夢子のニッポン大好きシリーズ

おいでませ山口・萩そして津和野 

西の京と呼ばれた山口市

 琳聖太子を祖とする大内氏。1360年に山口に居を構え、1551年31代義隆が自刃して果てるまでの

200年、山口市は大内氏の元で西の京と呼ばれる雅な街であった。第29代大内政弘は、応仁の乱

で西軍の大将格だった。その子義興(よしおき)は、管領・細川政元に将軍職を追われて山口に亡命し

ていた足利義植(よしたね)を擁立して上洛し復職させた。義興は、そのまま京都に残って管領代として

10年間幕府の実権を握る。山陰の尼子経久の動きが盛んになったことから山口に戻った。その義興の

子大内義隆は子供の頃から都の雅に親しみ、公家の娘を正室にするなど貴族的趣味の中で暮らして

いた。第25代大内義弘が朝鮮に使節を送ってから開始された対朝鮮貿易、第28代教弘が始めた対

明貿易は、大内氏に莫大な富をもたらした。

大内氏累代の莫大な遺産を受け継いだ義隆は、周防、長門、豊前、筑前、石見、安芸、備後の7カ

国の守護職を兼ねて、従ニ位まで昇進した。山口を訪れたザビエルが「大内殿は日本最大の領主」と

手紙に書いたそうだが、まさに「わが世の春」を謳歌したのだろう。その上、義隆は屈指の文化人でもあ

り、儒学、仏学、神道、有職学、漢詩文、和歌、連歌、能楽までに通じていたと。東京中心になった今、

山口市は本州の西端の地にしか見えないが、京都を中心にしていた当時、対外貿易に絶好の位置に

あり、力と富そして文化を独り占めした感があったのだ。

 そんな歴史をぼんやりと思い出しながら山口に下り立った。広島から新幹線で小郡へ、山口線の特急

に乗れば、わずか14分で山口に到着する。未だ朝早い。どうしても行きたいところは4ヶ所。しかし今日

は日程が詰まっていて時間が余り無い。タクシーに乗ったところ、とても人柄の良い運転手さんだった

ので、この方に案内して貰いながら山口を回ることにした。

 龍福寺:かつてこの地は代々の大内氏が住んだ屋敷だった。館は東西が160メートル、南北170メー

トルの8000坪の巨大なもの。当時の守護大名の館は一町(109メートル四方)が標準だったというから、

全国最大の規模だったようだ。白石の地にあった龍福寺は1551年に兵火にかかって焼失したが、1557年

毛利元就の嫡子・隆元が大内義隆の菩提寺として再興したもの。明治14年に火災に遭い、

再興に当たって吉敷郡大内村の興隆寺の釈迦堂を移建したものが現在の建物である。釈迦堂は1523

年大内義興時代に建立された室町時代の寺院建築の特色を残しており、重要文化財の指定を受けて

いる。日差しが眩しい冬の晴天だった。ボランティアの地元のお年寄り達がおしゃべりしながら庭内の

掃除をしているだけで、お参りする人も観光客も私以外誰もいない。その代わり、紅梅、白梅が仄かな

香りを周囲に香らせながら見事に咲いていた。

  

  

富と権力、そして溢れる程の才能と知識を持ち合わせた大内義隆だったが、その終わりも劇的に脆

かった。文化・芸術を愛する義隆だったが、時代は戦国時代がすぐそこまで来ていた。武断派と義隆に

薫陶する文治派の対立があっても不思議はない。大内家の分家で筆頭家老を代々務めた陶隆房(後

の晴賢)は武断派であり、文治派の中心は相良武任だった。出雲遠征が失敗に終わってから、義隆は

政治も軍事も投げ出して学問・遊興三昧の殿さんになってしまった。そして1551年、首謀者陶隆房等

家臣団に追われた義隆は、わずかばかりの兵を連れ、長門に逃げ、大寧寺で自刃する。44歳だった。

義隆を討った陶隆房も、4年後、安芸・厳島の戦いで毛利元就に滅ぼされた。そして毛利の時代がや

って来たのだ。

常永寺:毛利元就の長男・隆元の菩提寺である。少輔太郎時代、大内氏の人質として3年間を過ご

した隆元は、人質時代に元服し、大内義隆の「隆」の字を貰って義元となった。元就より8年も早く41歳

で没した義元を祭る常永寺は、最初安芸国吉田に創建されたが、毛利氏が関が原の戦いに敗れ、中

8ヵ国から防長2ヵ国に削封された時、山口に移された。その後山口の中で何度か移転したが、1863

年からこの地にある。常永寺で何と言っても有名なのは、本堂の北にある「雪舟庭園」。29代政弘が京

都の金閣寺を模そうと山水画の巨匠・雪舟に命じて作らせた枯山水石庭である。雪舟は、1420年備中

に生まれ僧となり京都・相国寺で修行を積みながら絵も習得しだが、40歳前後に山口に移って「雲谷

庵」で絵を描いた。雪舟は1467年に遣明船で中国に渡り絵の勉強もした。その明で得たイメージを庭

に実現したようだ。本堂の裏手に回ってみると、900坪の土地に平坦部分を内庭とし真中に心字池があ

る。芝地の石が印象的だ。周囲は、竹林やなだらかな坂道になり、大内教弘の正室の墓や雪舟の筆塚

もある。周囲の小道をほぼ一周する手前に聴松軒という四阿(あずまや)があり、そこからの庭の風情が

ことに良い。

  

瑠璃光寺:ここの五重塔の写真を見て「山口に行きたい!」と思った。こんなに素晴らしい五重塔を

持つ山口市とはどんな所だろうと興味がふつふつと沸いて来たのだ。その思いは裏切られなかった。

それどころか、写真では味わえない完璧なまでの美しさを目の当たりにして暫らく呆然と立ちすくんでし

まった。これこそ大内氏の繁栄の象徴だ。しかもこの地に560年前から建っているのだ。

応仁の乱で戦死した25代義弘の菩提を弔うために、その弟26代盛見が建立始めたが、盛見も九州

で戦死、それを引き継いだ27代持世も嘉吉の乱で戦死する。28代の教弘の代になってようやく完成し

た。その間40年。大内氏の執念のようなものを感じる。高さ31.2メートルの五重塔は1442年に完成し

た。しかし、ややこしいのは、この五重塔が建てられた頃、ここは大内義弘が建立した香積寺(こうしゃく

じ)だった。その後、毛利氏の寺となった香積寺は、幕府の毛利封じ込め策の一つとして萩に移封され

た後、萩に移転して洞春寺になってしまった。その時、五重塔の移築も計画されたが、山口の人々が必

死に嘆願し、ここに残されることになったと言う。残ったのは良いが、寺無き後の田んぼの真中に、80年

以上もポツンと寂しく建っていた五重塔。しかし、1690年その跡地に陶弘房の菩提寺である瑠璃光寺

が、吉敷郡仁保村から移転して来たのだ。陶弘房といえば、大内義隆を実質的に倒した陶隆房の曽祖

父に当たる。陶氏も元はといえば、大内家第16代盛房の弟・盛長が祖であるから、大内家の一族では

ある。その一族同士が争って、やがては両家とも滅び、五重塔が残された大内家の菩提寺・香積寺の

跡地に陶氏の菩提寺瑠璃光寺が仲良く隣り合っているというのだから、時代を超えて、大内一族に戻

ったとも思えるのだった。

境内には、山口開府の祖、24代大内弘世の像や、五重塔をこよなく愛した雪舟の像、そして故郷・

宮崎に帰省する途中に立ち寄った若き若山牧水の「はつ夏の山のなかなるふる寺の古塔のもとに立て

る旅人」の歌碑もある。雪景色の五重塔の景色はまた味わい深く、ライトアップされた夜は、若者のデー

トの名所になると言う。国宝というが、私にとっても宝のような塔であった。

洞春寺:毛利元就の菩提寺。元就は安芸の郡山城に75歳で没した。毛利家を辿る時、頭に入れ

ておかねばならないのは、小領主だった安芸国吉田時代、元就の代で大内氏の跡を次いで中国8

ヵ国を制覇した広島時代、関が原の戦いで敗れて防長二国に減封されてからの山口時代、更には

指月城を築いた萩時代、そして幕末の政治を有利に進めるために再度移った山口時代と5回本拠

地が変わっていることである。それに従って、菩提寺も移ることになった。1573年、孫の毛利輝元が

祖父・元就を弔って建立した洞春寺は、吉田→広島→山口→萩と転々とし、1863年藩庁の移転に

伴い、またもや山口に移る。しかも、前述した常栄寺が大内盛見の建立した国清寺の故地にあったも

のが、宮野に移り、その跡の現在地に移された。あぁ、何てややこしいんだ。山門を入ると、長い参道

の右脇には幼稚園などがあって「これが元就の菩提寺なのだろうか」とやや意外な思いもあった。滝

の観音寺から移築された観音堂も室町時代のすぐれた遺構として重要文化財に指定されているが、

とても地味な建物。その横の苔むした地面にポトリ、ポトリと落花したピンクの椿が、まるでこの地に生

きた人々の栄枯盛衰を伝えているようで、考え深かった。森永杉洞老師の「京に似し 美き山川 風

薫る」の句が残されていた。

 

    洞春寺参道               重要文化財 観音堂               観音堂横の椿の落花

 洞春寺から右手の石段を登っていくと、香山公園。毛利家13代毛利敬親、14代元徳の墓の前に

ある石畳は「うぐいす張りの石畳」と言われているそうで、たくさんの人が墓所の前の石段に向かって

手を叩いたり、声を上げている。私もやってみた。あらら〜不思議。拍手の音が遥か向こうから大きな

音で戻って来る。足を床に叩きつけてみると「バタバタバタ」と返って来る。コダマと同じ構造なのだろ

うが、反響が大きく聞こえる構造がこの石段と石畳にあるのだろう。お墓の前で不謹慎とは思いつつ

も、面白くて何度も何度もやってみた。

   

       うぐいす張りの石畳  石段の上は13代毛利敬親、14代元徳の墓

旧山口藩庁門:幕末になって長州藩は萩にいたままでは動乱の時代に乗り遅れると、毛利敬親は

藩政の本拠地を山口に密かに移した。「その時」に備えたのだ。もちろん、幕府には内緒である。だ

から「藩庁」ではなく、飽くまでも「政事堂」と称す。萩から度々この「政事堂」に足を運ぶ武士達は、

外向けの言い訳として、山口市内にある有名な湯治場「湯田温泉に湯治に来た」と嘘ぶいていたの

だそうだ。やがて長州藩は、薩摩藩と共に討幕・明治維新の中心となっていく。山口政事堂の表門が

現在も残っている。

 

  旧山口藩庁門               山口県政資料館(旧県庁)        春の桜と夏の蛍で有名な一ノ坂川

 ここまで、故郷・山口が大好きというタクシーの運転手・阿部光博さん(山口交通)さんとおしゃべりし

ながら楽しく回って来た。山口市は、県庁所在地としてはこぢんまりとした街だが、減り続ける地方都

市の中で珍しく人口が増えているのだと言う。その理由は、住みやすさにあるのではないかと阿部さ

んは言う。小郡や徳山に職場を持つ人が山口に家を建てて通う人が多いらしい。静かだが適当に便

利で、何より美しい街が山口。「美味しいものは余り無いけど、外郎は名古屋のものよりさっぱりしてう

まいと思っております」なんて話もしてくれた。大内氏が山口を京都に模して街作りをした時、加茂川

に見立てたのが一ノ坂川で、春の桜と初夏の蛍の川として市民に愛されているとか。「是非お連れし

たい」と向かったのは、亀山公園にある山口ザビエル記念聖堂。大内義隆の庇護を受けて山口を拠

点に布教活動をしたザビエルの来訪400年を記念して建てられた。記念聖堂の鐘の音は、阿部さん

はもちろん山口市民の生活のリズムを刻む音だった。それが1991年に焼失した。聖堂の真下には消

防署があるのだが、この火事の時、消防署は真上の記念聖堂の火事に気がつかず、電話で「頭の上

の火」を知ったのだそうだ。98年に熱心な再建運動の末、現在の記念聖堂が完成した。その設計・

デザインが余りにモダン過ぎて、中高年には評判が悪いらしい。しかし、焼け残った鐘をカーンと搗

いて「ほら、いい音がするでしょ? これが山口の音ですよ」と阿部さんは穏やかに笑った。

  

    再建された山口ザビエル記念聖堂       焼け残った鐘        井戸端で布教するザビエルの像

森鴎外を生んだ鯉の街・津和野

 昔「an-non族」が大流行したことがあった。女性雑誌「anan」と「non-no」が若い女性に爆発的に売

れ、平綴じの雑誌を丸めて片手に持った女性達が、京都に津和野に押し寄せた。何か惹き付けられる

街だと感じながら、若い女性群に混じっては行きたくはなかった津和野。そう思っているうちに長い年月

が過ぎてしまった。「萩・津和野」とセットで呼ばれるため山口県と思われがちだが、津和野は島根県に

ある。山口から1両の山口線に乗って1時間15分。列車の左手に津和野川や津和野の街並みが見え

て来た。正面のなだらかな山の山腹には奇妙な朱いものがある。あぁ、あれが太鼓谷稲成神社か。朱

の鳥居が重なった塊が上に向かってジグザグに曲がっている。線路の右側も山が迫っていて、両方が

山に挟まれた細長い街が津和野だった。駅に下り立ち、早速太鼓谷稲成神社に向かう。神社近くにあ

る食堂で先ずは腹ごしらえをしてから。全国あちこちを仕事で旅をしている知人が「津和野での昼食に

すすめたいのは、太鼓谷稲成神社近くの味の濃い稲荷寿司」と言うのだ。神社が近づいて来ると、ここ

も稲荷寿司、あそこもそう、といった具合でどの店が彼の言う店かわからない。でも、何となく「ここだ!」

と確信めいたものがあって入ってみる。「美松食堂」という小さな店でおばあさんが給仕をしていた。稲

荷寿司と山菜蕎麦のセットを注文。目の前に出されたお稲荷さんは、チョコレート色に味付けされた油

揚げを三角に切って酢飯を詰めたものだった。油揚げの味の濃さが酢飯にしっくり溶け込んでうまい! 

お土産に6個買いこんで、いざ出発。

  

        「美松食堂」のお稲荷さんとおそばのセット                     弥栄神社のご神木

太鼓谷稲成神社1773年、津和野の7代藩主・亀井矩貞が三本松(津和野城)の安穏鎮護と住民の

多幸を祈願するために、伏見稲荷に勧請したもの。日本五大稲荷神社の一つに数えられる。ここは「稲

荷」ではなく「稲成」と書く。弥栄神社の裏に入り口があり、目にも鮮やかな朱い鳥居がギッシリと隣り合

って階段に覆い被さるように延々と続く。1本1本の鳥居には、○○年○○寄進と筆書きがあり、随分遠

いところの会社や個人が寄進していることが知れる。鳥居に囲まれた空間の階段を暫く上がると、暫く

平らとなり、そして又階段。次には方向を逆にし、また延々と続く。階段が長い割に構造上の工夫をさ

れているせいか、それほどは疲れない。それより目に入るものが朱、朱、朱。幻想的な世界に思わず、

ふ〜とため息をつく。何度かジグザグを繰り返したところで鳥居が少し途切れて、今上って来た鳥居が

下に見え、津和野川も随分小さくなった。250メートル、1000本以上の鳥居のトンネルを通過したところ

で、ようやく社殿に到着。これもまた鮮やかな門構えが出迎えてくれる。社殿の前の展望場所から津和

野を見渡すと、電車の中で感じた「山に囲まれ真中に津和野川が流れる細長い街」だということを改め

て実感した。建物の屋根が独特の淡い赤が多いと思ったら、後刻聞いたところでは、石見瓦をなるべく

使用しようという取り決めがあるとのこと。街並を大事にする津和野を見下ろすと、良い眺めだった。

目を閉じても朱色がチラツクような朱い時間を過ごしてから山を下る。同じ道はツマラナイから津和野

高校に出る車道を歩く。途中でリフトがあり、これに乗って山を上り、徒歩で下りたり上ったりすると津和

野城址があるのだが、先を急ぐことにする。山を下り切ったところに「津和野伝統工芸舎」という和紙の

店があった。津和野は石州和紙の産地なのだ。店の奥には手漉き場があり、職人が作業をしていた。

希望すれば体験教室のようなものもやってくれるらしい。子供の頃信州に住んでいたが、濃川という小

さな川の先に手漉きの和紙の工場があったから、何度か和紙を漉く様子は見ていた。和紙の持つ独特

の優しさや温もりが好きで、今も個人的に使う葉書は耳つきの和紙に決めている。店の中には、和紙製

品がずらりと揃っていた。和紙の巻紙にサラサラと手紙を書けたらどんなに良いだろうと憧れるが、書の

心得が無いので諦める。

森鴎外記念館:津和野川を渡って少し歩くと、森鴎外の旧宅がある。森鴎外(本名・森林太郎)は、

1862年文久2年1月19日この家で生まれ、1872年明治5年に上京する10歳までを過した。『ヰタ・

セクスアリス』は、この家で育った頃の記憶を元に書かれたと言う。その奥には、森鴎外記念館があって

鴎外の生涯や作品について知ることが出来る。軍医にして、帝室博物館総長兼図書頭、小説家、評論

家、翻訳家。こんなにたくさんの仕事、職業を明治から大正にかけた60年間でやり遂げた鴎外は、どれ

もレベルは一級の高みに達した。一度離婚もしている。凡人の何倍も生きた人は、ここで生まれ、津和

野川に遊び、太鼓谷稲成神社の朱い鳥居を見上げて学び、暮らしたのだ。10歳で上京してから、生涯

一度も津和野に帰らなかった鴎外だが、死ぬ時には「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言

を残したのだそうだ。一度も帰らずとも、鴎外の脳裏、心には、いつも津和野の風景があったに違いな

い。明治時代の啓蒙思想家・西周(にしあまね)の旧居も、津和野川の向こう岸にある。

  

                  森鴎外旧宅とその内部                          森鴎外記念館と内部

 何度も雑誌やテレビで見たお馴染みの津和野の風景にようやく辿り着いた。鴎外記念館から津和野

駅に向かって歩き、津和野大橋を渡ったところが殿町通り。土塀沿いに掘割があり、真鯉、緋鯉がむら

むらと泳いでいる。昔から津和野の人は決して鯉を食べないと聞いていたが、中には食べる人もいるら

しいし、鯉料理を出す店もあるようだ。それにしても鯉はどれも丸々と太って大きい。人通りの多いメイン

ストリートの掘割にいるとは思えない安心し切った様子だ。捕えられて食べられるなど、ツユほども疑っ

ていない。右に西周、森林太郎も学んだ藩校養老館、左に多胡家老門。かつての津和野の風情がそ

のまま残るようなこの場所に、何とゴシック風の津和野カトリック教会があるのだ。殿町通りは、そのまま

本町通りとなって駅に至る。協会前の説明によると、隠れ切支丹を弾圧した光琳寺跡に1951年建設さ

れた「乙女峠記念聖堂」を建立したドイツ人神父・パウロ・ネーベルが建てたのだそうだ。教会の内部は

畳敷きだった。

  

津和野から萩へ

 津和野から萩までどうやって行くのか。距離はさほど離れていないようなのに、鉄道地図で調べると津

和野から山口線で益田駅、そこで山陰本線に乗り換えて東萩の出るのが一番適当のようだ。しかし津

和野と益田、萩は三角を結んでおり、底辺Aから頂点Bに向かい、また下りて底辺Cに行くのはムダな

気がする。時効表を調べると鈍行を乗り継いでで117分かかる。何とかAからCに行く方法は無いっか

なぁ。バスだ!バスという手があった。ありました、防長交通の長距離バスが。津和野BC17時7分発の

最終バスで東萩に向かった。乗客は7名。途中トイレ&喫煙休憩を入れて97分。2450円であった。今

夜泊まる宿は萩グランドホテル。バスの運転手さんに聞くと吉田町で降りるのが一番近いらしい。翌日

知ったのだが、吉田町の名前は毛利家の広島の出身地「吉田」に因んでつけられたのだとか。萩グラン

ドホテルは、日本ホテル協会に加入している唯一のホテルだったので予約した。萩を代表する由緒あ

る日本旅館が2軒あることを知ってはいたが、今回は宿を楽しむより街をたくさん見たい。機能優先だ。

ホテルは大きく外観は立派だが、内装などは結構オツカレのご様子だった。団体客でごったがえしてい

た。前払いで1泊朝食付き税込み1万500円。夕食を萩らしい店で取りたい。事前に調べたものの見つ

からない。仕方なくホテルのフロントで聞いた。「はい、何軒かお勧めの店があります。ここは・・・・」と用

意してある地図を指しながら色々と教えてくれる。自分のホテルにも大きなレストランがあるのに、見上

げたサーヒス精神だ。勧められた中から「いすず」に行くことにした。「とても面白い名物女将がいます

よ」という言葉に引かれたから。饒舌で明るく威勢の良い女将さんだった。萩の近くの島出身で、家族が

漁師をやっているとか。だから店の魚も家族直送である。良い型のオコゼが入っているというので、刺身

と残った骨は唐揚げにして貰う。一匹丸ごとのオコゼは食べ甲斐がある。ウニも食べる。ついでに雑炊

も。息子夫婦の話やら店の経営の難しさやらを聞かされ、お客同士のお喋りもあって、初めて来た店と

は思えない程盛り上がった夜だった。

   

          萩グランドホテル外観        ツインの部屋             ブッフェスタイルの朝食

    

 翌朝、ホテルの近くの野山獄跡、岩倉獄跡を見に行った。1645年9月岩倉八郎兵衛が、道を1つ隔

てた野山家に酒に酔って切り込み、家族を殺傷するという惨劇事件があったそうな。藩は両家を廃して

藩獄とする。野山家跡を上牢として士族用に、岩倉家は下牢として臣民を繋いだ。上牢の野山獄には

吉田松陰が海外渡航を試みて失敗して繋がれたし、その後高杉晋作も投獄された。アメリカに行こうと

密航を企てた仲間の金子重輔は下牢に入れられ翌年亡くなった。松蔭は、1年2ヶ月過したこの野山

獄で600冊の本を読んで修養に務め、周囲に教え始めていたというから唸る。これが後に松下村塾に

発展していくことになる。住宅街を歩いていると、ひょっこり野山獄跡、岩倉獄跡がある。歴史好きの人

間にとって萩とはそんなスゴイ街だ。

毛利家の萩の街をまわる

 萩の町を訪れたのは数十年ぶりだ。大学3年の夏休み、静岡から別府まで地方公演旅行をした後、

九州一周貧乏旅行に出かけ、その帰りに萩に立ち寄った。貧乏旅行を共にした女4人の中の1人に惚

れまくっていた下関出身の男性がオンボロ車で案内してくれた。彼は彼女だけを案内したかったのだ

が、ウルサイ3人がついて来て、心中「チェッ!」と思っていただろう。大昔のことだ。

 萩の町は得意な定期観光バスに乗ることにする。萩という町は、どうもタクシーや車で回ると、進入禁

止の道や狭い道が多くて不便のようだ。萩バスセンターで午前8時半出発の防長バス「萩めぐりコース」

乗車。客は私1人きり。バスガイドさんが「東萩でもお客さまをお乗せしますので」と言ったが、東萩駅で

も誰も乗らず、結局運転手さん、ガイドさんの2人に客は私1人という豪華な観光バスになった。大型バ

ス貸切りだもんな。指月城(しづきじょう)に向かう。維新後に城は取り壊された。関が原の合戦で敗者と

なった毛利家は減封されて山陰の萩に押し込められた格好だったが、倒幕・維新では薩摩藩などと共

に「勝ち組」となった。それでも廃藩置県で指月城は廃城となり取り壊されて、今では石垣がわずかに

残るのみだ。どこの城址も侘しい。

   

100以上もあるという萩焼の窯元の中から城山窯を見学する。毎日同じ時刻に到着する定期観光バ

スの客を窯元の販売所の方が2人お出迎え。但し下りた客は私ただ1人で申し訳ないような気もする。

「一楽ニ萩三唐津」の言葉通り、萩焼は茶器の世界で代表的な焼物である。陶器の世界は奥が深くて

難しいことはわからないが、とても好き。中でも萩焼が一番好き。使えば使うほど「萩の七化け」と言われ

る貫入(ひび)が入り、何とも言えない味わいが出て来る。萩焼は防府の土を主に使うが、土の目が粗

いために釉薬との収縮率が違うことから貫入が入るのだという。昔は殿様がお使いになる高級品だった

が、明治以降庶民も使えるようになると、陶器の底の高台に三角の切れ目を入れてキズモノ扱いしたと

いう習慣が今も残っている。登窯では、赤松を千束使用して40時間、1300度の高温で焼き続けるのだ

そうだ。萩の街を歩きながら気に入った湯呑を2つ買い求めた。

武家屋敷をブラブラ歩く。客は私1人だから、ガイドさんと2人旅のような恰好でおしゃべりしながら歩

く。高杉晋作と伊藤博文が幼少の頃学んだ金毘羅社、青木周弼旧宅、木戸孝允旧宅、田中義一生誕

の地、高杉晋作旧宅、菊屋家住宅などを見る。木戸孝允の旧宅には、中に入ってじっくり見学した。木

戸孝允といえば、桂小五郎だ。代々藩医の家柄で、和田家から隣家の桂家に養子に入った。医者の

家らしく、患者が出入りする玄関と家族用のそれが分かれ、家はさほど大きくは無いが凛として清々し

い。庭はかなり広く蘇鉄なども植えられている。端正な容貌の孝允の写真と共に、養子に来る前7、8歳

頃の書も掲げられている。「今日」という書には、朱字で「以っての外よろし」という最高の賛辞が送られ

ている。やっぱり大きなことを成す人は幼少の頃より何事も達者でおられたのですなぁ。芸者常松だっ

た松子夫人の和装と洋装の2つの写真もあり、キレイな人だったんだ、とつくづく感心。これなら当時の

身分違いという障壁を越えての大ロマンスになる。和田小五郎から桂小五郎、後に木戸貫治、木戸準

一郎と名前を次々と変えた理由は何だったのだろう。神道無念流の剣の達人でありながら、生涯一度も

人を切ったことが無い「知の木戸」は、薩長同盟を実現し、明治政府でも重責をこなしながら45歳で生

涯を閉じた。

   

ね?超ハンサムでしょ?       「以っての外よろし」             誕生の間

   

和装と洋装の松子夫人  美人だわぁ              和田家の庭

住宅街を歩いていて気がつくのは、夏みかんの木の多さだ。青海島に原種があるというが、5月から

6月に白い花を咲かせ、12月から8月にたわわに実をつける。食用はもちろんだが、鑑賞用もあって実

を取らない。親の代の実に子供の実、更には孫の実までが一緒に賑やかになっている。代々の実があ

るから「ダイダイ 橙」と言うと聞いた。なぜ萩にこれほど夏みかんが多いのか。それは元武士層の失業

対策だった。明治維新で倒幕の中心になった薩摩、長州、土佐、佐賀藩が中心となって官軍を形成し

たいたが、政府は徴兵制を敷いて軍事力を強化しようとした。全国民に苗字が許可され、1876年廃刀

令が公布される。同年士族への俸禄を廃止し、数年分の額面公債証書を発行して士族には利子だけ

が払われることになる。廃刀令でプライドが傷つけられた士族は生活も困窮することになった。1874年

には佐賀の乱が、76年熊本・神風連の乱、同年福岡・秋月の乱が起こり、前原一誠ら500名が蜂起し

た萩の乱もまた76年に起こった。この流れの最後が鹿児島・西南の役で西郷隆盛は、統幕、維新の中

心人物だったにも関わらず、士族の苦しみを共にして生涯を閉じた。そんな士族の失業対策の1つが

夏みかんの栽培だったのだ。今でも夏みかんは丸漬け、砂糖漬け、ゼリー、ジュースなど様々に加工さ

れて、萩の名物である。

    

       武家屋敷               多くの家の庭には橙の木がある      高杉晋作旧家

松陰神社、松下村塾を訪れた後、私1人を乗せた定期観光バスは東光寺に行く。初代藩主毛利秀

成と偶数代の藩主の墓が市の南にある大照院あり、ここ東光寺には3代から11代までの奇数代藩主の

墓がある。因みにそれ以降の13代敬親〜15代の墓所は、山口市の香山公園にある。1691年に3代藩

主吉就が創建した黄檗宗の寺院で、大照院が臨済宗南禅寺派。墓所が代々のお殿様で一代づつ違う

お寺に葬るのは良いとして、黄檗宗と臨済宗南禅寺派で違ってしまうなんてヘンではないですかぁ。そ

んなことを思いながら、寺の裏手の墓所に行ってびっくり! 鬱蒼とした林の中に絶妙の角度の緩やか

な坂に500基並んだ石灯篭の列に息を飲む。壮観だ。石灯篭の間を上り、正面の墓には正面に3代吉

就が右側に左側に亀姫の墓がある。左端が5代、中に9代、右端は7代、内側に11代。面白いことを

発見した。右側の7代と11代は別として、藩主の若死に比べて女性側の長生きなこと。3代は亡くなっ

たのは27歳だが奥方は83歳、5代は55歳で品姫は77歳、9代は28歳なのに幸姫は77歳まで生

きられた。殿様の墓を作る時、奥方の墓も一緒に作るらしいのだが、その時存命であれば、石に彫る文

字は朱色を塗るというのが作法だったようだ。

  

萩の白魚祭りと椿祭り

 観光バスは、たった1人の客を乗せて走り回り、3時間半後バスセンターについた。大型バスを借り切

って、懇切丁寧な説明を聞き、これで2330円だった。城下町などでボランティアのガイドを何度か見か

けたが、そんなこともあって観光バスの需要はどんどん落ち込んでいるという。でも、私は好きだから、こ

れからも乗りますよ。バスを降りてから観光協会に行く。これも1人旅には強い味方だ。そこで今笠山で

椿祭りをやっていること、明日3月3日にしろ魚祭りが行われることを聞いた。しろ魚か。昼に何を食べ

ようか決めていなかったので、早速「中村」を教えて貰って向かう。島根の宍道湖や博多で食べるのは

白魚(しらうお)で白魚科、体長10センチ位、「しろ魚」はハゼ科で4〜5センチ。萩では松本川に産卵

のために上がって来るしろ魚を2月中旬から3月にかけて四ツ手網を使って漁をするという。中村で座

敷に通され、3千円のしろ魚ミニコースを注文。しろ魚寄せ、おどり、唐揚げ、かき揚げ、卵とじ汁、しろ

魚ご飯、漬物とまさにしろ魚尽くしだ。鉢の中で逃げ惑うしろ魚を網ですくって、口の中で暴れているの

にアグアグと食べる。ごめんね、でも美味しいよ、と感謝しながら頂いた。

     

   

 タクシーで藍場川の旧湯川家を見学してから椿祭りを見に行くことにした。藍場川は、当初田畑に水

を引くただの小溝だったが、その後開削されて農業水路以外に川舟を通して薪などを運ぶようになっ

たと言う。幕末川端に藍染め場が出来たことから、いつの間に藍場川と呼ばれるようになったそうだ。昨

日行って来た津和野の掘割よりは随分と細いが、それでも鯉が泳いでいて良い風景だ。昭和まで実際

に住宅として使用されていた湯川家に入ってみた。川から引き込まれた水は、庭園の池に引き込まれ、

それが叉川に戻るように設計されている。台所にも風呂用にも藍場川の水が家の中に誘導されて使わ

れた様子がそのまま残っている。この屋敷にも品の良いお爺さんがボランティアの説明役として座って

おられ、雛祭りだからと古いお雛様を飾ったからご覧になって下さいと親切に声をかけられた。静かさ

の中に風情を感じる一帯だ。

   

 タクシーは橋を渡る。萩の街の中心は、松本川と橋本川、そして日本海に囲まれた阿武川デルタ。大

きなデルタ地帯である。鉄道はそのデルタを避けて走っているから、街の中心に行くには、東萩、萩、

玉江駅からはいずれも橋を渡らなければならない。北東の笠山、その先の虎ヶ崎灯台を目指している

のだが、途中大きく湾が食い込んでいるため、その分遠回りになる。椿祭り期間中は、車の乗り入れは

禁止とあったが、行ってみればタクシーはぎりぎりの所まで行けるのだった。椿は萩の花だ。つばき→

つはき→はぎ となったかどうかはわからないが、笠山から約10ヘクタールの地域に2万5千本の野

生の椿が保護され群生林となっている。種類は数十種類もあるらしく、祭りの広場では代表的な椿の展

示もあった。その場所に行けば、椿が延々と咲いているというイメージで行ったのだが、実際はハイキン

グのようだった。坂を上って椿の林に入っていく。鬱蒼として昼間なのに薄暗い程椿の木がびっしりと生

えている。木が高いから椿の花も見えるものは限られている。その花がどれほど多いかということは散っ

た椿で見るしか無いようだ。ところどころに案内板が出ているが、それが必要な程、道に迷うのではない

かとの不安になってしまう程広いのだ。そんな山道を歩いていて、急に明るくなったと思ったら、そこは

海だった。ゆうべ飲みに行ったお店の女将さんの出身島が目の前に見える。海を見てほっとした。椿も

こんなに団体でおられると恐い。

   

帰りは石見空港から

 バスの右手には日本海が広がる。もうすぐ日が沈む。萩バスセンター午後4時15分発の石見空港

行き。仕事で広島に来たついでに、山口、津和野、萩と回って来た。たった1泊2日の旅なのに、毛

利家15代、そして大内氏31代の長い時代をいっぺんに遡って旅したような気分だ。この旅で見聞き

したことが未消化のまま頭の中をぐるぐると回る。毛利氏は、小領主だった安芸国吉田時代、大内氏

の跡を次いで中国8ヵ国を制覇した広島時代、関が原の戦いで敗れて防長二国に減封されてから

の山口時代、更に幕府から奥の地に押し込まれた萩時代、幕末の政治を有利に進めるために再度

移った山口時代と5回本拠地を変えたが、偶然にも広島から山口、萩と旅することになった。

萩の街は「庭園都市」を目指しているそうだが、指月城は別として、これほど破壊されていない城

下町は珍しいのではないか。ある人は「萩は忘れられた街だから残った」という趣旨のことを書いてお

られた。江戸幕府は有力大名だった毛利氏も交通不便な萩に押し込めておけば安心と思っていた

のだろうし、その毛利氏自体が幕末の動乱を有利にするために萩を捨て山口に出た。維新があって

有力者は江戸(東京)に移り、一部はようやく萩に戻ったが萩の乱で壊滅してしまう。忘れられた街・

萩は、だからこそ、今の時代にあの頃をそっくり残すことが出来ているというのだ。そうかもしれない。

忘れられる、という屈辱的な過去はあっても、現在ある財産はかけがえの無いものだ。

山口は、毛利氏の街でもあるが、やはり大内氏が作った街だ。落ち着いた風情があり、京を模した

というから雅も感じられる。戦国時代に、あの土地に美しい西の都があったのだ、と想像することが楽

しい。バスは石見空港に近づいている。森鴎外が石見人として死にたい、と言った石見である。

                

萩市内の「長屋門珈琲」店

                                                    おしまい

旅した日:2002年3月        書いた日:2002年4月〜8月

 

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