パクパク日記7年3月3週
サンチャゴ・デ・クーバからハバナまでバスでぶっ飛ばしたのだった。
ダイキリ
トロピカーナショー
3月 12日(月) 晴れ 暑いぞ! 1兌換ペソ=約120円
朝 キューバ・サンチャゴ・デ・クーバ 「メリアサンチャゴ・デ・クーバ」 朝食ヴュッフェ
5時半起床。今日も良い天気だ。レストランの前は長蛇の列だ。ここのレストランは、オムレツ焼いて、
とお願いすると、まず卵の白身と黄身を混ぜて鉄板にぶちまける。薄焼き卵を作るように。客から中身
の注文を聞くと、それを卵の上に放り投げ、薄焼き卵を畳んで、皿にのっける。つまり、玉葱やトマトや
ピーマンなどはほとんど生状態というわけで食べるとガリガリと音がする。音するオムレツ。で不味い。
ここも革命広場 周囲を見渡すとカストロよりチェ・ゲバラの看板が目立つ ぎっしり人間を乗せた運搬車
セスペデス広場のカテドラル教会 オレンジにパクつく若い娘 旧市街はこんな感じ
朝9時からサンチャゴ・デ・クーバの市内見学。バスが走りだして暫くしてびっくり。府中から中山競馬場
に馬を運ぶような運搬車に人がぎっしり乗っているではないか。聞けば、バスのようなもの、という。気
をつけてみればキューバの人々はいろんなカタチで通勤、通学している。数少ないバス、ボロボロの自
家用車、馬車、自転車、徒歩、ヒッチハイク・・・。セスペデス広場。1523年からハバナに都が移るまで
スペインの総督官邸はここにあり、首都でもあったサンチャゴ・デ・クーバだから、街並みが古く落ち着
いている。キューバの主だった町を建設したベラスケスというスペイン人の屋敷跡があり、これは国で
一番古い建物らしい。そんな景色に見とれていると、目の前に手が。年寄りの物乞いが多い。約1時間
町を歩く。一時カストロが通った中学がある。ラム酒(キューバではRON)をそもそも作ったバカルディ
家の屋敷跡は博物館になっている。それにしても、働かないでぶらぶらしている人の何たる多さよ!!
世界遺産のモロ要塞 これがカリブ海の美しさだよ 大砲を運ぶ階段運搬路
バスで海まで行く。カリブ海だ。初めて見る。ここには世界遺産に登録されているモロ要塞がある。この
アタリは海賊が頻頻と出没する地域で、その警護と他国から守る役割をしていたらしい。スペインの領
土となったキューバだが、1762年から11ヶ月だけ英国領となる。英国海軍にスペイン軍が敗れて、キ
ューバを奪われたのだ。しかし、スペインにとって、自国と南アメリカ各国を繋ぐためにはキューバはど
うしても取り戻したい!で、スペインは英国に交換しようよと提案したのである。アメリカのフロリダ半島
全部あげるから、キューバ返して!ダメ?じゃあフィリピンもつけるからさぁ。ってことでまたスペイン領。
昼 モロ 「Le Moro」 豆と野菜のスープ、ライス、魚のフライ、牛のひき肉料理、マッシュポテト、フル
ーツ、コーヒー、マンゴジュース 1,5兌換ペソ
魚も肉も美味しいね
カリブ海は美しかねぇ この椅子はポール・マッカトニーが座った Tシャツはゲバラばかり
今日はことの他暑い。キューバの一年の気候は5月から10月が雨季、11月から4月は乾季。フロリ
ダ半島によく押し寄せるハリケーンは6月から10月位の間に3,4回来るらしい。大きなハリケーンだと
家も柱も人も吹き飛ばす。ま、台風国に住む私達はよくわかるね。日本に来たこともある日本贔屓のガ
イド・ホセさんは、乾季のキューバは沖縄の気候に似ていますね、と言っていた。ランチを摂った店には
ポール・マッカトニーが来店して座ったという椅子が、テラスに鎮座ましましていた。海も空も蒼いねぇ。
夜 サンチャゴ・デ・クーバ 「メリアサンチャゴ・デ・クーバ」 夕食ヴュッフェ、ビール 2,5ペソ、白&
赤ワイン&白ワイン @3ペソ
3時頃ホテルに帰る。夕食までフリータイムで希望者は、ラテン音楽の店に行こうと誘われたが、部屋
でゆっくりすることにする。マニキュアつけたり、大阪の大介&有里ちゃんに絵葉書書いたり、読書した
りね。すっかり寛いだ。夕食はまたもやヴュッフェ。飽き飽きするよなぁ。お皿に盛った半分しか食べな
かった。そういえば、昨日の夜、今朝、そして今も素晴らしいピアノが聞こえる。クラッシックから映画音
楽、スタンダード曲・・・。絶え間なく聞こえるので、自動ピアノかと思ったら、女性が弾いていた。キュー
バではピアニストの活躍の場は少ないのだろうか。余りに見事な演奏だったので、5ペソチップを奮発。
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3月 13日(火) 晴れ (カマグェイでは一時雨が降ったらしい)
朝 サンチャゴ・デ・クーバ 「メリアサンチャゴ・デ・クーバ」 朝食ヴュッフェ
今日のオムレツも生の玉葱の音がする ガリガリ
6時起床。2泊したサンチャゴ・デ・クーバから今日はカマグェイに向かう。そうそうこのツァーはバスで
キューバを横断というか縦断する旅なのだ。サクサクッと無言の朝食を終えて荷造り。さて行きましょ。
銃弾の跡が残るモンカダ兵営博物館
カストロは「U.S」製のリュックを担いでいた? 襲撃に作家したメンバーの多くは死んだ
1953年7月26日、カストロ兄弟以下130人のメンバーは、カーニバルで賑わうサンチャゴ・デ・クーバ
のモンカダ兵営場を襲撃する。ここに保管されている武器を奪うためだ。ただ、早めに見つかってしま
い、襲撃は失敗に終わる。多くは捕えられて激しい拷問の上殺されてしまったが、カストロ兄弟は逃げ
た。しかし、彼らも逮捕され、2年弱刑務所で過した。この襲撃事件がキューバ革命の始まりとして、カ
ストロは後年7月26日を「革命記念日」とした。今この建物は博物館となっており、襲撃事件当時の襲
撃経路や参加メンバーなどの展示物がある。え?カストロはアメリカ製のリュック担いで革命したの?
昼 バヤモ 「La Bodega」 サラダ、パン、ライス、ポテト、牛肉の煮込み、アイスクリーム、パインジ
ュース 1,5ペソ、名物コーヒー 1、5ペソ
美しいバヤモの街並 このおっちゃんの歌はいい 豪華なセスペデスの生家
バヤモという町は、国歌の町とも知られているようだ。町の真ん中には、ペドロ・フィゲレード作詞・作曲
の「バヤモの歌」(後に国歌となる)の楽譜と歌詞の石碑が恭しく建っている。今日のランチに出された
牛肉は長時間煮込んだのか、柔らかくてとても美味しい。キューバでは、牛肉は高過ぎて庶民の口に
は入らないらしい。何せ牛肉1キロの値段が、1ヵ月の給料と同じ位というのだから。その代わり、豚肉
や鶏肉を食べる。昼食、夕食時は生のラテン音楽バンドが演奏するのはお約束なのだ、とこの頃にな
ると理解する。つまり、キューバにあるレストランの数(観光客が来るような)だけバンドの数が存在して
いるということだね。上手なバンドもそうでないバンドもあるが、今日の歌い手のおっちゃんはいいわ。5
ペソチップ弾む。食後は独立運動の父セスペデスの生家を見学。凄い金持ちだったのだね、びっくり。
夕闇せまるカマグェイの町を輪タクで見物 カルメン広場のおじいさんの像 子供達の屈託の無い顔
サンチャゴ・デ・クーバからバヤモまで2時間、バヤモからカマグェイまで4時間。夕焼けのカマグェイ
に到着したのは午後6時だった。なぬ?今から輪タクに乗って市内観光?輪タクに乗ると風を受けて気
持ちがいい。30キロ台の方もいるのに、私を乗せた運転手は気の毒。このカマグェイという町は、キュ
ーバで3番目に大きな町だが、それほど見所がないので観光客は少ないのだとか。でも、石畳の落ち
着いたいい町だ。今晩泊まるホテルは「グランド」。この町では一番の三つ星ホテルだが、まさにクラシ
カルそのもので、エレベータは手動式であった。部屋の天井高く、いいじゃないと思ったら便座無いよ。
夜 カマグェイ 「ホテルグランド」 夕食ヴュッフェ
食べたのは半分だよ
バスタブは無い、お湯も出ないかもしれないとは言われていたけど、便座まで無いとはなぁ。レストラン
は5階。エレベータは1台しかないので、多忙時はスーツケース運び優先で階段を使用せねばならな
い。この国に来てから飲んでいるビールはクリスタル。爽やかなのはいいけれど、薄いって感じかなぁ。
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3月 14日(水) 晴れ
朝 カマグェイ 「ホテルグランド」 朝食ヴュッフェ
(腹痛のため、ほとんど食べなかったので料理写真は無し!)
このホテルは町のど真ん中にある。人々の生活感を味わえるのは魅力であるが、夜中2時まで向かい
の店で大きな話し声がするわ、3時半には千人が起きてしまうような大音響が鳴り響き、ちっとも眠れな
い。それでも5時半に起き出すと、何だか調子が悪い。お腹の調子が。キャー!下痢だぁ。ベトナムで
もスリランカでもインドでもエジプトでも一度もお腹壊したこと無いのにぃ。幸い、医者から貰った薬をも
っている。薬を飲むためには、何かお腹に入れなくちゃと5階のレストランへ。早く治って下さいなぁ!
昼 トリニダー 「プラザマイヨール」 ランチヴュッフェ グレープフルーツジュース 1、5ペソ
(腹痛のため、ほとんど食べなかったので料理写真は無し!)
正面の高い塔は奴隷の見張り塔 この機械でサトウキビを搾る
フェゴティング刺繍が売られている
バスに乗ると腹痛が激しくなる。20年来の腸閉塞とは違う痛みとは思うけど、腸閉塞になっちゃったら
タイヘン。うーむと唸っているうちに、トリニダーの郊外マナカ・イスナガに到着。トリニダー一帯は、その
昔サトウキビ産業の拠点であった。携わる労働は過酷を極め、その労働力として導入されたのが西ア
フリカから連れて来られた奴隷である。だからこの町は奴隷市場でもかつては栄えていたのだ。このマ
ナカ・イスナガには大規模なサトウキビ農場の跡があり、高い塔は奴隷の見張り塔。キューバの奴隷
制度は1886年に廃止されたが、腹痛もあってとても不快な気分になった。サトウキビを実際に搾って
ジュースも飲ませる。塔の下にはフェゴティングという刺繍の売り物が洗濯物のようにたなびいていた。
ロマンティコ博物館 贅を尽くした展示品 廃屋となった教会跡
トリニダーの街へ。かつてサトウキビ栽培と奴隷市場で大いに繁栄したトリニダーも、両方が廃れてし
まってからは忘れられたような静かな街となる。まるで歴史がそこでストップしてしまったように。コロニ
アル都市がそのまま放置され朽ちていく。歩きにくい石畳の道。ここは世界遺産に指定されている。腹
痛は増すばかりなので、ランチもジュースと柔かいものを1,2口食べただけ。ハエがぶんぶん飛んで
いるレストランである。午後の観光は、ロマンティコ博物館だけ見ることにした。1808年に建てられたニ
コラス・ブルネット・ムニョスの屋敷を博物館にしたものだが、トリニダー近隣の金持ちの家具、食器など
を集めて展示している。豪華絢爛である。その後グループから離れてレストランに戻り、観光パスされ
たY下さんとおしゃべり。Y下さんは80台だが、昨年は11回海外に出かけられた由。負けられんぞ。
夜 トリニダー・アンコン 「トリデダニー・デル・マル」 夕食ヴュッフェ
(腹痛のため、ほとんど食べなかったので料理写真は無し!)
トリニダーとは三位一体の意。アイルランドのダブリンに行った時トリニティーカレッジがあったが、あれ
と同じ意味ね。市街から20分ほど走ったところにカリブ海に面したアンコン地区があり、リゾートホテル
が並んでいる。このホテルも、2日目深夜に到着したホテルと同じで、コテージ風で外観は結構なのだ
が、バスタブでは湯も水も出なかった!!私の経験では「発展途上国でのコテージ風ホテルには気を
つけろ!」である。ここも腕にテープを巻かれて滞在中の食べ放題&飲み放題が可能なのだが、こちと
らお腹コワシで食べるのも飲むのも出来んじゃないか。夕食はスープ2杯だけ、グスンである。無酒日
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3月 15日(木) 晴れ 午後曇り
朝 トリニダー・アンコン 「トリデダニー・デル・マル」 朝食ヴュッフェ
6時起床。やや?腹痛がないぞ?下痢も止まった。やっほー!昨日酒も飲まず、食事もほとんど抜い
て大事にしたから1日で治っちゃった。よし、今日からまたモリモリだ。ホテルの裏手の海岸に行ってみ
る。プライベートビーチ手前の砂浜が美しい。元気だったら昨日泳いだのにな。外観は立派なホテル。
世界遺産のロスインヘニオス盆地 チェ・ゲバラ霊廟 装甲車襲撃跡記念館
8時半ホテルを出発してから、郊外のロスインヘニオス盆地に寄る。見渡す限りの土地はかつてサトウ
キビ栽培が行われていたところ。昨日見学したイスナガの奴隷の見張り塔、トリニダー市街、そしてここ
ロスインヘニオス盆地一帯を合わせて世界遺産に登録されている。そこから3時間バスと飛ばしてサン
タクララへ。チェ・ゲバラ霊廟に行く。1967年10月9日ボリビアで銃殺されたゲバラの遺骨は、10年前
の1997年ボリビアから返還された。何と30年経ってからである。キューバ政府は、このサンタクララの
地に霊廟を造り、キューバ革命に尽力したゲバラの功績を称えている。一切の手荷物持込禁止で、霊
廟の中に入るとほの暗く空気がヒンヤリとしている。永遠の炎がチラチラと燃えていた。隣はゲバラの
博物館になっており、幼少時代からの写真には見る人の頬を緩める。成人してこれだけハンサムだっ
たのだから、子供の頃の可愛いこと!小さい時から喘息だったのに、葉巻好き。医者(彼も医者だが)
から葉巻は一日1本と厳命されると、とてつもなく長い葉巻を吸っったりする。お茶目である。ボリビアに
潜入する際、髪を剃り、70歳位の老人に変装した写真も残る。因みにチェは渾名で「ねぇ」という口癖。
昼 サンタクララ 「ホテル ラ・グランヒッタ」 ランチヴュッフェ
ゲバラが率いて装甲車襲撃に成功した記念館を見た後、近くのホテルレストランでランチ。お腹は治っ
たとはいえ、少しづつにしよう。スープが美味しくて2杯飲んだ。庭で4匹目の猫を発見。でもカメラ持っ
てないよー。キューバは犬だらけで猫は夜になるまで隠れているらしい。猫写真不足が不満であるぞ。
夜 ハバナ 「メリアコイバ」 夕食ヴュッフェ、3点セット
サンタクララからバスで3時間半。ようやく首都のハバナの町に入る。そこでガックリ来るアナウンス。
「今日から3連泊して頂く予定でした旧市街にあるホテルは、政府関係の利用により急遽使えないこと
となり、新市街5つ星他のホテルとなります。ホテルも国営なので、国の命令となれば致し方なく・・・」。
ゲーーッ!旧市街のパルケ・セントラルに泊まるの楽しみにしていたのにぃ!プンプン。で、旧市街から
車で15分もかかる「メリアコイバ」に泊まることになっちまったのである。こうゆうところ、キューバは社
会主義の国なんだなぁ、とガッカリする。夕食後、カバーナ要塞の大砲の儀式に出かけることになって
いたが、気分を害したのでパスすることにする。150年続く儀式?ふん、行かんよ。気分がドカーンだ。
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3月 16日(金) 晴れ 何度か小雨 夜一時土砂ぶり
朝 ハバナ 「メリアコイバ」 朝食ヴュッフェ
ここが革命広場の本家 内務省の壁を飾るゲバラの顔 旧国会議事堂(カピトリオ)
1960年代のアメリカ車はボロボロだがちゃんと走る ガルシア・ロルカ劇場
5時半起床。体重を測る。ふふふ。キューバに来てから4キロ痩せたのだよ。むふふふ。でも誰も気が
つかない。誤差ってことか。朝風呂入ろ。あらら?お湯が茶色だわ。流してもう一度試すと虫が2匹浮
いている。これまでは地方都市だったからと諦めていたが、首都ハバナの5つ星ホテルでもこうなのか
ぁ。他の部屋でも、湯が出ない、夜中にトイレの水が止まらなくなった、チョコレート色の水が出たとかい
ろいろ苦情が出ていた。8時半ハバナ観光出発。キューバの人口は約1100万人だが、ハバナには
300万が住む1555年からの首都である。世界遺産に登録されているのは、旧市街。広さは5平方キロ
メートルしかないが、ハバナらしさがギュッと詰まっている。本家の革命広場を見学した後は、旧国会議
事堂前。アメリカの議事堂を模して作られた建物は現在使われていない。隣にはスペインゴシック建築
の見事なガルシア・ロルカ劇場が見える。あの劇場の先のホテルに泊まることになっていたのになぁ。
街を走っている車に瞠目。1960年代のアメリカ車がビンビンと走っている。もう数十年アメリカはキュー
バに対して経済封鎖を続けているので部品は入手できない。ソ連や他の国の部品で修理し、祖父から
父へ、そして息子にと大事に車を受け継いでいるのだ。次はどんな車が来るだろうと思うと何時間見て
いても飽きないハバナの街である。仙台育英学園が寄贈した支倉常長の像を見てからサンフランシス
コ・デ・パウラ村に向かう。ここにはフィンカ・ビビア(眺望楼)と言われるヘミングウェイ博物館がある。
フィンカ・ビビア内部 9000冊の蔵書とどの部屋にも剥製の動物頭部が飾られている
晩年20年、アーネスト・ヘミングウェイはキューバに住んだ。ハバナ旧市街のホテル「アンボス・ムンド
ス」の511号室に滞在し、朝方「誰がために鐘は鳴る」を執筆し、昼間は「ラボデギータ」や「フロリディ
ータ」で酒を飲み、釣りで大物をし止め、女達を愛したパパ・ヘミングウェイ。3人目の妻マーサ・ゲルホ
ーンを迎える頃には、月100ドルで借り、その後たっぷり入って来た「誰がために鐘は鳴る」の印税で
購入したのがフィンカ・ビビアである。カメラ代は5ペソもする。小高い丘の樹木に囲まれた邸宅は風通
しの良い住み易そうな家だった。どの部屋にも彼がし止めた動物の剥製頭部が飾られており、昼寝用
のベッドの脇には黒いタイプライター。彼は立ったまま打っていたらしいよ。20メートルのプール、コヒマ
ルで海に繰り出したピラール号、そして犬4匹の墓・・・・。ここでも彼は60匹の猫を飼っていたという。
昼 コヒマル 「ラ・テラサ」 食前酒:ダイキリ、海鮮スープ、パン、パエリヤと魚、アイスクリーム、コー
ヒー
フィンカ・ビビアから車で15分ほどのところにコヒマルの小さな漁港がある。ヘミングウェイはこの漁港
に愛船を繋ぎ、カジキ鮪などの大物を狙いに通った。ここでの釣りの経験を元に「老人と海」を書き、ノ
ーベル文学賞を受賞した。彼がコヒマルに来るとよく通ったという「ラ・テラサ」でランチ。長いカウンター
バーの奥がレストラン席で、壁にはヘミングウェイの写真がズラリと飾ってある。カストロとのツーショッ
ト、釣りあげたメカジキ・・・。漁師ヘミングウェイの笑顔は隙だらけだ。このコヒマルは、密航する拠点と
しても知られているようだ。古タイヤを組み合わせただけの筏などでフロリダ半島を目指して漕ぎ出す
人々。距離200キロ弱とはいえ途中難破したり見つかって強制送還されたりするケースが多いようだ。
スペイン風の街並み旧市街 ヘミングウェイの定宿「アンボス・ムンドス」 モデルも立派な仕事
ハバナ旧市街に戻る。ビエハ広場、ホテルアンボス・ムンドス、旧総督官邸で現在市立博物館などを回
っているうちに、雨が降って来た。カテドラルの建物の屋根に飛び込んで雨宿り。この広場には、スーツ
に帽子に葉巻を加えたオールドジェントルマンや、原色の衣装をまとったモデル業の人々がたくさんい
る。1兌換ペソ払うと、女性のモデルは頬にキスしてくれたりね。1日、この旧市街をぶらぶら歩いてみ
たいなぁ。フリーマーケットを抜けて、バスでホテルに戻る。頼まれていたPON(ラム)を買いに行くか。
夜―1 ハバナ旧市街 「リストランテ デル オリエンテ」 ウエルカムドリンク:モヒート、小海老のサラ
ダ、パン、チキンソティ レーズンライス添え、ミルクプリン、ビール 2,5ペソ、赤ワイン 4ペソ
今晩の夕食は豪華だよ。旧市街の名門、「リストランテ デル オリエンテ」でディナーを頂くのだ。食前
酒には、ヘミングウェイが愛したモヒートというカクテルが出された。今回酒好き(ついでに喫煙も)は私
だけ。他の人はラム抜き。それじゃあジュースだね。ビールと言えば、ここまで「クリスタル」ばかりだっ
たが、バカネロビールが出て来た。これはコクがあった実に旨い!2階のレストランを抜け出て、1階の
カウンターに座って煙草を吸っていたら、ようやくハバナにいるなぁという実感が湧いて来たのだった。
夜―2 ハバナ 「トロピカーナ」 (シャンパン、ラム、コーラとおつまみが出た)
夕食後は、住宅街にある「トロピカーノ」へ。収容人数2000人の巨大野外シアターである。席によって
違うが、入場料は@70ペソから90ペソ、カメラ撮影は5ペソ、ビデオは50ペソも取る。入場料だけでも
平均的なキューバ人の半年分の給料だ。革命の時一時中断したことはあるが、1939年からやってい
るらしい。開演前に、昼間降った雨がぽつぽつと当って来て避難。これで中止になったら入場料はどう
なるんだ!野外劇場というのもリスク大きいよなぁ。そして10時。ショーが始まった。舞台がいくつもあ
り、数十人のダンサー達が入れ替わり立ち代わり、衣装を変えて激しい踊りを展開する。まぁ、その華
やかなこと!いずれも容姿端麗なダンサー達が、肌も露によく訓練されたダンスレビューを披露する。
これは楽しいわぁ。アクロバットショーもある。ストーリー性のある舞踊劇もある。1時間15分経ったとこ
ろで雨が激しくなり舞台は一時中断。「もう堪能しました」と我々はバスでホテルに戻ることにした。ホテ
ルの部屋にはCDと安いラム酒の瓶が置いてあった。旧市街のホテルからのお詫びだってさ。ふん!
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3月 17日(土) 晴れたり曇ったり 強風高波
朝 ハバナ 「メリアコイバ」 朝食ヴュッフェ
昨夜は2時半に寝たが、6時には起きる。朝食後、お詫びとして貰った安いラム酒をH谷さんに差し上
げた。もう4本買っちゃったから持てない。このホテルの朝食、豪華に見えるがその実あまり旨くない。
8時半出発。2人観光をパスしたからバスはガラガラだ。今日はキューバの最後の観光、ハバナから西
に進んだピナール・デル・リオ州に行く。煙草、特に葉巻の産地として有名なのだとか。11時過ぎ、ハバ
ナから190キロ離れた州都のピナール・デル・リオ市着。フランシスコ・ドナティンという煙草工場の見
学。イヤホーン以外持込禁止である。工場には養成所も併設されており、養成員達が9ヶ月葉巻作り
の訓練をしている。彼らの作った葉巻は現地の人に配給として消費されるそうだ。葉の栽培の話を聞
いたが、手間も時間もかかるのだなぁ。蒸したり干したりした葉を一枚一枚丁寧に広げ、葉脈を取り、巻
いて行く。指定の太さと長さにキッチリ合わせねばならない。最後にキャップという口をつける難しい仕
上げをし、リングをつけて完成。コヒバとかモンテクリストとか、世界中のシガーファンが愛する葉巻であ
るが、私は煙草吸いのクセに葉巻が大キライ。あの匂いを嗅ぐと気持ちが悪くなる。で、1本も買わず。
昼 ピニャーレス 「CARACOL」 サラダ、フルーツ、ポテト、コングリ、ポークソティ、チョコムース、コ
ーヒー、ピンニュコラーダ 2,5ペソ
キューバ人の主食は、米である。そのまま食べることもあるが、豆を混ぜて食べることが多い。米に黒
豆を混ぜたものがモロス、黒豆を混ぜたものがコングリ(上の写真中)。一見日本のお赤飯のようでは
あるが、味は全く違う。その他キャッサバの芋や豚肉。不思議なことに島国なのに魚はあまり食べず、
値段も高い。ここのレストランのじゃが芋と豚肉料理は旨かった。食事をしながら、近くの山壁に描かれ
た絵を見る。十年以上かけて描いたという人類の歴史みたいな絵であるが、稚拙な感じ。食後はイン
ディヘナの洞窟の見学。先住民の住居跡は、奴隷やその後革命家の隠れ家になったそうだ。洞窟はそ
う大きくは無いが、途中ボートに乗る。そのボート待ちで洞窟の中で1時間弱待たされてウンザリした。
世界遺産のピニャーレス展望台 山肌に描かれた巨大な絵画
1時間待ってやっとボートに乗った洞窟
夜 ハバナ旧市街 「ラ・フロルディタ」 食前酒:フローズンダイキリ、サラダ、シーフードスープ、パン、
ロブスター、アイスクリームケーキ、(お茶)、ビール、白ワイン
キューバでの最後の晩餐は、旧市街の「ラ・フロルディタ」で。やはりヘミングウェイが愛した店で、L字
型の長いカウンターの彼がいつも座った隅の席には、原寸大(たぶん)のヘミングウェイの銅像が座っ
ている。ハバナで一番有名な観光どころで、ラテン音楽が流れる店内では、1杯6ペソもするダイキリや
モヒートを啜る観光客で絶えない。甘くないダイキリを発明(?)したヘミングウェイだが、カウンターに
は「ダイキリ発祥の地」みたいなスペイン語が書いてある。雑然としたバーに比べ、奥のレストランは静
か。ホホホと上品に笑いながらロブスターなどを頂くのである。これでハバナ、キューバともお別れだ。
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3月 18日(日) ハバナは晴れ 高波 トロントは曇り
朝 ハバナ 「メリアコイバ」 朝食ヴュッフェ
6時45分起床。バスタブにお湯を張ったら、透明のお湯であった。ヨシヨシ。体重を測る。4キロ減のま
まだ。ヨシヨシ。11時チェックアウト。大西洋の海は昨日からの強風で波が荒れ、防波堤に激しい白い
波がザンブと被る。途中のレストランで出来たての弁当を積み込んだら、バスはチキンの匂いで充満。
昼−1 空港にて ランチボックス+ミホ手製おにぎり、水
一番旨かった食事はこれだ!
ホセ・マルティン空港でお弁当を食べる。傾いて中はぐちゃぐちゃだったが、味の良いこと。未だ温かい
チキンは香ばしいし、コングリも旨い。揚げバナナの甘いこと!添乗員のミホ特製おにぎりもね。旨い。
昼―2 エアカナダ ハバナ=トロント ビジネス機内食
キューバでは、頼まれて買ったラム酒以外、見事なくらい土産は何も買わなかった。買いたいと思うよう
なものがなかったから。それではあんまりかと空港でCDを数枚購入。15時10分離陸。さよならーね。
夜 トロントホテル客室にて 和食弁当、「おーい、お茶」
推定1500カロリーはある和食弁当です
18時30分トロント空港着。ホント、キューバとカナダは近いわ。でも気温30度の国から来るとカナダ
の寒さが身に沁みる。ぶるっ。さぁホテルのシャトルバスに乗りましょうという段になって、グループの1
人が空港内に手荷物を忘れたと取りに戻る。結局、ホテルのロビーで1時間近く待たされて、みんなク
タクタになったのである。夕食は凄いボリュームの和食弁当。これを食べるために、機内食もパンしか
食べなかったが、余りに多い。これ食べたら4キロ減は一気に戻る。肉系は避けてご飯も半分にした。
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【今週の振り返り】
キューバの歴史は、1942年コロンブスによって発見されたところから始まる。1511年ベラスケスが征
服し、現在の主要都市サンチャゴ・デ・クーバやハバナを作ってキューバはスペインの植民地となる。
先住民のインディヘナはスペインから齎された疫病と過重労働で絶えてしまい、西アフリカから連行さ
れた黒人奴隷達が砂糖産業の担い手となる。砂糖産業に加えて、良質な葉巻が栽培できるこの国は、
本国スペインと中南米を結ぶ上で重要な拠点となって行く。18世紀後半英国との戦いに負けて11ヶ月
キューバを手放すが、フロリダ半島とフィリピンと交換してまで取り戻す程スペインにとってキューバは
重要な国であったのだ。しかし、19世紀後半になると、独立したい!という気運が国民の間に高まって
来る。現在のキューバ人はスペイン系白人51%、黒人12%、白人と黒人の混血ムラートが36%、中国
系が1%、日本人も沖縄出身者が主な約1000人がキューバに暮らしている。セスペデスが率いた
1868年の第一次独立戦争、ホセ・マルティンが中心となった1895年の第二次独立戦争が起る。第二
次独立戦争終盤で、アメリカとスペインの戦いが始まり、スペインが負けたことから、ようやくキューバ
は400年統治されたスペインから独立することが叶った。1902年にはキューバ共和国が成立したが、
その実アメリカの支配下に入ってしまったともいえる。
1952年軍事クーデターで政権を樹立したバティスタは米国一辺倒で、アメリカのマフィアは大手を振っ
てアクドイ商売はするわ、麻薬、売春が蔓延るわで、せっかく独立したキューバのミジメな姿に心を痛め
る国民が多かったのだと思う。アメリカの金持ちが羽振りをきかせ、国内の貧しさとは対照的なキュー
バ。そこで1953年7月、カストロ兄弟とその同士がサンチャゴ・デ・クーバのモンカダ兵営場を襲撃す
ることになる。キューバ革命の第一歩だ。先週の記述と重なるので以後は省略するが、1959年1月1
日バティスタ政権は倒れ、カストロのキューバが始まる。
カリブ海に浮ぶ社会主義国キューバ。土地や企業、施設を国有化し、教育、医療は無料。今でも生活
必需品の配給がある。米、パン、肉、油、砂糖、ミルク、石鹸、煙草、葉巻などが、格安の値段で配給さ
れる。もちろん、食べていける量には遥かに足りない。国家公務員である彼らの給与も低い。平均的に
は月収350現地ペソ位。観光客が主に使う1兌換ペソ=24現地ペソだから、兌換ペソに直せば13ペ
ソ位にしかならない。足りない分は、観光客のモデルをやったり、自家用車でヤミタクシーをやったり、
自宅を公開して金を貰ったり、各自の努力と工夫によって補う。
教育は無料で高校までは学費まで国持ちだから、進学率も高い。大学の専攻分野で驚いたことは、医
学に進む学生が29%もいること。革命時は、乳幼児の死亡率が1000分の60人で平均寿命が60歳
だったものが、現在では死亡率5,7人、寿命も男76歳、女78歳に延びたという。スゴイ進歩だ。ソ連
から石油を輸入できなくなって深刻な石油不足に困ったキューバだが、医者不足に悩むベネズェラに
医師を派遣し、代わりに格安の石油を手にする妙案で乗り切っている。アメリカからは長く経済封鎖を
強いられ、2004年ブッシュ政権は更にキューバに対して締め付けを強めている。社会主義の兄とも頼
りにしたソ連には裏切られた上、崩壊してしまった。それでも、キューバは工夫を重ねながら独自の社
会主義を貫いている。
砂糖、葉巻、ラム酒などの輸出だけではたかが知れている。1100万人を食べさせるには足りない。そ
こで力を入れているのが観光業だ。1990年にはわずか34万人だった観光客は、2004年200万人を
越えた。これを2010年までに1000万人に増やそうというのが、現在のキューバ政府の政策であるら
しい。世界中からキューバに人々が訪れ、その美しい景色やひと懐こいキューバ人に会う。キューバの
ファンが増える。しかも、外貨がガポガポと入ってくる。それが出来ればキューバ最高の産業になる。キ
ューバ政府は、最近国内10箇所以上の空港を建設し、豪華ホテルの建設も急ピッチと聞いた。それは
それでいい。しかし、リピーターを増やすためには、今のホテルのままではダメだ。何も豪華でなくても
いい。水がちゃんと出る、お湯も出る、バスタブの栓はつける、排水もよくする、便座や金庫が壊れてい
れば直す・・・といった先進国では当り前のインフラを整備し、メンテナンスをこまめにする。そして何より
観光に携わる人々が「サービス業」であることをしっかり認識することが必要ではないか。
キューバの人々は貧しくても底抜けに明るい。街中にソン、マンボ、チャチャチャ、ルンバ、サルサのリ
ズムが弾み、楽器や歌声が聞こえる。朝から夜まで音楽が絶えない。楽しい国なのだ。
キューバはそんな国なんだニャ
* キューバの旅の始まりは 3月2週 に掲載しています。ご覧ください。