パクパク日記13年2月2週
パラグアイに3泊した後、アルゼンチン・ブエノスアイレスに飛んだ
ヤグアロンの教会
タンゴショー
2月 11日(月・祝日建国記念日) 南米・パラグァイ・アスンシオン雨 午後曇り
朝 パラグァイ・アスンシオン 「ラス・マルガリータス」 朝食ヴュッフェ
先週月曜2月4日、日本を出発してアルゼンチン経由でウルグアイ、再びアルぜチン、そしてパラグア
イに昨日入った。アルゼンチン=ウルグアイ間は高速フェリーであったが、あとはすべて陸路の移動。
参加人数が僅か4名のツァーだから大型バスなど望むべくもなく、毎日替わるミニバンやワンボックス
カーにスーツケースと7名(参加者4名+添乗員+ガイドとドライバー)が乗り込んで1日350`とか
500`とか移動して来た。昨日の移動距離も長かったが昨夜から首都アスンシオンに3連泊している。
アスンシオンにある英雄霊廟
ルケにある南米サッカー連盟本部 ルケは銀細工で有名
陶器で有名なアグレアの町 幸福を呼ぶ蛙の焼き物 色付けをする女性
雨が降っている。南米に来てからスコールこそ何度か降ったが、朝からの本格的な雨は初めてだ。昨
日までの2日間はアルゼンチン北東部の田舎町のショボイホテルに宿泊していたが、一応ここは4ッ星
ホテルなので朝食ヴュッフェはちゃんとしていている。今日はアスンシオン市内と近郊の観光である。
先ずは英雄霊廟。振り返りでそのヘンの話はしたいと思うが、パラグアイには悲しい歴史があって、初
代大統領とその息子の墓がある。入口を守っている2人の衛兵の目がやけにキョロキョロ動いていた。
独立の家博物館。南米で正式に独立を宣言したのはパラグアイが一番早く、1811年のことであった。
かつては白亜の宮殿と呼ばれた大統領官邸も今は工事中。写真は撮らずにチラッと見ただけで郊外
に向かう。南米は欧州と並ぶサッカー王国であるが、その南米サッカー連盟本部はルケという町にある
のだよ。この町は、パラグアイ・サッカーの英雄ホセ・ルイス・チラベルトが生まれた町でもある。そして
銀細工や楽器のアルパの製造が盛んな町でもある。次に訪れたのはアグレア。道路の左右にはギッ
シリと商品が並べられた陶器の店、店、店。大きな焼き物が多い中幸福を呼ぶ蛙の陶器が目立った。
昼 パラグァイ・サンベルナルディノ 「アルプス」 ランチヴュッフェ
ヴュッフェランチを済ませてから近くのイパラカイ湖に行く。この湖は人気の避暑地だそうだ
イタグアは刺繍の町。「ニャンドゥティ」と呼ばれる細い糸の刺繍は「蜘蛛の糸」の意でパラグアイ1番人気の土産
ドイツ人移民の多いサンベルナルディノでランチを摂る。海の無いパラグアイでは、近くにイパラカイ湖
があるこの町は高級な別荘地として発展した。しかし、今は海外の本物の海を求めて行ってしまうので
別荘地としての人気も急降下。観光業も下火になってしまったそうだ。食事の後イパラカイ湖に行って
みたが、夏休みの終盤というこの日、家族連れや子供達はひとっこ一人みかけなかった。サビシー。最
後に行ったイタグアは刺繍の町。「蜘蛛の糸」の意味である「ニャンドゥティ」と呼ばれるそれは細い糸で
編む先住民グアラニー族伝統のレースの産地である。小さいものからドレスまでレースは様々だが、中
には8ヶ月間かけて作るものも。手が込んでいるから「ニャンドゥティ」はそれなりのお値段がするのだ。
夜 アスンシオン近郊 「アルパ教室」 ディナーヴュッフェ ビール 5j、赤ワイン10j3人でシェア
今晩はアルパ教室でボトルダンスのディナーショー。アルパはグアラニーハープである
若い男性2人によるアルパ演奏 頭の上にボトルを載せたまま踊る見事なボトルショー
今晩はパラグアイ伝統楽器アルパ教室で演奏を聞きながらの夕食である。教室はホテルから車で40
分程走ったアスンシオンの住宅地にあった。私達5人のためだけに用意されたヴュッフェ。屋外ではオ
ーナー(アルパの先生)が炭火で牛肉アサードや太いソーセージなどを焼いてくれる。今日も女性3人
で赤ワインのボトルをシェア。食事の間も3人の弾き手がアルパを演奏してくれていたが、一段落したと
ころでボトルショーが始まった。ボトルを頭の上に載せて踊るのだ。激しくね。そのうちに床に這いつく
ばって踊っている。彼女のボトルショーテクはどの程度かはわからないが、ギネスは17本(8`!)の
ボトルを載せて踊ったそうよ。信じられん!13歳日系4世お兄ちゃんが見事にアルパを弾きこなした。
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2月 12日(火) 晴れ
朝 パラグァイ・アスンシオン 「ラス・マルガリータス」 朝食ヴュッフェ
昨夜ホテルに帰ってから、Sブーからメール、K谷さんから3回も電話があった。8日にかつて勤務して
いた企業の創業者が亡くなったという知らせが貰っていたが、そのご葬儀に関して知らせて頂いた。今
朝はO橋さんからもメールを頂いた。便利な世の中だなぁ。それに較べてパラグアイから絵ハガキを出
そうと切手代を聞いてビックリ。4.5米j?ウソだろ!という値段だ。今日は晴れた。朝8時には出発。
1760年完成したフランスシスコ派ヤグアロンの教会と見事な彫刻
昨日の雨天から一転素晴らしい晴天である。先ずは昨日行けなかったヤグアロンの教会。9時に到着
した。ここも一昨日行ったトリニダー遺跡やヘスス遺跡と同じようにグアラニー族にキリスト教を布教し
た際建設された教会である。イエズス会ではなくここはフランシスコ派の教会で1760年に完成した。こ
こも発見された時はジャングルに埋もれていたそうだが、教会内部の見事な彫刻に見惚れてしまった。
昼 パラグァイ・ラ・コルテナ 「フジミ食堂」 日本食いろいろ
ヤグアロンの教会から1時間半でラ・コルテナに到着した。1937年に初めて日本人が入植して以来、
パラグアイには約7千人の日系人が住む。パラグアイ各地に移住地があるが、ラ・コルテナはその中で
最も長い歴史を持つ。先ずは「富士見食堂」へ。小さなホテルも併設している。中庭で遊んでいた2人
の男の子達に「お父さんとお母さんは日本人?」と聞くと、「ううん。パラグアイ人」という答えが返って来
た。そうか、3世、4世は日系であってもパラグアイ人なのだね。テーブルに次から次へと懐かしいおか
ずが出て来る。白菜のお浸し、焼き茄子、煮物、巻き寿司、コロッケ、おくら、煮豚、餃子、小魚のフラ
イ・・・。もう誰も口をきかない。ところが。私の足元にいたお産をしたばかりのママ猫は、私の太腿に爪
を立てて「餌くれ!」と強要。イテテッ!太腿が痛いから、即小魚のフライを与える。すぐ爪、すぐ魚、す
ぐ爪・・・を繰り返しているうちに、「早く食べないと、夢子さんが猫ちゃんに魚全部あげちゃうわよ」って。
日本語学校では37人の生徒が6クラスに分かれて週3回授業を受けている
ドクター田中の写真を展示した写真記念館。移民の皆さんの生活がわかる。
日系1世のK澤さん
日本食でお腹がいっぱい(猫もね)になったところで、日本人会協会に行く。JICAのボランティアとして
昨年夏からこの地にこられたK海さんが案内してくださる。日本人文化会館の厨房では四国香川県と
の共同プロジェクトでぶどうジュースを作っていた。その奥には日本語学校。明日から新学期が始まる
そうだが、先生の一人に職員室や教室を見せて頂いた。3世、4世と世代が若返る中、日本語のニー
ズは徐々に薄れて行っているが、パラグアイ人も含めて日本への出稼ぎの際日本語が活きるのだと言
う。医師で写真好きだったという「田中秀穂写真記念館」。田中氏の写真で入植者家族の運動会や相
撲大会、結婚式などの様子が伝わって来る。ここに日本を再現しようとしていたのだな。少し離れたK
澤さんのお宅を訪問。1941年3歳の時福島県から家族と共に移住して来られた。戦前最後の移民で
ご主人となった方も福島出身だったとか。昨年ボリビアでも日本移民の方のお話を伺ったが、痩せ地
の農地への開拓、天候との闘い、経験したことの無い病気、言葉、民俗問題・・・頭が下がる話ばかり。
夜 パラグァイ・アスンシオン 「ロディジオ」 ディナーヴュッフェ ビール大 4j、白ワイン 4j、赤ワ
イン 4j
午後6時過ぎアスンシオンのホテル着。明日はとにかく早い出発なので、今晩はサクッと夕食を済ませ
て明日に備えようとレストランも近くの店に変更となった。それは良いけど、夜なのにヴュッフェ?ちょっ
とガッカリしたが、それは杞憂。このレストランの肉料理がムッチャ旨いのよ。それにビールは大瓶だし、
ワインの盛りもたっぷしだし。いいね!帰りにH田さんが指を切るケガ。9時にはホテルに帰って寝る。
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2月 13日(水) アルゼンチン・ブエノスアイレスは晴れ アルゼンチンペソ(ARS)=約20円
朝 アスンシオン空港にて 弁当一口だけ
今朝は早い。メッチャ早い。何せ2時45分に起きたのだから。そんな早い時間に起きてもシャワーを浴
びてシャンプーもして、と。パッケージを済ませて、3時40分にはバゲジダウン。4時にロビーに降りて
行くと、ガイドのホセがお弁当を持って既に来ていた。ブエノス・ディアス!さぁ、空港に向けて出発だ!
昼 アルゼンチン・ブエノスアイレス 「日本食 IRIFUNE」 刺身と鮨定食(赤出汁、抹茶アイスつき)
午前5時アスンシオンの空港に到着し、アルゼンチン航空7時5分発ブエノスアイレス行きに搭乗。飛
行機に乗る前のセキリュティチェックではヘンテコな経験をした。何度やっても、私の手荷物のリュック
がエックス線で引っ掛かるのだ。8回やってもダメ。「もう何が問題だって言っているのよ!」と癇癪を起
こしそうになった時、ようやく彼女達が問題視した犯人がわかった。ホカロン。簡易カイロ2袋だった。定
刻で出発し、定刻でブエノスアイレスのホルヘ・ニューベリー空港に到着。エセイサ国際空港とは違って
ここは小ぶりだから空いていて良い。嬉しいことに、このままホテルに向かうと言う。未だ10時前なの
にサヴォイホテルはアーリーチェックインOKですって。100年を超える4つ星のクラッシックホテルであ
る。昨夜は余り眠れなかったから、寝ないにしても休憩出来て助かった。ランチは私の希望通り日本食
レストランに連れて行って貰うことに。タクシー2台でパラグアイ通りにある「日本料理IRIFUNE」に行
く。刺身と鮨定食は昨日市場が休みで白身魚が入手できなかったとかで、刺身も握りも巻物もすべて
鮭なのだった。握りのシャリ、巻物のシャリを残すとすべて鮭を食べているのだった。握りに山葵無し。
レコレータ墓地のエビータの墓
ボカ地区のカミニートの建物はカラフル 若いタンゴダンサー
2時半から市内観光へ。3時間ほどの観光なのに、迎えに来たのは比較的大きなマイクロバス。この旅
の間、こんな車で移動したかったなぁ。品の良いお爺ちゃんガイドだった。3人の参加者は初めてと言う
が、私はブエノスアイレスに来たのは4回目。生意気な言い方をすれば「市内観光はもういいわ」なの
である。でもまぁつきあいますか。最初に行くのはレコレータ地区の最高級墓地レコレータ墓地。歴代
大統領13人を始め、各界著名人の凝った意匠の納骨堂がズラリと並び6400の納骨堂の70が国の
文化財に指定されている。この墓地には猫がたくさんいるから楽しみにしていたのだが、今年は数匹見
ただけで激減していた。次はお約束のボカ地区のカミニート。ボカ・ジュニアーズ・スタジアムを右手に
見ながらタンゴの発祥地とされるカミニート(小路)へ。走ったらアッという間に通り抜けてしまう狭い地
域にはカラフルな3階建ての建物と絵描き達と観光客目当ての若いタンゴダンサー達が犇いている。
プエルト・マデーロの倉庫街、五月広場でピンク色の大統領府をチラリと見てから大聖堂に入ってみる
と聖堂内の南米開放の父ホセ・デ・サン・マルティン将軍の柩を守る護衛兵の交代式が行われていた。
夜 ブエノスアイレス 「サヴォイホテル」 オニオンスープ、ステーキ ポテト添え、フルーツ、ビール 9
j、白ワイン 9j、赤ワイン(サービス)
7時半からホテルのラウンジみたいなところで夕食。オニオンスープは「えっ!」という程の味で、女性3
人は顔を見合わせた。先月本場パリでオニオングラタンスープを食べたばかりだから、余りの違いにね
ビックリするわけよ。でもメイン料理ステーキは素晴らしい旨さ!大きな肉塊をペロリと食べてしまった。
食事が終わったら、そそくさと準備をしてタンゴショーに出かける。ご一緒している4人の参加者のうち、
1人きりの男性I東さんは「タンゴ命」でこのツァーに参加されたとか。そのI東さんがウルグアイのカント
リーっぽいショーを観ただけで「満足した!」なんて言っている。チゃウ!ウルグアイタンゴも素朴で良
いが、何て言ってもタンゴはブエノスアイレスが本場だ!ここでのショーを観ないで何がタンゴだ!と私
は演説したわけ。オセッカイだけど。で、4人全員オプションでアルゼンチンタンゴを観よう!ということ
になったんさ。食事無しで1人50j。あっちこっちのホテルで客をピックアップして「タンゴ・ポルテーニ
ョ」に着いたのは10時近くだった。通されたのは2階というか3階の天井桟敷席。安いから仕方ないけ
ど、チェッである。ここからだと一眼レフの望遠使っても絵柄が小さくて。しかし始まったショーは女性が
率いるオリルケスタル・ティピカ演奏も7組のタンゴダンスカップルも歌手2人もマジシャンも素晴らしか
った。映像交えたショー仕立てが楽しい。1時間半のショーで、I東さんは興奮&感動しっ放しであった。
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2月 14日(木) 晴れ
朝 ブエノスアイレス 「サヴォイホテル」 朝食ヴュッフェ
昨日は朝早く(2時45分!)に起きて1時半に寝たから、23時間起きていたことになる。そんなことで今
朝は7時半まで寝ていた。今日は帰国日だが、夕方5時半までフリー。何していてもいい。8時半レスト
ランに行き、ゆっくり朝食を摂る。途中から石川県から参加されたM上が来られた。M上さんは、もうす
ぐ到着するグループ(添乗員も含め女性4名)に明日から合流し、パタゴニアツァー(14日間)に引き続
き参加されるのだ。私はここまでで十分って感じだからむしろ帰りたいけど、彼女曰く「こんな遠いところ
まで飛行機に乗って来たのだからあちこち行かないと損」ということらしい。午前中ゆっくりパッキング。
昼 ブエノスアイレス 「Chiquilin」(5人で) サラダ、ビール、フィットチーネボロネーゼ、ペンネポマド
ーロ、カラマリ、水、コーヒー
午後1時バゲジダウンしてロビーに集合し、近所のレストランにランチに出かける。希望者ということだ
ったが、結局M上さんも含めて5人全員揃った。これが全員で食事する最後ですね。メニューを見なが
ら各自食べたいモノを注文してシェアしようということになった。ステーキもパスタ類も大きなカラマリ(イ
カフライ)も美味しい。食事の間雨が降って来たがそれも止んだ。皆さんはこれから徒歩で市内観光。
遅い夜 デルタ航空 ブエノスアイレス=アトランタ ビジネスクラス機内食
1人でブエノスアイレスの街をぶらぶらと歩く。暑い!だから途中からさっさとホテルに帰って来た。「サ
ヴォイホテル」にはゆったり出来るラウンジがある。座り心地の良い椅子にゆったり座って本を読む。た
っぷり時間があるので、半分はウツラウツラしようと思っていたのに、面白い本だったので読みきってし
まった。5時前皆さん汗びっしょりで帰って来られた。暑い中何時間も歩いて観光されたそうだ。行かな
くて良かった。5時半、M上さんに見送られて空港へ。チェックインする前にデルタ航空のスタッフに滞
在中のことをいろいろ聞かれる。何でそんなこと聞くん!彼が私のパスポートをジッと見て指差す。昨
日パラグアイからアルゼンチンに入国した時のイミグレスタンプだ。「2013年2月31日」とあった。2月
13日の間違いだろ!午後9時20分発のアトランタ行きの飛行機。約1時間前に搭乗が開始された。
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2月 15日(金) アトランタは晴れ
朝 デルタ航空 ブエノスアイレス=アトランタ ビジネスクラス機内食
夜10時頃から始まった機内食の前菜はエラク旨くなかったので、赤ワインをばかり6杯グビグビと飲ん
だ。高村薫原作の映画「黄金を抱いてを飛べ」を観る。この前飛行機の中で観たばかりだから、途中か
ら居眠りしてしまった。眠ることが下手な私にはシメシメなのである。それでも2時間ちょっと寝ると目が
覚めて、ブラームスの4番とかヴェートーベンの7番(またですかぁ?)とか聞いて10時間を過ごした。
昼の軽食 アトランタ デルタ航空ラウンジ
朝の5時40分アトランタ着の予定だったが、5時15分には到着。イミグレを出たところでK井さんと
はぐれた。K井さんは10歳程先輩であるが、現役バリバリのカメラの先生であり、今回も大小のカメラ
を4台使って撮影されていた。一度も誰にも教えて貰ったことが無い私のカメラテク。おずおずとこんな
の撮っているんですけど、とK井さんにお見せすると「あなたはそれでいいんじゃない」。教えても仕方
ないと思われたのか、面倒臭かったのか。ここで約6時間半の待ち合わせ。デルタラウンジのトイレで
冬用のスパッツやらヒートテックのシャツなどを着込む。I東さんは相変わらず素足サンダル姿だった。
夜 デルタ航空 アトランタ=成田 ビジネスクラス機内食
正午発のデルタ航空成田行き。和食を注文してみたら、エラク不味くて殆んど残した。じゃ、ワイン飲み
ながら映画でも観ようか。1本目は「僕等がいた」。吉高由里子と生田斗真が主演していたが、人気ア
ニメの映画化なのだそうだ。次に映画「るろうに剣心」。これも大ベストセラーコミックの映画化なんだっ
て。佐藤健、武井咲、江口洋介、吉川晃司、蒼井優、香川照之、綾野剛なんて人達が出演していたよ。
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2月 16日(土) 東京は晴れ 寒っ!
朝 デルタ航空 アトランタ=成田 ビジネスクラス機内食
アトランタから北上して、ハドソン湾手前のオンタリオ州上空でゆるやかに左折してカナダとアラスカ上
空を通過して日本に向かっている。1食が不味くて殆んど食べなかったから空腹である。冷たい蕎麦が
あるというので注文してみた。もちろん不味かった・・・。偏西風に向かっているのでフライト時間は14
時間、時差も14時間。成田には夕刻4時半に到着した。何て寒いんだ!チョー薄着I東さん大丈夫か。
昼 存在せず
夜 舟町 「おちあい」 お任せコース(玉こんにゃく、数の子入り醤油豆、揚げ銀杏、刺身盛り合わせ、
和風しゅうまい、イカゲソ天、芋鍋)、ビール小、麦焼酎 @4千円
タクシーに乗り、自宅に到着したのは6時過ぎであった。留守中来てくれた姪のカオルが整理してくれ
た郵便物やメールをチェックし、「おちあい」に飲みに行く。「お帰り!」。ここでお父さんからこう言われ
るとホッとする。歳は幾らも変わらないけど。そのお父さんが「今夜のアド街は荒木町なんだよな」と言
った。えぇっ!今夜?あと5分で始まっちゃうじゃん。さっき電話した時言ってくれれば録画したのにぃ!
ということで、2人で「アド街っく天国」に見入る。アレーあそこ出ないねぇ。「荒木町って良い街だねぇ」。
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2月17日(日) 晴れ
朝 家食 十種野菜と鶏のフォー、海老とブロッコリーサラダ、ふすまパン
昼 六本木 「大戸屋」 四元豚生姜焼き定食(五穀米少な目−19円) 811円、じゃこおろし 160円
思いッキリ寝不足だった昨夜。満を持して午前2時にベッドに入った。一昨日の朝7時半(日本時間は
一昨日の夜7時半)に起きてから31時間。この間眠ったのは僅か2時間。眠くて眠くて仕方無かった
ハズなのに、2時間半ほど寝た4時半に目が覚めてから全く眠れなくなってしまった。これはどうしたこ
とだ!ベッドでゴロゴロしていたが、6時には起き出してしまった。困ったことだ。朝刊を読んでから書斎
に行き、1月4週のパクパク日記を作り始める。南米から帰って来たというのに、パクパク上では夢子
は未だ雪のパリにいて味噌ラーメンなんぞ啜っているではないか。11時乃木坂にあるプラズマ治療院
へ。治療を終えてから東京ミッドタウンに行ってみると更に飲食店のクローズは広がっていた。だからた
いして美味しく無い店の前にも長い行列が。リニューアルオープン日を聞くと、4月中旬?じゃ、当分こ
こに来るのは止めよう。六本木交差点の近くに「大戸屋」があった。良し、これからはここに通おうぞ!
夜 荒木町 「宮わき」 付き出し:芽キャベツアンチョビ和え、酒肴三種盛り 750縁、里芋の和風マッ
シュポテト 600円、鹿児島のカツオ 1100円、牡蠣フライ 1000円、鯛出汁に麺、生ビール 500
円×2杯、無後焼酎Wロック 1200円×2杯 @8500円×1,05(カード支払い場合) 8925円
寝不足3日目を何とか過ごして、夕食は「宮わき」に行った。この店も昨夜放映された「アド街」にランク
インされていた。入って来る客が「観たよ、テレビ」と言って入って来るのが可笑しかった。「ちゃわんぶ」
も「鈴なり」も「ます味」も「大原」も出ていたが、あそことあそことあそこは登場しなかった。「店が小さい
から客が押し寄せても困る」って取材を断ったんじゃないかな。焼きポテトサラダの代わりに今日は里
芋和風マッシュポテト。これがメチャンコ旨いのよ。旨い!と何度か言ったら、隣の客も注文していた。
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【今週の振り返り】
以前、ここで世界失敗国家ランキングというものを紹介したことがあるが、世界腐敗国家ランキングと
いうものもあるそうだ。それによると、世界でビリの地位を独占しているのはソマリア、2011年初登場し
ていきなりビリから2番目に踊り出た北朝鮮、最近民主化の波が押し寄せていると一躍人気を集めて
いるミャンマーも北朝鮮が現われるまでアジア圏では堂々ビリを確保していた国家だった。公務員と政
治家がどの程度腐敗しているか。賄賂や汚職といった小口のものから、政治資金や談合などの大口腐
敗までをランキングしている。パラグアイもベネズエラと共に腐敗国家ランキングでは低位安定。2011
年、2012年とも154位(上から)であった。パラグアイの人々は「賄賂・汚職はパラグアイの文化」と言
っているそうな。そう言えば、「不倫は文化」って言った人が日本にもいたなぁ。誰だったか。日本の順
位?2011年では14位、2012年では17位となっております。
パラグアイの国土は日本より一回り大きいが、人口と言えば日本の20分の1の約650万。スペイン系
白人と先住民のグアラニー族(モンゴロイド)の混血であるメスティーソが96%を占める。ここまで旅し
て来たウルグアイやアルゼンチンはスペイン人を親として生まれたクリオージョ(白人)が9割を占めて
いたから、その点でパラグアイに入ってから人々の顔付きも違うなぁという感じがした。彼らはグアラニ
ー族の血に対して大きな誇りを持ち、公用語もスペイン語とグアラニー語である。そうそう、使用通貨の
単位はグアラニー。4500グアラニーが1米jであるが。
パラグアイの首都アスンシオンは1537年8月15日に建設された。8月15日と言えば、聖母マリアが
被昇天された日。よって「アスンシオン デ マリア」からアスンシオンと名付けられた。それで思い出し
たが、大阪のキョウコの娘ユリちゃんは聖母マリア被昇天付属小学校と中学校に通っていたっけね。
以来アスンシオンはボリビアのサンタクルスやアルゼンチンのブエノスアイレス(再建)やパラグアイの
コンセプシオンなど都市建設の足がかりの場所となった。だから、アスンシオンは「都市の母」と呼ばれ
たりもするのだ。当時アスンシオンは南米大陸中南部の中心的存在であった。
今やパラグアイの人口は650万人となったが、かつてこの国は人口の6割以上を失った凄惨な歴史を
持つ。パラグアイを挟む大国ブラジルとアルゼンチン、そしてその2国に引き摺られるように参戦したウ
ルグアイの三国が同盟を組んで1864年パラグアイに戦いを挑んだ。その上、発展目覚しかったパラグ
アイを快く思っていなかったイギリスが後ろで支援した。当時のパラグアイは富国強兵で近代化発展目
覚しく、日本の明治維新と競うようであったと言う。しかし、こうなっては勝てるワケが無い。三方から攻
められたパラグアイ軍は全滅するまで闘った。大統領も玉砕戦死し、1870年三国戦争は終わった。
戦いの前52万人いたパラグアイ人は21万人となった。成人男子の実に99%が戦死あるいは虐殺さ
れたと言う。2500人の子供達が幼い顔にヒゲを描いて参戦して全員亡くなった。これだけの犠牲を出
したパラグアイであったが、戦勝国ブラジルとアルゼンチンの要求によって国土の4分の1を割譲し、イ
ギリスには莫大な借款が押し付けられた。この時、パラグアイはイグアスの滝を失い、首都アスンシオ
ンはアルゼンチンとの国境ギリギリに位置するようになってしまった。
それからのパラグアイはパッとしない。以後チャコ戦争があり、20世紀に入って内戦があり、3回も革
命、政変、大統領の亡命などがあった。経済も停滞が続いている。しかし。パラグアイにはチラベルトが
いる。サッカーのパラグアイの英雄ホセ・ルイス・チラベルトがいるではないか。1996年南米最優秀選
手賞を受賞したチラベルト。ゴールキーパーでは初の受賞であった。1999年にはゴールキーパーとし
て初のハットトリック(すべてPK)を達成した。W杯の試合で負けて泣き崩れる選手達を一人一人抱き
しめて励ますチラベルトの姿が未だ目に焼きついている。彼は選手達にこう言っていたらしいよ。「もう
泣くな!俺達は戦争に負けたわけじゃない」。引退後、パラグアイの大統領を目指すと言ったそうだが
今もそうかどうか本人に聞いてみたいところだ。
もっと喰いたいニャア もうダメら!
* 旅の始まりは 2月 1週 をご覧ください。