パクパク日記 8年10月3週

        ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、モンテネグロと旅は続くのだ

モスタルの石橋 岩の聖母マリア教会

10月 13日(月) マケドニアは晴れ

朝 マケドニア・オフリド 「ホテルミレニアム」 朝食ヴュッフェ

 あぁ!ニッポンの味!

旅も2週目に突入。2泊したオフリドとお別れだ。非常食として持参したカップ麺(小)の1つに手をつけ

る。お湯注いで、ゆで卵で蓋を抑えて3分。チュルチュル。うま!世界中の人が故郷の味と思うのか?

          アレキサンダー大王が来たかもしれないヘラクレア遺跡と見事なモザイク     

ビトーラの郊外にあるヘラクレア遺跡。ローマからアドリア海を挟んでギリシャ・テッサロニキに通じるエ

ニャアティア街道沿いの街であった。紀元前4世紀、アレキサンダー大王の父・フィリッポU世がつくっ

た可能性もあるが、発掘中だからよくわからん。518年の大地震で埋もれたヘラクレアも、40haのうち

1割を発掘した時点で、浴場、裁判所、大小バジリカ、劇場などが姿を現した。モザイクが素晴らしい!  

昼 ビトーラ「LEO」 各種野菜のサラダ、ハムと生ハム パプリカペースト、焼き立て胡麻パン、サル

        (ひき肉のぶどう葉包み)とズッキーニ、バクラバ(トルコ菓子)とアイスクリームとバナナ

  

  

ビトーラは現在人口15万人の町だが、オスマントルコがブルガリアのソフィアに続いて築いた都であっ

た。6世紀のモスクが今も残る。その時代、オスマントルコに許可を貰って建築した聖デミトリー教会は

ムスリムを刺激しないよう建物は大急ぎ(4、5ヶ月)で簡素に造ったが、内部のエコノスタシス(聖障壁)

のイコンなどは数十年かけ24金で豪華絢爛の造りだ。バルカンで初めて映画を作った人の像もある。

そのビトーラの旧市街のレストランでランチ。最初に出て来たサラダは4人前かと思ったら1人前。しか

もハムと生ハムのサラダまで出て来た。パプリカのペーストも旨い!焼き立てアチチの細い胡麻パン。

香ばしくて旨いの何の!全員夢中で食べる。そこにドカーンとメイン料理だ。サルバという名物料理で、

挽肉をぶどうの葉で包んで焼いてある。ヨーグルトにつけて食べるとなかなか。でもボリュームあり過ぎ

れーす!食べきれなかった胡麻パンを皆ナプキンに包みながら、マケドニアって美味しい国ねと喜ぶ。

  

         ストビ遺跡はローマ時代ストベニウムという地名の町であった、当時重要な都市だったことがうかがえる。

遺跡観光が続く。午前中のヘラクレア遺跡に続いて、午後はストビ遺跡へ。ここもヘラクレア遺跡とほ

ぼ同じ時代の遺跡で、紀元2、3世紀ローマ時代に栄えた町らしい。当時の名前は「ストベニウムだ」。

夜 スコピエ 「Lyla」 サラダ、パン、前菜舟盛り(チーズ各種・ズッキーニフライ・パプリカッペースト・

サルバなど)、魚(マーブルトラウト)、アイスクリーム、3点セット+水 7ユーロ

   これで4人分の前菜

  

ストビ遺跡から1時間余り走って、マケドニアの首都スコピエに到着。今晩の夕食は外のレストランなの

で大慌てでシャワーを浴び、着替え。こうゆう時一人部屋は有利だわ、うん。アドリア海沿いのデュレス

などに比べ、だいぶ内陸に移動して来たから、気温が下がって夜は肌寒い。マケドニア料理、今羽の

夕食も楽しかった。メニューは「サラダ、魚、アイスクリーム」と聞いたのに、その間に前菜の盛り合わせ

がドーンと、まるで刺身の舟盛りのように運ばれて来るのだ。チーズ各種、例のぶどうの葉のサルバ、

生ハム、パプリカペースト、茄子のペーストなどなど11種の前菜。もうこれで満腹になりそうなのにメイ

ンはとんでもなく大きな魚1匹づつ!グループでは「マケドニアの食はスンバラシイ」と大絶賛なのだ。

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10月 14日(火) 晴れ

   マケドニアのスコピエから→ウィーン&ウィーン→ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエボへ

朝 スコピエ 「ホリディ・イン」 朝食ヴュッフェ+スープヌードルチキンフレーバー

    マケドニアのカップ麺

昨夜は客室が蒸し暑かったり、ベッドが狭すぎたりとなかなか寝付かれずもんもんとした。結局1時間

半ウトウトしたら朝になってしまった。昨日ビトーラの街のフリータイムにスーパーで買物をした。ペパー

ミントキャンディとご当地のカップ麺。海外で機会があると、私は袋緬かカップ麺を買う。今朝はチ8キン

フレーバーを食べてみた。うーん、悪くはないが旨くもないわな。絵葉書投函。ガイドが遅刻して来た! 

午前中スコピエ市内見学。スコピエは1963年大地震に襲われた。大被害が出たが、国連がスコピエ再

建案を世界に呼びかけてコンペを実施し、採用されたのは日本人建築家の丹下健三氏の案であった

そうだ。カレ城塞、聖スパス教会、石橋を見て、旧スコピエ駅へ。今は博物館になっている駅の大時計

は、大地震があった1963年7月26日の午前5時17分で止まったままだ。アルバニア人のマザー・テ

レサは本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュといって、旧スコピエ駅近くで生まれた。12歳でインドの貧しい

人に奉仕したいと考え始めたのだそうだ。エライ人は子供の頃から心掛けがちゃう。彼女の像もある。

昼 スコピエ 「パンテレーモン」 サラダ、前菜舟盛り、チキン、アイスクリーム、水 1ユーロ

  

  

                            重量20kgのマケドニアの婚礼民族衣装      聖パンテレーモン修道院

民族博物館を見学した後、郊外に向かう。マケドニア最後の食事になるランチも大満足。例の前菜舟

盛りは昨夜より規模縮小ではあるが、ちゃんと出たよ。マケドニアさん、どうもご馳走さまでした!レスト

ランの隣にあるパンテレーモン修道院は、12世紀に建てられた。16世紀の地震で大きな被害を受け、

名前は残っているが修道院の機能は無い。内部のピエタの絵が有名らしい。さて、空港に向かおう。

夜−1 オーストリア航空 スコピエ=ウィーン ビジネスクラス機内食

夜―2 オーストリア航空 ウィーン=サラエボ機内食

    左)ビジネスクラス 右)エコノミークラス 

今回の旅は西バルカン6ヶ国を周遊するのだが、アルバニア、マケドニアの2ヶ国訪問が終わったとこ

ろで、移動手段に飛び道具を使う。飛行機ね。しかも直接行くのではなく、ウィーンに行って、そこから

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエボへ飛んだのだ。夕食は2度のフライトの機内食。最初ビジネスで

まぁまぁだったが、2回目のフライトはエコノミーで僅かな食事。えーん。ホテルでビールとウィスキー。

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10月 15日(水) ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエボは朝のうち濃霧、のち晴れ

朝 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・サラエボ 「ホリディ・イン」 朝食ヴュッフェ

  

               内戦時、世界のジャーナリストはこのホテルからニュースを発信し続けた     これがスナイパー(狙撃兵)通り

昨夜10時に着いたこのホテル、ホリディ・イン・サラエボは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで一番有名なホ

テルに違いない。20世紀終わりに激しさを極めた内戦中は、世界中からジャーナリストが集まり、この

ホテルを拠点に報道を続けた。直接攻撃も受けたこともあり、最前線はすぐ近くだったが、ホテルは営

業を続けた。ホテルの目の前の大通りは、スナイパー(狙撃兵)通りと呼ばれ、内戦時代は高層ビルか

らセルビア人狙撃兵が動くものを狙ったのだそうだ。おぉ、こわ!!昨夜狙撃兵に狙われる夢を見た。

           銃弾の跡が残るトンネル博物館   冬季オリンピックの補助グランドも墓地に          モデル並のガイド嬢

ガイドは国または都市ごとに代わる。サラエボのガイド・ベリーナさんは、若いモデルと見紛うような美

人で、しかもお洒落。ちょっと意外な感じね。朝から濃霧で一寸先も見えないほどだ。濃霧は標高550メ

ートルのサラエボの名物で、飛行機の欠航も多いとか。まずはトンネル博物館へ。戦時、この建物から

700メートルものトンネルが掘られて、ユーゴスラビア連邦軍の目を逃れて物資の輸送を送っていたそ

うだ。セルヴィア、クロアチアに続いて、ユーゴからの独立を宣言したボスニア・ヘルツェゴヴィナの首

都サラエボは、いつの間にか武装したユーゴ軍に包囲され、激しい攻撃を受けることになる。1984年サ

ラエボ冬季オリンピックが開催されてからわずか7年後のことである。サラエボだけで1万人の犠牲者

が出て、オリンピックの補助グランドは臨時墓地となった。墓地の横ではサッカーの練習をやっていた。

昼 サラエボ 「アエロプレーン」 ボスニアパイ、サラダ、チュバプチチ、バクラバ

  

  

                   第一次世界大戦はここから始まった  ハプスブルグ家皇太子夫妻襲撃されたサラエボ事件現場

泥沼化した内戦は、大きな犠牲を出した後、デイトン和平合意でようやく終結したが、現在この国はボ

スニア・ヘルツェゴヴィナ連邦+セルビア人共和国で構成されている。連邦にはムスリムとカトリックが

共和国には正教徒が住む。ランチはモスク、東方正教教会、カトリック教会などが並ぶ旧市街でチュバ

プチチという名物料理をたべる。ナンを半分に切って、中に小さなソーセージを詰め込み生の玉葱と共

に食べる料理。ソーセージがなかり塩辛い。私達は半分のナンが、アルバニアで見たトーチカの思えて

仕方がない。アハハ。この旧市街にはバシチャルシァという職人街があり、エキゾチックな雰囲気だ。

サラエボといえば、歴史的に有名な事件があった場所だ。1914年6月28日、サラエボを訪問していた

オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント皇太子夫妻がセルビア人の学生ガブ

リロ・プリンツィプに狙撃され暗殺された。これが世界第一次世界大戦のきっかけになったのである。

夜 サラエボ・ホリディ・イン 「ナショナル」 ツナと玉葱のサラダ、パン、ブロッコリーのクリームス

      ープ、ビーフグヤーシュ、チョコレートッケーキ、3点セット 8.5ユーロ

  

    グヤーシュはスープじゃなかった・・・

午後3時頃、疲れたので3人で一足先にホテルに帰って来た。煙草止めたら満腹中枢がこわれちゃっ

て体重がドーンと増えたから膝の負担がキツイのだわ。夕方ロビーで、先月中央アジアをご一緒した添

乗員のS根さんにバッタリ会った。え?明日もう帰国?いいなぁ・・・私ら、まだ8日あるんだよ。夕食時、

席順をめぐってちょっとした波乱。好かれない人がいるといろいろ波紋が広がってね。9時半には就寝。

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10月 16日(木) 晴れ

 サラエボ 「ホリディ・イン」 朝食ヴュッフェ

毎晩、夕食時通称「3点セット」と呼ぶビール、赤・白ワインを飲むが、部屋に帰れば持参のウィスキー

を飲むのが旅のいつもの日常だ。今回長期間なので500mlを3本持って来たが、足りないかもしれない

と一昨日ウィーン空港で1本買い足した。昨夜はそのウィスキーを飲み過ぎて、ちょっと二日酔い気味。

昼 モスタル 「ポドルム」 サラダ、パン、ムサカ、ティファフジャ(りんごとナッツの菓子)、コーヒー1U

  

サラエボを出発して時間弱、モスタルに到着した。車窓の右側にはいつもネレトヴァ川が流れ、ある場

所ではそれが湖になって。それにしても山々の紅葉がきれいだなぁ。3時間弱でモスタルに到着。猫の

いるレストランでランチを摂る。ムサカがメインというので喜んだのに、いやにアッサリした料理だった。

  

            爆撃された内戦の跡が今も        スタリー・モスト(石橋)の記念石         今は観光客が増えて

内戦で破壊されたスタリー・モスト(石橋)は16世紀に作られたものだったが、ユネスコ等の協力で

2004年復元された。翌年、世界文化遺産に登録された。2年半前この街を訪れたことがある。その時

は入国するのさえ緊張が伴なっていた。あの時と比べて、町には明るが戻り、観光客も増えたように思

える。しかし、内戦の激しい銃撃戦で破壊されたビルはそのまま。スタリー・モスト(石橋)に置かれた

DON’T FORGET ‘93」の記念石の存在は重い。燦燦と秋の日が照る中、猫達が昼寝をしていた。

夜 モスタル 「ホテル エロ」 野菜スープ、サラダ、パン、ポークソティ ポテトと野菜添え、アイスクリ

ーム、生ビール大ジョッキ 2ユーロ、赤白ワイン@1.5ユーロ 計5ユーロ

  

    2年半前は魚料理だった

ホテル「Ero」。エロ。凄い名前でしょ?2年半前もこのエロでランチを摂った時ナンて名前つけるんだ!

とびっくりしたものだ。北部はボスニア、南部はヘルツェゴヴィナだが、エロはヘルツェゴヴィナと同じ意

味らしい。ということは、「愛するエロ」とか「我がエロ」とか「私はエロ人です」とか「エロ万歳」とかあるの

だよねぇ・・・。それはともかく、モスタルでは、ここが一番のホテルなのだそうで。大ジョッキをグイッと。

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10月 17日(金) 曇り 時々小雨  

ボスニア・ヘルツェゴヴィナを出発し、クロアチアのドブロブニクを経てモンテネグロへ

朝 モスタル 「ホテル エロ」 朝食ヴュッフェ

    ソーセージが塩辛くて半分残す

6時半朝食開始時間にレストランに行くと誰もいない。客もいないがホテルスタッフもいない。でも料理

はだいたいある。じゃ食べるか。千代子さんも来た。ホットドッグ作ったアイデアは良かったがマズイ!

 クロアチア・ドブロブニク 「ポサト」 パン、トマトソースのリゾット、シーフードミックス、ロザタ(クリー

ムキャラメル)、紅茶(サービス)

  

ボスニア・ヘルツェゴヴィナとクロアチアの国境越えもカンタンだった。バスに係官が乗って来てスタンプ

をペタッと押すだけ。中央アジア諸国にも「そうしなよ」と言ってくれる?ボスニア・ヘルツェゴヴィナは基

本内陸の国なのだが、たった10キロだけだが海岸線を持っている。そのため、クロアチアのドブロブニ

クは飛び地になっている。2度目のドブロブニク。前回はここで3泊した。世界遺産の美しい街だという

のに、今日に限って天気が悪い。旧市街のピレ門近くのレストランでランチ。日本人客が多いらしく、店

のボーイはカタコト日本語を話す。「美味しい?」と彼が聞く。皆「美味しい!」と答えた。ウソでしょ?こ

れちっとも美味しくないじゃん!美味しいと答えた人達もデザート以外はほとんど残しているのにねぇ。

  

           ドブロブニクのプラツァ通り             フランシスコ会修道院のフレスコ    あいにくこの日だけお天気が悪かった

旧市街見学を始めたら、ポツポツと小雨が降って来た。この10日間、朝のうち濃霧だったことはあるが

全部良いお天気だったのにナンてこった!まぁ15名全員がドブロブニクには来たことがあるから、それ

だけが慰めだったが。天気がいまいちでも平日でもドブロブニクは観光客で溢れている。日本人グルー

プはいったいいくつ来ている?会っただけでも7つ?8つ?あら、あの添乗員は去年イスラエルに一緒

に行ったO村君だわ。この旅でバッタリ会った人は3人目だ。車で1時間もしないうちに国境があった。

夜 モンテネグロ・ブドバ 「ホテル メディテラン」 ディナーヴュッフェ 3点セット 10ユーロ

5番目の訪問国はモンテネグロ。この国も以前ちょいと来たことがある。ドブロブニクからモンテネグロ

に入ると入り江が多い。そこで対岸まで一番狭いところでフェリーに乗って時間を稼ぐ。暗くなって到着

したのは国一番のリゾート地ブドバだ。目の前もアドリア海だが、屋外、屋内に大きなプールを備えて

いる。夕食は・・・げっ!ヴュッフェだって。朝はいいけど、ディナーヴュッフェは大キライさ。料理の種類

が少ない上に、無くなってしまい追加されない大皿のいくつかある。3点セットが10ユーロ?高いぞ!

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10月 18日(土) 午前中曇り のち晴れ

 ブドバ 「ホテル メディテラン」 朝食ヴュッフェ

このホテルは5ツ星だそうだが、朝食のヴュッフェもたいしたことがない。カップヌードルミニを食べた。

  

               世界遺産・コトルの町は2度目だよん                             海に浮ぶ岩の聖母マリア教会は人工の島

以前来た時、この国はセルビア・モンテネグロであった。6つあったユーゴスラビア諸国が次々と独立し

最後にセルビアとモンテネグロの二ヶ国が緩やかな国家連合体制を取っていた。しかし、それも2006

年に行われた住民投票の結果、モンテネグロは独立することになった。モンテネグロはイタリア語で

「黒い山」を意味し、現地の言葉では「ツルナゴーラ」というのだよ。人口はたった67万人しかいない福

島県と同じ面積の小さな国だ。今日は世界遺産のコトルの町に行く。途中で見えたアズビーチは人気

があって夏のコンサートではマドンナやローリングストーンが出演した年もあったとか。コトルは入り組

んだ入江ボカ・コルストカの一番奥にある海洋都市。まぁ北欧のフィヨルドのような地形で発展し、12世

紀の建築物が残る旧市街は1979年世界遺産に登録された。教会見学中お腹ゴロゴロいって真っ青。

コトルから海を見ながらバスを走らせ、ペラストの町へ。約30年前の地震で住む人がいなくなり、死の

町と呼ばれた時代もあったとか。今は100人が住む。ここから船に5分程乗り、人工の島の上に築かれ

た「岩の聖母マリア教会」に行く。岩礁の中から聖母マリアのイコンが発見され、岩礁の周りに石を積み

上げた人工の島にイコンを飾る教会を造ったのだそうよ。立派な教会で驚く。コトルに戻っ、自由時間。

昼 ブドバ 「ポルト」 パン、ムール貝のトマトガーリックソース、魚(ゴフ)、ケーキ、水と紅茶 2U―ロ

  

ブドバに戻って遅いランチ。昨日のドブロブニクの魚介類は旨くなかったが、今日はいいね。ムール貝

の前菜は4人前。トマトとガーリックが強烈。この店には猫が7,8匹いてじーっと客を見上げているよ。

  

     現在リゾート地のブドバの旧市街は15世紀から築かれた城壁に囲まれている      ホテルから観た山側の町

午後はブドバの旧市街の見学。コトルもブドバも城壁を持っていたため、オスマントルコの攻撃に耐え

た。ベネツィア帝国、次にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下には入るも、金を支払うことで自治を

守ったのだね。いくつかの教会やライターズ広場などが残る旧市街はとても狭い。良い天気になった!

夜 ブドバ 「サン・マリノ」 シーフードスパゲティ、グリーンサラダ、パン、魚介類、三色アイスクリーム、

       赤白ワインと水 6ユーロ

  

夕食のために旧市街に戻る。アメリカ人のグループがお願いした民族舞踊団の大音響で、食事前半は

会話不能。スパゲティは標準時間7分のところ、20分茹でちゃったみたいにコシ無し。気温が下がる。 

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10月 19日(日) 晴れ

 ブドバ 「ホテル メディテラン」 朝食ヴュッフェ

5時半起床。今日で煙草を止めて20日だ。起床後の「一日始まりの1本」は不可欠だったが、最近は思

い出しもしない。いいことだね。チェックアウトして、8時に出発。今日でモンテネグロともお別れである。

  

                     13世紀のモラチャ修道院 内部のフレスコ画が見事           ♪赤や黄色の色鮮やかに〜

出発すると、バスはいきなり山を上る。アドリア海がぐんぐん遠くなる。ちらりと見えたのは、スベティ・ス

テファン?以前は行ったね。島ごとソフィア・ローレンなど有名人が愛する5ツ星高級ホテルになってい

る。どこを見ても山、山、山。見渡す限りが山なのだよ。ポルゴリッツァの町を通過。以前はツェチェニが

首都だったが、今はポルゴリッツァが首都。教会の工事現場がいくつかあった。今まではセルビア正教

の教会だったが、独立したのでモンテネグロ正教会にしてゆくのだそうだ。ふーん。一番深いところは

1,000mというモラチャ渓谷は、ゾクッとする程寒かった。10時過ぎ、モラチャ修道院に到着。13世紀ネ

マニッチ王朝の始祖ネマーニャの孫ステファンが建立した。日曜日の朝とあって、教会では洗礼式が。

昼 コラシン 「リプカ」 ランチヴュッフェ 紅茶 ユーロ

  

今日は朝からバスが大揺れ。バスの席の公平を期すため、旅行会社の多くがローテーションをとって

いる。で私は最後尾の当番で、まさに最後尾の席に座っていた。揺れて揺れてランチのためにコラシン

で車を降りてホッとした。え?昼もランチ?なんだぁ。コラシンは山のリソート地らしいが、海のリゾート

地ブドバのホテルよりずっと料理の質が良かった。紅茶を頼んだら蜂蜜とレモン水が添えられていた。

                    〜 モンテネグロからセルビアへ 〜

夜 セルビア ノビ・パサール 「ホテル タジ」 サラダ、温かいパン、チキンスープ、グリルドチキン、デ

ザート 赤ワイン 3ユーロ、白ワイン2ユーロ

  

 パンが温かくて嬉しい

3時過ぎモンテネグロを出て、最後の訪問国セルビアに入り、今夜の宿泊地ノビ・パサールに到着。大

揺れのバスに8時間乗っていたから、エラク疲れた。夕食時はいつも3点セットを飲むが、お腹の調子

がヘンなのでビールは昨夜に続き止めておくぞ。中国人の若者が7、8人食事していたのが目を引く。

              ______________________

【今週の振り返り】

「マケドニア」と聞いて、何を連想しますか。私は何と言ってもアレキサンダー大王(アレクサンドロス3

世)である。紀元前356年にマケドニア王フィリッポ2世の息子として生まれ、20歳で王を継承、父が果

たせなかった東方遠征を決行し、最強の国ペルシャを滅亡させる。小アジア、シリア、フェニキア、エジ

プトを征服、更には中央アジア、インドまで行ってしまったのだね、凄いもんだ。しかし、33歳の若さで急

逝してしまった大英雄である。大王の死後王の家系も絶え、部下の有力な武将たちが争って大帝国を

分割統治することになった。エジプトに配置されていてそのまま居座ったのはブトレマイオスで、以後エ

ジプトブトレマイオス朝となったのだね。最後の王はあのクレオパトラだったが、エジプトの王がなんで

西欧人っポイ顔しているか、という疑問は解けたと思う。つまり、アレキサンダー大王が東方遠征に行

かなかったらクレオパトラは存在していなかったのだ。大王の幼い頃の家庭教師は、アリストテレスだっ

たという。

古代マケドニア王国とは、バルカン半島中央部に存在した地域で、ギリシャと現在のマケドニア共和国

とブルガリアの3ヶ国にまたがっている。面積比でいえば、ギリシャが50%、マケドニア共和国が40%、

ブルガリアが10%となる。そうゆうこともあって、ギリシャとブルガリアは、1991年ユーゴスラビアから独

立してマケドニア共和国と名乗ることに大反対した。「はんたーい!ゼッタイはんたーい!何であんたら

が誇りあるマケドニアを国の名前にすんだよぉ!おかしいじゃん。それに自分たちのこと、マケドニア人

なんて言っているけど、あんたら6,7世紀に移住して来たスラブ人じゃん。マケドニアにずっと住んでい

たのはギリシャ人だからね。1919年のバルカン戦争でマケドニアは、ギリシャとブルガリアとセルビア

(ユーゴスラビア)に分割されたよね。そのうちセルビア領マケドニアに住むスラブ人達が自らを「マケド

ニア人」なんて言いだしただけじゃんさぁ。私らギリシャとブルガリアはマケドニア共和国は認めないか

らね!!」。だから、国連に加盟した暫定的な名前は「マケドニア共和国旧ユーゴスラビア共和国」とい

うながーいものなのである。将来国名が変わることは無いとも言えないわけだ。国旗も古代マケドニア

王国の旗「ヴェルギナの星」を使用していたが、ギリシャに反対されて変えたしね。更にルガリアは、マ

ケドニア語と言っている言葉はブルガリア語のことだから、マケドニア語は認めない、とも言っているら

しいよ。踏んだり蹴ったりだ。

マケドニア共和国にとっての大問題はもうひとつ。アルバニア人問題である。九州の三分の二くらいの

国土に200万人が住むが、アルバニア人は22%も占めている。そのために、アルバニア人専用の教

育施設を小学校から大学まで設置しているし、国会議員の25%はアルバニア人から選ぶということも

決めている。いろいろ気をつかっているわけだ。どうしてこんなことになったのか。そもそも、オスマン朝

が倒れて支配下から抜け出した翌年1913年、アルバニアは、「アルバニア人が住む地域をアルバニア

の国としたい」と会議で主張した。それを周辺諸国が「それはでか過ぎじゃん、もっと小さくしなさい!」

と強要。ま、すったもんだの末、妥協案として出されたのが現在の国境である。アルバニア人が住む地

域より、2万2千平方メートル狭くなってしまった。その削られた地域に、マケドニア共和国の一部もある

し、セルビアのコソボ自治州もあったのである。マケドニア生まれのアルバニア人マザー・テレザも不思

議はなかったのだ。そんな事情があって、2001年にあったアルバニア系武装勢力との衝突も休戦して

いるだけで解決には至っていない。

こう書くと問題だらけに見えるマケドニアだが、人は実にフレンドリーであけっぴろげ。スルーガイドのリ

ステ氏はガイドとしての能力は?だったが、無類のお人よしであった。ドライバーのディムチ氏は、いつ

も笑顔で愛想をふりまいていた。バルカン諸国で一番ホスピタリティの高い人々は、マケドニアの人だ

と聞いた。料理も一番旨かったのはマケドニアだ。一緒に旅している15名も「今のところ一番好きな国

はマケドニアだわ」と大絶賛なのである。そうそう、スコピエにある空港の名前は、「スコピエ・アレキサ

ンダー大王空港」というのだよ。いいのかなぁ・・・・。これで旅は13日を終えた。あと5日!

             マケドニアは猫もいいよ ニャア!

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      旅の始まりは 10月 2週 をご覧ください。

      え?あと10月4週と10月5週?  エーン!