ローカーボパクパク日記10年9月3週
コーカサス3ヶ国目はアルメニア、再びグルジア、黒海のトルコへ
ハフバッド修道院
グルジアの女性
9月 13日(月) トビリシは曇り アルメニアは快晴 1ドラム=約0.3円
朝 グルジア・トビリシ 「シェラトン・メヒテ・パレス」 朝食ヴュッフェ
シェラトンホテルにはもう1回来るのです
5時起床。今日も国境越えがある。今回の旅行は、陸路の国境越えが4回もあるのがどうにも気が重
い。今EU諸国同士などは「いつ〇〇国に入ったのよ!」と後でびっくりするほど、何ごともなく車は通
過してしまうが、中央アジア各国やここコーカサス諸国ではバスを乗り換える必要があって、旅行者に
は極めてストレスの多い国境越えとなる。出発してから1週間経ったので、「真空パックン」でペッちゃん
こになったふすまパンも半分になったが、今朝密封されている袋を開けてみると、あら?カビかしら?
世界遺産のハフバッド修道院 イエス磔刑のレリーフが刻まれたハチュカルの十字架 13世紀に造られた鐘楼
グルジアとアルメニアの国境には出発から1時間強9時15分に到着した。手荷物を持ってバスを降
り出国検査。150mほどトボトボ歩くとアルメニア側の入国審査。そこに小柄な美人女性が待っていて、
「日本の皆さんですね?はーい、ここでパスポートお預りします」。なんて立派な日本語を話すではない
か。「あ、はい」と皆恐縮してお願いする。トイレに行きたい人はあっち、終ったらあのバスに乗ってね!
「あ、はい」。待っていた中型バスに乗ると、ハンサムな男性ドライバーからお茶のサービス。あれれっ
て感じで入国審査が終ってしまった。しかも、聞いていたビザ代が33jから10jになったと聞いてア
ルメニアの入国の印象はバッチリである。この間1時間。時差が1時間あるから、また9時15分にな
るのだ。ところが、その中型バスが走り出すと・・・。一番後ろの席に座った私は胃がネジれるかと思っ
た。揺れて揺れて・・・それでもガイドの話をメモしていたら車に酔っちまってね。そうやって2時間半以
上もバスに揺れながら、ようやく山の上のハフバッド修道院に到着した。世界遺産である。アルメニアと
いえば、世界で一番早くキリスト教国家になったことで知られているが、イエス磔刑のレリーフが刻まれ
たハチュカルというユニークな十字架があるのだ。凝灰岩というピンクの岩の十字架だった。歌人アショ
が神学校の学生時代過した建物も残されている。4日ぶりに張れた空は真っ青大で気持ちがいいぞ!
昼 アルメニア・アラベティ「フローラ」 サラダ各種、野菜、チーズ各種、米と野菜スープ、(アルメニ
パン)、焼き茄子、豚肉のロースト、持参のふすまパン、(アイスクリーム)、ヨーグルト、紅茶
アルメニア最初の食事は、山深いデベド渓谷のレストラン「フローラ」で。アゼルバイジャンではあれほ
どたくさんいた猫が、グルジアに入るとピタリと姿を消して犬ばかりとなっていたから、店の前で可愛い
猫が「ニャン」と迎えてくれて嬉しくなる。そして料理も美味しかったのだよ。(私は食べないものの)パン
は何種類かあったが、髪のように薄いペラペラ状のものがあって、これに肉や野菜を巻いて食べるよう
だ。一番美味しかったのは焼き茄子にトマトを混ぜたもの。焼き茄子ファンの私は4回もお替りしたよ。
アルメニア語は36文字あるアルメニアアルファベッドで表わされる。メスロプ・マシュトツが5世紀始めに創られた
山深い細い道をクネクネと走った数時間の後、ようやく視界が開ける場所に出た。いやいや雄大雄大。
凄いよ。ドライブインもカフェもガソリンスタンドも公衆トイレも無いとなると、その樹木も無い禿げ山のよ
うな景色って・・・・困るわね・・・・・おっ、ようやく茂みがあった。バスは停まる。まさしく青空トイレだ。もう
暫らく走ると、アルメニアアルファベッドのモニュメントがあった。この国はメスロプ・マシュトツという昔の
エライ人が5世紀始めに開発したアルメニアアルファベッドを今も使っている。36文字もあって難しい。
夜 アルメニア・エレバン 「ゲナツワレ」 チーズ、キノコサラダ、トマトときゅうり、牛肉スープ、椎
茸とチーズ料理、ビール 1j、白ワイン 1j、赤ワイン サービス
午後6時ようやくアルメニアの首都エレバンに入る。山の国アルメニアでも、人口130万人近くの都市
となればトーゼン大都会である。昼ご飯を食べ終わったのが3時前だったのに、そして未だ6時過ぎな
のに、夕食を摂ってからホテルに行くんだと!お腹空かないよう。またもやサラダやチーズや野菜など
の前菜がズラリと並ぶ。3ヶ国目のアルメニアの食卓を見て思うことは、「コーカサス地方は3ヶ国とも
ほとんど料理は同じ」ってことだ。牛肉スープにもお米が入っているしさ。この店も生バンドが入ってい
て、私達日本人グループ用に「故郷」を演奏してくれた。8時にメトロポールホテルにチェックインした。
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9月 14日(火) アルメニア・エレバン 快晴 (民主党党首選挙では菅直人が再選される)
朝 アルメニア・エレバン 「メトロポールホテル」 朝食ヴュッフェ
今日は9月14日、日本では民主党の党首選挙のある日だ。オジョーから来たメールの返事には「選挙
の結果は知りたくない」と書いた。コーカサスの旅も9日目。真空パックして万全を期したハズのふすま
パンだが、昨日辺りからカビが・・・・・涙。まぁ真空と言っても殺菌したわけではないから・・・涙。アメリカ
でもやったが、しっかり焼けば暫らく食べられるかなぁ。このホテルは4ッ星だそうだが、7時半になって
も朝食レストランは開かない。ナヌ?パン屋からパンが届かない?ここで焼くんじゃないの?やっと開
いたが、昨夜茹でたらしく茹で卵は冷たいし、料理は少ないし・・・・。トースターで今日分のパンを焼く。
アルメニア人の心、大アララト山(5165m)見えますか?ノアの箱舟が漂着したところと伝えられる
9時エレバン近郊の観光に出かける。ガイドのルーシーは渋滞に嵌まったとかでギリギリに到着した。
彼女はこの街の大学で日本語を学び、卒業してからは愛知万博のコーカサスパビリオンで半年間バ
イトをしたのだそうだ。「あの半年が人生で最も楽しい日々だった」そうだ。日本語はとても上手だが、か
なりヘン。エレバンから南東に向かって小1時間行ったところで撮影ストップ。アララト山が見える高台
である。私がアルメニア来たかった理由はただ1つ「アララト山をこの目で観ること」だから、カンドーも
一入(ひとしお)。冬でもないのでクッキリハッキリとは見えないのが残念だが、アララト山の全貌を観ら
れるのは数少ないそうだから幸運だ。右に5165mの大アララト山、左側に富士山によく似たカタチの小
アララト山(3925m)である。旧約聖書のノアの箱舟は大洪水の後このアララト山に漂着したことになっ
ている。アララト山はアルメニアにあったが、1920年トルコとソ連が引き直した国境線によって、トルコ
領になってしまった。しかし、国章にはアララト山があしらわれ、今でもアルメニアの心の拠り所なのだ。
アルメニア王の夏の離宮だったガルニ神殿は1976年再建されたヘレニズム建築
ガルニ神殿の中で、アルメニア独得の楽器ドゥドゥクと女性コーラス「ルイス」の演奏があった
世界で最初にキリスト教国家となったアルメニアではあるが、ガルニ神殿はAD60年の多教時代の建
物。トゥルダト3世の姉が、夏の離宮として好んで過していたため取り壊さずに残したものだ。神殿は度
重なる地震で崩壊してしまったが、現在の建物は1976年再建されたもの。近くにはBC3世紀の浴場
跡が残されている。アテネのパルテノン神殿を彷彿させるガルニ神殿から、えも言われぬ魅力的な音
が聞こえて来た。アルメニアの独得の笛で、杏の木から造られたドゥドゥクを吹く音だ。日本の尺八に似
たようでもあり、オーボエのどこか哀しげな音にも似ていて・・・。猫好き仲間のK村さんなどもう涙ぐん
でいる。心の底に訴えるようなドゥドゥクの音色だった。これだけでも十分に良かったのに、もう1つ嬉し
いプレゼントがあった。女性5人組コーラス「ルイス」のミニミニコンサートが行われたのだ。ルイスとは
「光」。宗教曲3曲と民族曲2曲の披露があり、神殿の見学は音楽会に変身したのだった。う〜感激!
世界遺産のゲガルト修道院は、4世紀には巨岩をくり抜いて造られたが、現存する建物は13世紀の建築
ゲガルトとは「剣」の意。かつてキリストの脇腹を刺したローマ兵の槍があった。修道院では洗礼式が行われていた
ガルニ神殿の6`先、更に山深い場所にあるのがゲガルト修道院で世界遺産だ。キリストの脇腹を刺
したローマ兵の槍がこの修道院にあると伝えられたことからゲガルト(槍)修道院というようになったらし
い。ただし、その槍は現在エチミアジンの宝物庫に収納されているそうだ。途中地滑りのする悪路で都
心から30キロも離れているのに、この修道院はエレバンの人々に愛され、結婚式などによく利用され
るとか。この日も多くの家族連れと子供達が修道院を訪れ、洗礼を受けていた。清々しい修道院だね。
昼 エレバン 「ELEN」 前菜(チーズ、トマトときゅうり、サラダなど)、チキンスープ、鱒料理とポテト、
(アイスクリーム)、ヨーグルト、紅茶
ランチはエレバンに戻って。エレバンではお洒落なレストランとして知られているらしく、ルーシーが一
番好きなお店なのだそうだ。明るい店内は大小取り混ぜてたくさんの絵画で溢れていて楽しい。いつも
ならご飯が沈んでいるトマト味のスープなのだが、ここはショートパスタが入り、コンソメ味でとても美味
しい。しかし鱒料理はちょっと生っぽかったか。ピアノの生演奏は60年代のスタンダードナンバーだ。
夜 チーズと野菜の前菜、米と野菜スープ、ハチャプリ(チーズ入りパン)、持参のラスク、フルーツ、ビ
ール 2j、赤ワインボトル 11j
ランチの後は、スーパーなどでの買い物に行く。交差点で信号待ちしている時、急に我が腹はゴロゴロ
と鳴る。ゲゲ、こんなところで困るじゃないの。急遽タクシーを止めて貰い、一人ホテルに帰ったのだっ
た。セーフ!ほっ・・・・。お腹を温めて、夕食まで本など読んで静かにしている。オジョーからメールが来
た。「菅直人再選!国会議員でも菅勝利」だって。へぇ、そうなんだぁ。これも困るけど、小沢一郎が勝
つよりはずっといいよな。お腹も落ち着いたようなので夕食は行くことにする。アゼルバイジャンのバク
ーで会った8人組日本人グループにまた会う。同じホテルなんだって。59日間の旅なんて私にはムリ
だな。チーズピッツァのようなハチャプリが焼き立てで旨そうだ。チーズの多いところをちょいと食べさせ
て貰った。赤ワインはボトルだけなのでJさんと2人で1本空けることに。11jって千円ですよ。安い!
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9月 15日(水) 晴れ
朝 アルメニア・エレバン 「メトロポールホテル」 朝食ヴュッフェ
6時に起きて、シャワーを浴びて髪を洗う。7時半から美味しくないこのホテルの朝食を食べ、食後は歯
磨きをして日焼け止めを塗る。今日の観光に行く準備をして・・・・といつもと同じ朝の作業をしているの
だが、その間トイレに何度も行っている・・・出発前の8時45分になっても、未だすっきりしない。こんな
状態で観光に出かけては困るのではないか・・・迷う。迷って迷って「Kさん、今日の観光止めます!」。
昼 無し!
絵葉書のアララト山
皆さん、9時にでかけられた。今日はアララト山が間近に望めるホルヴィラップ修道院、アルメニア正教
の総本山エチミアジン、古代の教会跡ズヴァルトノツ、7世紀のリプシマ教会などに行くことになってい
る。もっとアララト山をしっかり観たかったのに残念でならない。でも行かないで良かった!とすぐ思うこ
とになる。9時4分から、何度も何度もトイレに通って・・・・・・。ま、そうゆうことだから、仕方ないわねぇ。
夜 エレバン 民族音楽「アララト」 サラダ各種、野菜、野菜スープ、ドルマ、持参のラスク、フルーツ、
(ケーキ)、白ワイン 3j、赤ワイン サービス
夕食はアルメニアの民族音楽の演奏を聞きながら。演奏の主役は杏の笛・楽器ドゥドゥクである
皆さんは夕方戻られた。添乗員のKさんにアララト山の絵葉書を買って来て貰った。キョウコ家の大介
君と有里ちゃんにいつものように手紙を書く。昼ご飯を抜いたので、お腹はペコペコだ。夕食は共和国
広場に面した、その名もズバリ、「アララト」という名のレストランだ。アルメニア音楽の演奏を聴きながら
の夕食だったが、4人の楽団の2人は例の楽器ドゥドゥクを弾く。ドゥドゥクはやっぱり物悲しい曲の方が
合うと思うよ。後半になると、ボーカルの男性とガイドのルーシーが踊り始める。激しいダンスだった!
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9月 16日(木) 曇り
朝 アルメニア・エレバン 「メトロポールホテル」 朝食ヴュッフェ
5時半起床。3泊したこのホテルだが、今日チェックアウトする。つまり、今日でアルメニアとはサヨナラ
ということだ。よくあることだが、腹こわしのため、一日観光をパスしてしまったのはかえすがえすも残念
であるが、ま仕方ないね。2日続けて開店時間の7時半にオープンしなかったレストランが、今朝はエラ
ク早営業。行ってみると満席だった!しかも料理数がかなり多い。やれば出来るじゃないさ、ってこと。
琵琶湖の2倍の大きさを持つセヴァン湖はアルメニア最大。丘の上の教会から湖を眺めた
8時半チェックアウトして出発。3日前グルジアから入国した時とは違うルートを辿る。1時間強でセヴァ
ン湖到着。琵琶湖の2倍の大きさを持つセヴァン湖は、海の無い内陸国アルメニアにとって貴重な存在
らしい。今は肌寒くなってひっそりとしているが、夏は水辺のリゾート地として大いに賑わうと聞いた。強
い風が吹く中200段位の階段を上って教会へ。はぁはぁ・・・。湖を一望できる素晴らしい景色。湖のあ
ちらはアゼルバイジャンと紛争の絶えないナゴルノ・カラバフ地方があるんだな。そんなことを思った。
昼 アルメニア・パンバ 「アヌシュ」 前菜、サラダ、チーズなど、野菜スープ、鱒料理、フルーツ、紅茶
途中でロシア人が住む2つの村を過ぎた。2世紀前に宗教上の問題から追放されたロシア人2千人が
住んでいるのだそうだ。モロカン派で、全員農業を営んでいる。車内では、アルメニアについての質問タ
イムが繰り広げられている。私も質問した。12時、アルメニアの最後の食事時間だ。コーカサスの前菜
の数々と、鱒料理。そして今や一番の楽しみとなっているフルーツ!こんなにスイカ食べていいのか!
国境を着いたのは午後2時45分だった。今回も便宜を図って貰い、アルメニアの出国手続きはカンタ
ン。途中からはスーツケースを引っぱってグルジア側へ。さよならアルメニア、さよならルーシー。グル
ジア側窓口で、世界一周しようとしている日本の若いご夫婦に会った。日本を出てから7ヶ月経ったと。
「いつの間に鳩山さんが辞めていてビックリしました」という言葉が印象的だった。すべての手続きが終
了してグルジア側のバスが発車したのは45分後。はいはい、また時差があるから時計1時間戻して。
夜 グルジア・トビリシ 「シェラトン・メヒテ・パレス」 トマトトモッツァレラチーズ、ビーフ料理、持参のラ
スク、私だけデザート代わりのヨーグルト、紅茶、 ビール 3j、白ワイン 4j、赤ワイン Jさん
にご馳走になった!
今回の旅でトビリシの「シェラトン・メヒテ・パレス」にチェックインするのは3回目だ。どうしてそんなに面
倒なことをする?うん、そうなのよ。答えは国境が閉鎖されている今、アルメニアからトルコへ直接行く
ことが出来ない。よって一旦グルジアに出てからトルコに行く必要がるのだ。3回目ともなると皆慣れた
もので「はいはい、わかってまーす」って感じ。夕食も5日前と同じホテルのレストランで。一昨日のお返
しと、Jさんがグルジア赤ワインボトルをご馳走して下さった。私の負担11jだったが、Jさんは39j。
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9月 17日(金) 晴れ
朝 グルジア・トビリシ 「シェラトン・メヒテ・パレス」 朝食ヴュッフェ
トビリシの街
昨夜は実に面白い夢を見た。大昔付き合っていた男性が出て来てね、数十年のブランクがウソのよう
に、私も若い娘のようにトキメク夢だったのさ。アハハハ。その上昨日ワインをご馳走して下さったJさ
んの奥様も夢に登場して面白いやり取りをしたのだった。7時から豪華な朝食ヴュッフェ。もうすっかり
違反が日常化してしまったフルーツ喰いはスイカとメロンと無花果ね。日本に帰ったら食べませんから
こっちにいるうちは許してちょんまげ。それだけこちらの果物は旨いのだ。トビリシの街の眺めも最後。
ターリン博物館下段中央本人、左右は両親 レーニン(左)とスターリン レーニンの棺を持つスターリン
スターリンの生家。小さな家だ スターリンの専用列車。スターリンの寝室には浴室も完備していた
今日は長い距離の移動にも関わらず、出発は9時とゆっくり。ゴリの町で見学予定のスターリン博物館
の開館時間が何と11時だと言うのだ。10時半頃行って、早めに開けて貰うよう交渉することになった。
ゴリはトビリシから西へ70キロ。人口6万人の農業の町だ。ソ連共産党の書記長を長年務めたあのス
ターリンの生まれ故郷であり、2年前のオセチア紛争でロシア軍が爆撃した町でもある。グルジア全体
で失業率は35%(!)ということだが、ゴリのそれは45%と聞いてビックリ!レーニン亡き後ソ連共産
党指導者として実権を握ったスターリンは、極端に臆病で猜疑心が強かったこともあり、大粛清を断行
して100万人を処刑、シベリアの強制労働等で2000万人を死に追いやった。グルジア人であることに
劣等感を抱いていたと言うがグルジアの人々も母国が輩出した人物に大いに抵抗感があると思うよ。
昼 グルジア・ゴリ 「何とかというレストラン」 各種サラダ、前菜、ボルシチ、ハチャプリ、ビーフ、
ポーク料理、フルーツ、紅茶
12日目となると、コーカサス料理もすっかりお馴染みになったものが多い。チーズピッツァのようなハチ
ャプリや茄子のウォールナッツペーストなどが今日も食卓に出た。いつもは怖そうな顔のガイドのレナさ
んも、家庭にいればハチャプリが好物の息子さんのために毎日ハチャプリを作るそうだ。こちらの人は
めったに外食などしないのだと。最後は美味しいスイカ!その上一切れがとても大きい!嬉しいなぁ。
途中で立ち寄った陶器の店 素朴な陶器、民族楽器、ハチミツなどが売られていた
クタイシ郊外の丘の上にあるゲラティ修道院はダヴィド4世が建てた。世界遺産である
当時の貴族の子弟が学んだアカデミー。哲学、文学、化学などの他にワインの造り方も学んだ
途中でグルジア名物(?)の扉無しの「連チャンニーハオトイレ」に寄ったり、焼き物の露店をひやかし
たりしたものの、バスはひたすら西に向かって走っている。午後4時、クタイシの郊外にある険しい丘を
上ってゲラティ修道院に到着した。ダヴィド4世が建てた修道院は世界遺産で、グルジアで唯一モザイ
クがある勢マリア大聖堂などがある。ダヴィド4世は身長が2m40cmというとんでもない大男だったらし
いが、とてもハンサムでもあったらしいよ。快晴の丘の上、グルジアの景色はとても美しいものだった。
夜 グルジア・バトゥミ 「インツーリスト」 ディナーヴュッフェ ビール 2j、白ワイン 4j、赤ワ
イン 4j
ヴュッフェキライ!スイカ好き!
グルジアの一番西の町バトウミが今晩の宿だ。太陽は途中から見えた黒海に沈んで行った。今夜のホ
テルは「インツーリスト」というソ連時代を彷彿させる名称で警戒していたのだが、思った程は悪くなかっ
た。ただ、夕食がヴュッフェで、しかも品数がとっても少ないのは悲しい。焼き鳥のような料理をつまみ
にチビチビとワインを飲んだ。スイカもメロンも食べたしね。今晩はコーカサス地方の最後の夜だなぇ。
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9月 18日(土) 雨 後 曇り 1トルコリラ=約58円
朝 グルジア・バトゥミ 「インツーリスト」 朝食ヴュッフェ
今回の旅行では不思議なことに「今日は降って欲しく無い!」と皆が思った日に限って雨が降るのだ。
グルジア軍用道路のドライブの日もそうだったが、今日も「是非降らないで!」と皆で念じたら雨・・・・・。
今日は4回の国境越えのうち、最も遠距離をグルジアからトルコまで徒歩で移動する日なのだ。ホテル
から国境までは30分足らず。小雨が降り、スーツケースを引っぱる足元には無情にも深い水溜りの連
続・・・・。泣きたくなる・・・・。普段はここで2時間待つなんてことはザラなんだそうだ。しかし、助かった
のは窓口が空いていたのだ!それにしても外国人はどうして行列を無視するんだろうね。中央アジア
での国境越えでも激しく行列を乱されたし、観光地では中国人、韓国人は行列に並ぶような人はいな
い。今回もそうで、ガンガン抜かれて行くのだよ。でもまぁ、トルコのバスに乗るのに45分で済んだのだ
から、今日は許してやるか。国境で数時間過すかもと覚悟していたから、皆こころから安堵したのだ。
昼 トルコ・リゼ 「ラレ」 ピクルス、豆と牛料理、(ピラフ)、持参のラスク、(ライスプディング)、
アイラン(ヨーグルトドリンク)、チャイ
トルコ入国して、時差を1時間戻す。トルコと日本の時差は6時間である。トルコに入っても黒海はずっ
と右側の車窓から見えるし、それほど景色は変わらない。しかし、暫らく走って大きなカーブを通り越し
た辺りからモスクが目立ち、ガラリと景色は変わった。リゼという町に着いた。チャイの生産地で人口は
13万人。チューリップの意味の「ラレ」というレストランで、これも名産という豆料理のランチ。豆は禁止
食品なので、ミヤコさんと牛肉と豆の交換をする。ライスプディングもクリームの上澄みだけね。コーカ
サスのゆったりしたサービスに較べると、トルコ人はまるで怒っているかのように急ぎサービスなのだ。
トルコにはアヤソフィアは3つある。神(アヤ)の知恵(ソフィア)という意味である
黒海を望むアヤソフィアは、結婚式を挙げるカップルや家族連れで賑わっていた
リゼ辺りは年間降水量がお茶の産地らしく2600CC程あるのに、バスで1時間の距離にあるトラブゾン
まで来ると1000CC以下になるらしい。因みにインドの茶の名産地となると年間降水量は1万2000CC
あるんですってさ。国境で過ごす時間を数時間と読んでいたらしいのに、超ラッキーで1時間以内で通
過してしまったから、今日は時間がたっぷり。明日観光予定だったアヤソフィアに行くことになった。トラ
ブゾンの歴史は古く、シルクロードの分岐点として紀元前から栄えた。小アジア最後のキリスト教国家
であったトレビゾンド王国が13世紀から250年程あった町だ。アヤソフィアはトルコには3つあるが、イ
スタンブールのアヤソフィアと違って、小ぶりで質素なものだ。東トルコでは日本人観光客がそれ程多く
ないらしく、地元の人々から「一緒に写真撮ってね」などと何度かお願いされた。多湿な気候であるな。
夜 トルコ・トラブゾン 「ホテルグランド・ゾルル」 前菜、(グリーンサラダ)、チーズと卵、ミックス
グリル ライスとポテト添え、持参のラスク、(バクラバ トルコの菓子)、ヨーグルト、ビール 6j、
白ワイン
今晩のホテル「グランド・ゾルル」は、旧市街の盛り場のど真ん中にある。雨上がりの土曜日の午後と
あって、ホテル周辺はタイヘンな人出である。早めにホテルに着いたので、客室でお湯を沸かして持っ
て来たアールグレイ紅茶を煎れてゆっくり飲む。うーむ、旅も終盤だしホッとするよ。フォーサイスの新
作「アフガンの男」も上巻終わり、下巻に取り掛かる。かなりの年齢になられたハズだが、相変らずのス
トーリーテラーだ。午後7時からホテルのレストランで夕食。その前に明日の夜イスタンブールに延泊宿
泊する方々7名向けの説明会があったようだ。復路のトルコ航空ビジネス席、申し込み者8名のうち7
名分が取れずに1日遅れての帰国となるのだそうだ。席を押さえられた幸運の1名?私レスよー。料理
名はわからぬがチーズと卵の一皿がとても美味しかった。今夜がこの旅の「最後の晩餐」となるのね。
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9月 19日(日) 晴れたり曇ったり 山の上は小雨
朝 トルコ・トラブゾン 「ホテルグランド・ゾルル」 朝食ヴュッフェ
6時起床。14日アルメニアでお腹をこわして1日寝ていたことがあったが、それ以来その件について触
れなかった。だからと言って治ったわけではない。実は、ゲーリー・クーパー氏がずっと滞在されていて
毎日(特に朝)トイレ通いをして苦労しておるのだ。毎朝添乗員のKさんに「お腹の具合はどうですか
ぁ?」と聞かれ、力なく頭を振って、1日分のクスリを貰う日々が続いているのだよ。そんなことで、朝食
もごく少なめにし、9時半からの市内散策も不参加。12時チェックアウトして、最後の観光に出かける。
昼 トルコ・トラブゾン郊外 「ジョーシャンデレ」 米と野菜のスープ、キャベツのドルマ、チーズ料
理、ミートボール、持参のラスク、ヨーグルト、紅茶
市内を抜けてバスは一路南へ。トラブゾンから54`離れたスメラ僧院に行くのだ。人家が疎らになると
名産というヘーゼルナッツの木が左右に見えてその畑が暫らく続く。高度を徐々に上げて行くと、気温
もグングン下がって冷気のようなものさえ感じる。12人の参加者の中には以前スメラ僧院に来た方が3
名いらしたが、「以前もこのレストランで昼食を摂った」という「ジョーシャンデレ」でランチ。このヘンでは
観光客が食事をするとしたら、ここしか無いんだろうね。そうゆう事情があるからか、レストランスタッフ
のサービスはヤケに機械的でお世辞にも良い感じはしない。食後にスイカなどのフルーツも出て来なく
なっちゃったし、ちょっとサビシイ。更に高度をあげた場所から、皆さんは濃い霧の中スメラ僧院に向け
て出発された。ミニバスに乗り換えて、山道を20分歩かねばならないのだ。私とSさんはバスの中に残
って、お喋りしたり本を読んだり。やがて帰って来られた皆さんの話では山道は足場が悪くて苦労され
たそうだが、垂直の岩壁の上に建てられた僧院のフレスコ画は素晴らしかった由。お疲れ様でした!
夜 無し
トラブゾン空港から夜国内線でイスタンブールへ。もともと乗り継ぎ時間が少ないのに、出発が遅れて
ヒヤヒヤ。12人のうちイスタンブールに宿泊して残られる(残らざるを得ない)方々7名とお別れして、
私達5名+添乗員Kさんの6名は国際線の建物に行く必要がある。え?時間が無いなら歩くよりタクシ
ーの方がいいかも?それならとワゴン車型のタクシーに乗る。「Internathional Airport!OK?」「△
×?〇・・」。ヤケに大回りするじゃないか、でも空港につけているタクシーだもの大丈夫だよね。あら?
ここは空港ホテルじゃないの!ったくもう!乗り遅れたらキミのせいだぞ。Internathional Airport!
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【今週の振り返り】
7、8年前、「アララトの聖母」という映画を観た。アトム・エゴヤン監督の作品で、カナダの映画賞を数多
く受賞したが、ストーリーをカンタンに纏めるのはとても難しい映画だった。しかし見終わった私は、第
一次世界大戦前後に、当時のオスマントルコ青年トルコ党員政府によって、100万人以上(150万人
とも言われる)アルメニア人が大虐殺された歴史的事実を知ってタマゲタし、その哀しみをすべて見守
ったアララト山の美しさが瞼に焼きついて離れなかった。いつの日か、私はアルメニアの地でノアの箱
舟が漂着したという雄大なアララト山をこの目で見てみたい、と強く思ったことを覚えている。
塩野七生さんの著書「ローマ人の物語」は単行本14巻の超大作であるが、著作には帝政ローマ時代
の皇帝の家系図、当時のローマ帝国と諸国の地図が度々掲載され、文章はもちろんであるが、そうい
った家系図やら地図に興味があって長い時間ジロジロと見ていたものだ。ローマ帝国初代皇帝アウグ
ストゥスの養子で2代目皇帝ティベリウスの時代、ローマ帝国にとって重要な東方にはパルティア王国
があった。現在のイラン、イラク、のちのペルシャである。その北にはアルメニア王国。東はカスピ海、
西は黒海。つまり現在のコーカサス三国全部がアルメニア王国で、それに加えて東トルコ地方もこの王
国の領土であった。当然ながらアララト山も、アゼルバイジャンと紛争を続けているナゴルノ・カラバフ
地方もアルメニア王国である。今のアルメニアの10倍はあろうかと思うほどの大国であったのだ。ロー
マ帝国は、パルティア王国を抑え付けておくためにも、隣国のアルメニア王国が安定していることを望
んでいたようだ。しかし、それは2000年近く昔の話。
アルメニアは世界で最初にキリスト教を国教とした国としても知られている。301年のことである。続い
て36文字で構成されるアルメニアアルファベットも定められた。キリスト教を国教と定めたトゥルダト3
世は、周辺諸国と戦わせる領民の統治には宗教が必要だったらしい。また当時ギリシャ語で書かれた
聖書を領民が読むことが出来なかったので、キリスト教布教のために誰でもが読める文字=アルファ
ベットの開発が必要だった、というのが背景と聞いた。
しかし、ローマ、ペルシャそしてアラブにアルメニアは侵略され、奪われ、分割され、統治されと他国・他
民族に翻弄され続けて来た。国土は荒廃し、10世紀にはアルメニア人の多くは故国を捨てて世界に散
った。ディアスポラである。その後も、トルコ、ロシアなどの大きな隣国にも蹂躙され、悲しい歴史が繰り
返されるが、19世紀から20世紀初頭にはオスマントルコによるアルメニア人150万人の大虐殺にま
で到ってしまう・・・・。
ソ連邦崩壊と共に1991年アルメニア共和国は独立した。かつての王国の国土は九州より狭く、人口も
わずか377万人の小さな国になってしまったが、世界にアルメニア人は1200万人もいる。アメリカ・ロ
スアンゼルスには60万人のアルメニア人が住むと言う。エルサレム旧市街の4分の1はアルメニア地
区だった。パレスチナ自治区の生誕教会にはアルメニア正教教会があった。ウクライナのリヴィフでも
アルメニア教会に行ったことがある。「剣の舞」で知られる作曲家のアラム・ハチャトーリアン、アルメニ
ア移民の子孫にはテニスプレーヤーのアンドレ・アガシがいる。ザルツブルグの貴族の生まれと知られ
ている指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンもアルメニア人だと現地の人は言っていたが、本当かどう
かはわからない。
独立した時は、同時にソ連が崩壊した。工場は操業を停止し、電気もガスも止まり、水道も出ない。た
ちまち市場から商品が消えた。それまでソ連にオンブに抱っこ状態だったから、アルメニアの人々はそ
んな状態にも呆然とするばかりだったらしい。独立が、経済ゼロ状態というのは皮肉な話だが、それこ
そ「裸一貫」でスタートしたわけだ。それから20年、質素ではあるが、人々の生活には余裕も出て来た
と言う。悲しみがつまったアルメニアの歴史だが、これからは明るい年月を積み重ねて行って欲しいと
強く願いながら、帰って来た。
アタイも平和を願っているニャア
* コーカサスの旅の始まりは 9月 2週 をご覧ください。