パクパク日記9年10月3週

             モルドバ共和国からウクライナに戻る。私の訪問国は100となった。

モルドバ・ワインセラー 1945年ヤルタ会談

10月 12日(月・日本は体育の日の祝日だった)  曇りのち雨    1Leiレイ=約8円

朝 ウクライナ・オデッサ 「チェルノモーレ」 朝食ヴュッフェ

    ナゼか移動日は天気が悪い

6時起床。かつての冒険小説ファンには憧れのオデッサの街。ホテル8階の客室から見るオデッサの

空は今にも降り出しそうなどんよりとした曇天だ。3日後この街には戻って来るが自由に歩き回る時間

は無さそう。猫探す時間が無いじゃん!今日は国境を越えてモルドバに行く。お弁当持って8時出発。          

昼 バス車中にて 弁当

1時間後、ウクライナ側国境マヤイキ到着。また犬がいる。係官バス乗り込み→パスポート集め→バス

にて待機→パスポート受領というお決まりの手続きを経て、モルドバ側国境パランカ着。お決まり手続

きが終了したのは1015分であった。トイレに行きたい!と騒ぐ人数人。雨の中、100ヶ国達成!

ランチはホテルが作った弁当。つまりですねぇ、ウクライナのオデッサからモルドバの首都キシニョフま

で、我々グループが食事をするようなレストランはありまへん!ってことなのだ。ってことは、ちゃんとし

たトイレもありまへん!ってことで、11時頃適当な場所で停車して「男性はバスの左、女性は右でね」。

夜 モルドバ・キシニョフ「ホテルレオグラド」 レンズ豆のスープ、パン、ミートボール ピラフと野菜

      添え、ライスプディング、生ビール 50Lei 白ワイン 75Lei、赤ワイン 80Lei 計205Lei

  

モルドバに入った途端、民家の形が変わった。三角屋根の家が多い。山羊や牛、ニワトリが放し飼いさ

れている。牧歌的風景である。ようやく雨が止んで、建物が徐々に増えて来た。看板の文字が読めるよ

うになった。ロシア語はキリル文字だから全く読めなかったが、モルドバ語はルーマニア語とほぼ一緒

だから。もちろんルーマニア語はわからんけど、一応アルファベッドで書いてあるしね。2泊する「ホテル

レオグランド」は2003年に出来た4ッ星ホテルで、町一番だそうだ。ということはこの国で最高級という

ことね。希望者の皆さんはその辺の散歩に行かれた。6時半からホテルで夕食。100ヶ国達成祝う!

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10月 13日(火) 曇り 夜大雨

朝 モルドバ・キシニョフ「ホテルレオグランド」 朝食ヴュッフェ+ミニカップヌードル

    充実した朝食ヴュッフェどす

良いホテルの朝食ヴュッフェはやっぱり充実していていいね。そこにミニカップヌードルを持ち込む客が

いるのはどうしてだ!?今日もキシニョフの空は厚い雲で覆われている。ルーマニアとウクライナに囲

まれたモルドバは日本の11分の1という小さな国だ。人口は約400万人、首都キシニョフは80万人だ

が中心街の交通渋滞はヒドイ。そんなわけで近いのにようやく着いた最古の教会マザラキ教会では、

お葬式をやっていて観光客は追い返された。でもいいんだ、私は。可愛い猫を10匹も発見して夢中!

  

         ロシアを追放され滞在したプーシキン         手書きの文字とスケッチ          エフゲニー・オネーギンはこの地で書かれた  

プーシキンの家博物館に行く。1799年に生まれたロシアの詩人・作家のプーシキンは、ロシア帝政批

判の急進派として政府から疎んじられ20歳でモルドバのキシニョフに送られた。約3年間、この家で過

したプーシキンはチャイコフスキーのオペラにもなった「エフゲニー・オネーギン」を書き上げた。1823

年オデッサに移り住むが、ミハイル・ヴォロンツォフ伯爵夫人と恋愛関係になり、伯爵から追放される。

政府批判をしたためという説もある。このプーシキンさん、32歳の時絶世の美女ナターリャ・ゴンチャロ

ワと結婚するが、横恋慕するフランス人に決闘を挑み、その時の傷が元で2日後に死去。享年37歳。

「ルスランとリュドミラ」、「スペードの女王」、「ボリス・ゴドゥノフ」、「金鶏」などオペラになった作品も多数

あるが、実はプーシキンは一度も読んだことがない。でも彼自身の人生は「ドラマチックやなぁ」と思う。

  

              内部は豪華なキシニョフ大聖堂                ロバート・デ・ニーロにそっくりな男性とおそらく孫娘

     

           6歳の娘もいる美人ガイド                 モルドバで発掘されたマンモスの骨         モルドバの子供達の写真

      パスポート入手のための行列                18世紀に出来た聖ティロン大聖堂と庭に咲いていた花    

大聖堂公園。ロシア正教のキシニョフ大聖堂は、中に入ると金箔張りで豪華だ。女性ガイドはスカーフ

持参で、教会に入る時は必ず髪を隠していた。ロシアとトルコの戦いでロシアが勝った記念に作られた

勝利の門、鐘楼があった。大聖堂の前に鳩に餌をやっている男性が俳優のロバート・デ・ニーロにそっ

くりでビックリ!孫娘も可愛かったけど、よく似ているなぁ。国立国民歴史博物館。モルドバの動植物か

ら土壌、マンモスを含めた古代生き物の骨、各地方の民族衣装など総計35万点にも上る雑多なコレク

ションが展示されていた。プーシキンはこの町を「ソドム(淫乱)の町」と言ったそうだが、それはヒドイ。

昼 モルドバ・キシニョフ「VATRA レストラン」 野菜サラダ、パン、3種のペストリー(カッテージチー

ズ・ポテト・キャベツ)、ビーフと野菜のスープ、ママリガ(とうもろこしパンのような)、壷入りビーフと

ポテト、アイスクリーム、コーヒー、ジュース、(ワイン飲み放題 でも私は飲まん!昼だから)

  

         これはフツーのサラダ         焼き立て3種の詰め物をしたペストリー     ビーフと野菜の具だくさんスープ

  

             おくふろの味らしいママリガ唐辛子添え     え?ビーフとポテト煮なんか出るの?    デザートまでたっぷりで・・・はぁ・・

午後1時半、遅いランチが始まった。いつものように添乗員のS藤さんがメニューを紹介。「サラダと壷

に入った肉と野菜、アイスクリームです」。ところが。サラダの次に焼きたて熱々の西洋おやきのような

ものが食卓に。中にはッテージチーズが入っていた。美味しいのでもう一つ。あら、これは炒めたキャベ

ツね。え?ポテトもあるの?と3種類も食べてしまう。ペストリーとい名前らしい。結構お腹にドスンと来

た。そこにビーフやポテト野菜など具たっぷりのスープが。味はいい。あらら?この黄色のものは何?と

うもろこしの粉を時間をかけてゆっくり練ったママリガというモルドバのおふくろの味らしい。ゲップ!何

故か生の唐辛子が添えられている。これがメイン料理ね。次はデザートと誰しも思ったところに蓋を被

せた熱々の壷が並べられ。アイスクリームにしてはヘンだなぁ・・・。蓋をパカッと開けたら、ゲゲゲ、牛

肉とポテトの料理が!!!ホントのメイン料理はこれですかぁ?屋上屋を重ねるようなコースですねぇ。

ゲップ!!赤も白もワインは飲み放題。私、明るいうちは飲みまへん!!満腹過ぎて食卓につっぷし

たいメンバーにアイスクリームとお茶が届けられた。実は博物館で体調オカシクて、冷汗を流し続けて

いた私は、こんなご馳走を前に「はぁ・・へぇ・・・」って感じでちょっとしか食べられなかったのだ。残念!

夜 客室にて (ペストリーをちょっと、ピーナッツ、ビール、白ワイン)

    並べては見たけど、食べたのはほんのちょっと

午後は、首都から北へ60キロの旧オルヘイ洞窟修道院に行く予定だ。でも私は冷汗たらたらだし、失

礼してホテルで休もう。3時半近くでバスを降り、一人でホテルに帰る。トイレで暫らく過してようやく気

持ちがすっきりした。昼食べ過ぎたので、夕食は無しでもいいや。お昼残ったペストリーを貰って来たが

1枚半食べたらもういいや。冷蔵庫のビールとワイン、日本から持参のウィスキー。伊坂幸太郎の「陽

気なギャングの日常と襲撃」読了。中国四川省の旅行以来、伊坂ワールドに嵌まっている。風が強く大

雨が降って来た。9時半頃皆さんは帰って来られた。またもや大ご馳走夕食の後雨に降られたらしい。

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10月 14日(水) 晴れ                          1rphグリブナ=約11円  

朝 モルドバ・キシニョフ「ホテルレオグランド」 朝食ヴュッフェ

6時起床。昨夜大雨と強風だったが、今朝はすっきりと晴れた。初めてみるモルドバの青空だ。寒い!

  

         出発する日やっとモルドバの青空を見た            クリコバワイナリー          お宝が眠るコレクション

  

            私と同じ年のワイン!                 国賓級を訪れる試飲室            モルドバでは一番人気だそうで

快適だった「ホテルレオグランド」をチェックアウトしてワイナリーに向かう。いつも渋滞している道が今

日はガラガラだ。聞けば、聖パラスケーバのお祭りで祝日なのだと。隣国ルーマニアでも盛大にお祝い

をするらしい。モルドバには200を超えるワイナリーがあり、70カ国に輸出している。大きさでは2番目

だが、人気は一番あるというクリコバワイナリーに行く。945分に到着すると「オープンは10時!」と

寒い門の前で待たされた。10時ワイナリーのガイド嬢登場。あららぁ、また鉄火面だわぁ。挨拶してもニ

コリともしない。ベラルーシに何人もいたねぇ。このワイナリーは国営と聞いて、ハハーンと納得。石切り

場跡の120キロの坑道を利用したワイナリーだが、そのワインコレクションが素晴らしい!19世紀末と

20世紀初頭とか100年を越すワインもあった。あら、このワインは私と同じ年だわ。立派な試飲室が

いくつもある。国賓級(例えばガガーリン。若い方知っている?世界初の宇宙飛行士のロシア人だよ)

が来るらしい。クラッカーツマミに赤白ワインの試飲。私は飲まんよ、昼だから。美味しいという人多し。

昼 バス車中にて 弁当(クラブハウスサンドとキュウイタルト)

    今日はちょっとお洒落なサンドイッチ

ワイナリーにショップがあるのかと思えば、「買いたいなら街で買え!」とつれない答え。専用ショップに

行って希望者は購入した。さて、これからはウクライナのオデッサまでひたすら移動。国境超えもある。

来た時と同じように途中にレストランなど無いのでバスで弁当サンドイッチを食べる。トイレは青空の下

となるが、やたらとしたがる男性達も。困ったことにバスを下りると、すぐそこで「なされる」ので目のやり

場が無い。ホーニョー男と名付けた。2国の国境を1時間15分で通過。またウクライナに戻って来た。

夜 ウクライナ・オデッサ 「チェルノモーレ」 ギリシャ風サラダ、チキンロールの前菜、ラムの煮込みと

ポテト、アイスクリーム、ビール大 15rph、白ワイン 30rph、赤ワイン 30 rph

  

    酒も旨いし、話が弾む

平日夕方のオデッサの町は渋滞で込み合っていた。はい、着きました、とモルドバから運転して来たバ

スが到着したのは見たことのないホテル。3日前と同じホテルのハズなのに。「チェルノモーレ」というホ

テルが町に2つあるのだと。夕食でいつもの3点セット(ビール、白ワイン、赤ワイン)を注文。え?3

500円?安いねぇ。モルドバでは1650円もしたのに。部屋でも日本から持参したウィスキー飲む。

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10月 15日(木) 晴れ

朝 オデッサ 「チェルノモーレ」 朝食ヴュッフェ

5時起床。昨日も移動日であったが、今日は大移動なのだ。朝食時間は7時からだが早い出立に合わ

せてオープンを15分早めて貰う。猫が多いというオデッサの町で猫探しをしたかったのに・・・グスン。

昼 ウクライナ・ケルソン 「ノスタルジアレストラン」 野菜スープ、パン、ペリメニのようなダンプリング

(ポテトと肉入り)、アイスクリーム、コーヒー

  

今日のヤルタまでの移動距離は575キロ。東京から大阪に行く感じね。バスの中から渋滞するオデッ

サの町で猫を5匹発見した。トイレ休憩をしたミコライフ、ランチを摂るケルソン(ギリシャ名ヘルソニソ

ス)の町は、ロシア女帝エカテリーナが愛人でもあったポチョムキンに命じ造らせた町だ。ミコライフでは

有名な戦艦ポチョムキンを造船され、ケルソンのエカテリーナ2世教会ではポチョムキンの遺灰が埋葬

されているそうだ。ランチを摂った「ノスタルジア」というレストランは町一番の店だそうだ。水餃子旨し。

夜 ウクライナ・ヤルタ 「ホテルヤルタ」 ヴュッフェ、飲み物フリー 

  

午後3時、黒海に突き出たクリミヤ半島に入った。付け根は120キロほどの幅があるが、右側が黒海、

左側はアゾフ海である。この半島には13世紀からクリミヤタタール人が移り住んでいたが、現在はロシ

ア人を筆頭に100の民族が住んでいる。使用言語はロシア語。ウクライナ内の自治区、クリミヤ自治

共和国となっている。クリミヤ自治共和国の首都シンフェローポリの空港でガイドが交代。暗くなった半

島をひた走り、ヤルタのホテルに到着したのは午後720分。11時間40分のロングドライブであっ

た。今日から3泊するホテルはソ連時代インツーリストホテルだったらしい。夕食はヴュッフェで終了時

間が迫っているので、チェックインする前にレストランへ。飲み物もフリーですって。でも朝食はともかく

私はヴュッフェキライだよ。舞台ではどこかの民族舞踊と歌のショーをやっている。客室は1500室もあ

って収容人数は2千人とか。客室に行ってみると、狭い部屋でシャワーのみ。何となく侘しい感じだよ。

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10月 16日(金) 晴れ

朝 ヤルタ 「ホテルヤルタ」 朝食ヴュッフェ+ミニチキンラーメン

    チキンラーメンは涙ものの旨さだ

6時起床。侘しいシャワー室でシャワーを浴びるとやっぱり気分も侘しい。ソ連時代の客は、リゾート地

のここヤルタに滞在し、こんなシャワーも有り難く浴びたのかなぁ。朝食は7時半からと聞いていたが、

行ってみると7時にはオープンしているようだ。改めてミニチキンラーメンの旨さにカンドー。感涙する。

  

           バフチサライのモスク                  鉄の門上に刻まれたハーンのTの紋章      プーシキンも詠んだ涙の泉

  

                     クリミヤのハーン達が300年暮らしたハーンの宮殿のハーレム

ヤルタ近郊の観光に出発する。北西に60`、バスで2時間の場所にバフチサライがある。バフチは庭

園、サライは宮殿の意味である。クリミヤ半島は、近年になってロシアからの移民が住みつくようになっ

たが、それまではタタール人が多く住む土地だった。バフチサライは1532年クリミヤ・ハーン国の首都

となり、君主サヒブ・ギレイが建設した宮殿が残る。第一夫人が殺しちゃった若き愛人の死を悼んで「石

にも涙を流させよ」と造らせた涙の泉。その話にカンドーしたプーシキンが詞を詠んだんだそうだ。バフ

チサライは1783年ロシアに併合され、第二次世界大戦時タタール人はスターリンによって中央アジア

に追放された。ゴルバチョフ時代ようやく帰国を許され今では多くのタタール人あちこちに住んでいる。

昼 セヴァストーポリ 「Rybatsky Stan」 ヌードルスープ、パン、魚料理とポテト、カッテージチーズ

ケーキ、コーヒー、フレッシュグレープフルーツジュース 40rph

  

  

クリミヤ戦争で激しい包囲攻撃を受けたセヴァストーポリの港                      1991年ゴルビーが3日間幽閉されたダーチャ

ランチはバフチサライから1時間程のセヴァストーポリで。この町は、1783年ロシアが占領した後、ロ

シア黒海艦隊の基地となり、19世紀半ばのクリミヤ戦争の舞台ともなった。そうそう、このクリミヤ戦争

には英国からナイチンゲールが初の看護軍として従軍し、ロシア側ではトルストイが参戦していたのだ

ね。セヴァストーポリの港では金曜日なのに結婚カップルが目立つ。ガイドの話によると、週末以外に

結婚するのは2度目以上だということだ。ほんと?帰路、黒海に面した赤い屋根のダーチャが見えた。

個人のダーチャとしては大きい。ここは19918月ペレストロイカを推し進めて来たゴルバチョフ大統

領が、クーデター派(未遂に終わる)に3日間軟禁されたダーチャだった。エリツィン元大統領は亡くなっ

たが、ゴルビーはアメリカに講演旅行に行ったり、ルイ・ヴィトンのCMに出演したりでお元気らしいよ。

夜 ヤルタ 「ホテルヤルタ」 ヴュッフェ、飲み物フリー 

   インツーリストのホテルだったレストラン  

今夜もホテルのあのレストランでヴュッフェなのだ。同じレストランで2夜続けてのヴュッフェは能が無い。

料理も不味いし・・・。よし、それならフリードリンクなのだからガンガン飲んでやろうじゃないか。バーカ。               

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10月 17日(土) 晴れ 夕方から曇り 

朝 ヤルタ 「ホテルヤルタ」 朝食ヴュッフェ+ミニ赤いきつね

昨夜はビール3杯、ワイン5杯飲んだが、5時にはすっきり起きる。この旅で仲良くして頂いているN

K野シスターズ(姉妹じゃないけどね)とY部ッチと朝食摂りながらお喋り。人の噂が一番楽しいね!

  

      白いダーチャと呼ばれたチェーホフの家            自ら手入れした庭園には桜も竹も     多くの友人がこの家を訪れた

  

         友人が描いたチェーホフ像            女優のオリガ・クニッペルと結婚           この机で「三姉妹」、「桜の園」を執筆

 ロシアの作家であり劇作家のアントン・チェーホフはモスクワ大学医学部を卒業し医師の資格を得た。

一方で短編小説を書くようになり、戯曲作品にも進出。38歳の時肺結核となってヤルタに家を建てて

移り住む。白いダーチャと呼ばれた3階建ての建物と大きな庭園。庭園には桜や竹もあるが、ロシアを

偲ぶためか白樺もある。チェーホフが自ら庭の手入れをしていた。「かもめ」、「ワーニャ伯父さん」など

の作品に続いて、この家では「三姉妹」、「桜の園」の戯曲を書き上げた。しかし190444歳で逝去。 

広いチェーホフの家の庭には、猫達が悠々と暮らしている。途中で数えるのは止めた。猫の家のよう。

   ニコライ2世の夏の宮殿リヴァディア宮殿           1945年2月ヤルタ会談はこの宮殿1階で開かれた  

  

    スターリンとルーズベルトがここで千島列島等を協議       チャーチルは当時70歳             ヤルタ協定の3人の署名がこれだ

リヴァディア宮殿は、ロシア皇帝ニコライ2世の夏の別荘として1911年に完成した。第二次世界大戦末

1945年2月にはこの宮殿でヤルタ会談が行われ、現在も当時のまま保存されている。会談の出席

者は、勝者連合軍のルーズベルト(アメリカ)、チャーチル(イギリス)、スターリン(ソ連)の3名で、戦後

の世界の枠組みを協議した首脳会談である。ナゼヤルタの地が選ばれたか。それはスターリンが大の

飛行機嫌いで、列車で行けるヤルタを強く提案した、という話だよ。体調を崩していたルーズベルトは

娘が付き添って車椅子で姿を見せた。だから、この宮殿はルーズベルトの宿舎ともなった。ポーランド

の国境策定、ドイツの分割統治、バルト三国や東欧諸国の処遇が取り決められ、ドイツ敗戦後90日後

にソ連が日本と戦うことを条件にルーズベルトは千島列島、樺太など日本領土をソ連に引き渡すことを

約束した。今の北方領土問題はここから始まっているのだ。ルーズベルトズルイぞ!その年4月死去。

  

         最後の皇帝ニコライ2世夫妻        この宮殿で過した時代一家は穏かだった          有名な皇女4人姉妹

リヴァディア宮殿の2階はロシア皇帝ニコライ2世とその家族が過した様子を展示している。ニコライ2

世は1917年ロシア革命が起って退位させられ、1年半後、家族全員が殺害された。300年続いたロマ

ノフ朝の第14代目にして最後の皇帝となった。ドイツの王女で英国ビクトリア女王の孫娘のアレクサン

ドラを妻とし、オルガ、タチアナ、マリア、アナスターシアの4人の娘、そして皇太子のアレクセイ。アレク

セイは当時不治の病とされた血友病であった。ニコライ2世は、「お菊さん」という小説を愛読した日本

好きな一面もあったが、彼の在位中に日露戦争も起っている。ニコライの能力は時代に不足し過ぎた。

昼 ヤルタ 「ツバメの巣レストラン」 オニオンスープ、パン、ミートソーススパゲティ、フルーツサラダ、

      コーヒー

  

    

    断崖絶壁の上に築かれた燕の巣は裕福なアゼルバイジャン人が愛人のために造ったんだと

黒海にそそり立つアイ・トドール岬の断崖絶壁の上に立つツバメの巣と呼ばれる建物がある。裕福なア

ゼルバイジャンの商人が愛人のため1912年建てさせたものと言う。今はイタリアレストランになってい

て、私達はランチを摂った。「建物は凄いが味は・・・」と聞いていたのに、不味くないよ。スパゲティはア

ルデンテだし。地元のガイドは「これでは麺が硬過ぎる」と感想を言っていたそうだ。好みが違うのね。

  

        アイペトリ山(1233m)がよく見える         アループカ宮殿はミハイル・ヴォロンツォフ伯爵の宮殿

    ラフマニノフも弾いた美しいグランドピアノ    ヤルタ会談ではチャーチルの宿泊所となった。彼はこのライオンが気に入った

アループカ宮殿。市政官ミハイル・ヴォロンツォフ伯爵が1846年に建てた宮殿である。ヴォロンツォフ

伯爵ってどこかで聞いたような・・・あぁ、奥さんがプーチンと出来ちゃった伯爵ね。ヤルタ会談の期間、

体調がすこぶる悪かったルーズベルト米大統領にはリヴァディア宮殿が宿舎に与えられ、チャーチル

英首相の宿舎はここアループカ宮殿だった。チャーチルは「あっちの方がいいのに」と羨ましがったとい

うが、私はこの宮殿の方がずっといいと思うけどね。それでも庭園の眠れるライオンが気に入って、イ

ギリスに持ち帰りたいと所望したそうだ。「この寝ているライオン、煙草を吸っていない時の私のよう」。

 10種ワインの試飲 甘い!

今回の旅最後の観光は、クリミヤワインのマサンドラワインのテイゥティング。1日5回行われる試飲会

10種類のワインを説明を聞きながら試飲する。私らは大勢だから個室でガイドがワインの説明を行

った。21名の参加者の中には全く酒を飲まない人もかなりいらして、皆さんは後ろで居眠りしておいで

だ。私は昼間飲まない主義だが結構夕方近くね、迷う。匂いを嗅いで舐めることにした。私には甘い!

夜 ヤルタ 「リヴァディア宮殿レストラン」 皇妃のサラダ、パン、チキンカツレツとポテト、林檎のクレ

ープ、ビール、白ワイン、赤ワイン×2杯

       (カメラ忘れて、撮影出来ず・・・・・・無念!!!)

最後の晩餐なのに、何ということだ、カメラをバスの中に忘れて来た・・・。しかも昼間見学したリヴァディ

ア宮殿の敷地にあるレストランなのにぃ・・・。どなたか知らぬがお誕生日だそうで、赤ワインを振る舞っ

て頂いた。明日の移動日はあるものの旅の間はお世話になりましたね、お陰で楽しゅうございました!

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10月 18日(日) 朝のうち雨

第1食 ヤルタ 「ホテルヤルタ」 朝食ヴュッフェ

このだだっ広いレストラン、夜2回、朝3回来たことになる。ちっとも美味しくないレストランであったぞ。

今日は帰国日だが、出発は10時だから荷造りもゆっくりだ。ずっと腫れていたヤルタも今日は雨だね。

第2食 シンフェローポリ空港ビジネスラウンジ チーズとサラミのオープンサンド、コーヒー

    パスポート取り上げられた!

シンフェローポリ空港までバスで2時間。上ったり下りたりの起伏ある道だ。紅葉が真っ盛りで美しい。

12時前飛行機のチェックアウトを済ませてビジネスラウンジに行くと、太った係のおばちゃんに搭乗券

と一緒にパスポートを出せと言われ取られてしまった。どうすんのよ!パスポート。昼ドキなので空腹。

食べ物と飲み物を探すが何も無い。注文しろと。サンドイッチちょうだい。え?こんなもん?不思議なラ

ウンジだ。暫らくするとおばちゃんが取り上げたパスポートを返してくれた。中身をチェックすると何と出

国手続きのスタンプが押してある。ふふーん、イミグレの手続きをしてくれるわけだ。その上、ラウンジ

の横にプライベートセキュリティ検査場があって、飛行機まで車で送ってくれるのであります!びっくら。

第3食 アエロフロート・ロシア航空 シンフェローポリ=モスクワ ビジネスクラス機内食

    午後210分発モスクワ行き 予定通り5時過ぎ到着(時差1時間)

第4食 モスクワ空港 ビジネスラウンジ チーズサンド、ジュース、水

    午後720分モスクワ発の予定なのに・・・未だ空港にいる

640分搭乗が開始され、1-Cに座る。エコノミー席がオーバーブックとかで、グループの3人の人が

ビジネス席にアップグレードされて来られた。食前酒はジントニックね。それを2杯も飲んだのに、なか

なか離陸しない・・・・アナウンスあり。「飛行機の整備に時間かかってます、遅れます」・・・・・もう8時だ

よ!・・・・アナウンスあり。「飛行機交替です。皆さん、降ります」。ゲゲェ!!また飛行機降りるのぉ?

降ろされた乗客数百名は、空港内で待たされ続けヘトヘト。ロシア航空は申し訳ないなんて思っていな

いみたい。ビジネスラウンジに行くと、あんたらなんか入れない!ってな調子で鬼ババアがわめく。ロシ

アなんて嫌いだぁ。ロシア人なんて嫌いだぁ。疲労で倒れそうだ。もう午前2時ダジョー。どうするんだ!

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【今週の振り返り】

モルドバ共和国は上から見ると葡萄の葉のようなのだと。ワインが自慢の国だからピッタリだ。首都の

キシニョフはカモミールの花の形。中世の昔から、オスマントルコ、ロシア(ソ連)、ルーマニアが入れ代

わり立ち代わりこの国を支配して来た。併合され続けた歴史を持つ。1940年からは、先週も書いた15

ヶ国で構成していたソビエト連邦の1ヶ国だった。ソ連崩壊と共にモルドバも独立したが、小さな国には

重い紛争の種があった。現在の沿ドニエストル共和国だ。国土の東側に流れるドニエストル川東岸に

住むスラブ系住民がモルドバ政府の民族主義的政策に反発して独立を主張・宣言したのだ。例えば

「この国の公用語はモルドバ語だよ」というのがケシカランと。ロシア語使う人間の身になってみろ!と

いうことだ。スリランカの問題と似ている。面倒なことに、その地域はモルドバの工業生産の三分の1を

占めているからモルドバ政府としては看過出来ないわけですな。1992年モルドバ政府は武力攻撃をし

かけて死者を多数出してしまった。そこに子供のケンカに駆けつけるロシア。軍事介入して停戦とはな

ったものの、現在もこの問題の解決には至っていない。小国モルドバには沿ドニエストル問題は重く響

き、経済的発展の足枷の一つになっている。行く前は小さくて貧しい国だと思っていたのだが、首都の

レストランで頂いたランチには、歓待を通り越した温かみがあり、将来にも何となく明るさを感じたのだ。

何となくではあまりにも無責任だけど、大丈夫この国は、ってね。

ヤルタ。黒海に面した屈指のリゾート地と聞いてイメージしていた街と全く違っていた。三方を高い山に

囲まれ、黒海ぎりぎりまでが傾斜地。平地はほんのちょっとしか無いのだ。18世紀の終わり、ロシア帝

国に併合されてから、ヤルタはロマノフ王朝の皇族や貴族達の豪華な別荘が建ち並ぶ高級リゾート地

となったが、革命後は一変する。レーニンは、ヤルタを高級リゾート地から疲れたプロレタリア労働者の

療養地と作り変えようとした。で、労働者のためのサナトリウムが多く建設された。そう言いながら、スタ

ーリンはマサンドラ宮殿を自身の夏の家として使用していたのだ。イカンねぇ。

ウクライナ出身の人々には詩人であり、画家のタラス・シェフチェンコ、ピアニストのスタニスラフ・ブーニ

ン、棒高跳びのセルゲイ・ブブカ、共産党書記長だったレオニード・ブレジネフはウクライナ生まれのロ

シア人、ピアニストのリヒテルなんて人達がいるのだが、中には横綱大鵬の父マルキャン・ボリシコなん

て人もいて。しかし、私が今回一番印象に残ったのことは、「今まで行った国で、これほど犬猫に溢れた

国は無い!」。10日目位から毎日毎日猫だ、猫だとニャンニャンウシシの日々だったのだ。この旅で撮

影した猫ちゃんが半年くらい〆猫として活躍してくれるハズだ。

もう15年以上昔のことだが、仕事でお世話になっている方のご自宅に部下数名とお招き頂いたことが

ある。こちらは手土産と共にお祝いを持参した。その方は海外旅行がお好きで仕事の合間にせっせと

出かけられていたが、ちょうど訪問した国が100ヶ国になったということでお祝い宴会となったのである。

地球儀だったか世界地図だったかを前に、ここでしょ、この国でしょ、と行かれた国々の説明を受けたら

しいのだが、そのあたりは記憶が曖昧だ。100ヶ国!スゴイ!私には全く縁の無い話と思っていた。寝

る時間もやっと確保していた仕事で多忙のその時は。

今回の旅、モルドバで私もその100ヶ国を達成したわけだ。一応ね。しかし、世界には193ヶ国(コソボ

を入れると194ヶ国)もある。半分をちょっと超えたに過ぎない。これだけ頻繁に海外に出ると色んな方

にお会いするもので、中には194ヶ国すべて行ったという人、それに加えて199の地域に行ったなん

て凄い方々にもお会いした。白地図を塗りつぶしていくように旅を続けて来られたのだろうな。残った白

い国はどこだ?ってな感じで。私はそんな風に旅する気持ちはない。しかし、まぁ100ヶ国は一つの区

切りとは思う。

モスクワ空港で帰国する飛行機を降ろされてしまって、果たしてどうなったのでしょう!

            もしかしたら帰って来ないんじゃないのかニャア

             バックナンバーのトップへ    夢子倶楽部のトップに戻る

      はぁ、疲れた。未だ日本に帰って来ていないのですな。

  旅の始まりは 10月 2週 をご覧ください。