。パンクチュァルなところが数少ない

長所だ。そんな自分に腕時計は必需品。その時計がゆうべの12時からピクリとも動かない。と

にかくこの時計を直して貰わねば旅には出られない。ホテルを飛び出して新潟市内の時計屋を探

し回る。1軒目で見て貰ったところ、電池切れだが、特殊な電池なので在庫がなくてすぐには直

せないとのことだった。もっと大きな時計屋を、と走り回ったのだがどこもその特別な電池は持

っていなかった。時計なしで旅に出る。寝坊して失った時間と丁度同じ時間遅れて出る特急に乗

る。宿酔でもある。お腹も痛い。時計が無い。予定より1時間40分も遅い出発だ。最悪のコン

ディションで始まった庄内旅行ではあった。内陸に向かった列車の窓から色づいた柿の木が見え

る。色づいた柿の木を見ると、郷愁のイメージが強烈に襲う。晩秋の磐越西線で見た圧倒される

ような柿の木、九州の湯布院で光輝いていた柿の木。ススキと柿の木は秋に欠かせない。昼過ぎ

に列車は鶴岡に到着した。

           照柿や村の静けさ集めけり

         

おっとりした城下町鶴岡

その昔、大和朝廷は647年新潟県の渟足柵(ぬたりのさく)、648年に磐舟柵(いわふね

のさく)を築き、阿倍比羅夫が水軍を率いて蝦夷地を平定した。当時新潟県は越国(こしのくに)

と呼ばれていたが、708年越国の一部として出羽郡が組み込まれた。712年(和銅5年)出羽

国が建てられ、陸奥国から置賜・最上の二郡が分かれて出羽国に合併、その後出羽の国は北に延

びて一時は秋田県の一部も組み込んだ時代もあった。出羽の国府がどこにあったのかよくわから

ないらしい。酒田市城輪柵跡かもしれない、と致道博物館にある旧西田川郡役所の展示に説明が

あった。駅に降り立った時は寂しげな印象だった鶴岡も、市の中心地鶴岡城址・鶴岡公園辺りに

くると垢抜けした落ち着いた街の印象にガラリと変わる。鎌倉時代は武藤氏の支配下にあり、武

藤氏の城・大宝寺城を中心に町は築かれていたようだ。それを1601年最上義光が攻略して鶴

岡と改めたが、1622年改易されて、13万8000石の酒井氏の本拠地となって明治時代ま

でそれは続くことになる。大宝寺城→鶴岡城の跡は今鶴岡公園になっている。その広い敷地に致

道博物館、大宝館、庄内藩校致道館などがある。その中の致道博物館には、旧鶴岡警察署庁舎、

重要文化財の旧西田川郡役所、後隠殿、酒井家庭園、多層民家などが残されている。

旧西田川郡役所

旧西田川郡役所。明治14年に建てられた当時の外国の影響を強く受けた擬洋風建築。同年秋

には明治天皇が東北巡幸の際の宿舎ともなった。中は出羽・庄内地方の有史以前かれの展示があ

る。私は大学では確か史学科だったような記憶もあるのだが、資料など読むのは苦手。それがこ

の年齢になって来ると、やたらと能書きを読みたくなる。不思議だ。戊辰戦争で全く知らなかっ

たことがあった。戊辰戦争の結果、庄内藩と薩摩藩が「ただならぬ仲」になったらしいのだ。イ

キサツは、大政奉還後、江戸市中取締にあった庄内藩兵が中心となって、江戸薩摩屋敷を焼き払

ったことが引き金となって戊辰戦争となるのだが、庄内藩は当然のように奥羽列藩同盟に加入す

る。苦戦が続き、会津藩が陥落すると慶応4年藩主酒井忠篤は降伏謝罪するが、重罪が科せられ

ると覚悟をする。ところが、西郷隆盛の計らいで、その処分は寛大だった。すっかり西郷さんの

人柄に惹かれ心酔してしまった酒井さんは、明治3年には兵学演習と称して兵士70名以上を連

れて薩摩まで行ってしまう。もう南州翁(西郷さん)のトリコになってしまったのね。で、南州

翁が留学を勧めると明治6年にはドイツに本当に留学してしまうのです。ま、忠篤公はとても若

かったそうだから、心から尊敬する南州翁と知り合い、外国留学することキッカケになったのは

良いことだとは思う。もう砂に海水が沁み込むように、どんどん西郷ドンの思想や行動原理など

を吸収していったんだろうな。素直な方だったに違いない。明治23年には亡くなった南州翁の

銅像を上野公園に建設すべく発起人になられたのだそうだ。山形・庄内と鹿児島の特別な関係や

上野の西郷さんの銅像建設余話などは、博物館の展示を読まなければ、一生知らなかっただろう

な。今も兄弟都市の関係は続いているようだ。

御陰殿に行く。この土地は藩の御用屋敷があった跡で、建物は幕末の1863年11代酒井忠

発の隠居所として建てられた。奥の座敷に行く廊下には、庄内竿の展示もある。余りに長くてど

の位の長さが測りかねたが、竹1本で4〜5メートルはあろうという見事な竿なのである。苦竹

(にがたけ)で作ったらしいが、藩主に釣り好きな方が多かったせいか、竿作り名人も大勢生ん

だようだ。一番奥の座敷は、能が舞えるように床板が張り巡らされ、床下には音響を配慮して大

きな甕が並び据えられていたという。広々とした座敷に座り、見事な酒井家の庭園を眺める。銀

杏が色づき紅葉も美しい清々しい庭園。酒井さまは、長く庄内の人々に慕われ、愛された殿様だ

ったそうだ。

       御陰殿

       

 多層民家があった。合掌作りとはかなり変わった作りだが「かぶと造り」と言うのだそうだ。

日本でも有数の豪雪地帯の湯殿山麓にあった民家を昭和40年、この地に移築したのだそうで、

重要文化財に指定されている。中に入ってびっくりした。母の実家の田舎家にそっくりだった。

母の実家は、距離にしたらそれ程離れてはいない新潟県南蒲原郡にあったのだが、多重の外観な

どは全く違うが、建物内部がとてもよく似ている。ことに台所などは酷似し、外の渓流から引き

込んだ水がちょろちょろと溜まりに流れ込み、女性はその流しにしゃがみこんで、野菜を洗い、

米を研ぎ、食器を洗った。夏は瓜や西瓜を石で出来た水溜めに浮かせていたものだ。流しのすぐ

隣には風呂桶がちょこんと置かれているのも同じ。風呂に入っていると腰の曲がった祖母が薪を

くべてくれた。台所から続く土間には、家畜用の小屋が併設されていて、祖母の家はトイレがそ

のまん前だった。だから4〜5歳の頃、夜中に用を足しに恐る恐るトイレに行くと、薄暗い中で

突然牛が鳴いたりすると、私は飛び上がった。この家の厠は入り口にあるが。広い居間には囲炉

裏が切られ、主人の座、客人の座り場所などの説明もある。若夫婦の部屋というのも決められて

いて、それがとても狭い部屋であることもそっくりだ。しかし「いづめ」という赤ん坊を入れて

おく大きな網籠のようなものは庄内独特のもの。いづめ人形がこの地の名産になっている。大昔

の記憶が一瞬のうちに思い出された多重民家だった。40年近く前に亡くなった懐かしい祖母が

「よう来た、よう来た」と皺だらけの優しい顔で笑っていた。

      

 致道博物館を出て公園をぶらぶら歩く。木々の多い気持ちの良い公園だ。今日は小春日和。庄

内は寒かろうと厚着をして来たのに汗をかく。アメリカではこんな日をインディアンサマーと言

う。後から知ったのだが、ロシアでは「女の夏」、ドイツでは「老婦人の夏」と言うのだとか。

鶴岡は作家の藤沢周平を生んだ地。若い頃から山本周五郎、司馬遼太郎、池波正太郎などの作品

を読み耽っていた。もっと大人になったら藤沢周平の世界に嵌ろうと思っていたら、残念なこと

に亡くなってしまった。その藤沢周平の「花のあと」という作品で鶴岡城の掘り池を描写した場

面があり、それを引用した文章の看板が立っていた。鴨や白鳥がのんびりと池を泳いでいる。紅

葉した木の枝が池にしな垂れかかるように伸びている。今歩いている道は「雪の降る町をロード」。

「♪雪の降る町を 雪の降る町を 思い出だけが通り過ぎていく・・・・・♪」。中田喜直さん

の作曲だ。大好きな歌。中田さんが降りしきる雪の日にこの道を歩いた思い出をもとに作曲され

たのだそうで、平成7年「ふるさと山形の道愛称百選」に選ばれたのだとか。柳が揺れているな

ぁ、などと思って更に歩くと、それは美しい建物が目の前に現われた。真っ白な板壁に黒と鮮や

かなワインレッドの屋根。何だろうと思ったら、それはバロック様式の洋風建築「大宝館」だっ

た。鶴岡出身の郷土人物資料館である。前述の藤沢周平、評論・文学の世界で活躍した高山樗牛

(ちょぎゅう)、女流作家の田沢稲舟、「文学の神様」と称された横光利一、心理学者の相良守次・・・。

現在鶴岡出身で一番の著名人といえば、自民党の加藤さんだと思うが、その父君加藤精三さんの

資料もありましたよ。教育施設の整備や電源開発など地方自治に功績をあげられたのだそう。

      

          

            藤沢周平が愛した鶴岡公園の池              大宝館

湯田川温泉の「湯どの庵」に泊る

 湯田川温泉まで鶴岡市内から南西に9キロ。北西12キロにある湯の浜温泉は日本海に面して

いるのだが、湯田川へ行くにはひたすら山を目指す。周りを山に囲まれた麓の小さな温泉街。数

年前までは13軒あったという温泉宿だが今は12軒。1300年前の和銅年間、傷ついた白鷺

が湯浴みしている姿を村人が発見したという湯田川温泉は、昔から湯治場として地元の人々が汗

を流した湯であり、藤沢周平も愛した温泉と聞いた。温泉街と言っても真ん中の1本道の両脇に

宿が並び、中心には共同湯の「正面湯」、他は何軒かの商店があるきりだ。「孟宗の里」と言う程

孟宗竹では有名な場所であり、東北随一という500本の梅の木のある「梅林公園」がすぐ傍に

ある。梅に竹か。松もあれば松竹梅が揃うなぁ、などとつまらないことを考えた。「山形そばと

湯けむり」にも書いたが、山形は自治体が温泉に異様に力を注いで、今や温泉の無い町は無いほ

ど温泉だらけの県になっている。自治体同士の競争心に煽られた税金である予算をつぎ込んだ安

い温泉が出来れば、それまでの民営の温泉宿は客を奪われ苦しくなるのは自明の理だ。良い湯に

安く入れるのは消費者としては嬉しいが、昔ながらの温泉が圧迫される姿を見ると「これでいい

のかなぁ」と複雑な気持ちにもなる。山形の皆さん、地元の公営温泉だけでなく足を伸ばして色

んな温泉行きましょう。

      

        湯田川温泉の街並            共同浴場「正面湯」     梅林公園の入り口

 湯どの庵に泊る。外観は静かな湯田川の情緒に溶け込み、特段際立った感じもしない小さな宿

に見える。外から見れば、である。それが中に入るや驚きの数々が待っているのだ。ラウンジで

お茶を頂きながらチェックインすると、その後パンフレットを見せられながら部屋の説明などを

受ける。ここでは部屋に宿の人は一切足を踏み入れない。だからここに金庫があって、ここが床

暖房のコントロールスイッチでという説明がここでなされるのだ。日本宿の独特の細やかなサー

ビスも良いが、入って欲しくない時でも部屋に仲居さんがヅカヅカと入ってくるのはイヤだなぁ

と思っていたので、夢子は大歓迎。エレベーターまで案内されて宿泊棟まで行く間、目があちこ

ちを眺めて驚きながら喜んでいる。何てステキな内装だろう。外観では全く想像出来なかったセ

ンスの良いオシャレな宿が隠れていたのだ。部屋もユニーク。洋室の三分の二は床を高くして和

室風にしつらえ、厚いマットレスに敷かれたダブル幅の和風ベッド。床は説明の通り床暖房が入

っている。なるほどねぇ、宿側が部屋に入って来なくても大丈夫な秘密はこうゆう作りにしたか

らね。これなら蒲団敷きっぱなしの印象は無いし、温泉で洋室とベッドというアンマッチも避け

られる。食事はダイニングルームで取るそうだし、温泉をどうぞということで、部屋には風呂は

無い。冷蔵庫も1階にある自動販売機で飲み物を買って入れる仕組みで、これなら客は滞在中の

部屋を自分専用のプライベート空間として使える。

       

       湯どの庵外観         檜風呂入り口      エレベーター脇の椅子

   

            ダブルの客室内       オシャレな籠に入った浴衣    オリジナル家具です

 風呂は2つあって、石風呂と檜風呂。男女が夜の8時に入れ替わる。私が行った時は檜風呂が

女性風呂、石風呂は男性用だった。それが夜の8時に入れ替わったので、深夜と翌日の早朝は石

風呂に入った。どちらも、更衣室、浴槽、洗い場が広々ゆったりと出来ている。浴室は天井も高

さが8メートルはあるかと思われるほどの高さ。温泉は意外にぬるい。湯船の入って来る湯はま

ぁ熱いのだが広い湯船で少し冷めてしまうのか。さらさらとした透明の温泉で、じっくり入って

いると湯の良さがわかって来るようなそんな温泉だ。硫酸塩泉で泉温は43.2度、神経痛、動

脈硬化症、きりきず、やけど、慢性皮膚炎、冷え性、筋肉痛、関節炎などに効くそうよ。檜風呂

の更衣室に注連縄が渡してあった。何でもこの宿は、昔、裏の神社の神官が経営されていたので、

その名残らしい。24時間入れるので3度も入ってしまった。

         

           檜の湯の脱衣所           石の湯

 食事は、正面玄関側の棟の2階にあるダイニングルームで取る。夕食はコース料理で月替わり

のメニュー。今日のコースは、鯛・カンパチ・烏賊・帆立貝の千草盛り、海老と鱈のしんじょと

卵豆腐の吸い物、三元豚の角煮野菜添え、子持ちハタハタの湯上げ風酒蒸し、イクラの醤油漬け

とはえぬきの新米ご飯、もだし茸と三つ葉の味噌汁、漬物、ラ・フランスのコンポートと自家製

アイスクリーム、万年寿のお茶という結構なものであった。山の中でも車で暫く行けば日本海が

広がっている。海の幸も十分なのだ。はたはたは、秋田ではしょっつるで食べるが、ここ庄内で

は水からはたはたを茹でる湯上げという調理法が郷土料理なのだと教えて貰った。酒もたくさん

揃えている。ビール、山形を中心に東北の銘酒、ワインもあって酒呑みには嬉しい。生ビール、

初孫の純米本醸造、大山本米醸造を頂いた。ジャズやスタンダードナンバーが流れ、効果的な照

明のもとで食事をしていると、ここがどこかわからなくなった。朝食は朝7時半からで、それほ

ど特別な献立ではないが、朝らしい真っ白なお皿で供されると食欲もわく。庄内米がうまい。

   

    夕食のコース

    朝食のセット

 この湯どの庵は、湯の浜温泉一番の老舗旅館「亀や」の経営と聞く。経営権を得てから風呂場

などに手を入れ、今年の本格的なリニューアルに当り岩倉榮利氏に総合プロデューサーを依頼し

て7月にリニューアルオープンした。KURAHAUSという岩倉氏デザインのオリジナルの家具

や飛騨高山の家具が館内に効果的に、しかしさりげなく配置され、リビングルームの一角には建

築関係の書籍や雑誌を揃えた図書コーナーもある。外観から見える本館と言うべき木造家屋部分

には共有スペースがあり、広々とした渡り廊下の先がコンクリート建ての宿泊棟になっている。

宿泊棟は2階と3階に7室づつ、合計14室のこじんまりとした宿。部屋の大きさと季節によっ

て値段は変わるようだが、それでも1泊2食つきで1万4500円〜2万5500円という値段

なのだ。私の場合、ダブルのシングルユースで1万8500円、消費税、入湯税を入れても1万

9425円だった。梅の頃、孟宗竹の頃、また訪れたい宿である。

港町酒田からは北前船が

 鶴岡からJRで約30分、酒井に到着する。両市とも人口は約10万人。鶴岡がおっとりした

城下町なら、酒井は活気のある港町。山形県内だけを流れて来た最上川が海に注ぐのがここ酒田。

「最上川船歌」の一節に「♪・・・酒田さ行ぐさげ 達者でろチャ  ヨイトコラサノエー 流

行風など引がねよに・・・♪」とあって、庄内米や酒が船に積まれて酒田に向かったのだ。酒田

に集められた荷物は、千石(150トン)積むことが出来る千石船、北前船に積み替えられて大

阪や江戸に向かった。最上川と新井田川に挟まれた山居島には、今も現役の最高級の米蔵「山居

倉庫」がある。明治時代に15棟あった巨大な米蔵が11棟残っていて、1棟は「庄内米歴史資

料館」とお米ギャラリー庄内として公開され、残りは現在も米蔵として使用されている。大きな

米蔵が並ぶ西側には欅並木があり、冬の海風を防ぎ、夏の西日から守るために植えられたものと

いう。庄内米歴史資料館には、当時の米取り引き状況の展示もあり、一時貯蔵した米を船に運ぶ

のは「女丁持おんなちょうもち」という女性達だったと紹介されている。1俵60キロの荷を担

ぐだけでも大変なのに、力自慢は5俵、300キロを担いだというのだから凄いじゃありません

か。30キロ、60キロを担ぐ体験コーナーがあったので、30キロを担いでみたが歯が立たな

い。昔は力持ちだったのに。きっと痩せちゃったからかもしれない。ふふ。建物を出ると息を呑

む建物があった。昭和天皇が東宮の頃山居倉庫を訪れられた際、休憩をされ建物のようだが、建

物全体を蔦がびっしりと被い、その蔦が見事に紅葉していたのだ。余りの美しさに造花ではない

かと触ってみたほどだ。目に今もあの赤が焼きついている。

      

      山居倉庫と欅並木     温度調整のための二重屋根   街のマンホールの蓋にも山居倉庫

      

 「旧鐙屋」も酒田が港町として栄えた街であったことを示す廻船問屋後だ。井原西鶴の『日本

永代蔵』に「北国一番の米の買取問屋」として描かれている。酒田では戦国時代末期から酒田三

十六人衆が選ばれ、町政は36人の自治的な運営に任されていたのだとか。関西の堺もそうでし

たね。鐙屋もそうした酒田三十六人衆として商売の傍ら酒田の町政にも活躍したらしい。夢子が

訪ねた日は文化の日で、一年で一日だけ無料で開放されていた。ラッキー。庭にある2本の梅の

木で作ったという梅ジュースと梅酒が振る舞わられ、栄えていた当時、多くの客人に素晴らしい

ご馳走を振舞い、泊めていた時代の名残のようで嬉しかった。ここも国指定史跡なのだが、一部

の建物を当時のままに再現したという屋敷内は撮影自由、部屋に入るのもどうぞ、という自由さ

で「きっぷがいいねぇ」と褒めたくなった。一方、江戸時代賑わった酒田の夜に指折りの料亭と

して栄えた「相馬屋」は、明治27年の庄内大震災の大火で焼失した直後再建され平成6年まで

営業を続けていた。廃業した相馬屋を現在の持ち主が修復して観光施設の舞娘茶屋・雛蔵画廊「相

馬楼」として平成12年に開業した。建物は登録文化財指定なのだそうで、700円の入場料が

必要な上、「撮影禁止」だった。

    

ここにいらっしゃるのは人形です。生きてはいません

「本間様には及びもないがせめたなりたや殿様に」

 酒田はもちろん酒井家の支配下にあったが、日本一の金持ちと言われた本間氏の影響がとても

強いように思う。大地主にして大商人で、士分の身分もあった本間家。その事実を如実に示すエ

ピソードを語るのが「本間家旧本邸」である。1768年明和5年に幕府の巡見使が酒田を訪れ

たが、その宿泊施設として2年余前から建築を始めて主君酒井氏に献上したというのだから、ハ

イパー配下ですよね。こんな部下がいたらなぁ・・・。無理か。しかも幕府の巡見使が滞在した

のは、たったの2泊3日なのだ。この建物の面白さは、左半分の南側を2千石の旗本の格式で書

院造りの武家屋敷とし、右半分北側を商家造りにしている点である。平屋の200坪に23の部

屋があるが、武家屋敷側には柾目の檜を使った飛騨高山の春慶塗など贅を尽くしているが、商家

部分は杉や松などを用いて質素な造りだ。身分制度がしっかりしていた江戸時代は、建材にもレ

ベルがちゃ〜んとあったのね。本間家は、3千町歩の土地を持ち、3千人の小作人がおり、酒田

の税金の半分を払っていたというから凄い。このお屋敷は結局、巡見使宿舎としてのご用を務め

た後は、酒井のお殿様から「払い下げ」になり本間家の住まいとなって昭和20年まで実際に使

用されていたのだとか。な〜んだ、それなら始めから自分の家を建てたのと同じじゃん、と思わ

れる方も多いと思うが、本間家では武家屋敷の方には一切足を踏み入れず商人としての分を守っ

たそうよ。戦後公民館として長年使用されている間に、素晴らしい武家屋敷部分も随分痛んでし

まったが、今は保存されて公開されている。ここも撮影禁止だったので写真は外観だけ。

 酒田駅の近くに「本間美術館」がある。本間家の別荘である清遠閣と庭園・鶴舞園を1947

年に開放して美術館となった。敷地の入り口近くにはコンクリート造りの新館があり、企画展な

どが行われている。見事な回遊式庭園を歩いて清遠閣に行く。1階の座敷と2階の一部では、今、

小野竹喬「奥の細道の憧憬」展が行われていて芭蕉の句からイメージした絵画が展示されていた。

2階部分は、昭和天皇が東宮の頃酒田を訪れた際に宿泊された場所。明治41年、大正天皇がや

はり東宮の頃東北巡啓の際お越しになるということで2階を増築したのだが、中止になったので

注連を回して使用しなかった。昭和天皇がおいでになってからは、秩父宮、高松宮、三笠宮も宿

泊をされたと聞く。皇族の皆様は酒田がお好きだったのだろうか。まさに酒田の迎賓館の役割を

果たしていたのだなぁ。明治時代に手作りで作られたガラス窓から鶴舞園を一望でき、真正面に

は鳥海山の借景が見事だったらしいが、今は鳥海山が見える筈の場所に大手スーパーの建物が立

ちふさがっていて見えない。金持ちも本間家のレベルになると、皇族の宿舎になってしまう。

      

     本間家旧本邸                   清遠閣と見事な庭園・鶴舞園

「写真は肉眼を越える」土門拳記念館

 写真家・土門拳は、7歳で東京に移転したが、1909年酒田で生まれた。同記念館のパンフレッ

トには「リアリズム写真を確立した写真界の巨匠。報道写真の鬼と呼ばれた時代もあり、その名

は世界的に知られている」とある。「ヒロシマ」、「筑豊のこどもたち」、「室生寺」の他、ライフ

ワークの「古寺巡礼」は最高傑作だ。酒田駅から車で15分程、最上川を渡って右折し飯森山文

化公園の中に土門記念館はある。記念館は同氏の作品を7万点所蔵し、年間に5回主要展示も企

画展示も替わる。この日主要展示は「古寺巡礼」の秋だった。主要展示場の前に「写真の立場」

として土門のこんな言葉がしるされている。「実物がそこにあるから、実物をもう何度も見てい

るから、写真はいらないと云われる写真では情けない。実物がそこにあっても、実物を何度も見

ていても、実物以上に実物であり、何度見た以上に見せてくれる写真が本当の写真というもので

ある。写真は肉眼を越える。・・・」後半略。展示されている「古寺巡礼」の秋の作品には見覚

えがあるものも何点かあったが、まさに肉眼で見た仏像や寺の印象が吹っ飛ぶ程のリアルな写真

で圧倒される。コトやモノの本質を抉り出すような写真だ。怖い程の写真。1974年に酒田市名

誉市民第一号となった彼は、自分の全作品を郷里酒田市に贈りたいと言って、1983年記念館が

完成。設計を谷口吉生が、庭の設計は勅使河原宏が、中庭の彫刻はイサム・ノグチ、入り口の銘

板と入場券のデザインは亀倉雄策が友情でこれに当った。脳血栓で倒れた1979年から11年

間意識不明のまま90年80歳で亡くなった。土門拳さんは亡くなっても、作品の写真は益々リア

リティを増しているようだ。『古寺巡礼』第3巻、第4巻、『土門拳のすべて』、絵葉書を10枚

買った。本3冊には「土門」の朱の落款を押して貰った。可愛がって頂いた亀倉先生の作品の銘

板にもそっと触って「お久しぶりです」とご挨拶をした。

      

       土門拳記念館と集まった鴨達  「古寺巡礼」の秋展示中   撮影中の土門拳

      

       勅使河原宏作の庭園「流れ」          亀倉雄策デザインのエントランスの銘板

     

      土門拳さんの本を買って来た 朱の落款が嬉しい    絵葉書

庄内の麺事情

 山形といえばそばだ。そば街道がいくつもある。ことに村山・新庄方面がそばの盛んな地とい

う印象が強い。日本海側の庄内地方はどうなのだろう。鶴岡では麦切りが愛されていた。そば切

りに対して麦切り。うどんと思ってもいいが、一晩寝かせるだけ手間がかかる。普通のうどんよ

りは細く、素麺よりはずっと太い。そして平べったい感じ。鶴岡で一番人気のある店を探したら、

それは大塚町にある「積善・三昧庵」らしい。鶴岡駅から早速タクシーに乗って向かった。運転

朱さんが混乱している。三昧庵と言えば、致道博物館の脇にある三昧庵である筈なのに、新興住

宅地の大塚町と言ったから。どうも昔は「積善・三昧庵」はそこにあったらしい。で、最近大塚

町に引っ越した。しかし致道博物館の脇には、今も別の人の経営する三昧庵があるようなのだ。

ようやく探し当てて店に入ると午後1時過ぎというのに、満員。店の外にたくさんの車があった

訳だ。メニューを見る。麦切り700円、大盛り800円、もりそば700円、大盛り800円、肉そば・

うどん700円、そばと麦切りのあい盛800円。そばと麦切り両方食べたいのであい盛を注文する。

既に食べている人や注文品が来た人を見ると、麦切りとあい盛が人気。温かい肉麦切りもうまそ

うだなぁ。30分きっかり待ってようやくあい盛が来た。そばは固めの田舎そば、麦切りはツル

ッと口に吸い込まれる程表面が滑らか。そばとうどんのあい盛のツユは難しいとは思うが、そば

ツユが軽すぎる感じ。待っている間、愛想の良いおばちゃんが、あちこちにごめんね、もうちょ

っと待ってね、と山形弁で声をかけて面白い。麦切りの乾麺を買った。

      

 酒田は意外なことにラーメンの街なのだ。今回庄内に旅に来たのは、前々から来たいと思って

いたからではあるが、何かの機関誌で酒田の「満月」のワンタンメンの写真を見てからいても立

ってもいられずに来てしまった。2日目に酒田に向かったが、観光の順番は「満月」を優先的に

考えた。昼時には行列覚悟と言うからだ。開店の午前11時に合わせて、山居倉庫から徒歩で向

かう。新井田川にかかる中ノ口橋を渡るとすぐ駐車場があり、合計3箇所の駐車場を確認した。

右手にそれはあった。店に入ると昆布や煮干といった海産物のダシの匂いが微かにした。客席は

カウンター、椅子席入れて20席ほど、2つある小上がりに30席はあるか。午前11時過ぎで

も祝日とあって、もう客はたくさん入っている。ワンタンメンが有名と聞いていたが、スタミナ

ラーメン、タンメンは良いとして、サッポロラーメンや盛りそばやうどんまであるのである。こ

の場所で開業してから40年になるらしいが、1キロの生地を650メートルまでの長さ・薄さ

に延ばす技術で新聞を透かして読めるほどに薄いわんたんの皮を作っている。ここはやっぱりワ

ンタンメンにしよう。大きな器にたっぷり入ったワンタンメンが運ばれて来た。青い所も入った

葱もメンマもたっぷり。チャーシューもあるから下が見えない。ワンタンは7つか8つ入ってい

ると思うのだが、余りの薄さにワンタン同士がくっついてしまって数の確認は出来なかった。1

つ1つに挽肉がかなり入っている。麺は細め。豚骨、鳥ガラスープと海産物系のスープが交じり

合ったやさしい醤油味である。ダイエット中止ならもう1杯食べたいところだ。700円の至福。

 午後3時半には、もう1杯酒田ラーメンを食べたくなった。予定では飛び魚の焼き干しでダシ

を取った飛び魚ラーメンを「味好」という店で食べるつもりだったのだが、雨が降って来たので、

飛び込みで「砂潟」という店に入ったら、そばもラーメンもござれの手打ちの店だった。500

円の手打ちラーメンは、平麺のちぢれ麺で私の好み。満月よりは脂が濃いスープだったが、これ

もやさしさがあってうまいラーメンだ。予定して行った店も、飛び込みで入った店もうまい酒田

は、ラーメンのレベルが高い街なのではないか。きっとそうだ。

    

      満月のワンタンメンと満月外観               沢潟の手打ちラーメン

今回も一人旅だったが、あちこちで大勢の方々とおしゃべりをした。無口の人もいたが、たい

ていは庄内弁で暖かい会話が多かった。鶴岡は語尾を「のう」と下げるが、酒田は荒っぽいから

「のう」は語尾を上げるんだ、なんて教えてくれたタクシーの運転手さん、荷物を持って見て回

る私に無料のロッカーがあるから是非預けなさいと親切に言ってくれた土門拳記念館のおばあ

ちゃん、湯田川温泉まで送ってくれたキップの良い女性運転手さん、旧鐙屋のおばさんも親切だ

ったなぁ。中でも酒田の街を歩き回ってクタクタになり、休憩がてら入った「楡の木」の女主人

はステキな人だった。一口飲んだだけで美味しいと思ったコーヒーをお替りすると、カウンター

の隣にいた常連らしい紳士が「東北で一番うまいコーヒー」と胸を張った。「庄内柿を如何?」

と剥いてくれた柿を食べながら、子供の頃の実知らず柿の話をコロコロと笑って聞いてくれた。

クラッシック音楽の話をしたり暖かく楽しいひと時だった。隣にも喫茶店があるのに、この店に

引かれたと話すと「何かご縁があるのよ」と笑って言う。そうね、旅は縁だ。庄内に行こうと決

めてこの日に来たことから縁は始まっている。もう一度鶴岡、酒田を訪れる機会があったら、良

いご縁があった人々と又会いたいと思う。この地方では冬の「タラ汁」が美味いと聞いている。

又来るきっかけは十分にある。

            

「楡の木」   頂いた庄内柿とコーヒー

                                    おしまい

行った日:2001年11月

 

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