パクパク日記15年1月3週

             ポルトガル2週目は北のポルトからリスボンまで南下して行く

    発見のモニュメント サン・ロッケ教会

1月 12日(月・日本は成人の日祝日) ポルトガルは晴れ  1ユーロ=約143円

朝 ポルト 「パラシオ・ド・フレイショ」 朝食ヴュッフェ+持参のふすまパン

昼前のおやつ アヴェイロ 「CONFEITARIAPELXINHO」 オヴォシュ・モーレシュ(最中の先祖?)

  

  アズレージョで有名なアヴェイロ旧駅舎    ホームにもアズレージョが       肥料用海草集めるモリセイロ

    最中の先祖?中身は鶏卵そうめんのよう

先週金曜日からポルトガルに来ている。金曜日首都リスボンからオビドス、ナザレと北上し、ポルトガル

第ニの都市ポルトに2泊した。今朝再び南下を始め、10時にはアヴェイロ駅に到着。約20年前に来た

時現役だった古い駅舎は見事なアジレージョで有名だが、今は引退して展示会場になっていた。ふー

ん、隣に新しい駅舎が出来たのね。製塩と漁業で栄えたアヴェイロは16世紀の大暴風雨で海と繫が

る水路が塞がり衰退したが、18世紀の大暴風雨で今度は塞がっていた水路が繫がった。良かったね。

中央運河には肥料用海草を集めるためのモリセイロという舟がズラリと繋留され、観光用にも活躍して

いる。お菓子屋では、最中の先祖ではないかと考えられるオヴォシュ・モーレシュを食べる。塩を購入。

昼 コインブラ 「Rubana ポタージュスープ、ポルトガル風コロッケ、水

  

              意外とスープが旨かった。カラダ温まったし。            名門コインブラ大学

  

    ヒタスラ急な階段と坂を降りなさい!     コインブラ大学OBが多いというファドセンターでコインブラファドを聴く

12時半、コインブラのレストラン前に到着。その途端、ナゼか「アチャッ!」って感じがした。それが当っ

てしまった。ランチを予約していたレストランがどうも予約のことを忘れて臨時休業したようなのだ。焦る

添乗員O橋さん。店を予約し、リコンファームまでしたランドもビックリしているらしい。仕方ない。この辺

のテキトーな店で腹ごしらしましょう。ところが、近所にはカフェとか簡易食堂ばかり。いいよ、いいよ。と

いうことで、スープとワンプレートランチ。今頃レストラン店主は焦っているだろうねぇ。コインブラで一番

高い場所にはコインブラ大学がある。ポルトガルの最初の首都であったコインブラに大学が造られたの

1290年。欧州の中でも指折りの歴史を持つ。1724年に造られた図書館には16〜18世紀の蔵書

3万冊もあって、夜になると蝙蝠が古い書籍にとっての害虫を退治してくれるのだそうだ。大学構内

にあるサン・ミゲル礼拝堂、旧校舎を見学したが、私は校舎には入らず校庭で休憩。その後一番高い

大学から急な階段と坂をヒタスラ下りる難行苦行が待っていた。膝がガクガクになった頃、坂も終わり

に近づき、ファドセンターでミニコンサート。コインブラのファドは、リスボンと違って男性の歌だ。学生が

憧れの女性に捧げるセレナーデといったところか。日本語のビデオを観た後、3曲の演奏を楽しんだ。

午後のおやつ コインブラ 「ポルタジェン広場の菓子屋」 テントゥガル、コンフェイトウ、エスプレッソ

  

旧市街の入り口にあるポルタジェン広場でフリータイム。下り坂の連続で足が棒のように(太い)なって

しまったので、お菓子屋で休憩することに。ランチのデザートで食べることになっていた郷土のお菓子を

O橋さんがご馳走してくれた。中はやっぱり鶏卵そうめんでムチャ甘い!ついでにコンフェイトウもね。  

夜 コインブラ 「キンタ・ダス・ラグリマス」レストラン 赤豆とソーセージのスープ、鱸のバルサミコソー

ス、パンナコッタ、カモミールティ、ビール、白ワイン、赤ワイン2杯(昼のお詫びらしいです うふっ) 

  

イネス縁の涙の館「キンタ・ダス・ラグリマス」正面         悲恋の主人公イネスが殺害されたと言われる涙の泉  

  

     イネスとペドロ王子の悲恋の舞台に宿泊   宝塚も「コインブラ物語」で上演したことがある

  

今夜の宿「キンタ・ダス・ラグリマス」は、イネス縁(ゆかり)の「涙の館」をプチホテルに改装したものであ

る。14世紀のポルトガルペドロ王子は、父の命で隣国カスティーリャ王族コンスタンサと政略結婚した

が、あろうことか彼女の侍女イネスと恋に陥ってしまう。父王の怒りを買って引き裂かれるが、コンスタ

ンサが病で亡くなるとその関係は公然となり、子供も4人生まれた。カスティーリャ王国を恐れる父王は

部下に命じてコインブラの「涙の館」でイネスを暗殺してしまう。2年後父の死後即位してペドロ1世とな

ると、イネス暗殺に関係した重臣達を殺害。墓からイネスの遺骸を掘り起して花嫁衣装を着せると結婚

式を挙げ、部下達にイネスの手に口づけを強いたという。ホントだべか。そのイネスが暗殺されたのが

ホテルの裏にある「涙の泉」であり、イネスが住んでいたのがここ「涙の館」だったんですってさ。何か怖

い夢見そうだよね〜。怖いよね〜。夕食の前K川夫妻と「涙の泉」見学に行ったし。夕食はホテルで。

今夜は新婚のO元夫妻の馴れ初めを伺うことに。なるほど、最近の若い人はそうやって知り合うのね。

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1月 13日(火) 晴れ

朝  コインブラ キンタ・ダス・ラグリマス 朝食ヴュッフェ

    白アスパラが嬉しい!

  

    聖母マリアの奇跡が起こった聖地ファティマのバジリカ。30万人収容出来る広場には膝で進む信者も。「13日の行列」を見学

6時起床。怖い夢は見なかったが、トイレには4回も起きて熟睡出来なかった。このホテル4つ星ホテル

だが、トイレの水が止まらなくなるとか、シャワーヘッドの手前シャワーホースからジャージャー水がコ

ボレちゃうとか水周りのメンテナンスが悪いんだよな。10時聖地ファティマに到着。第一次世界大戦中

19175月13日、牧草地だったこの地で羊の見張りをしていた3人の子供達の前に聖母マリア様

が出現し、以来毎月13日にマリア様が現われ、それは5ヶ月連続起こった。人々の関心を集めて最後

の出現日1013日には7万人が集まった。この聖母マリアの奇跡は、バチカンも認めており、多くの

法王もファティマを訪れている。今日は運が良いことに13日。博物館見学後、「13日の行列」を見学。

午前のお茶 トマール 「HOTEL DOS TEMPLARIOS」 カプチーノ チップ込み3ユーロ

昼  トマール 「HOTEL DOS TEMPLARIOS」 イワシの摺り身揚げ、サーモンのマリネ、イカの

トマト煮込み、りんごのタルト、コーヒー 2ユーロ

  

  

ファティマの後はトマール。12世紀イスラム教徒から土地を奪還するレコンキスタに貢献したテンプル

騎士団が、トマールの丘の上に修道院を築く。14世紀になるとテンプル騎士団は弾圧され、その後を

引き継いだキリスト騎士団が数百年の年月をかけて増改築をしたキリスト修道院はポルトガル最大の

規模になった。修道院の中は階段が多いし、私は一度見学したことがあるから、ホテルで待つことに。

テンプラリオスは4つ星ホテルだが、トマール一の高級ホテル。4年に1度のタブレイロスの祭では満員

になるだろうな。ラウンジでお茶を飲みながら憩っていると修道院見学終えた皆さんが来られてランチ。

夜 エヴォラ 「ポサーダ・ドス・ロイオス」 オリーブやチーズの前菜、海老のクリームスープ、黒豚のグ

リル さつま芋添え、デザートヴュッフェ、カモミールティ、ビール 3ユーロ、白ワイン 5ユーロ、赤

ワイン 5ユーロ

  

  

バスが向かうのは南東方向。今回の訪問地で最も内陸の都市エヴォラに向かう。「テージョ川のむこ

う」という意味のアレンテージョ地方に入ると道路の両脇にはコルク樫の木が目立って来た。ポルトガ

ルはコルク生産世界一なのだよ。トイレ休憩挟み3時間弱でエヴォラに到着。ローマ帝国時代もイスラ

ム時代もレコンキスタ時代も要衝の地だったエヴォラ。周囲6`の城壁や水道橋が残り、宿の真ん前

はディアナ神殿である。その宿もロイオス修道院を改修したポサーダなのである。何とも趣きのあるホ

テルではある。夕食は、修道院時代の回廊にあるレストランで。回廊に囲まれた中庭にはオレンジの

木がたくさんあるのだが夕方実をつつきにそれは多くの小鳥が来ていた。青オリーブやチーズ、生ハム

などの前菜を抓みながら生ビールをグビグビ。ぷっは〜!旨いなぁ。黒豚のグリルは西京焼きのよう。  

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1月 14日(水) 晴れたり曇ったり

朝 エヴォラ 「ポサーダ・ドス・ロイオス」 朝食ヴュッフェ

    回廊にあるレストラン

  

  ホテル前はアウグストゥスを祀るディアナ神殿   ホテル隣接するロイオス教会    天正遣欧少年も弾いたパイフオルガン

午前中はエヴォラ観光。泊まったポサーダは元修道院だったから、隣には修道院付属のロイオス教会

がある。今はガダヴァル公爵ファミリーが所有するプレイベートな教会で博物館として公開(有料)され

ている。教会の壁は天井近くまで見事なアズレージョ。す、凄いぞ!ホテルの前には紀元前1世紀に建

てられたコリント様式のディアナ神殿。月と豊穣の女神ダイアナを祀っていると長く信じられて来たが、

最近そうでないよ、アウグストゥス帝を祀ったんだよ、ということが判明したそうだ。私が前来た時はダイ

アナだったよ。イスラム教徒から土地を奪還したレコンキスタでも中心的役割を果たしたエヴォラの大

聖堂の建設は1280年から始まった。この大聖堂には1584年天正遣欧少年使節団が訪れて、伊東

マンショと千々石ミゲルがパイプオルガンを見事に演奏して絶賛を浴びたと聞いた。私もその演奏聴い

てみたかったなぁ。サン・フランシスコ教会は大改修中。有名な人骨堂は入ることが出来たが長居する

場所でもなし。小さな市場見た後はフリータイム。10月5日通りでお土産など。歴史地区は世界遺産。

昼 エヴォラ 「GUIAO 蛸マリネ、サラダ、チキンと仔羊の盛り合わせ ポテト添え、フルーツポンチ、

     コーヒー、赤ワイン(サービス)

  

予定では今日のランチは自由食であったが、「コインブラレストラン店主予約忘れる事件」のお詫びとい

うことで、今日のランチは準備された。あまり期待していなかったのだが、蛸マリネも仔羊もとても美味

しかった。ワインもサービスで1杯付くの?じゃ赤。これがナミナミ注がれたてんこ盛りでして。ゲップ!

夜 リスボン 「Clube de Fado」 (チョイス制) アスパラガスのクリームスープ、アンコウと海老のリ

ゾット、洋梨のワイン煮、ビール、白ワイン、赤ワイン

  

  

ほろ酔い加減でリスボンに向かう。お陰で爆睡出来た。1時間半でリスボンに到着。初日と同じインター

コンチネンタル・リスボンホテル。但し、部屋はグンとグレードアップされていたが。遥か遠くのテージョ

川がある辺りを眺めている時、ふと気がついた。隣にあるフォーシーズンズホテルは、約20年前に滞

在したリッツではないか。今はフォーシーズンズリッツホテルとなっていた。近くのショッピングセンター

に出かけられた方もいらした。夜は7時45分集合してバスでアルファマ地区へ。バスに乗って驚いたの

は、バス運転手の彼女がちょこんと座っていたこと。4泊の出張中会えなかったからねぇ・・・っていいの

か!笑。薄暗い場所でバスを降りてアルファマ地区の怪しげな小路を暫く歩くと「Clube de Fado」が

あった。亡くなった今も人気絶大の女王アマリア・ロドリゲスの伴奏者だったギタリストがオーナーの店

である。コースはチョイス制で、席に付くと選んだ前菜、メイン、デザートを各自伝える。隣の席にはF

ァーのグループがいらした。2日目オビドスで会いましたね。飲み物はフリーだからガブガブ飲む。笑。

真っ赤な照明が点いて、ファドの演奏が9時半から始まった。女性2人、男性1人のファド歌手が交代で

歌った。ポルトガル語の意味はわからないけど、情念の歌って感じだった。11時半まで聴いて帰った。

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1月 15日(木) リスボンは曇りのち雨

朝 リスボン インターコンチネンタル・リスボン 朝食ヴュッフェ

7時朝食に行ってみると、レストランは大きな団体専用だから、アンタらあっちのバーに行け!と言われ

た。チェッである。同じと言っているがヴュッフェの品数少ないよ。何でも200人の団体なんですってさ。

そうそう、このホテル、ちょっと前までティアラ・パーク・アトランティックという名前のホテルだったのよ。

午前のお茶 シントラ 「カフェ パリス」 アメリカーノ チップ込みで4ユーロ

    カモンイスの石碑が立つロカ岬       シントラ王家夏の離宮の王宮       ポルトガルの金細工フィリグラーナ 

昼 シントラ 「HOTEL LAURENCE」 野菜のクリームスープ、バカリャウ・ア・ブラス(干し鱈とじゃ

が芋と卵炒め)、ミルククリーム、白ワイン

  

ずっと良いお天気が続いていたがどうやら今日から下り坂らしい。今日はリスボン近郊の観光に行く。

海側ルートを走ったから、コスタ・ド・ソル(太陽海岸)の中心地エストリルとカスカイスを通ってロカ岬に

向かった。ロカ岬はユーラシア大陸の最西端である。バスを降りると、雨交じりの強風が吹いていた。

岬の突端に、ポルトガルの詩人カモンイスの「ここに地果て、海始まる」と書かれた石碑がポツンと立っ

ている。それだけで、崖の下には大西洋が広がる。「最西端到達証明書」を貰う。要らないけど・・・。30

分も移動すれば、王家夏の離宮である王宮や貴族の別荘などが点在するシントラに着く。イギリスの

詩人バイロンが「この世のエデン」と褒めちぎった地だ。この王宮も階段が多いし、一度来たことがある

ので、「カフェ パリス」でお茶を飲んでいた。この王宮にも天正遣欧少年視察団がやって来たんだった

なぁ。ランチに行く前、ポルトガル伝統の金銀細工「フィリグラーナ」の店を覗いた。金銀を細い紐状にし

てレースのように編んで造る繊細なアクセサリーだ。製造も販売も国営で、金細工は純度が高くて傷つ

かない「19.2金」に統一されている。どんな凝ったデザインであっても、金や銀の重さで値段は決まる

のだ。職人は泣かないのだろうか。つい買ってしまいました。雨の中「HOTEL LAURENCE」に行く。

1764年創業というからイベリア半島最古のホテルで、詩人バイロンも滞在した老舗ホテルのレストラ

ンでランチ。バカリャウ・ア・ブラス(干し鱈とじゃが芋と卵炒め)は炒飯状で登場したが、何とも旨いぞ!

  

   天正遣欧少年視察団が約1ヶ月滞在したイエズス会のサン・ロケ教会            坂が多いからケーブルカーは便利  

リスボンに戻ると、雨は大雨になっていた。イエズス会のサン・ロケ教会に駆け込んだ。1584年に長

い旅路を経てリスボンに到着した天正遣欧少年視察団は、この教会に約1ヶ月滞在した。ブラジルから

持ち帰った大量の金を使って造ったド豪華な礼拝堂などを見て、少年達は何を思ったんだべか。教会

から歩いて数分の場所にあるサン・ペドロ・アルカンタラ展望台からはアルファマ地区周辺を眺め下ろ

すことが出来る。「エステー」のCMでミゲル少年が「ショーシューリキー」とボーイソプラノで歌った姿覚

えておられるだろうか。あれはこの展望台で撮影した。帰りはリスボン名物のケーブルカーに乗ったよ。

夜 リスボン 「Aron Sushi」 (自由食 4人で) お通し:キュウリとイカの酢のもの、揚げ出汁豆腐 

7ユーロ、餃子 7ユーロ、刺身盛り合わせ 14ユーロ、天ぷら盛り合わせ 16ユーロ、漬け物 3

ユーロ、うどん 10ユーロ、生ビール 2杯

  

  

   O橋さんのお鮨   ご主人アロンさん→ 

夕食は自由食。新婚カップルは星付きレストランを日本出発前に予約され、いそいそと出かけられた。

K川夫妻と添乗員のO橋さんと私は「和食にしよう!」と意見一致。リスボン在住日本人にも人気があ

る「Aron Sushi」を予約して貰った。タクシーの運転手が迷ってグルグル回ったが、意外にホテルか

ら近い場所だった。日本人の板前から厳しく仕込まれたというアロンさんが経営する店だ。鮨だけでは

なぁと思ったが、つまみも麺類もいろいろあるじゃないか!揚げ出汁豆腐も餃子も旨い!期待出来る。

刺身盛り合わせが来た。美味しそうでもあるが、何より美しい。しっかり修業されたんですね。天ぷらも

サクッと揚がっていい。O橋さんは鮨にするというので私はうどん。天ぷらうどんにして食べた。満足!

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1月 16日(金) リスボンは降ったり止んだり

朝 リスボン インターコンチネンタル・リスボン 朝食ヴュッフェ

   

      ベレンの搭手前にある水上飛行機    ポルトガル舟が豊後まで来た1541年   1960年再建された発見のモニュメント

       ジェロニモス修道院         インド航路発見者ヴァスコ・ダ・ガマの柩         修道院の中庭も美しい

激しく降ったかと思うと青空が。かと思えばまたも激しい雨が・・・こんなリスボン独特の目まぐるしいお

天気の中、ベレン地区の観光に行く。ベレンの塔は、エンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記

念してマヌエル1世の命で建設された監視搭だ。当初は同じデザインの建物が2つあったが、1つは

1755年にリスボンを襲った大地震で崩壊した。ベレンの塔の手前に二人乗りの水上飛行機のモニュメ

ントが展示されていた。1922年大西洋を斜めに南下して、ブラジルのリオデジャネイロまで苦難の末到

達したF400ルジタニアだ。発見のモニュメント。190年エンリケ航海王子の500回忌を記念して造ら

れた。エンリケ航海王子を先頭に、テージョ川に向かって左側にはアフォンソ5世、ヴァスコ・ダ・ガマ、

マゼランなど大航海時代の立役者が並び最後尾にはフランシスコ・ザビエルだ。川の右側には天文学

や地図製作者、数学者、詩人などが描かれている。一旦1940年に完成したが材質に問題があったの

1960年コンクリート製で再建された。モニュメント前の広場には、南アフリカから贈られたモザイクで

ポルトガル人航海者が辿った航路を示す世界地図が描かれている。日本も登場するが、種子島に来

1543年ではなく、豊後に漂着した1541年と記されていた。最後にジェロニモス修道院。大航海時

代のマヌエル1世が香辛料で得た巨万の富で築かせたものだ。教会部の入口には詩人のカモンイスと

ヴァスコ・ダ・ガマの柩が安置されている。修道院の2階から教会を眺め、美しい中庭を歩いて楽しむ。

昼前のおやつ リスボン 「Pasteis de Belen」 パスティス・デ・ナタ 2ヶ、コーヒー

  

先週の振り返りで、日本のお菓子の元祖がポルトガルにある話は書いた。現在日本以外でも人気のあ

るポルトガル菓子と言えば、エッグタルト。でもポルトガルで「エッグタルト」なんて言っても通じないよ。

パスティス・デ・ナタと言うのだ。その元祖は「Pasteis de Belen」。菓子好き兵隊が除隊した1937

年に創業以来、修道院のレシピを守り続けている。今もレシピを知るのは2人だけ。支店も作らず、発

送もしないのでこの店に来なければパスティス・デ・ナタは食べられない。平日で1万5千個以上、週末

には6万個以上のパスティス・デ・ナタが焼かれている。店の奥にはカフェが。パリッとサクサク。最高!

昼 リスボン インターコンチネンタル・リスボン (自由食 1人で) マッシュルームとオニオンベーコン

のクリームスープ 8ユーロ、ボロネーゼスパゲティ 13ユーロ、生ビール 6,5ユーロ、エスプレ

ッソ、小さなパスティス・デ・ナタ 3,5ユーロ @チップ込みで34ユーロ

  

ロシオ広場で解散。午後はフリータイムである。市電に乗る人、ぶらぶらする人、美術館に行く人、そし

て私のように美人ガイドのアレキサンドラに送ってもらってホテルに帰る人も。ハハハ。例の200人の

団体がチェックアウトするところで、ロビーは大混雑。この人達帰ってからレストランで食事しよう。マッ

シュルームのスープが拍手する程旨かった!パスタも美味しいが量が多くて半分残した。満ち足りた。

夜 リスボン 「SOLAR DOS PRESUNTOS」 シーフードプレート(蛸マリネ、小鯵の南蛮漬け、

生ハム、バカリャウコロッケ、カングレフォという蟹、スカンピ、車海老、ロブスター)、(ここからチョ

イス制) シーフードリゾット、ティラミス、3点セット

  

  

いよいよ最後の晩餐となった。バスで送って貰ったレストラン「SOLAR DOS PRESUNTOS」はサ

ッカー選手にも人気のある店だそうだ。1階も2階も壁には店を訪れた有名人の写真でいっぱい!どこ

の国でも、こうゆう店あるよね(笑)。飾り付けも派手なら料理も派手。巨大な皿に盛り付けられたシーフ

ードプレートには車海老、手長海老、カングレフォという蟹と蟹味噌、ロブスターなどがこれでもかと!し

かも線香花火がパチパチと登場したから鼻白んでしまったよ。1つ食べただけでお腹いっぱい。他にも

料理たくさんあってね。8人分とのことだったが、30人いても全員が満腹になると思うよ。ご馳走さま!

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1月 17日(土) リスボンは晴れ   神戸・淡路島大震災から20年

朝 ポルトガル・リスボン インターコンチネンタル・リスボン 朝食ヴュッフェ

おやつ リスボン空港 TAPラウンジ エッグタルトとカプチーノ

軽食 TAPポルトガル航空 リスボン=ロンドン 機内食 サンドイッチとコーラゼロ

夜 ANA ロンドン=羽田 ビジネスクラス機内食(和食)

昨夜Docomoをカタルサギメールのようなものが来たと思ったら、夜中に9回もメール来たよ音が鳴っ

た。5000万円当たったから口座番号教えろだってさ。こんなのに引っ掛かる人いるんだろうか。それ

にしてもこんなことしているヤツの顔見てみたいよ。ウソ!見たくない!今日は帰国日。3泊したホテル

をチェックアウトして空港へ。チェックインしようとすると、「スーツケースはロンドンまでしか送れません。

羽田までは送れません!」の一点張りで添乗員のO橋さんは大弱り。TAPポルトガル航空頭カタイ!

1時間の交渉の結果「今回だけ例外で」ってことで無事チェックイン出来た。次に免税手続きに行った

のだが、私だけ「スーツケース開けて品物見せて」って。チェッ×2回である。そんなこんなで、ロンドン

で乗り継いでANA羽田行きに乗った時は心底ホッとした。映画「蜩の記」を観る。直木賞を受賞した葉

室麟の原作を映画化したもの。ある事件を犯した罪で10年後の切腹を命じられた戸田秋谷(役所広

司)は、それまで藩の歴史「家譜」を編纂して完成させる命を受ける。その戸田秋谷を見張る役目を命

じられた檀野庄三郎(岡田准一)は、戸田一家(妻織江:原田美枝子、娘薫:堀北真希など)と暮らし始

めるが・・・。物語良し、役者良しで泣かされちゃったよ。和食にあわせて、麦焼酎Wロックをお替りね。

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1月 18日(日) 東京は晴れ

 ANA ロンドン=羽田 ビジネスクラス機内食    民主党党首に岡田氏

夜 荒木町 「やくみや」 お通し:チリコンカン、ポテトサラダ 500円、ピータン冷奴 600円,蕪とクレ

ソンのサラダ 白トリュフ添え 700円、干し柿のエシレバターサンド ゲランドの塩で、野菜の小

鍋 900円+牡蠣 300円、せんざんき(四国風唐揚げ)小サイズ、味噌牡蠣卵雑炊、生ビール 

2杯、麦焼酎 2合 @7700円

  

  

出発は20分遅れたが予定より20分早い午後3時半羽田空港に到着。羽田空港からならタクシーでさ

くっと帰って来れるのがいい。留守中姪のカオルが来てくれたから、古新聞や歳暮の段ボールなどは

キレイに片付いていた。いつもありがとね。夕食は「やくみや」。蕪とクレソンのサラダ白トリュフ添えと

か干し柿のエシレバターサンド ゲランドの塩で、なんて私のお土産品が次々と商品化されて嬉しい。

帰宅して録リ溜めた番組を観ているうちにモーレツに眠くなって来た。久々に血糖値測った。125かぁ。

                     ______________

【今週の振り返り】

天正遣欧少年視察のことが昔からずっと気になっていた。って言っても、少年アイドルグループのこと

ではないよ、安土桃山時代、ホントーにヨーロッパに遣わされた4人の少年のことだ。昨年3月、使節団

の正使である伊東マンショの肖像画がイタリアで見つかったという記事が新聞に載った。少年達がヨー

ロッパに渡った翌年の1585年ベネツィアを訪問したことを記念してベネツィア共和国は使節4人の肖

像画制作を決めたという記録が残っているが、そのうち伊東マンショの肖像画だけが発見されたという

内容だった。伊東マンショ。伊東のマンションではありません!

イエズス会のフランシスコ・ザビエルが布教のため来日したのが1549年。因みにイエズス会はロヨラ

とザビエル等7人が1534年に作ったキリスト教会派である。ザビエルの布教は成果が大きく、山口の

大内義隆、豊後の大友宗麟、肥前の大村純忠など諸大名から庶民・農民まで急速に広まり、多くのキ

リシタン信者を生み出していた。ザビエル来日から30年後の1579年、日本の地を踏んだイタリア人

宣教師のアレッサンドロ・バリニャーノがその後天正遣欧少年視察団の「仕掛け人」となる。バリニャー

ノが来日した年日本には10万人のキリシタンがいたが、3年後には15万人に急増していた。彼は大

友宗麟と話すうちに、日本人が極めて優れた民族であると悟り、宣教師教育機関セミナリオ、大学のコ

レジオ、修練院ノビシャドを設立して優秀な人材の育成に努める。バリニャーノはそこで思い付く。「この

成果をローマ教皇や本国の王に見せたい!地の果てと思われている日本という国でキリスト教の人材

がこんなに育っているんですよ、って。日本人にはキリスト教の栄光と偉大さを見せたい!日本人に西

洋世界を見せて帰国後の布教に拍車をかけたい!」。バリニャーノは大友宗麟、大村純忠、有馬晴信

の3大名に相談して、大名の名代として4人の少年を派遣することにした。

選ばれたのは、正使として大友宗麟の遠縁に当る伊東マンショ、同じく正使の有馬晴信の親類・千々

石ミゲル、副使として大村純忠に縁のある中浦ジュリアンと原マルチノの4人。いずれも長崎のセミナリ

オ第一期生から選抜された優秀な少年達で年齢は13、4歳であった。4人のうち3人は父親を早くに戦

で亡くしている。子供4人で行ったのか?ナーニ言ってんの。随行員、バリニャーノを筆頭にしたイエズ

ス会宣教師、船員など総勢300人の大所帯が長崎港を出航したのは、1582年2月20日のことだっ

た。少年達は船酔いに苦しみながらも、ラテン語、西洋楽器の演奏、ヨーロッパ式のマナーなどを学ん

でいた。3月マカオに到着して風を待つ。それから暫くした6月バリニャーノを気に入ってくれた織田信

長が本能寺の変で死んでしまうが、彼らは知らない。翌年インドのゴアでインド管区長を命じられたバリ

ニャーノは船を降り、一行は喜望峰を回って大西洋を北上。この間船上で疫病が流行って30人が死亡

した。出航から2年半経過した1584年8月11日、ようやく一行はポルトガルに到着。リスボンやシント

ラ、エヴォラなどで歓待を受けた。エヴォラの大聖堂では、伊東マンショと千々石ミゲルが見事にパイプ

オルガンを弾きこなし、エヴォラの人々から絶賛されたそうだ。

当時ポルトガルは国王後継者が絶えたため、スペイン王フェリペ2世が国王を兼ねる(ポルトガルでは

フェリペ1世)同君連合状態だったため、フェリペ2世に招かれた一行はスペインのマドリッドに向かう。

絶対君主として世界を制していた国王は、異例なまでに使節団の少年達を歓待し、周囲の一同はたま

げてしまった。正使の2人は大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の書状を堂々と読み上げたそうよ。翌年

一行はイタリア・フィレンツェに入り、メディチ家の舞踏会では伊東マンショが夫人の誘いで踊りヤンヤ

の喝采を浴びた。3月22日、いよいよローマに入ってローマ教皇グレゴリウス13世に謁見したが、市

内では歓迎のパレードが尾こなわれ、沿道のすべての窓には歓迎の垂れ幕が飾られ、300発の祝砲

が鳴り響いたんだそうだ。すごい歓迎ぶりで、私も嬉しいよ。教皇は涙を流しながら彼らを抱きしめたん

だそうで、これも異例だったから皆ビックリしたわけね。ところが、この教皇さま、その2週間後死んでし

まった!で、彼らは次の教皇シクストゥス5世の戴冠式にも出席出来たのだ。この頃はラッキーの連続

だった、彼らも。ローマ市民権を貰い、ベネツィア、ヴェローナ、ミラノ、ジェノバなどの都市を回って翌年

1586年リスボンから帰路についた。

彼らが日本に帰って来るのは、それから3年3ヶ月後の1590年7月21日だったが、その間に大村純

忠が、続いて大友宗麟が病死。秀吉はバテレン追放令を出して南蛮寺を破壊してしまうのである。8年

半ぶりに帰国した4人の少年達の失意はどれほど深く大きなものだったか。想像すると涙がこぼれそう

だ。つらく長い船旅、眩い文化に溢れた西洋の国々、教皇と国王に拝謁した高揚、異国の人々の異常

とも思える歓待、選ばれし者だけが味わった数々の体験・・・少年期から青年期に成長する年月を「遣

欧使節」として過した貴重過ぎる8年半ではあったが、彼らを待ち受けていたのは、あまりに過酷な現

実であった。4人は秀吉からの仕官の勧めを断り、長崎・天草の修練院で神父になるための勉強を続

けてイエズス会に正式に入会するが、1601年神学を学ぶためマカオのコレジオに留学するタイミング

で、千々石ミゲルは脱会。棄教である。どころかキリシタンを弾圧する側に回った。伊東マンショは司祭

になって布教を続けるが、1612年病死。徳川幕府のキリシタンへの弾圧は激しくなる一方で、あぶり刑

など残忍を極めて行く。原マルチノはマカオに追放され、1629年マカオで病死。弾圧されながらも潜

伏して最後まで布教を続けていた中浦ジュリアンは、1633年捕縛されて穴吊りの刑で処刑された。中

浦ジュリアンの最後の言葉は、われこそはローマを見た中浦ジュリアンである」。涙ぼろぼろ。しかし、

殉教から374年後の2008年、中浦ジュリアンは「福者」に列された。

、                   オイラもニャきたくなったニャア  

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      え?早いって?旅に行っているんじゃないのかって? 

                  まぁいろいろありましてね。それについてはおいおいね。 

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