パクパク日記6年4月3週

    ボスニア・ヘルツィゴビナ、モンテネグロまで足を伸ばしながら痩せる 歯歯歯

ドブロブニク ボスニアのモスタール橋

* 今週も歯の不調のため、食事は不自由でした。本来のメニューで食べなかったものは(  )

      書きとし、写真も小さくしてあります。その国でどんな料理かご覧になりたいと思いましてね。

4月 17日(月) 晴れのちうす曇り

朝 クロアチア・スプリット 「ホテルマリヤン」 朝食ヴュッフェ:トマトジュース、ヨーグルト、プリン、

      コー ヒー

    ホテル近くのヨットハーバー

旅も中盤、疲れが出て来たのか起きたら6時半だった。歯の調子は益々悪く、皿に取ったチーズもパン

も全くイケナイ。トマトジュースとヨーグルトとプリンで空腹を満たす。ホテルの前は激しい交通量の道路

を挟んで海。部屋もオーシャンビューで眺めは良いが、車の騒音がなぁ、煩くてなぁ。食事後、道路を渡

って写真を撮る。海の右方向にはスプリットの旧市街が見える。振り返って外観の凄まじさにびっくり。

  

城の中心広場ペリスティル      男性5人のアカペラ合唱グループ「Klapa」

スプリットは、クロアチア第二の都市であり、アドリア海沿岸では最大の都市でもある。そして歴史も古

い。ローマ皇帝ディオクレティアヌス(25年―313年)は、自ら退位した後、故郷に近いここスプリット

に隠居用の宮殿を築いた。ディオクレティアヌス帝は、サロナ近郊の貧しい農家の出身で、平民として

兵士になってから異例の出世を続け、ついに39歳で皇帝にまで上り詰めた人。やがてローマ帝国もキ

リスト教をミラノ勅令により認めることとなるが、ディオクレティアヌス帝は弾圧した最後の頃の皇帝であ

る。ローマ帝国は1人が統治するには余りに広いと、領地を4分割して統治者を3人増やしたり、税制

改革を行ったり、ローマに一番大きな浴場を作ったりと、なかなか活躍もした人らしい。ディオクレティア

ヌス城は、世界遺産に登録されて保存もされているが、その一部には人々が住み、建物も実際に使わ

れている。城の中心広場ペリスティルでは、男性5人のアカペラ合唱グループが観光客に歌を披露し

ながらCDを販売していた。唸る程のうまさではないが、悪くもないので2千円のCDを購入。今日はイ

ースターマンデーで祝日。店は例外なく閉めていて、休日を過す人々はカフェにドッと押し寄せていた。

昼 クロアチア・スプリット 「Adriatic Graso」 (ツナとチーズのカナッペ)、小海老のリゾット、

      魚のフ ィレ 温野菜添え、ジェラート、カプチーノ

  

    キラキラ光る海を見ながら

店は休みでもレストランは開いていて有り難い。旧市街とは湾を挟んで反対側の眺めの良いレストラン

でランチ。リゾットはブドウの房に見立てて出て来た。ちと固い。食事の後半、話の流れでツァーグルー

プのN村さんが同じ高校の卒業生であることが判明。聞いてみると、私が3年の時、1年生だったのだ

って!「え?○○君に憧れていたの?私付き合っていたけどフッタわよ」なんて大昔の話して笑った。

夜 クロアチア・スプリット 「Varos」 野菜スープ、パン、(サラダ、ダルマチア風肉料理とニョッキ)、

     魚、アップルパイ(りんごだけ)、ビール、白ワイン、赤ワイン

  

  

午後はるフィータイムだった。結構暑いし、店も開いていないのでは買い物もできない。じゃ部屋に帰っ

て読書でもしよう。ベッドに寝転んで本を読んでいるうちに、昼寝に突入。のんびり過した。夜は旧市街

のレストランへ。スープは6,7人用のボウルで出て来たから、たっぷりよそってと。食事前、レストラン

前で地元のおじさん達がビールチビチビ舐めながらカードをやっていた。出て来たら未だやっていた。

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4月 18日(火) 雨のち晴れのち曇り

朝 クロアチア・スプリット ホテルマリヤン 朝食ヴュッフェ

今日もヨーグルトとプリンの寂しい朝食だった。どの位痩せたかな。5キロ?3キロ?1キロ?どうかな。  

  

  

スプリットを出て、暫くアドリア海に沿って走り、バスはボスニア・ヘルツェゴビナのモスタールに向かっ

ている。雨が降って来た。左手には1500メートル級の山が続き、右手のアドリア海も雨に煙っている。

バチーナ湖を見下ろす峠で写真を撮り、1120分国境到着。ちょっと物々しい感じで係官がバスに乗

って来て、一人ひとりパスポートをチェックしてスタンプを押す。今日の目的は、ネレトヴァ川を挟む美し

いアーチの石橋を見ること。モスタールとはボスニア語で「橋の守人」という意味というが、町の象徴と

いうべき石橋は、93年に破壊された。それが2004年に再建され、05年にユネスコの世界遺産に登録

された。橋の袂には、「DON’T FORGET ‘93」と記されていた。ご存知のように、ボスニア・ヘルツェ

ゴビナは90年代の激しい紛争時、最も戦禍が激しかった国であり、その犠牲も甚大であった。今は落

ち着きを取り戻してはいるが、紛争が終わって未だ10年。あちこちで建て直しの工事が進む中で、破

壊されたホテル、ビル、民家などが延々と並び、その無残な姿が当時の激しい戦闘を思い起こさせる。

昼 ボスニア・ヘルツェゴビナ・モスタール 「ホテルERO」 肉入り野菜のポタージュ、(サラダ、

      ポーク カツレツとボスニア風ロールキャベツ)、鱒のフィレ じゃが芋添え、三色ジェラート、エスプ

       レッソ

  

  

ボスニア・ヘルツェゴビナの独立が凄まじい争いになった背景に、宗教と民族が複雑に同居していたこ

とが挙げられる。紛争前、この国はイスラム教徒40%、セルビア正教30%、カトリック教徒20%であり

同時にムスリム、セルビア人、クロアチア人が混じりあって暮らしていた。このモスタールはトルコの影

響を強く受けていて、石橋周辺の土産屋を覗くと水パイプ、トルコ楽器、ナザール・ボンジューの目玉の

アクセサリーなどが並べられ、「ここはトルコ?」と錯覚する程だ。周辺を見回すと、教会の尖塔とモスク

のミナレットが両方見える。ランチはホテルEROで。ERO?ヘルツェゴビナ生まれのクロアチア人をE

ROというのだそうだ。スープ旨いぞ。肉料理の代わりに私は鱒を頂いたが、左に頭があって安心した。

夜−1 クロアチア・ドブロブニク 「エクセルシオール」 夕食ヴュッフェ スープ2種、パン、ケー

     キ2種、ビール、白ワイン、赤ワイン

  

帰路、クロアチアに入ったのに、またボスニア・ヘルツェゴビナへ。たった7キロだけだがボスニア・ヘル

ツェゴビナは海岸線を持つのだ。その海岸沿いのNEUMという町に小さなスーパーがあり、税金がか

からないということで、近隣から買い物に来る人達が多いらしい。ここで土産用のチョコレートを大量に

仕入れていた人が多かったが、私はクロアチアの香辛料だけ。さて、今晩から3泊するドブロブニクに

ようやく着いたぞ。ホテルはエクセルシオールだから夕食を期待したのだが、ヴュッフェ。しかも私が食

べられそうなものは殆ど無い。2種類のスープにパンを浸し、ケーキ2個で食事終了。何か悲しいなぁ。       

夜―2 クロアチア・ドブロブニク 「エクセルシオール」 PIANO BAR ジントニック 3杯

    素敵なピアノを聞きながら

寂しい夕食(もちろん私だけ)を終えて、階段を上ったところにPIANO BARがある。何も考えずに、

一人でカウンターに座る。タンカレージントニックを注文。既にカウンターに座っていたどこかの国のお

ばさんと互いの煙草を1本ずつ交換。ちょっと離れたところでグランドピアノを弾いているピアニストは

素晴らしい弾き手だ。私はクラッシック奏者なのに、お金のためにこんな所でイージーな曲を弾いてい

るのよ、ってなピアニストはよくいるが、この女性は真摯に演奏している。1杯飲んだところに、添乗員

K村さんが通りかかる。もちろん引きずり込む。あなたのお仕事もタイヘンよねー、なんて更に2杯。

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4月 19日(水) 夜中から激しい雷雨朝まで続く 午後から晴れ

 クロアチア・ドブロブニク 「エクセルシオール」 朝食ヴュッフェ:目玉焼き、桃ジュース、ヨ 

      ーグルト、バナナ、ケーキ、コーヒー

    そろりそろりと目玉焼きを半分食べる

昨夜しこたま飲んで部屋に帰り、更にウィスキーを飲んでコロッと寝てしまった。4時半頃ただならぬ物

音に目を覚ます。な、な、なんだ?この音は。くじ引きでとっても広い部屋が当ってしまったが、ブライン

ドのドアを開けるといきなり稲妻を見る。雷の音だったのだ。3時過ぎからゴロゴロドカンと鳴っていたよ

うなのだが、私は寝込んでいた。今日はモンテネグロに出かけるのに、雨も激しくて参ったなぁ。朝食に

レストランに下りて行くと「雷怖いわね」、「稲光が何度もあったわよ」と天候を心配している。こちらに来

てからテレビを全く見ていないが、ニュースはセルビアで大洪水の被害があったと伝えていたらしいよ。

  

         フィヨルドの最奥の町             中世の雰囲気を感じさせる          サントリフォーネ教会 

激しい雨が降る中、モンテネグロに向かう。正式な国の名前は、セルビア・モンテネグロで二国のゆる

やかな連合国家。そのモンテネグロ共和国のコトルを目指す。国境では、クロアチア側でパスポートチ

ェックの後スタンプを押されたが、モンテネグロでは無し。モンテネグロは「黒い山」という意味で、自国

民は「セルナゴーラ」と呼ぶそうだ。首都のポドゴリッツァは、昔チトーグラードと言ってチトーの町という

意味だ。雨は降り続いているが、コトルに到着。この町はフィヨルドの最奥部に位置する。旧市街地は

世界遺産に登録されていて、その中心はトリフォーネ聖人に因むサントリフォーネ教会。サントリーホー

ルと覚えるとわかりやすい。9世紀のカソリック教会の建物だが、1979年の大地震で被害が大きく、

2000年に現在の姿になった。広場で赤ちゃんを抱いた若い母親が、擦れ違いざまにお金を強請った。

昼 モンテネグロ・ブドヴァ 「Jadran」 (イカ墨のリゾット・ツナ・蛸のマリネ)、ツナのスープ、パ

     ン、(ムール貝)、(サラダ)、魚のフィレ、甘い菓子、エスプレッソ

  

  

  

美しいフィヨルドを山の上から眺めて昼食レストランのあるヴドヴァに着く頃には雨も上がり、素晴らし

い天気になった。今回の旅はシーフードのメニューが多いから皆さん大喜び。いいなぁ、私なんかスー

プ+パン、魚ちょっとだけだよ。デザートも食べられん。ムッチャ甘いそうだ。このヴドヴァは、モンテネ

グロの代表的なリゾート地だそうで、食後ぶらぶらと町を歩いてみたが、落ち着いた美しい町であった。  

  

スベティ・ステファン島。オスマントルコから逃れて来た45の家族が住んだ島だが、その家族も徐々に

島を引き上げてやがて無人の島となる。1960年その無人の島を国が買い取り、各戸を離れの客室と

してリゾートホテルを開業する。島ごとホテルということだ。イタリアの大女優ソフィア・ローレンが愛した

ホテルとして知られ、チャールズ皇太子も滞在されたそうな。6ユーロの入島料を払えば、見学も可能。

島に渡る橋の右側はホテルのプライベートビーチ、左側はパブリックビーチだ。島の中は階段が多いが

レセプション、美容院、ショップ、レストラン等もあり、島の一番上には古いギリシャ正教の教会が2つあ

った。4つ星で、一番安くて約3万円、一番高い部屋は20万円だそうよ。どうです?泊まってみては。

夜 クロアチア・チャフタット 「Leut」 野菜スープ、サーモンペースト、海老のクリームリゾット、(フル

ーツカクテル)、ビール、白ワイン、赤ワイン

  

    店の前は夜でも工事中で喧しい

雨上がりの晴天。バスの後ろを振り返ってみると、とてつもなく大きな虹が出来ていた。その色の濃

さに 息を飲む。再びクロアチアに戻ってチャフタットの町で夕食。メインは肉、魚、リゾットの中からのチ

ョイ スだったが、もちろん私はリゾット。生クリームが強過ぎるキライはあるものの、なかなかの美味で

あっ た。ホテルに戻る途中、前方左側にドブロクニクの町の夜景がくっきりと見えて来て歓声があがった。

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4月 20日(木) 晴れ

 クロアチア・ドブロブニク 「エクセルシオール」 朝食ヴュッフェ:スクランブルエッグ、ジュース

6時に起きて、そおっとドアを開けると雨は降っていない。雲も少ない。良し!今日はいよいよドブロブ

ニクの観光なのだ。朝食レストランは大混雑。あらあら、昨夜到着したらしく、日本のグループが2つ加

わっているわ。ミネラルウォーターのタンクの前で、自分のペットボトルに詰めている人たちが何人かい

て、こっちの方が赤面してしまうよね。旅の始め、ブレット湖のホテルでもフルーツを袋に詰めていた人

達がいたが、何故か同じ旅行社の客だった。ヴュッフェなのだからいくら取ってもいいんでしょ?って考

えなのだろうかね。違うと思うよ。その場で食べられるもの、飲むものだけだよ。日本人の恥はヤメテ。

  

   遠くの高地から撮影したドブロブニク     △□は紛争被害のあった建物、赤は完全破壊された    旧市街をアップ

  

町の中心プラツァ通り      大通りから横丁を見れば庶民的な風景        ドブロブニクの港

  

       旧総督邸の柱の彫刻も美しい              旧総督邸の扉             ドミニコ会修道院の中庭

この旅で見学する8つめの世界遺産(自然遺産含む)はドブロブニク。覚えにくい名前だ。私は、どぶろ

く+肉と覚えた。ガハハ。先ずバスでスルジ山の中腹に行き、町を撮影しようとするのだが、一番の撮

影ポイントでは車を停められない。で、かなり離れたところで撮影するとなると絵葉書や雑誌で見た絵

柄とは違って残念だ。ピレ門から城壁の中に入る。世界遺産マークの隣先の紛争の被害状況が地図

に示されていた。ドブロブニクの人は、まさか世界遺産でクロアチア観光の宝のこの町を攻撃すること

は無いだろうと思っていたらしいが、セルビアは攻めた。激しく。その結果、多くの建物が破壊されて被

害は多大であったそうな。中には建物がそっくり無くなってしまったものもあり、それは赤で示されてい

た。それからの十数年で、当時と同じように町は再建され、ぼんやり見れば破壊があったとは思えない

程に修復されている。だが、紛争のダメージのみならず、かつて自由独立王国であったドブロブニクは

1520年、1637年、1667年と何度も大地震に見舞われた。ことに1667年の大地震で旧市街は壊滅的

に崩壊し、長い間をかけて町を再建して来た。更には紛争の十数年前1979年の地震でも被害を受け

たというから、自然という大きな力に壊されては作り直すという長い歴史も持つ町なのだ。フランシスコ

会修道院、ドミニコ会修道院、旧総督邸、大聖堂などを見学した後、港からボートに乗る。希望者だけ

乗ることにしたのだが、全員が「はーい」と手を上げたのでギューギュー詰め。その船がよく揺れるの

よ。海からでしか見られない城壁の外側を眺め、700メートル沖にあるロクルム島を一周して帰って来

た。あぁ酔ったみたい。一周するのに約1時間かかる城壁の上歩きをしている人達が手を振っている。

 クロアチア・ドブロブニク 「Sebastian」 トマトスープ、イカ墨リゾット 95KN+チップ 100KN

(約2千円)

  

ボートから降りたところで、今日は解散。ランチも含めて半日フリーである。レストラン探しも時間がかか

るので、ドブロブニク在住のガイド・ディンカさんの勧める店に。トマトスープ、イカ墨リゾットで約2千円

だ。結構高いよね。城壁歩きをする人、買い物する人など三々五々分れ、私はぶらぶらホテルに戻る。

 クロアチア・ドブロブニク 「Nautica」 (蛸のサラダ)、シーフードスープ、パン、野菜のリゾット、

    (ロ スブター)、魚のフィレ、アイスクリーム(とフルーツカクテル)、ビール、白ワイン、赤ワイン

  

  

ホテルのレセプションは、道路に面した6階相当部分にある。私の部屋は−1階で、最低階。つまり真

ん前が海ということだ。窓の外には海に面した広いベランダになっており、そこで煙草を燻らしながら、

読書をする。時折、目を上げれば海に突き出したドブロブニクの旧市街が見える。そんなことをしての

んびり午後を過した。クロアチアの最後の夜は、旧市街のピレ門近くのレストラン。事前に配られたメニ

ュー表には「蛸のサラダ、ロブスター」と書いてある。そんなこと言っても私は食べられないかんねー。リ

ゾットと魚に代えてねー。ゆっくりしたいところだが、明日の朝はとんでもなく早い。3時起きなんだぞ!

                ________________________

4月 21日(金) 晴れ

朝 お弁当:ジュースとヨーグルト

3時に目覚まし時計が鳴る。んんー眠いよー。415分にバゲジダウン、445分には出発だから

起きなくては。昨夜配られたホテルのお弁当の袋を覗く。食べられないものばかり。ヨーグルトとジュー

スで朝食終わり。3つの日本人グループは何故か同じ飛行機に乗るのだそうで、4時半、445分、5

時出発と15分ずつずらされていて、私達は真ん中だ。真っ暗の中を出発して、625分の飛行機に。

  

    聖マルゴ教会のユニークな屋根           ナイーヴアート美術館入り口           大聖堂の前の広場 

クロアチアの首都ザグレブに着いたのは午前7時20分。早朝なので観光する場所にも事欠き、最初

に行ったのは墓地だった。アッハハ。但し美しい墓地ではありましたが。ユニークな屋根を持つ聖マル

コ教会を見たり、町をぐるぐる歩いたりで時間を費やし、10時会館のナイーヴアート美術館に30分早く

入れて貰ったのは良いが、メインの作品は日本での美術展ににお出掛けとのことだった。農民芸術か

ら始まったナイーヴアートは、ガラスに描くアートに発展した。大聖堂の前で1時間のフリータイムがあ

り、市場をぶらぶら見て歩いたが、早朝出発とあって空腹のツァーの皆さまは買い食いをされていた。

昼 クロアチア・ザグレブ 「Gallo」 (ブルスケッタ)、(蛸・ツナ・ロケット草のサラダ)、野菜のスー

   プ、 パン、(アサリ入りトマトソーススパゲティ)、シーフードリゾット、チェリージェラート、カプチーノ

  

  

このザグレブは、紛争の被害はほとんど無いに等しかったらしいが、1880年に大地震があり、現在の

建物はそれから建てられたものばかりと言う。ランチを摂った店の名「Gallo」はニワトリの意。高級なレ

ストランらしく、スープのお皿は立派。でも量が少ない。午後320分発の便でウィーンに移動した。

夜 オーストリア・ウィーン 「インターコンチネンタルホテル」 (牛肉と野菜のテリーヌ)、野菜ス

   ープ、 サーモンのソティ ポテトのガレット添え、モカパフェ、ビール、白ワイン、赤ワイン

  

たった一晩だけだが、ウィーンに泊まる。ホテルは市立公園に面したインターコンチネンタル。公園側

の部屋で眺めは抜群だが、狭いのが難。夕食は、ホテルの小宴会場の個室で。テリーヌの代わりにス

ープを頼んだら、デッカイにんじん入りのスープが運ばれて来て苦笑した。最後の夜だし、ユーロはい

っぱい持っているとワインを何杯も飲んでしまった。12日間ご一緒した方々もごキゲンで酒が進んだ。

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4月 22日(土)  晴れ

 オーストリア・ウィーン 「インターコンチネンタルホテル」 朝食ヴュッフェ:トマトジュース、マ

   ルチビ タミンジュース、ヨーグルト3種、豆腐入り味噌汁、コーヒー

    味噌汁の豆腐もつぶして・・・

寝ている間に異変を感じて、バスルームに行ってみる。グラグラしていた上の前歯が落ちている!連結

している歯だからダラリと。全部落ちてしまえば、それはそれで良いのに、2本がくっついているから余

計始末が悪い。頭の中は真っ白。うーむ、この状態でどうやって日本に帰るか。それまでの食事はどう

するか。暗澹たる気持ちになってくる。取りあえずは風呂に入ろう。結論。マスクをかける。極力喋らな

い。液体だけ飲む。朝食は抜こうかと思ったが空腹でもあるのでレストランに行く。隣の席には昔ニュー

スステーションで解説をしていた元バンカーのW林氏が座っておいでだ。和食もあって豆腐入りの味噌

汁をよそったが豆腐も潰さないとダメ。ヨーグルトとジュースでようやく命を繋ぐ。大袈裟だわね。歯歯。

  

他の皆さんは11時の出発まで名物のザッハートルテなどの買い物に出かけたが、私はそんな気持ち

にもななれずにホテルの前の市立公園を散歩。咲き誇る花と芝生の緑が美しい。ヨハン・シュトラウス

の有名な像の辺りは韓国から来た大勢のグループが大声で騒ぎまくって写真を撮っていた。ゲンナリ。

昼 ウィーン空港オーストリア航空ラウンジ スープ、コーヒー

夜 オーストリア航空国際線ウィーン=成田 ビジネス機内食:お粥、コンソメスープ、チョコレート

   ケー キ、ティオペペ、ジントニック 2杯、白ワイン 4杯

  

行きは二日酔いでアルコールを全く飲まなかったが帰りは歯が壊滅して食べられない。添乗員のK

さんが客室乗務員に事情を話してお粥まで渡してくれた。お粥とスープを啜り、ケーキは口で溶かす。

              ___________________________

4月 23日(日) 曇りのち雨

朝 オーストリア航空国際線ウィーン=成田 ビジネス機内食:潰したミックスフルーツ

昼 ドトール アイスミルク 180円

夜 家食 きしめん半分

朝の825分成田に到着。タクシーに乗ると道路も日曜日で空いていて、10時には自宅で洗濯を始

めた。メールが230通も来ていた。さて、歯科医も休みの日曜日でどうするか。ダメ元でE藤先生に電

話して相談してみよう。え?夜遅くなるけど往診してくださる?やれ、助かった。小雨の中を午後9時前

先生到着。リビングを診療室に替えて、応急措置をして頂いた。10時過ぎにきしめんを作って食べてみ

たがアカンわ。30分かけて半分食べたところで諦めた。私の今後の食生活はどうなるんでしょ。無酒日

             ____________________________

【今週の振り返り】

今年の3月中旬、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷は、ミロシェビッチ元ユーゴ大統領が拘置所内で死

亡したことを伝えた。同氏は世界の冷戦が終わった後、相次いで独立していく旧ユーゴの中でセルビア

大統領、連邦大統領の地位にあり、最高権力者であった。同時に、ボスニア・ヘルツィゴビナを中心に

展開された悲惨な紛争に大きく関与したと言われていた人物でもある。

バルカン半島の大半を占めた旧ユーゴスラビアのサラエヴォは、現在ボスニア・ヘルツィゴビナの首都

1984年冬季オリンピックが開催された都市だ。そして、1914年オーストリア=ハンガリー帝国の皇

太子夫妻が狙撃されたサラエヴォ事件があった場所でもあり、この事件が第一次世界大戦のきっかけ

となった。この大戦で長く繁栄を謳歌したハプスブルグ帝国(=ハンガリー帝国)も消滅する。中学生の

時世界史でサラエヴォ事件を知り、その後チトー大統領が亡くなったことでタイヘンなことになるぞと世

間が言っていたことをぼんやりと覚えている。そして、1989年にベルリンの壁が崩壊すると、民族独立

の気運が高まり、それに伴なう内戦、紛争が世界各地で巻き起こった。中でも旧ユーゴ、とりわけボス

ニア・ヘルツィゴビナを巡る泥沼のような紛争には世界中が注視した。その記憶が未だ新しい今、その

ボスニア・ヘルツィゴビナに行くことが出来るのなら是非行ってみたいと思った。

6世紀から7世紀にかけて南下して来たスラブ人が、ユーゴの人々の祖先である。南(ユーゴ)のスラブ

(スラビア)でユーゴスラビア。バルカン半島の西側の地域はローマンカソリックの影響を受け、スロヴェ

ニア、クロアチアとなる。一方東側から中央にかけて住んだ人々は東方正教の信者となって、セルビア

人、モンテネグロ人、マケドニア人となって行く。その後、オスマントルコが攻め入って統治した地域に

はイスラム教がもたらされた。それがボスニア・ヘルツィゴビナである。つまり、元は南スラブ人の同胞

であったのだが、信じる宗教、住まう地域が違って行ったところから6つの国が出来上がった。この文章

を書きながら紅茶を飲んでいたら、不謹慎な例えだが、ユーゴはお茶みたいだと思った。紅茶も、ウー

ロン茶も、日本茶も同じ茶葉から作られる。同じ茶葉でありながら、蒸したり揉んだり発酵させたりして

いるうちに、紅茶になるもの、ウーロン茶になるもの、日本茶になるものに分けられる。同じ茶葉であっ

ても、その後のプロセスで「違うもの」になってしまうのだ。閑話休題。この地域の歴史は長くかつ複雑

なので全史を見渡すのは割愛して、いきなり20世紀に飛ぶ。1918年セルビア・クロアチア・スロヴェニ

ア王国が築かれ、11年後の1929年にはユーゴスラビア王国と国の名称を変更する。この王国を牛耳

っていたのは、セルビアのアレクサンドラ国王で、クロアチア・スロヴェニアはトーゼン面白くない。そう

こうしているうちに、第二次世界大戦が始まって、同国はドイツ・イタリア同盟に付く。ナチス・ドイツはク

ロアチアに傀儡政権を作らせて、クロアチアに住むセルビア正教徒、イスラムにカトリックへの改宗を迫

り、拒む彼らを殺害、追放した。そこに登場するのが、共産党パルチザン部隊を率いるチトーで、ナチ

ス・ドイツに徹底的に対抗した。英雄となったチトーは戦争終結後大統領となり、ソ連の社会主義を押し

付けられても抵抗し、ユーゴ独自の自主管理社会主義を確立した。

7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、そして1つの国家。チト

ーはこの複雑な6つの共和国をよく統治したが、1980年に彼が86歳で亡くなると偉大なカスガイを無く

してユーゴでは民族運動が頻発するようになった。91年一番豊かなスロヴェニアはたった11日間のイ

ザコザを経て独立、続いてクロアチアも独立を宣言したが、国内に独立に反対するセルビア人がいたこ

とからセルビア軍との戦いは1年続いた。死者約1万名。セルビア共和国は各国に独立して欲しくない

のだ。ボスニア・ヘルツェゴビナは前述したように、3つの宗教、3つの民族が混在した国だったから、ク

ロアチア人+ムスリム対セルビア人、後にクロアチア人対ムスリムの戦いにまで発展して20万人以上

の死者、300万人以上の難民が出た。95年にようやく終結をみたが、セルビア国内のコソボ自治州で

90%のアルメニアが独立を目指し、同地がセルビア建国の地だから話は複雑だ。平和裡に独立を

果たしたマケドニアも、3割のアルメニア人が住んでおり、火種を抱えている。

セルビア・モンテネグロは2つの国家が緩やかな連合をしているが、20065月、つまり来月モンテネ

グロがセルビアから完全に独立するか否かの国民投票が実施される。チトーが唱えた「7つの国境、6

つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、そして1つの国家」は、2006年に6つ

の共和国に戻るのどうか、是非注目したい。

           それで旧ユーゴを説明したつもりかニャア

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            * 歯グラグラの旧ユーゴスラビアの旅の始まり、パクパク日記4月2週を

        ご覧になりたい方はこちらへ。               6年4月2週