パクパク日記8年6月2

          ポーランドの世界遺産7箇所を見た。アウシュビッツ強制収容所も

無名戦士の墓 ヨハネ・パウロ2世

69日(月) ポーランド・トルンは快晴!                 1ズォチzt=約50

朝 ポーランド・グダニクス「メルキューレ」ホテル 朝食ヴュッフェ

    グダニクスとも今日でお別れ

今日は北のグダンスクから南下する。グダンスク、美しい街だったなぁ。また来たい!今回のグループ

20人。ご夫婦5組に姉妹とそのお嫁さんの3人組、男性2人組、1人参加女性4名、そして添乗員

の若きY口さんである。男性2人組のF井さんはユニークなお洒落。江戸時代の火消し衣装で昼間歩い

ていたかと思うと、夕食にはコサック風のマントに帽子といういでたちで皆は目を白黒。全体をABCに

分けてバスの座席は順番だ。今日私達B組は最後尾。大型のバスだからシート4席使って楽チンだ。

スルーガイドのHロミさんから秋葉原の事件を知らされる。日本は安全な国なのに残念だと報道された

とか。車窓から見えるのは一面の麦畑。この国は豊かな農業国なんだなぁと実感する。時折コウノトリ

が電柱や木上に巣を作って卵を暖めている。約4時間でトルンに到着。ここにもヴィスワ川が流れる。

昼 トルン「Spichrz」 キノコスープ、サラダ、ポークカツレツ ポテト添え、白チーズのパンケーキ、

      コ ーヒー

  

    今日のランチは刺激的で美味しかったんだけど・・・・

ヴィスワ川沿いに歩いて旧市街のレストランへ。「Spichrz」という店名は倉庫という意味らしい。川を利

用して運ばれて来たものを収納していたのだろう。キノコスープを一口食べてすぅっぱーい!!そして

辛い!!中華の酸辣味だね。小さなすいとんみたいなものも入っている。お替り欲しいとお願いすると

「これからメイン料理もデザートも出るから堪えて」と諭された。ポークカツレツはとても美味しいが、付

け合せの酢漬けキャベツは飛び上がるほど酸っぱい。白チーズデザートは日本の「おやき」のようだ。

   

      ゴシック様式中世の街トルンも世界遺産だ       トルンで生まれたコペルニクスの銅像と7歳まで暮らした生家

トルンはコペルニクスの輩出した街。第2次世界大戦で破壊は免れたものの、1655年から始まったス

ェーデン軍の大侵攻で大きな被害を受ける。この侵攻はポーランド中に10年以上にも及び、ポーラン

ドは国民の3割を失って「大洪水」と呼ばれた。今トルンは中世の街をそのまま残して世界遺産に登録

されている。13世紀から18世紀まで最も豊かな街であったが、国土分割時代は、プロイセンに併合さ

れ、ヴィスワ川の向こうはロシア領であったそうだ。プロイセンはプロテスタント。カトリックの聖マリア教

会の壁画は白い漆喰で塗り潰されていたが、国土を取り戻してから漆喰の下の壁画は復活を遂げた。

夜 トルン「メルキューレ」ホテル ビゴス(ポーランド風ザワークラフト)、野菜サラダ、白身魚のフィレ、

ケーキ、ビール小 9zt、白ワイン 17zt、赤ワイン 17zt  

  

    ビゴスは旨いが、酒代が高過ぎる!

トルンの街を歩いている頃からお腹がゴロゴロ言い出した。観光中は何とかガマン出来たが、自由時

間になると同時にホテルに直行。但し、徒歩15分もかかるの・・・。最後はホテルのトイレに飛び込んで

ことなき(ことって何?)を得た。ほっ。昼の酸辣スープが犯人?同じものを食べたドライバーさんが同じ

症状だったと後で聞いた。同じメルキューレホテルでも、ここは簡素。ビジネスホテルに毛が生えたよう

なものだ。しかし日本の番組が見られるJSテレビが入っている。トルン近郊にシャープの液晶テレビ工

場が出来て関係者が宿泊するのは決まってここ。だからって、酒代高くするのヤメテよ。日本人は金持

ちって決めるなよ!「高過ぎる!」と文句を言ったら、ホテルマン「私もそう思います」と言った。ったく!

オランダがイタリアに3−0で勝った!1点目はオフサイドっぽかったけど、オランダの勢いは凄いなぁ。

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6月 10日(火) ポズナンモヴロツワフも晴れ

朝 トルン「メルキューレ」ホテル」 朝食ヴュッフェ

    白いご飯があったので鯖焼をおかずに食べた

5時起床。いつものように朝シャワーと朝シャン。朝食に行くと、シャープ関係者だろうか、日本人ビジネ

スマンが数人食事をしていた。彼らのためだろ思うのだが、炊飯ジャーには白いご飯がある。なのに、

彼らは食べない。代わりに私が食べました。おかず?鯖の焼いたのがあったし。今日は8時出発だ。

  

         ポーランド最古のポズナン大聖堂の地下には最初の王の墓がある        ルネッサンス様式の旧市庁舎

トルンから南西に進み、ポーランド王国の最初の首都であったポズナンに行く。ポーランドが統一国家

となるのは10世紀の後半で、ポラニェ族の君主ミエシコ1世が966年ポズナンにピアスト朝を開いた。

昼 ポズナン キャベツのスープ、チキンフィレの胡麻風味、アイスクリームパフェ、コーヒー

  

今日のランチのキャベツスープもかなり酸っぱい!酢が大キライだった子供時代の私なら、匂いを嗅い

だだけで10m走ってしまったかもしれない。しかし今は好きだよ。チキンは珍しく胡麻が一面に貼り付

いていた。ビックリはなかなか出て来なかったデザート。何と巨大なパフェが23個出て来たじゃないか。

これなら時間かかるわ。酢は好きになったが、生クリームは今も苦手。3分の2の生クリームを捨てる。

夜 無し!!(部屋でチョコクッキーと柿ピー+ビール、ウィスキー)

    今晩はこれが夕食代わりだよん

6時半ようやく今日の宿泊地ブロツワフに到着。ブロツワフはシロンスク地方の中心地だった西の都市

で「ポーランドのベネツィア」とか「百の橋を持つ街」とか言われている。ブロツワフ目当てでツァーに参

加したT中さんは大喜び。皆さんは午後7時観光と夕食に出かけられたが、私はまたお腹がゴロゴロす

るので観光も夕食もパス。そう言いながら、冷蔵庫のビールを2本飲み、持参のウィスキーを飲みなが

ら、柿ピーをほうばっていたのでござる。スペインは4:1でロシアをウェーデンは2:0でギリシャを破る。

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6月 11日(水) 珍しく曇り 一時雨

 ブロツワフ 「ソフィテルホテル」 朝食ヴュッフェ

    何でも挟むのが好き!

夕食抜きの翌日だから、さぞ空腹だろうと思ったが、5時半に起きてみるとそうでもない。じゃ、毎晩夕

食抜きにする?ヤダ!ブロツワフは、モンゴル、ボヘミア候(現チェコ)、ハプスブルグ帝国(現オースト

リア)、ドイツと次々と支配者が変わった街だ。そのせいか、ホテルのスタッフは冷たい印象があった。

  

         大学橋の下にはオドラ川が流れる    聖ヤン大聖堂周辺はすべてが教会関連の建物だ

まずブロツワフの発祥の地であるオストルフ・ツムスキに行く。この周辺にある建物は全部教会関係ら

しいよ。中には一つの建物を2つの教会で使用している建物もある。聖ヤン大聖堂はミサ中であった。

       ヤヴォルの平和教会はヨーロッパ最大の木造の教会である。世界遺産に登録されている。

ハプスブルグ帝国に支配されていた17世紀、領主のローマカトリックに対して、少数ながらプロテスタ

ント信者がいた。3つの教会を造ることを許されたが、条件がたくさんあった。いずれも厳しい条件であ

る。石を使ってはならない、現在ある教会に似た建物はダメ、塔を作ってはならない、街の外れに建て

よ・・・・・1年以内に完成させよ!この常識を超えた意地悪にプロテスタント達は頭を抱えたが、やがて

木と漆喰で教会を作ることを思いつく。そして出来た3つの教会の一つがヤヴォルの平和教会である。

昼 ヤヴォル「kolorowa」 ヌードル入りスープ、ポークのチーズとマッシュルーム巻き揚げ、ケーキ、

      コーヒー

  

ポーランドの食事にはスープが度々出て来て私を喜ばせる。いつも2杯か、せめて大盛りを食べたい。

仲良しになったT中さんは健康のために脂と塩分を避けるからたくさんスープを残す。ならば、食べる前

に私に下さい!というわけで食事は隣の席にすることに。そんなスープシフト体制を敷いたのに、今日

のスープは自分で好きなだけ盛り付ける方式だった。私だけ2杯食べた。うふふ。ポークが旨かった。

夜 クラクフ「ノボテルセントラルホテル」 玉葱ときのこのタルト、魚のグリル レモンピラフ添え、オ

       レン ジのデザート チョコソースがけ、ビール大 10zt、白ワイン 15zt、赤ワイン 15zt 

  

夕方6時過ぎクラクフに入ると、大渋滞。バスが止まっている辺りは学生アパートばかりだそう。何と言

っても100万人の人口の4分の1・25万人が学生というクラクフである。6時半ようやくノボテルセント

ラルホテル」に到着。ここに4泊する。玉葱ときのこのタルト。タルトがコリコリと美味しい。両隣の人達

の分も貰う。ポルトガルは31でチェコに、トルコはスイスに2:1で勝った。どしゃ降りの中試合だった。

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6月 12日(木) クラクフは晴れたり曇ったり

 クラクフ「ノボテルセントラルホテル」 朝食ヴュッフェ+白ご飯

前半のポーランドは連日27度、28度と気温が上がり、快晴続きだった。南のクラクフに来てみると、気

温はかなり下がり、これは全国的な気温の低下らしい。添乗員のY口氏が白いご飯を温めてレストラン

に座っていたので1つ貰って鯖と一緒に食べた。昨夜部屋でウィスキーを4杯飲んだので二日酔気味。  

  

ユダヤ人が住んだカジミエーシュ地区   ヘレナ・ルビンシュタインの生家          有名人を輩出した町だ

クラクフの市内観光。まずはカジミエーシュ地区へ。元はカソリック信者のために作られた町だが、無税

となると商人が多いユダヤ人が集まり、最盛期は54のシナゴークが建てられたという。ヨーロッパで最

大の33万人のユダヤ人がいたポーランドだが、クラクフには6万人が住んでいた。カジミエーシュ地区

は多くの著名な人々を輩出し、ワーナー・ブラザーズ、化粧品会社を作ったヘレナ・ルビンシュタイン、

アーサー・ミラー、ラスベガスを作ったデンジャミン・ジゴーなどが、ここで生まれるか暮らしていたという。

第2次世界大戦時はゲットーが作られ多くの人命が失われた。「シンドラーのリスト」はここで撮影した。

  

           ここから旧市街に入る       中央市場広場の織物会館             最古の大学・ヤギェウォ大学構内

  

     旧市街から王宮までは優雅に馬車に乗って        クラクフの王宮・ヴァヴェル城

クラクフは第2次世界大戦でポーランドの多くの街が受けた破壊を免れた。確かに、14世紀後半から

のヤギェウォ王朝の首都として約200年ポーランドの中心の街ではあったし、ワルシャワに首都が移

転してからも、歴代王の戴冠式はクラクフで行われていた。古都クラクフは、日本で言えば京都になる

のだろう。しかし、ナチス・ドイツがクラクフを破壊しなかったのは、古都の文化を守るというような理由

では全くなく、軍の指令部が置かれていたから。600年以上前のポーランドを見ることが出来る街は、

1978年世界遺産に登録された。ヤギェウォ大学はプラハのカレル大学に次いで古く、1364年に建てら

れた。王女が必要な資金を出して。ここにはコペルニクスもヨハネ・パウロ2世も若き学生の頃通った。

ヴァヴェル城には2頭立ての馬車に乗って優雅に移動。注目を浴びて面白かった。小高い丘に建つヴ

ァヴェル城は、ジグムント・アウグスト王が収集したアラス織りのタペストリーがただただ印象に残った。

昼 クラクフ ホテルの客室にて 添乗員Y口さん特製おにぎり2個

    毎時、搭の上でラッパが吹かれる

午後はフリータイム。足が棒のようになったので、ホテルに戻って休憩。添乗員Y口さん特製おにぎりを

2個食べた。旨かった。4時からHロミさん達とトラムに乗って旧市街へ。売店で切符を買い、トラムに乗

ったら自分で機械に切符を入れて打刻をする。この打刻を忘れたために、M石ご夫妻は検札の兄ちゃ

んに掴まり、2人で140zt(7千円!)の罰金を払わされた。切符は125円なのに。無賃乗車ってことに

なるらしいよ。クワバラである。中央市場市場に建つ聖マリア教会では、毎時四方に向かってラッパが

吹き鳴らされる。昔モンゴル軍がクラクフを襲撃した時見張り番が敵を見つけてラッパを吹いた。そのま

ま矢に射られて死んだことを悼み、今でも1時間ごとに24回ラッパを吹くのだ。メロディーは途中まで。

夜 クラクフ 「Da Pietro」 オニオンスープ、パン、ビーフの狩人風 ポテト添え、チェリームース、

      ビ ール小 8zt、白ワイン8zt、赤ワイン 8zt  

  

    今晩の夕食はドブリ(GOOD!

広場に面したレストランに集合。T中さんから、オニオンスープをたっぷり貰う。薄味で美味しかった。パ

ンも焼きたてで温かくて旨いなぁ。ほろ酔い加減徒歩で帰る。ポーランドはオーストリアと引き分けた。

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6月 13日(金) 曇ったり晴れたり

 クラクフ「ノボテルセントラルホテル」 朝食ヴュッフェ

4時半起床。今日は出発が745分と早いのだ。今日の予定を考えると、気が重い。でも見ようね。

  

       ヴィエリチカの岩塩採掘場は700年稼動して世界遺産になった。何もかもシャンデリアも塩!

午前中は気が楽だ。クラクフから15キロのヴィエリチカ岩塩採掘場に行くだけだから。1250年から地

下に埋まる岩塩を掘り始め、1950年までの700年間採掘が行われた。ポーランド王朝の重要な資金

源でもあった。普通の見学者は徒歩で380段の階段を下りるが、我々は特別にエレベータで地下64m

まで降りた。所要時間30秒!涼しいねぇ。ウクライナ人のガイドの案内。採掘後の空間には塩で作っ

た様々な像が出迎え、昔の採掘の様子も再現している。メタンガスをどう防いだかもよくわかる。地底

湖がいくつもあり、ショパンの「別れの曲」が流れる中、音と光のショーもあった。何と言っても、スンバラ

シイのは聖キンガ礼拝堂。地下101メートルにあり、床も天井も祭壇もシャンデリアも全部塩!これら

はすべて塩細工の得意な工夫達が作ったのだから驚く。1978年世界遺産に。岩塩をたくさん買った。

昼 オシフィエンチム 「Art Deco」 ヌードル入りコンソメスープ、ピエロギ(ポーランド風水餃子)、

       ポ テトフライ、タルトケーキ、コーヒー

強制収容所のあるオシフェンチムで昼食。中国から伝わった水餃子・ピエロギがメイン料理。牛肉ひき

肉が入ったものとカッテージチーズ入りがあった。大きくて食べ切れん。タルトはさくさくで旨い。さてと。

入り口には「働けば自由になる」と書かれたアーチが。     正面は「死の壁」。厳重な有刺鉄線には高圧電流が流れていた

クラクフの西54キロ、オシフェンチムのドイツ名は「アウシュビッツ」。ナチス・ドイツ軍は、1940年ここに

ポーランドの政治犯、神職などの知識人を収容し始め、次いで反ドイツ思想ポーランド市民、ロマ人、ソ

連の捕虜、同性愛者などを収容する。やがてユダヤ人が圧倒的に多くなり、施設は拡大された。入り口

には「働けば自由になる」と書かれたアーチがあり、何とも皮肉だ。働けないものはすぐ殺され、働ける

ものは強制労働の末殺された。当時の写真、切り取られた膨大な髪の毛の山、没収されたカバンの山、

靴の山、義足の山、メガネの山・・・。全体は展示室だが、11号棟だけは当時のまま。飢餓室、立ち牢、

ガス室など人間がここまで残虐になれるかと心底恐ろしくなった。広場では強制労働後の点呼が行わ

れ、数が合わなければ点呼は9時間にも及び、脱走者が判明すると10人の身替り犠牲者が選ばれる。

あぁ、ゾッとする。ガス室と焼却炉近くの有刺鉄線下をするりと抜けた猫がいてせめてもの救いだった。

2キロ離れた第2アウシュビッツ「ビルケナウ」       希望を持って長旅を終えた人々を待っていたのは・・・

2キロ離れたビルケナウは、第2アウシュビッツと呼ばれ、世界最大の強制収容所であった。ナチス・ド

イツは、ヨーロッパ中からユダヤ人を強制連行し、民族の絶滅を図る。そのためには大きな収容所が必

要だった。何十時間も貨車に詰め込まれた人々は、線路がそのまま収容所に繋がるビルケナウに到

着する。プラットホームで荷物を置いていけと言われ、働けるか否かの選別が一瞬で行われる。働ける

者の女性は左に、男性は右に。働けない者は5ヶ所あったガス室へ。他にも収容所が40ヶ所もあって

それらの総称を「アウシュビッツ」と言うのだと聞いた。アウシュビッツで失われた人命は約150万人。

ユダヤ人が最も多かったが、次はポーランド人であった。その線路には瑞々しい花が供えられていた。

夜 クラクフ 「Mieszczanska」 きのこのパンスープ、サラダ、ゴラブキ(ポーランド風ロールキャベ

ツ)、アイスクリーム、ビール大 10zt、白ワイン 10zt、赤ワイン(サービス) 

  

どうしても見ることが出来ないと、1人の方はバスの中にいた。バスが動き出しても車内は重苦しい空

気が流れる。今見て来たものが、ことが、歴史の事実が頭の中をグルグル回る。せめて音楽を聞いて

とショパンを聞きながらクラクフに帰った。市内に近づくと、Y口さんが、ポーランドの歌「森へ行きましょ

う」を今夜に備えて練習しましょうと発案。力なく歌う。そんな夜ではあったが、夕食は民族音楽の演奏

と舞踊付き。気分転換の配慮なのだろう。グループの皆さんが、ダンサーに合わせて踊っていらした。

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6月 14日(土) 晴れたり曇ったり

 クラクフ「ノボテルセントラルホテル」 朝食ヴュッフェ

そう言えば、昨日は13日の金曜日だった。オランダは絶好調でフランスを4:1で打ちのめした。国同士

の戦いはスポーツにして欲しいよ。テレビをつけると、東北地方で大きな地震があったと伝えていた。

  

 チェンストホーヴァの「ヤスナ・グーラ」はポーランドの宗教的聖地。「黒いマドンナ」が迎えてくれる。     聖体式の子供達

  

                 僧院内部は壮麗だ   土曜日とあって結婚式がおこなわれていた       これが「黒いマドンナ」

3泊したクラクフを後にチェンストホーヴァに向かう。69日のトルンの説明でも書いたが、1655年に

始まったスェーデン軍の大侵略でポーランドの都市のほとんどが占領されてしまった。しかし、1つだけ

攻勢に屈しなかった所がある。それがチェンストホーヴァにある僧院「ヤスナ・グーラ」。「光の丘」という

意味だ。練馬にも「光が丘」あるよね。「ヤスナ・グーラ」を守ったのは、1384年寄進された「黒いマドン

ナ」が起こした奇跡に違いない!ということで、以来ポーランドの守り神となる。国民の95%がカソリッ

ク信者で日曜日ミサには国民の90%以上が出席する信仰心の篤い国だからマリア被昇天の日・命日

815日には全国から歩いて祈りに来る。お顔に傷のあるマリア様はダイヤモンドの衣装だった。

昼 チェンストホーヴァ 「Pod Aniolami」 赤ボルシチ、サラダ、ピロシキみたいな揚げ物、ビーフ

       ロ ール、ケーキ、インスタントコーヒー

  

ピンクのボルシチスープはエラク甘かった。ランチの後、ぶらぶら歩く。僧院の門前町チェンストホーヴ

ァのお店で売っているものは、すべて聖具品。仏教徒が十字架買ってもねぇ、ということで見るだけだ。

夜 ワルシャワ 「ソフィテル ビクトリア」 チキンの前菜、パン、サーモンのディルソースがけ、3色

       アイ スクリーム、ビール小 14zt(T中さんに貰った)、白ワイン 20zt、赤ワイン 20zt(旅行会社

      サー ビス)  

  

夕刻、ワルシャワに戻って来た。ホテルも同じソフィテル。ただいまー!って感じね。今晩は早くもサヨナ

ラパーティ。この旅行会社は1杯飲み物をサービスしてくれる。T中さんからもビールを頂いたから支払

いは赤ワイン1杯20ztで済んだ。一応5ッ星ホテルのレストランだから、パンも料理も美味しい。量が多

くて半分は残していたが、前菜は全部食べた。皆さんお世話になりました。ロシア1:0ギリシャに勝利。

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6月 15日(日) ワルシャワは曇りのち晴れ

 ワルシャワ 「ソフィテル ビクトリア」 朝食ヴュッフェ

  

  ショパンがオルガンを弾いたヴィジトギ教会     日曜日正午の陸海空衛兵による行進    市民の憩いの場サスキ公園

10時半、皆さんが乗ったバスを見送る。サヨナラー!ちょっと寂しい。何で帰らないのよ!えーっとです

ねぇ、ビジネス席を頼んだ3人は席が確保出来ず、延泊することになっていたのだ。だから3人は残っ

た。A山さんとU山さんは9時にガイドの方と半日観光に行かれた。私は一人で行動する。ワルシャワ

大学、元貴族の館だった大統領官邸、学生時代ショパンが日曜日のミサでオルガンを弾いたヴィジトギ

教会、旧市街の王宮、「ポギーとベス」上演中のオペラハウスなどを見て、11時半過ぎにはサスキ公園

の無名戦士の墓へ。毎時衛兵の交代式が行われているが、日曜日の正午だけ、陸海空3軍の兵士が

無名戦士への慰霊の儀式が行われる。軍靴の音が鋭いキビキビした行進に、訓練と統制の魅力を感

じた。音楽留学中のお嬢さんと訪ねて来たご両親3人家族と暫しお喋り。彼女は住みやすいと言った。

昼 ワルシャワ 「何とかというレストラン」 ハンガリー風スープ 18zt、ボローニャペンネ 20zt、

      コー ヒー 6zt

  

新市街に行く。5年ごとに開催されるショパン国際コンクールの会場である国立フィルハーモニアを見

たり、デパートを覗いたり。街のどこにいても見える高い建物は、悪名高い文化科学宮殿だ。ソ連の社

会主義体制下にあった時、スターリンがワルシャワ市民に贈った建物で「スターリンの贈り物」と嫌われ

ている。適当な店で遅いランチ。メニューにハンガリー風スープとあったので、大好物のグヤーシュかと

思ったら違った。また本場でグヤーシュ満腹になるまで食べたいなぁ。海外での1人歩きは楽しいぞ。

 ワルシャワ 「ソフィテル ビクトリア」 ベジタブルスープ、パン、ポークソティと温野菜、ケーキと

       ア イスクリーム、ビール小 14zt、赤ワイン20zt×2杯

  

ゆっくりお風呂に入って、昨夜と同じレストランで夕食。但し今日は3人だけね。大酒飲みのA山さんは

ズロチの残りを気にしてばかりいた。A山さんは81歳だ。その代わり、レストランチーフのオジサンがカ

タコト英語でずっと話し掛けて来てうるさい位だった。トルコ、チェコを大逆転!「篤姫」を途中から観る。

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【今週の振り返り】

世界のあちこちに行っては、その国の歴史をカンタンに調べる。極めて表面的だが、たくさんの国の歴

史を知った。今回訪ねたポーランドの歴史は、それらの国の中でも飛びぬけてつらくて悲しい。その悲

しい歴史を知ったのは今から約20年前読んだ本だ。次兄から勧められたジェームズ・A・ミッチェナー

著「ポーランド」上巻・下巻。かなりのページ数のある単行本であったが、一気に読んだ。そして、いても

立ってもいられなくなり、次のゴールデンウィークには共産圏だった東欧(当時はこう言った)に飛び立

った。しかし、この時はワルシャワにちょっと寄っただけで当初の目的とはかけ離れた旅になってしまっ

たが。おどろおどろしく見えた文化科学宮殿だけが、ワルシャワの記憶である。

ポーランドは7つの国とバルト海に囲まれている。西から並べると、ドイツ、チェコ、スロヴァキア、ウクラ

イナ、ベラルーシ、リトアニア、飛び地のロシア。チェコやスロヴァキアと接する南部には山脈はあるも

のの、あとの国土はほぼ真ッ平だ。これが災難の素になったのではないか、と私は思っている。ロシア

(ソ連)が西のヨーロッパを目指せば、そこにポーランドがある。ドイツがロシアの動きを牽制し、東に国

土を拡大しようと思えば、そこに平地のポーランドがある。ハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー

帝国が北を目指せば、山の向こうにポーランドがある。バルト海を挟んで、強大なスェーデンもポーラン

ドを狙っている。豊かな農地が広がるポーランドは、昔から隣国から見れば「美味しいご馳走のような

領地」に見えたに違いない。

ポーランドには、断続したことも何度かあったが、10世紀後半から18世紀まで王国であった。ピアスト

朝とヤギェウォ朝、そして貴族の中から選挙で国王を選ぶ貴族共和制下のポーランド・リトアニア連合

王国。この王国時代の13世紀にはモンゴル帝国の侵入で大きな被害を受け、17世紀にはロシアとス

ェーデン軍が侵入して国民の3割が命を落としたこともあった。ポーランド・リトアニア連合王国が弱体

化すると、ロシア、プロイセン(ドイツ)、オーストリアの3国はポーランドに干渉を始め、1772年第一次

領土分割、続いて1793年の第二次領土分割で国土は半分になってしまう。そして第三次領土分割が

行われた1975年、遂にポーランド・リトアニア連合王国は世界地図から姿を消した。日本は島国だか

ら想像しにくいが、東北・北海道はロシア、関東から関西までは中国、それ以西は韓国ね、日本という

国はもうありません!と言われたようなものなのだ。第一次世界大戦でドイツとオーストリアが敗戦国と

なってようやく独立国家として認められる1918年まで、実に143年間もの長い間ポーランドは存在しな

かったのである。

やれやれ、ようやくポーランド国になったなぁと喜んだのも束の間、21年後の193991日、ナチ

ス・ドイツがポーランドに攻め込んで、第二次世界大戦が勃発してしまった。なんてことだ!国土はドイ

ツとソ連が分け合って占領され、またもやポーランド国は消滅。その後ドイツはソ連領になった国土も

奪い、ユダヤ人の絶滅政策と共にポーランド人をゲルマン民族に奉仕する民族に仕立て直そうとする。

そのためポーランドの政治犯や知識階級を強制収容所に放り込んだ。ユダヤ人絶滅を意図した「アウ

シュビッツ」のことは前述したが、その他のユダヤ人犠牲者は270万人、抵抗したポーランド人の約

100万人が落命した。痛ましい。余りに多くの犠牲だ。犠牲はさらに続く。大戦末期、ソ連の援軍を期待

してワルシャワ市民はドイツ軍に銃を構えた。有名なワルシャワ蜂起である。しかし、ソ連は助けなかっ

た。ワルシャワの街は徹底的にドイツ軍に破壊され、20万人の命が散った。

戦争が終わった。ポーランドの人々はどんなに安堵したことだろう。しかし、彼らを待っていたのはソ連

影響下の共産党独裁体制であった・・・。なんてツイテいない国なんだ!その後のことは、先週のグダ

ンスクで書いたように、「連帯」の活動などにより、1989年共産圏ではいち早く民主化政権をかちとり、

ポーランド共和国が成立するのである。

こんな悲惨な歴史をポーランドの人々はどう生きて来たのか。唯々諾々と運命を受け入れた?全くそ

んなことはしなかったよ、彼らは。「蜂起」という反乱はポーランドの歴史に何度も何度も出て来る言葉

だ。20万人が命を落とした19448月1日から始まったワルシャワ蜂起に限らず、時代を超え、場所

を変え、ポーランド人は怒りを行動に示した。第一次領土分割前のウクライナで始まった全国規模の蜂

起、国を失う第三次領土分割前のタデウシ・コシチェーシコが呼びかけた各地での蜂起、分割時代の

1830年の11月蜂起、1860年の1月蜂起、1918年ヴィエルコポルスカ蜂起、そして1944年のワル

シャワ蜂起・・・・。いずれも負けて多くの犠牲を生んだ。他国に翻弄される祖国を黙ってみていられない

ポーランド人なのだ。チェコ、ロシア、ポーランドはいずれもスラブ民族。同じスラブ民族で、スラブ系言

語を使うチェコ人は言うそうだ。「どうしてポーランド人は負けるとわかっている戦いに挑むのか。チェコ

人はそんな無駄なことはしない」。そんなポーランド人を「不屈の激情家」と言うべきか、「愚直な愛国

者」というべきか。

お天気が良かったせいもあるが、20年ぶりに訪れたポーランドは思いっきり明るく、食べ物が豊かで、

人々の表情は穏やかであった。粉々に破壊された街並は見事に再現され、彼らの努力と熱意に感動

の拍手を惜しまずにいられない。パチパチパチ。世界遺産は13もある。見所が多い。なぜ有名でない

か?ポーランド人はとってもシャイなのよ。PRが下手っぴー。2004年にEUに加盟したポーランドは日

本が大好き。チェンストホーヴァの僧院「ヤスナ・グーラ」を案内してくれた神父さんは「弟はTOYOTA

に乗っています。私はTOSHIBAのカメラ使っています」と言った。東芝はカメラ作っていないっしょ。ポ

ーランドの国歌は「われら生きる限り、ポーランドは滅びず」というタイトルである。

 ボク今、アウシュビッツに住んでいるんだよ

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        *ポーランド旅の始まりは 61 をご覧ください。