夢子のニッポン大好きシリーズ

八重山パラダイス 

2千キロかなたのニライ

 羽田空港の80番から90番までのゲートは、飛行機までバスに乗らなければならない。

80番ゲートにJTA(ジャパントランスオーシャン)73便石垣島行きの現地気温が表

示されていて26度とある。隣ゲートのエア・ドゥの札幌は零度の表示。石垣島は26度、

札幌は0度。日本は狭いというが、どうしてどうして、この気温差がある東西に長い島国

である。乗機後の禁煙に備えて、煙草のまとめ吸いをしていると、故郷に帰るのだろうか、

やけに眉の濃い方が何人もいることに気づく。国内線の飛行機なのに3時間以上もかかっ

てその間禁煙。耐えられるか不安になる。バスに乗り込む。随分昔だが、アメリカに行く

時成田で飛行機までバスに乗った。隣のおばあさんに「このバスはアメリカ行きですか?」

と聞かれて、返事に窮したことを思い出す。ハイでも無いしイイエでも無い。「アメリカの

ロスアンゼルス行きの飛行機行きです」が正確な答えなのだった。8割以上の乗機率。八

重山出身者が3割、ビジネス・観光個人客1割、残り6割が高齢者の団体といったところ

か。冬場の沖縄、八重山には高齢者の団体が非常に多いらしいのだ。座席数字の後につい

たアルファベットが引き起こす混乱が団体席で続いている。「エーでねえよ、イーらよ」、

「オレはビーだと」。ようやく全員が落ち着いた頃石垣島に向かって飛行機は飛び立った。

 窓の下に見える日本。機内誌巻末の日本地図を見ながら過ごすのが好きだ。半島や島が

地図通りに箱庭のように見え、海がきらきらと光っている。那覇には一度行ったことがあ

るが、それ以西は今回が初めてである。石垣島は東京から約2000キロ、沖縄からでも

450キロもあり、逆に台湾からは250キロしか離れていない。今までちゃんと見たこ

とが無かったのだが鹿児島以西の島を地図で確認すると、その数の多さに驚く。屋久島、

中之島などの薩南諸島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、喜界島などの奄美諸島、伊江島、

与論島、沖縄島、慶楽間列島、久米島などの沖縄諸島、宮古島、多楽間島などの宮古諸島、

石垣島、西表島、与那国島などの八重山諸島。この八重山諸島と宮古諸島を合わせて先島

(さきしま)諸島、これに沖縄諸島を加えると琉球諸島、ぜ〜んぶ合わせて南西諸島とい

うのだそうで、あぁ島、島、島である。八重山諸島には、他に竹富島、黒島、鳩間島、小

浜島、波照間島、新城(あらぐすく)島、南大東島、それに魚釣島に代表される尖角諸島

など19の島があって、その中心は石垣島である。北緯24度。朝鮮半島の有名な緯度は

38度で高知が33度だから、どの位南に下っていくかの実感がある。波照間島では冬場

南十字星が見えるそうだし、南大東島なんて、子供の頃ラジオの天気予報でぼんやり聞い

たことがあるだけ。グァム島に行くより長いフライトでの禁煙も、みっちり島の勉強して

感心していたのでそれ程気にならなかった。

 空港からホテルに向かうタクシーでカーラジオから交通情報が聞こえる。「中央道では調

布インター付近で事故のため3キロの渋滞、関越道では夜間工事のため…………」。南国ら

しくガシュマルの並木道を走りながら聞く本土の交通情報が、いかにも間が抜けていて、

ヤマト(本土)のその当りから来た自分も居心地が悪い。「こんなの聞いても関係ないです

よね」と島に着いて初めて運転手さんに話しかけたのだが、気がなさそうに「えぇ」とい

うキリでとりつく島が無い。人情に熱い土地柄と聞いたんだがなぁ。飛行場滑走路の南側

に位置する海岸沿いのホテルに到着。去年までは「石垣島ホテルサンコースト」という地

元のホテルだったのだが、そこに全日空の資本が入ってタワー館を建設し、「石垣全日空ホ

テル&リゾート」としてリニューアルオープンした。タワー館は帆船をイメージしていて、

島のあちらこちらから、そのユニークな形を見つけることが出来る。私が泊まるのは、海

に面した7階のツインベッドルーム。ベッドカバーも、鮮やかな黄色と緑で南のリゾート

らしい色彩だ。ベランダに出てみると、浜風がさ〜っと吹いて来て気持ちがいい。右手に

石垣市の中心部の街明りがほんのり見えるが、それを無視すれば、ハワイといっても差し

支えない。思い込んでしまえばハワイである。バリである。グァムである。真冬の12月

でこれだから、真夏はどうなんだろ。着いたばかりで荷物を開けなければと頭は命令する

が、思いがけないリゾート気分に嬉しくなりぼんやり海を見続ける。日没は午後6時10

分。東京なら5時にはもう薄暗いのになぁ。

                                

南国の陽を呑みこみて冬の海

 大浴場に行く。温泉ではない。ここはハワイのつもりでもあるが、高齢者の団体客を意

識して大浴場を作ったのではないか。このホテルに2泊してから移った中心地のホテルに

も地下に大浴場があった。で、私も大浴場が嬉しい。入り口で男女の係が慇懃に部屋ルー

ムカードを確認しロッカーキーをくれる。高級スパ並だ。私の前にいたおばあさん2人組

が、渡されたリストバンド形式のロッカーキーを「何だべ」と不思議そうになでている。

もう外は暗く窓から見える海は暗いばかりだが、大きな風呂につかって疲れをとる。回り

の会話を何となく聞いていると、全国の方言を集めたようで面白い。あそこは東北、ここ

は群馬かしら、あぁ関西ね……。どこからも遠い石垣島には、どこからも人が集まって来

る。食事はホテルのレストランの中からエスニック料理の「ニライ」を予約した。中華と

タイ料理が選べるというのでタイコースに。このホテルにはヌーベルフレンチレストラン、

和食の「八重山」、鉄板焼「於茂登」、寿司「あかじん」、バイキング「TOMORU」があ

り、オンシーズンにはバーベキュー・レストランもあるようだ。チェックインして部屋に

案内して貰う時人気のあるレストランを聞いてみた。利用者が一番多いのは「八重山」だ

が、和食とは言っても八重山料理なのできらいな人は全く受け付けないのだとか。意外と

評判がいいのは「ニライ」ですよ、と教えてくれた。石垣島でしかも街から車で10分も

かかる距離で、これだけの数のレストランを運営するにはリスクもある。優待券を使って

ホテルを予約する時「1泊夕・朝2食つき」と条件にあったことを思い出し、ホテルはち

ゃ〜んと囲い込みをしているんだと納得した。2食つき条件での夕食代は5千円らしく、

鉄板焼「於茂登」で食べるには3500円追加しなければならない。2晩目はそこにした。

さて「ニライ」で次々と運ばれてくる辛いタイ料理を食べている。入り口近くに中華コー

スの点心を暖める蒸篭から湯気が立ち上り、その窓の先には東シナ海。そして館内のバッ

クミュージックはクリスマスソングが流れていて・・・・。はて、私は今どこにいるのじ

ゃ? 「ニライ」の意味を尋ねると「楽園」だという。

 大浴場とロビーを繋ぐ長い廊下の途中に小さな図書コーナーがある。雑多な図書の中に、

沖縄や石垣市、八重山五十年の歴史書が何冊か置いてあった。ぱらぱらと読むうちに、是

非滞在しているうちにこのへんの歴史を調べてみる気持ちになった。ここで調べ物するこ

と2回、八重山博物館にも行った。本屋でも資料を買った。でも、よくわからないんだよ

ね。年表を見ても、最初に年号が出て来るのは714年(和銅7年)で「南島人大和朝廷

に至る」。次は700年とんで1390年「宮古・八重山初めて中山(察度王)に入貢する、

言語通じず」。そして更に200年とんで1602年に伝染病(マラリア)が流行り、その

7年後島津氏が琉球を攻めたとある。1614年には疱瘡が大流行し、1622年からい

ろんな島に南蛮からの漂着が相次いだ。1771年(明和7年)大津波が島を襲う。この

大津波については石垣の数人の人から聞いたのだが、震度7,6の地震が起した最大の津

波の高さは85メートルで、当時2万人住んでいた住民の8千人が波に呑み込まれた大惨

事だったという。85メートルの波なぞ想像もつかない。その上、この5年後には大飢饉

と伝染病で3733人が亡くなった。この楽園のような景色と裏腹に、島の歴史には度重

なる伝染病や自然の災害など数々の悲惨な過去が存在している。呆れるくらいぽつぽつと

しか記述のない年表なのだが、近代になると、○○年この歌出来る、というように民謡の

誕生の歴史は詳し過ぎるほど。島での歌の存在の大きさにいやでも気づく。

 石垣島一周観光バスに乗る。少し小さな型のバスだが、ほぼ満員。民族衣装風のハッピ

を来たおじいさんが三線(さんしん)のケースを持って最後に乗り込んで来たが、この人

がバスのガイドさんであった。年は72歳という。このバスは年中無休で運行しているが、

老ガイド氏、長年毎日練り上げた話術で大いに客を笑わせている。時には三線を取りだし

て弾きながら歌い、また説明しての大熱演である。「はい、みなさん。円がどうして1ドル

360円になったか知っていますか〜? はい、円は丸いね。丸の円周は360度。だか

ら360円になった訳ねぇ」。外国の観光バスに乗ると、良いガイドには降りる時チップを

渡すのが習慣だが、この日は「おじさんありがと。とっても楽しかった」と皆笑って挨拶

するだけで何も渡さない。ここは日本だから。石垣島は一般的には柄杓形と言われている

が、私にはオットマン&リクライニングチェアに見える。その椅子の土台当りからバスは

時計回りに海沿いを進む。沖縄県独特の赤瓦の家がぽつぽつ。夏涼しくて冬暖かい瓦だが、

最近では職人が少なくなって使用も減っているようだ。「はい、右手に具志堅用高記念館ね。

今入り口に立っている太った人がその父ね」。唐人墓。1852年イギリス船ロバート・バ

ウ号のクーリー(苦力)といわれた中国人労働者が、余りの過酷な扱いに船を焼き打ちし

て石垣島に逃げ込んだが、後日イギリス人に攻められて128名が殺されたのだという。

八重山らしい派手なお墓だが、石垣の人達は中国人に多いに同情して匿い、大金を使って

墓まで作った。

華やかな唐人墓

川平(かびら)湾に着く。ちょうどオットマンの膝の上当りにある。ガイドのおじいさ

んが「ここでグラスボートに乗るオプションがあります。800円で〜す」と希望しない

人なぞいるハズがないという口ぶりで全員を残してバスは行ってしまう。グラスボートだ

から、船の中底がガラス張りになっていて、みな船底を見つめて窮屈に座る。船に酔うこ

とを恐れて1人後ろを見ていると船が出る。ほんとにここは日本か?この湾の海底はサン

ゴの宝庫らしく、コバルトブルーの海が濃淡に彩られ何とも美しい。しかし水流が早いの

で遊泳禁止なのだと。歓声を聞いて船底を見ると、珊瑚礁や熱帯魚が下に見えて来た。な

るほど、なるほど。海の底はこうなっていたか。この湾の東側には黒真珠の養殖場があり、

グラスボートを降りて少し歩いた所に展示場つきの即売店があった。この美しい川平湾に

は結構なホテルもいくつかあるようだが、何日かいると街の灯が恋しくなって、大金かけ

てタクシーで出かける人も多いのだとか。人間、非日常と日常を交互に恋しがる。

 

川平湾              この船でサンゴ礁を見る

北にしばらく走ると米原熱帯原生林があり、その中に八重山椰子群生地。天然記念物に

なっている八重山椰子だが、この場所に向かいながら「ここはどこかに似ている」という

思いがしきりにする。う〜ん、どこだったか。植物のプランテーションがあったような。

そうだ!ハワイのマウイ島。2度行ったマウイ島のプランテーションだ! そう思い出し

てから海も景色もマウイ島になってしまう。

昼食つきで4350円のバス代は安いと思った。さらに昼食のメニューは伊勢海老(た

だし半尾)定食というのでバカ安と思いかけたが、食べてみてそうでもないなと思い直し

た。昼食をとった伊原間はリクライニングチェアの首のつけね当りで、半島の幅が一番細

いところは200メートルにしか過ぎない。昔船で往来していた人は半島をぐるっと回わ

ることを嫌って、ここ伊原間の西海岸で船を降りると全員で船をえっさかほっさか200

メートル運び、東側に出て航海を続けたという。伊原間からちょっと南に下った玉取崎展

望台から見た景色はまさに絶景。左に太平洋、右に東シナ海、真ん中に平久保崎までの陸

地が細く長くずっと続いている。そして伊原間できゅっとくびれていて。マウイ島なんか

に負けないスゴイ景色であった。

玉取崎展望台から平久保崎まで続く岬を見る

竹富島はびしょ濡れだった

 八重山の方言で暑いですねは「アッツァーソーラー」という。寒い場合は「ピーシャー

ソーラー」。朝日ソーラーが聞いたら喜びそう。連日26度以上あってティーラ(太陽)ぎ

らぎらで真夏並に汗をかいていたのだが、竹富島に行く日は朝から雨もよいの強い風が吹

き、ピーシャーソーラーだった。3泊目からは730交差点の石垣グランドホテルに移っ

た。730交差点の由来は、1972年アメリカ統治が終わり日本復帰した時、7月30

日の午前12時に、左側通行から右側通行に切り替わったことを記念して名つけた由。こ

こは、バスターミナルや八重山諸島への離島桟橋のすぐ近くで、足場は最高である。竹富

島へは10分で行けるし30分毎に船が出ていて生活船の趣きだ。風が強い日は波も荒い。

波が荒いともちろん船はがんがんに揺れる。たった1人小さな客船に座ったのだが、1、

2秒空中に浮かんでいたと思ったら、船先から荒海につっこんで行く。足を踏ん張って、

前のバーにしっかりつかまって耐えるしか無い。気を散らそうと曇った丸い窓ガラスの外

を見るのだが、波がばっしゃっとかかってきて、もっと心細くなる。「遭難した船には乗務

員2名、乗客1名が乗っていた模様ですが、いずれも身元は不明です」なんて言葉が浮か

んで来る。明日行くつもりの西表島までは40分もかかるんだぜ。10分でこれなのに、

大丈夫かい、と明日の心配までしていると、やっと竹富島に着いた。下船する時「いつも

こんなに荒れるのでしょうか?」とこわばって質問すると、船を操縦していたお兄ちゃん

「今のはちょっとキツカッタかもしれんね」と笑って答えて、もう帰りの準備に忙しいの

であった。

写真を撮ったりしているうちに、石垣島に向かう客を送って来た車も全部戻り、船も出

てしまった。誰もいない。船着き場に天井と柱だけの建物があるだけで、他に何も無い。

ど、どうすんの? 5平方キロメートル余りの小さな島だからと、地図も資料も持って来

なかった。情報がない。ただ数年前に「天国に近い島」だと教えてくれた人がいた。天国

に一番近い島は森村桂のニューカレドニアではなかったか、と思ったが竹富島=結構な島

であることはインプットした覚えがある。天国に近い島は風がぴゅーぴゅー、雨がばしゃ

ばしゃ、で、誰もいず、何もないのだ。途方に暮れるが、道が1本しかないので風に押さ

れながら歩き出す。砂糖黍畑、ガシュマルの木、県花でいごの花、草むら、野菜畑・・・。

10分も歩いた頃、ようやく動いているものを発見したが黒い牛だった。そして人家が現わ

れ、その家々が赤い瓦屋根にシーサーという魔除けの獅子を乗せている。石垣の塀、みな

平屋である。庭先には赤やピンクの南国らしい花が咲き乱れ強風に揺れている。一番沖縄

らしい原風景か。少し先の道を水牛が曳く牛車が横切った。激しい雨を凌ぎたい一心で、

竹富郵便局に入る。傘を畳んで風避けが出来るのが嬉しい。局員は2名。沖縄らしい絵柄

の記念切手をいくつか出して貰って買う。おっ、宝くじも売っているのね。そうか、郵便

局で宝くじを扱うようになったんだった。何だか3億円当るような気がして連番10枚買

う。99組、いいじゃないか。99年の12月に竹富島で買った宝くじ。益々当るような

気がしてくる。(当りませんでしたけど)ぐずぐずしていたが、それ以上ここにいる理由も

見つからず外に出る。竹富島小学校と中学校が同じ敷地に建っている。西塘御嶽(にしと

ううたき)。15世紀に首里王朝に25年間技師として仕え首里城などの建設に当った功績

に対し「竹富大首里大屋子職」として八重山の統治を許された西塘を祭っている。喫茶店

の看板に引かれてやっと探し当てたのだが、残念なことに店は閉まっていた。昼食に八重

山そばを食べた食堂で得た情報によると、この島の人口は301名、小中学生29名、住

宅146戸、牛264頭、水牛18頭、犬34頭、鶏107羽、バイク93台、4輪車1

14台、食堂10軒、民宿11軒ということだ。そのうち住人5名、牛2頭、水牛1頭を

見ただけで、竹富島訪問は終了した。ビショ濡れの天国だった。

         極月や異国に近き島にいて

     

誰もいなくなった港    誰もいない竹富島入り口          誰もいない道      

 2晩目に夕食をとった全日空ホテルの鉄板焼「於茂登」でスタッフの方々といろんなお

しゃべりをした。その1人に「ゆうべはどこで飲んだの?」と聞き出したのが、730交

差点からほど近い「はなき」である。因みに全日空ホテルの従業員は、3割が地元採用で

残りは東京から来ているのだという。全日空ホテルの資本が入ってまだ間もないから仕方

がないのだろうが、全国で失業率が一番高い沖縄県にあることだし、雇用にも寄与して欲

しいと思う。「はなき」は、郷土料理に加え鮨も出す民芸調の小じんまりした店。早い時間

だからか、他に客はいない。カウンターに座って生ビールを注文する。冷蔵庫で冷やして

いたヒエヒエに曇った大きなジョッキに生ビール。「うまい!」。なかなかの男前のご主人だ

が、話しかけない限りは決してしゃべらない。翌日の夜も行き2晩かけて話してくれた個

人的なことは、小浜島の出身で、妹さんがすぐ近くで「翔」というカラオケスナックを経

営している。飲み屋を経営しているが、時々店を閉めてから飲みに行き、朝まで焼酎を飲

むという位か。しかし言葉はたくさん教えて貰った。いわしはミジュン、鯵はガチュン、

石垣はイシャナギィ、大川はフーガー、南十字星はナイクルブシ、ありがとうはニーファ

イユー。彼が言うには、沖縄語は3音で、あ、い、う行しかないというのだ。え、お音は

い、うに置き換える。例えば数字。1ピティツ、2フターツ、3ミーツ、4ユーツ、5イ

ツーツ、6ンーツ、7ナナーツ、8ヤーツ、9ククヌツ、10トゥー。ヨッツ→ユーツ、

ココノツ→ククヌツを見ると確かに置き換わっているなぁ。外国語では決してないが、日

本語の方言とも思えない複雑な言葉だ。らふてぃ(豚の角煮)、ゴーヤチャンプルー(にが

瓜と豆腐の炒めもの)、トウフヨウ(豆腐を麹で発酵させた珍味)、島かまぼこなど代表的

な料理を肴に、焼酎が嫌いだからと日本酒を飲み、最後に鮨を適当に握って貰う。なるべ

く熱帯魚じゃないような魚をいくつかね、と頼んだ鮨。やっぱり食べる魚は北の方が旨い

ようだ。

陽はイル(西)に沈む西表島  

 西表島に行こうと早く起きるが未だ太陽は上がっていない。日没が遅い代わりに日の出

は7時10分くらい。ツインのシングルユース朝食つきで1万2千円の石垣グランドホテ

ルだが、朝食ブッフェ会場に行ってみると早朝にもかかわらず客でいっぱい。お馴染みの

高齢団体は見慣れたが、修学旅行だろうか独協高校の男子生徒も旺盛な食欲を見せている。

海外に修学旅行に行く学校も結構あると聞くから石垣島など常識の遠さなのか。こちらに

来て気に入ったアーサー汁がここにもあった。細いアーサーという海草に賽の目に切った

豆腐を浮かべたすまし汁で、おろし生姜を好みで入れて食べる。その名の通り朝食べるに

ふさわしいアーサー汁である。ホテルのフロントで聞くと、この季節では西表島に個人で

行っても足がなくて動けないだろうから周遊のコースに入れ、とアドバイスしてくれた。

歩いて1分の平田観光で西表早まわりコースの切符を買う。それでも6時間くらいかかり、

早くないコースは西表島の帰りに竹富島に寄るのだという。1万円ちょっと。「あの〜、昨

日竹富島に行って船がすごく揺れたんですけど西表島に行く船も揺れます?」、「あぁ、石

垣=竹富間は外海の影響受けるから一番揺れますが、そこを過ぎれば内海なのでおだやか

ですよ」。ほっとする。大きな船。益々安心する。大型のテレビ画面では北海道、日本海上

空にマイナス60度の大寒気団が押し寄せ、大雪が降っていると伝えている。

西表島大原港に着いてバスに乗る。乗客は早まわりSコースも、じっくりコースも、そ

の他、七島巡りツァーなどが寄り合い所帯の構成だ。お坊さん・尼さん・初老のご婦人と

いう3人組もいる。この西表島は沖縄本島に次いで2番目に大きな島。住所は竹富町であ

る。石垣島は石垣市だがその一角に竹富町役場があって不思議に思っていたが「はなき」

のご主人に聞いて理解した。竹富島行きで書いたように、琉球政府から八重山一帯の統治

を許された西塘は、1524年まず生まれ故郷の竹富島に本拠(蔵元)を置いたのだが、

船の行き来で中心になるのは石垣島。余りの不便さにわずか19年後の1543年には蔵

元を石垣島に移転する。以来、竹富町役場は石垣島に借り住まいしているのだと。今も思

い出したように町役場はどうするかという話が出るようだ。450年以上考えても出ない

結論がこの先変わることがあるのだろうか。八重山諸島は19島あるといえ、市と町は石

垣市と竹富町、与那国町だけ。尖角諸島は石垣市だし、ここ西表島は竹富町になる。

島の90%が国有地で75%が国有林、亜熱帯の石垣島に対して熱帯に近い気候である。

南東に位置する大原東部は人口800名、北西の船浦西部は1100名が住んでいる。船

浦は星砂海岸や島最大の浦内川に近く、西表島の観光の中心地区なのだが、冬場は波が高

くて船を寄せつけない。船浦西部に住む人のうち600人が本土から移り住んでいるのだ

という。それだけ引きつけるものがあるのだろう。産業は砂糖黍、パイナップルなどの農

業、黒毛和牛として取り引きされる牧畜業、そして最大は観光業で、年間50万人の観光

客が西表島を中心にした竹富町を訪れる。

 バスで5分程行ったところで仲間港に着く。島で2番目に大きな「仲間川」上流に向け

て船は走り出す。船頭さんがモーターボートを運転しながら説明してくれ、それを聞きな

がらマングローブの林の中を縫って行く。マングローブという木は無いのだと。うん、こ

のことは2日前にも定期観光バスでも聞いた。おひるぎ、めひるぎ、八重山ひるぎといっ

たひるぎの仲間を総称してマングローブと言うのだ。熱帯・亜熱帯の淡水と海水が混合す

る水際でのみ生き、石垣島がその北限になる。呼吸するため何本もの細く丸い根が支える

姿は独特である。船に乗って30分過ぎたところで、初めて下船する。国の天然記念物の

「サキシマスオウノキ」を見るためである。樹齢400年の大木でその大きさもさること

ながら、圧巻はその根である。板根(ばんこん)と言われる巨大な根は四方八方にくねく

ねと張り出し、ドレープ状の屏風のようだ。すおうの板根は呼吸するためにこのように進

化したらしいが1年で1センチしか成長しないという。

   

水量たっぷりの仲間川        八重山ひるぎの根     サキシマスオウノキ

船に乗って間もなくお腹が痛くなった私は、ひたすら港のトイレに行きたいと油汗を流

しながら我慢を続けていた。胃は滅法強いのに腸が弱い。瀬戸内寂聴(じゃくちょう)さ

んのように仏門に入ったら「神山弱腸」(じゃくちょう)と名乗ろうかと思う程弱いのだ。

折り返した船がようやく港に着いた。すぐにでも走り出したいが、船頭さんが「バスにす

ぐ乗って下さい。2分行ったところでトイレ休憩を取りますので」と繰り返している。何

も挨拶もしないで皆どんどん降りていくので、震える身体を抑えて「良い説明でしたね」

と船頭さんにお礼を言って船を降りると、お坊さんと尼さんが脱兎のごとく駆け出しトイ

レに向かった。行きたいのは私だ!一番トイレが必要なのは私だ!と頭もお腹も爆発しそ

うなのだが、将来、尼僧「神山弱腸」になるかもしれず、しかもモラル心に溢れるから懸

命に堪える。仏教関係の禁止破りトイレ組を待ったので、バスの発車が遅れてどうなるも

のやら心配したが、何とか間にあった。ようやく余裕を取り戻してバスの運転手さんの顔

をみたら、先ほどの船頭さんだった。大原港からず〜っとこの人だったんだぁ。イリオモ

テヤマネコがひょっこり道端にでも出て来ないかなぁと思っていたら、かなり運が良けれ

ばあるらしく「イリオモテヤマネコ注意」の看板が出ている場所は、いずれも発見場所な

のだそう。古見小学校では生徒数14名に対し、先生が9名もいるんだとか。マンツーマ

ン教育に近いな。琉球政府の強制移住で最初に西表島に住んだ人達の苦労話などを聞きな

がら由布島に向かう。

 由布島は、西表島の真東にまるでホクロのように海に浮かんでいる。満潮時でも水深1

メートルに満たず、5百メートル位の距離は歩いて渡れる。そこを観光用に水牛の牛車に

乗る。1台定員17名。島に着いたら水牛の家系図が貼ってあったが、私の乗った車を引

っぱってくれたのは、行きはユウコ、帰りはマリリンという名前だった。とにかく丈夫で

力が強い水牛である。1番前に陣取っていい気になっていると、御者のおばあちゃんが牛

車の前に突然板を立てる。何だろ? ユウコさんの大きなトイレだった。腸が弱いの?こ

の水牛一頭一頭性格が違って、遅い、早いの差が結構ある。御者も水牛の行くままに任せ

て方向を直したりしない。大きく蛇行するのもいれば、最短距離を淡々と進む感心な水牛

もいる。しかしどの水牛も行き先はちゃんとわかっている。さて、由布島は島ごと観光浸

けの島だった。島全体に動く道路かベルトコンベアがあるかの如く、彼等の意図に動かさ

れて1〜2時間を過ごす。先ずはレストランに向かえと言われたが、途中で記念写真撮影

の関所があって、そこで写真を撮らないと前に進めない。水牛がいてそれと一緒にグルー

プ毎にパチリ。私は1人で撮られたが、その作業の早いこと!流れ作業である。レストラ

ンでは幕の内弁当風のご当地弁当。ご飯はアイガモ農法で作った古代米黒紫米、ミミガー、

ラフティ、油味噌などがおかずに入っている。テーブルごとに幕の内のおかず見取り図と

共に料理を紹介したカードが置いてあった。早々にレストランを出て、島の裏側に行って

みる。島の放送は聞こえてくるものの、誰もいなくてほっとする。島内はとっくり椰子も

どきやハイビスカスの花などに溢れた植物園になっており、動物園と称して所々に動物の

オリや放し飼いの柵もある。ポニーがいる。通り過ぎると、後ろから来た60歳前後の女

性3人組の会話が聞こえる。

「あれぇ、これロバらかね。」

「ロバいうたら、昔こんな歌があったいね。♪私のロバさ〜ん、南洋じゃ美人…」

「そんつらもん、ロバでないてぇ、あれはラバだわ」

「そうそう、ハハハハハ」

新潟弁に違いない。7歳までとはいえ、生まれた県だし親戚も多いのですぐわかる。思い

きって話しかけてみる。

「失礼ですけど、新潟の方でいらっしゃいますか?」

「はい、そうだども。なんでわかるんかい。あんたさんは?」

白根市の方々で、農協主催でいろんな所にお仲間で旅行しているんだとか。

「どこ行っでも新潟の言葉は、いっち標準語に近いって言われるすけ、鼻高いんだてぇ」

という最後の言葉に苦笑しながら、お別れした。えっ? 標準語?

この日12月7日の由布島は食事客546名、入場のみ客216名の計762名であっ

たそうな。帰りの牛車を待ちながら眺めた業務用の白板にそう書いてあった。人口は30

名で観光従事者ではない一般の人は10名だという。入り口付近をほんのちょっと味わっ

ただけの西表島だったが、仲間川の手つかずの大自然と、由布島の骨の髄まで観光化され

た対照的な両面を見て、頭は混乱ぎみ。しかし、大原港に着くまで、朝からずっとバス、

船を運転してくれた運転手さんに聞いた話で少しすっきりした。西表島と書いて「いりお

もて」とどうして読むか。石垣島で一番高い於茂登岳(おもとだけ)に対して、西の於茂

登と言われた島。於茂登がなまって表。太陽がアガル東に対してイル西。だから西表島い

りおもてじま。

由布島には水牛が引く牛車に乗って  初めて見たとっくり椰子もどき

  

八重山は八重山のままで 

八重山初の寺である桃林寺や権現堂、唯一残る士族屋敷宮良殿内(みやらどんち)など

を探しながら、石垣市の街をぶらぶら歩く。「イハ薬局」もついでに探す。長年懇意にして

いる友人をして学生時代「石垣は天国」と思わしめた薬局なのだという。20年前、私の

友人は薬科大学に通う幼馴染みから夏休みに石垣島に行かないかと誘われた。薬科大の男

の同級生が石垣の出身で、是非遊びにおいでと言っているという。ならばと、もう1人の

友人も誘って女子大生3人は石垣島に飛んだ。すると帰省していた同級生の家族、イハ薬

局の方々は、3人の女子大生を1週間ホテルに泊まらせ、毎日島のあちこちを案内して大

いに歓待してくれたそう。驚くことに、ホテル代はもちろん滞在中の費用はすべて持って

くれ、帰る日は家族総出で空港まで送りに来てくれたというキトクなイハ薬局の方々。た

だくっついて行った私の友人は、以来石垣島を生涯忘れられなくなったが、今回私にイハ

薬局でその時のお礼を言って欲しいという。中心地から少し離れた住宅地では大きな家並

が続き、豊かな生活が窺われる。どこの庭にも鮮やかな花々が咲き乱れていて、冬とは思

えない。赤瓦屋根はあまり見かけない。街に戻れば、光通信のショップもあるし、がん黒

化粧に底上げ靴を履いた若いお女の子が携帯電話で話している。女子高校生のチャリンコ

の篭にはファービー人形が2つ入っていた。しかし、表面的には本土と同じ流行りものが

あっても、この5日間、奇妙な感じを持ち続けていた。日本であって日本でない。沖縄の

ようで沖縄でもない。かと言って近い国の台湾では全くない。いずれも違和感がある。こ

こは八重山だ。どこかにハメル必要はない。八重山だけでいい。数々の悲惨な歴史を洗い

流しているような白い波。長い長い日本列島の最南西端にありながら持つやわらかな順応

性。小さな離島一つひとつがそれぞれに個性を主張するが、それでいて諸島団結の力も

ある。自然の恵みに満ち溢れた島。

 結局見つからなかったイハ薬局と、飲み屋で居合わせた客から聞いた「与那国の風はい

い、ただただ風がいい」という言葉が心に残る。ここに戻ってくる理由が2つも出来た。

ニライの八重山諸島、また来ない訳にはいかないじゃないか。

               重要文化財の権現堂

      八重山の海が誘ひて十二月

おしまい

データ:旅した日/1999年12月4日〜8日   書いた日/2000年1月

 

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